BBC News 2017年10月23日
プラティク・ジャカール記者、BBCモニタリング
5年に一度の中国共産党大会。24日の閉幕後、次世代の最高指導部、政治局常務委員が発表される。
党の最高指導部である政治局常務委員7人のうち、習近平国家主席と李克強首相を除く5人が今年中に引退するとみられている。
中国政治の不透明さから、誰が委員になるか言い当てるのは至難の業だが、習主席に近い人が委員になるのは確実だ。
BBCは、中国共産党の最高指導部を引き継ぐ有力候補者たちを調べてみた。
陳敏爾・重慶市党委員会書記 ― 習主席の「腹心」
陳敏爾氏(56)は7月15日、腐敗容疑で捜査を受けている前任者の孫政才氏に代わり、重慶市党委員会書記に任命された。
陳氏は若い頃に地元の浙江省で政治のキャリアを積んだ。2002年~07年まで習氏の下で浙江省の党宣伝部長を務め、習氏と強い関係を築いた。
香港の英字紙サウスチャイナ・モーニング・ポストは陳氏を習主席の「信頼する腹心」と呼び、陳氏が昇進したことで、党大会で「党の上層部に加わる有力候補者としての地位が確立された」と述べた。
胡春華・広東省党委員会書記
胡春華氏(54)は、経済的に発展する南部・広東省のトップになるまで、チベット自治区や河北省、内モンゴル自治区でさまざまな役職を務めた。
また、2006年には共産党の青年団である中国共産主義青年団の第一書記に就任した。
胡氏は2012年、政治局常務委員会に次ぐ、25人で構成される中央政治局の最年少の委員に昇格した。
胡氏は「小さな胡」として知られ、胡錦濤・前国家主席の後ろ盾があるとされる。
独立系香港メディアによると、胡氏は陳敏爾氏と共に、1960年代以降に生まれたいわゆる「第6世代」の指導者たちで、習主席の有力な後継者の一人とみられている。
栗戦書・党中央弁公庁主任 ― 習氏の「強力な味方」
栗戦書氏(67)は党中央弁公庁主任で、国家主席の最側近として、習氏の日々の活動を取りまとめている。
栗氏はしばしば、習主席の国内外の訪問に同行し、最近では習氏が7月にロシアを訪問した際にも同行していた。
有能で管理能力があると言われており、河北省や陝西省で役職を担った後、2012年に中央政治局に昇格した。
また栗氏は反腐敗運動を率いる王岐山・中央規律検査委員会書記に次いで、習主席の最も強力な味方で、1980年代始め以降、習氏の親しい友人でもある。
王滬寧・中央政策研究室主任 ― 「中国のキッシンジャー」
王滬寧氏(61)は中央政策研究室主任で、栗戦書氏と同じく習主席が海外を訪問する際の同行者の一人だ。
復旦大学の元学者で、政策立案の豊富な経験があり、江沢民・元国家主席や胡錦濤・元国家主席の顧問も務めた。
習主席の外交政策における最側近とされ、韓国の日刊紙ハンギョレは王氏を「中国のキッシンジャー」と呼んだ。
香港の独立系日刊紙「明報」によると、王氏は習主席に近いため政治局常務委員に加わる可能性が高いが、「控えめな人なので、昇進には興味がないと言われている」という。
汪洋・副首相
汪洋氏は現在、現行政府の4人の副首相の内の一人で、二期目の中央政治局委員だ。
ベテランの政治家で、2007年から12年にかけて広東省党委書記を務め、習氏の野心的な「一帯一路」政策を支える中心人物だ。
胡春華氏同様、汪氏は党内の共青団出身者派閥で、政治局常務委員会入りを競う上位候補者の内の一人だと香港メディアは伝えている。
また汪氏は李克強首相の後任になるかもしれないという兆しが濃くなっており、中国首脳部は要職を二期務めるという慣例を破ることになるかもしれない。
韓正・上海市書記
韓氏は現在、中国共産党高位の政治機関、中央政治局の委員で、以前は上海市長と上海市党副書記を務めた。
王岐山氏が務める強硬に反腐敗運動を率いる中央規律検査委員会書記の座を奪うかもしれないとの予想もある。
韓氏が昇進すれば、「63歳の粘り強さは報われるという証明になる。10年前に政治アナリストが中国本土の有望政治家のリストを作成していた時に、有力な穴場的候補の一人にも数えられていなかった」とサウスチャイナ・モーニング・ポスト紙は指摘する。
2007年に政治局常務委員会入りする前に上海市党委書記を務めていた習氏を含め、上海は多くの指導者を輩出している。
他の候補者たち
- 李鴻忠・港湾都市の天津市党委員会書記
- 陳全国・新疆ウイグル自治区党委員会書記
- 趙楽際・中央組織部部長。同部は職員の人事を監督する強力な組織
- 劉鶴・中央財経指導小組弁公室主任
この候補者たち全員が限られた座を狙って、競い合っているかもしれない。複数のメディアによると、習主席は政治局常務委員の人数を現在の7人から5人にするとの情報がある。
(英語記事 China party congress: The rising stars of China's Communist Party)
提供元:http://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-41718588
共産党大会 「社会主義強国」へ 新時代の国家像提示 習氏、改革開放の先見据え
毎日新聞2017年10月19日 東京朝刊
毎日新聞2017年10月19日 東京朝刊
共産党大会 「社会主義強国」へ 新時代の国家像提示 習氏、改革開放の先見据え
中国の習近平総書記(国家主席)は18日、第19回共産党大会の開会式の党中央委員会報告(政治報告)で、毛沢東、トウ小平の「偉業の継承者」として改革開放の先に見据える新時代の富強路線を宣言した。経済、外交戦略にとどまらず道徳などあらゆる分野の政策目標を設定。激化する地域・国家間の競争を勝ち抜き、世界をリードする地位を確立するための「国家総動員体制」を強く印象づけた。
習氏は3時間半に及ぶ異例の長さの政治報告で「新時代」と何度も繰り返した。習氏の太い声と聴衆の拍手が響く会場の人民大会堂は「習時代」の本格到来を自ら告げる舞台となった。
習氏は「中華民族は立ち上がり、豊かになり、強くなる」とも表明。中国の労働者、農民を立ち上がらせた建国の父である毛沢東、改革開放で経済成長を成し遂げたトウ小平に続き、自らが「富強」を実現するとの自負が伝わった。
習氏は2049年の建国100周年に向けて「富強、民主、文明、和諧(調和)の社会主義現代化強国を建設する」と述べ、2段階の目標達成計画を初めて打ち出した。30年以上も先の国家目標の道筋を設定したのは、習氏が任期を終えても影響力を保持する布石とみられる。
習氏は1期目の5年間で中国を、米国を意識した「責任ある大国」の地位に押し上げようとしてきた。「中華民族の偉大な復興という中国の夢」を掲げる習氏の念頭に、世界をけん引する未来図があるのは明らかだ。「我が国は世界の舞台の中央で、絶えず人類のために貢献する時代に近づいている」。習氏は中国の発展が国際社会に利益をもたらすと強調した。
だが、政治報告からは、世界がかつて目にしたことがない国家像が浮かび上がる。習氏が語る「民主」「法治」は西側社会と異なる概念だ。「党が一切を指導する」と習氏が強調した通り、共産党支配の枠組みを絶対に越えてはならない。習指導部はインターネットや言論などの社会統制を徹底的に強化し、報告でも道徳やモラルなど国民生活の細部にまで言及した。中国では既に飛躍的な発展をみせるビッグデータや人工知能(AI)を駆使した監視システムが現実になっている。習氏が描く国家像は、党と、その「核心」である最高指導者がすべてを掌握する強力な管理国家の到来をも予感させた。【北京・河津啓介】
外交摩擦、懸念根強く
「富強」を目指す中国と米国の摩擦が懸念されている。習氏は政治報告で、台湾問題に続けて「いかなる者も中国の利益を損ねる苦い果実を中国にのみこませようなどと幻想を抱かない方がいい」と警告した。
また報告は「中国はどれほど発展しても永遠に覇権を唱えず、拡張をしない」とも述べているが、台湾や南シナ海など譲歩できない中国の「核心的利益」が国力の増大に伴って拡大しているとの懸念は周辺国や台湾に根強く残る。
報告を受けて、台湾の李大維・外交部長は立法院(国会)答弁で「具体的な政策がしばらくしたら出てくるだろう。油断していない」と警戒感をあらわにした。党大会前の6月にもパナマが台湾と断交し、中国と国交を結ぶなど「圧力」は大きくなっている。
中国は2020年代後半にも国内総生産総額で米国を抜くと予想するシンクタンクは多い。中国が「富強」実現の目標とする今世紀半ばとは、世界一の経済大国になってから約20年後の姿が想定されている。報告では軍の目標について「35年までに現代化を基本的に実現し、今世紀半ばまでに世界一流の軍隊を全面的に築き上げる」と明記、事実上、米軍を抜くと宣言した。
台頭する新興国・中国と超大国・米国の衝突を避けようとする外交努力も始まっている。中国外務省によると、ティラーソン米国務長官は9月30日、王毅外相と会談した際に「トランプ大統領は習主席と共に今後数十年の米中関係の発展を計画することを期待している」と伝えた。11月8日から訪中するトランプ氏に「富強」の狙いを説明することが、習氏にとって党大会後の最初の課題になりそうだ。【北京・浦松丈二、台北・福岡静哉】
PRESIDENTOnline 2017.10.18
習近平が恐れる「次期チャイナ7」の名前
指導者は選挙で選ばれるが……
共産党大会は同党の最高意思決定機関であり、5年に一度開催される。最も重要な役割の一つが党の指導者を決めることだ。法政大学・趙宏偉教授は「党指導部の任期は5年。ここで選ばれた人たちがこれからの5年間、党を支配し、全国を統治することになるので、大変重要だ」と説明する。
指導者選びのプロセスは次の通り。現在、共産党の党員数は約9000万人、14億人の国民に対して、15人に1人という割合を占める巨大組織だ。党大会は代表制で、全国の40の地域や組織から選挙で選ばれた2300人の党大会代表が、北京の自民大会堂に集まる。
大会では、党大会代表の投票で約200人の中央委員と約100人の中央委員補を選ぶ。そして党大会が閉会した翌日に開かれる「中央委員会全体会議(全会)」で、中央委員が25人の政治局員を選ぶ。この政治局員の中から、党の最高指導部である「政治局常務委員会委員(常務委員)」が選ばれる。現在の常務委員は7人のため、その権力の大きさからチャイナ7(セブン)と呼ばれている。
さらに、この7人の中から党のトップである総書記が選ばれる。総書記は国家主席と中国共産党軍事委員会主席を兼ねる。つまり総書記は党のトップ、行政のトップ(国家主席)、軍のトップ(最高司令官)を務めるわけで、その点では米国の大統領に近い。ちなみに行政と軍のトップの称号は「主席」で、党だけが「総書記」である。
あらかじめ結果は決まっている
面白いのは、一連の手続きで「選挙」という民主的な手続きをとっていることだ。党大会代表から中央委員、中央委員補まで定員を若干上回る候補者が立候補する。当然、落選者も出る。だが、だれが当選し、だれが落選するかは、各レベルで党が関与しており、詳しいリストが事前に作成されているという。
例えばエリート中のエリート集団である中央委員と中央委員補は、党大会代表による選挙で選ばれるが、候補者は党中央政治局とその常務委員会によって確定される。さらに指導部層である政治局員、政治局常務委員、総書記は、中央委員会による選挙だが、実際は常務委員会、政治局によって決定済みの同数の候補者に対して信任投票を行って選出する。この候補者をめぐって激しい権力闘争が繰り広げられている。
王氏が常務委員に残れば習氏の勝利
今回の党大会では、習近平総書記の権力基盤が一段と強固なものになるかどうかが注目されている。そのリトマス試験紙となるのが、「チャイナ7」の一人である王岐山常務委員の処遇である。王氏が常務委員に残れば習氏の勝利、外れれば反習近平派の巻き返し成功というのが、中国研究者の主な見方である。
王氏は過去5年間の習体制において、「党中央規律検査委員会書記」として腐敗撲滅運動の先頭に立ち、辣腕を振るってきた。その結果、かつては不可侵とされた政治局員以上の4人をはじめ、130万人以上の共産党員が処罰の対象になった。腐敗撲滅運動は習氏の権力基盤を固めるうえで貢献したばかりでなく、国民の習人気を支える原動力となっている。
こうした背景から、中国の最高指導部では「習・王連合」と「反習派」の対立構造があると理解されることが多い。だが、王氏は現在69歳。常務委員は68歳定年という慣例があり、慣例に従うのであれば再任は難しいとみられている。
毛沢東が晩年に個人崇拝の闇に陥り、文化大革命で中国を大混乱させた反省から、共産党の指導部は集団指導体制を採用してきた。前胡錦濤政権下では、政治局常務委員のメンバーは9人で、「9人の大統領がいる」と揶揄されるほど権力は分散していた。
慣例を破らずに済む奥の手
だが、現在、習氏は腐敗撲滅による国民的人気を背景に、独裁的な権力基盤を固めつつある。すでに習氏は9人だった常務委員を7人に減らしている。そのうえで、もし習氏が慣例を破り、王氏を常務委員に再任させることができれば、権力基盤の確立が確認できるといえる。
注目すべきひとつのポイントは「習氏が慣例を破って、王氏を再任するかどうか」だが、趙教授は慣例を破らずに、習・王連合を維持する方法があると指摘する。
「『国家副主席』というポストを復活させ、王氏を副主席に就任させるという手がある。これまで国家副主席は名誉職としての意味合いが強かったが、王氏には習氏の最重要課題の一つである『一帯一路』を担当させ、ナンバー2として遇するかもしれない」(趙教授)
習体制が抱える3つの不安要素
一方、日本総研の呉軍華・調査部理事は、趙教授とは違う見方を示す。呉氏は、メインシナリオは「習体制の強化」としつつも、「今回の党大会が終わっても、今後1~2年は権力闘争が続くこともありえる」と予想する。
呉理事によれば、習体制の不安定さを予感させる要素は3つある。1つ目は、習氏の個人崇拝ともとられかねないほど、習氏をほめたたえるプロパガンダが強烈なこと。「これは逆に権力基盤が固まっていないことを表しているのではないでしょうか」(呉理事)。
2つ目は、中国指導層の腐敗を指摘しつづける、米国在住の中国人実業家・郭文貴氏の存在だ。郭氏の情報はフェイクニュース扱いされることが多いものの、彼のバックに共産党の大物がついている可能性は否定できない。そうだとすれば、今後、習体制を揺るがすような腐敗が出てくるかもしれない。
3つ目が王岐山氏の存在そのものだ。「今や習氏に対抗できる力を持っているのは、王氏だけとなりました。もともと王氏は経済・金融には強い基盤を持っており、腐敗撲滅運動の過程で警察にも足場を築きました。影響力という点で習氏が王氏を凌駕しているのは、人民解放軍だけでしょう」(呉理事)。王氏が自らの去就をどう考えているのかによって、習氏が権力基盤を固められるかが左右される。
これからさまざまなメディアで共産党大会の様子が報道されるだろう。注目すべきは常務委員である王岐山氏の処遇にある。ポイントを絞ると、報道のリアリティも変わってくるだろう。ぜひ参考にしてほしい。
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【図解・国際】中国共産党政治局常務委員会の顔触れ(2017年10月)
https://www.jiji.com/news2/graphics/images/20171025j-01-w470.gif
【北京時事】中国共産党の第19期中央委員会第1回総会(1中総会)が25日、北京で開かれ、習近平総書記(64)=国家主席=の2期目の指導部が正式に発足した。24日に閉幕した党大会で、習氏は、毛沢東、トウ小平と並ぶ形で党規約に名前を記し権威を高めた。権力基盤をさらに強化した習氏は、21世紀半ばの「社会主義現代化強国」建設を目標に掲げ、2期目を始動させた。
最高指導部メンバーである政治局常務委員は、習氏と李克強首相(62)が留任。栗戦書党中央弁公庁主任(67)、汪洋副首相(62)、王滬寧中央政策研究室主任(62)、反腐敗闘争を指揮する党中央規律検査委員会書記に就任する趙楽際党中央組織部長(60)、韓正上海市党委書記(63)の5人が新たに選出された。
昇格する5人のうち、栗、王、趙の3氏は習氏に近い。他の2氏も習氏との関係は良好とされ、習氏を支える体制は一層強固となる。
胡錦濤前国家主席と習氏は、前任者が2期目に入る段階で政治局常務委員になり、後継者と位置付けられた。今回の人事では、後継者になる50歳代の若手指導者は最高指導部入りしなかった。習氏の後継者は不明確なままで、習氏は長期政権も視野に、後継候補を競わせ自らの求心力を維持する構えだ。
◇政治局常務委員の略歴
25日の中国共産党第19期中央委員会第1回総会(1中総会)で選出された最高指導部・政治局常務委員の略歴は次の通り。
習 近平氏(国家主席、総書記、中央軍事委主席)清華大卒、法学博士。69年陝西省延川県の農村に下放。福建省長、浙江省党委書記、上海市党委書記などを経て07年党政治局常務委員、08年国家副主席、12年党総書記・党中央軍事委主席、13年国家主席。習仲勲元副首相の息子。64歳。陝西省出身。
李 克強氏(首相)北京大卒、経済学博士。74年安徽省鳳陽県の人民公社生産大隊に下放。共青団中央第1書記、河南省党委書記、遼寧省党委書記を歴任。07年政治局常務委員に昇格、08年副首相。13年から現職。62歳。安徽省出身。
栗 戦書氏(中央弁公庁主任)河北師範大卒。出身地の河北省で長く勤務し、同省の共青団トップなどを経験。陝西省西安市党委書記、同省党委副書記、黒竜江省長などを経て、10年貴州省党委書記。12年9月から現職。67歳。
汪 洋氏(副首相)中央党校卒。72年安徽省の食品工場に勤め、共青団省委副書記、副省長を歴任。国務院副秘書長、重慶市党委書記を経て、07年党政治局員。07~12年広東省党委書記。13年から現職。62歳。安徽省出身。
王 滬寧氏(中央政策研究室主任)上海師範大卒。復旦大大学院で国際政治を学び、同大教授、同大法学院長を経て、党中央政策研究室に勤務。02年から現職。07年党書記を兼務し、12年政治局員に。62歳。山東省出身。
趙 楽際氏(中央組織部長)北京大卒。青海省で下放後、大学生活をはさんで再び同省に戻る。副省長、西寧市党委書記などを経て、省長、党委書記を歴任。07年陝西省党委書記。12年から現職。60歳。青海省出身。
韓 正氏(上海市党委書記)華東師範大卒。75年、倉庫職員として就職して以来、一貫して上海でキャリアを重ねた。市共青団トップ、副市長などを経て03年、建国以来最年少で上海市長に就任。12年、上海市党委書記として政治局入りした。63歳。浙江省出身。
共産党大会 「社会主義強国」へ 新時代の国家像提示 習氏、改革開放の先見据え
毎日新聞2017年10月19日 東京朝刊
習近平国家主席は、党のトップの総書記として政治報告を行い、この5年間の成果について「多くの難題を解決し、歴史的変革を推進した」と総括したうえで、建国100年を迎える今世紀半ばまでに「社会主義の現代化強国を築く」と強調しました。
中国共産党大会は、全国から共産党員の代表、およそ2300人が参加して、日本時間の18日午前、北京の人民大会堂で始まり、習近平国家主席が党のトップの総書記として、胡錦涛前総書記、江沢民元総書記も見守る中、政治報告を3時間半近くにわたり読み上げました。
この中で習総書記は、過去5年間の実績について、汚職の摘発や貧困対策など幅広い分野における成果を強調し、「長期にわたって解決したくてもできなかった多くの難題を解決し、歴史的変革を推進した」とみずから高く評価しました。
一方で習総書記は、取り組むべき多くの課題があることも認めたうえで、今後の目標について「ゆとりある社会の全面的な実現から一歩進んで、現代化の基本的な実現、さらに社会主義の現代化強国を全面的に実現する」と述べて、建国100年を迎える2049年には「社会主義の現代化強国を築く」と強調しました。
今後の政策の基本方針のうち、汚職の摘発について習総書記は「民衆が最も許しがたいと感じているのが腐敗の問題であり、共産党が直面している最大の脅威だ」としたうえで「反腐敗闘争で圧倒的に勝利を勝ち取る決意をこれまで以上に固めなければならない」と述べ、汚職撲滅に向けた取り組みをさらに強化する決意を示しました。
また、経済については「経済発展の質はまだ十分に高くはなく、イノベーション=技術革新の能力もまだ強くはない。実体経済の水準はさらに引き上げる必要がある」と課題を挙げる一方、2035年までに「経済や科学技術の実力を大幅に引き上げ、イノベーションで世界でも上位に上り詰める」という目標を示しました。
さらに、海洋進出について、南シナ海での人工島の建設を積極的に進めたことを実績として強調し「海洋強国の建設を加速させる」と述べて、東シナ海や南シナ海での活動を継続する姿勢を示したほか、軍については「今世紀半ばまでに世界一流の軍隊を作り上げる」と宣言しました。
習総書記は、共産党の新しい指導理念について「『新時代の中国の特色ある社会主義思想』は、全党員と人民が中華民族の偉大な復興を実現するための行動指針であり、長期にわたって堅持しなければならない」と述べました。
党大会では党の最高規則である党規約が改正され、こうした指導理念が盛り込まれると見られますが、習総書記の名前を冠した形で党規約に記されれば、建国の父と言われる毛沢東や、改革開放政策を打ち出したトウ小平にも並ぶ指導者に位置づけられることになり、党大会を通じて習総書記への権威づけがどこまで進むかも注目されています。
党大会は、今月24日まで7日間にわたって開かれ、閉会日翌日の25日に2期目を迎える新しい習近平指導部が発足する見通しです。
※トウは「登」に「おおざと」
北朝鮮が祝電 ぎくしゃくした関係 反映
北朝鮮の国営メディアは18日、中国共産党大会の開幕に合わせて、朝鮮労働党中央委員会の名義で祝電が送られたことを伝えました。
祝電では「中国共産党大会を熱烈に祝賀し、すべての党員と中国人民に温かいあいさつを送る。今回の大会が円満な成果を収めることを心から祈る」としています。
一方で、5年前の前回大会の際に北朝鮮が送った祝電に比べると、文面の長さは3分の1程度で、「兄弟的中国人民」とか「伝統的な中朝親善」といった文言も含まれておらず、北朝鮮による核・ミサイル開発を巡ってぎくしゃくしている両国の関係を反映したものと見られます。
官房副長官「さらなる関係改善を」
野上官房副長官は、記者会見で、「他国の政党活動に政府としてコメントすることは控えるが、わが国としても党大会の動きを注視している」と述べました。
そして、野上副長官は「いまや日中両国は、この地域の2つの大国として国際社会の平和と繁栄に大きな責任を共有しており、安定的な協力関係を築いていく必要がある。特に北朝鮮への対処については、北朝鮮の貿易の9割を占める中国と密接に連携していかなければならない」と述べました。
そのうえで、野上官房副長官は「日中間には、隣国ゆえの難しい課題もあるが、引き続き戦略的互恵関係の考え方のもと、懸案を適切に処理しながら、あらゆる分野での協力や国民交流を推し進めて、大局的な判断からさらなる関係改善に努めていきたい」と述べました。
習氏は長期目標について、2020年から35年までの15年間を「第1段階」と位置付け、都市と農村の生活水準の差を大幅に縮小するなど「人民全体の共同富裕」に向けて堅実な歩みを進めると言及。さらに50年までの「第2段階」では共同富裕を実現させ、「総合的な国力と国際影響力において世界の先頭に立つ国家になる」と宣言した。
習氏は1期5年の実績について「成果は全方位にわたり、党と国家の事業に歴史的な変革をもたらした」と自賛。経済面での成果の中で「南シナ海島嶼建設の積極的な推進」を挙げ、領有権を主張するスプラトリー(中国名・南沙)諸島などで強引に進めた人工島建設を正当化した。
外交・安全保障問題では、現代版シルクロード構想「一帯一路」の提唱などに触れ、「わが国の国際的影響力はさらに高まり世界平和と発展に重大な貢献を行った」と言及した。
党大会の会期は24日までの7日間。閉幕翌日に開かれる見通しの党中央委員会第1回総会(1中総会)で習氏が総書記に再選され、政治局常務委員ら新指導部の陣容が決まる見通しだ
それは豊かで調和のとれた「社会主義現代化強国」だという。崇高な目標にも聞こえるが、そこには共産党の一党支配を強めるという大前提がある。そのうえで経済を発展させ、公正な社会をつくることが果たして可能なのか。
確かにこの5年間、習氏はめざましい実行力をみせた。
汚職の摘発で党や軍の首脳級に切り込んだ。軍の組織改革も進めている。党内部からの腐敗への危機感ゆえだが、権力固めに利用した面も否めない。摘発の矛先は習氏に近い人々には決して向けられなかった。
国力を背に積極外交に打って出たのも、習政権の特徴だ。アジアインフラ投資銀行を設け、中央アジア、欧州と結ぶ「一帯一路」構想が前進している。強引な海洋進出も目立った。
こうした急速な動きと対照的なのが経済改革だ。4年前の党の会議で「近代的市場体系の形成を急ぐ」としたものの、現実は逆行している。
合併を通じて国有企業をさらに大型化し、経済の命脈を握らせている。そのうえ、党の指示を各企業の経営判断に反映させる制度を新たに導入した。
一部の国有企業に民間から出資させる動きはあるが、民営化にはほど遠い。民間企業は、これまで雇用の伸びを支えてきたというのに、政府支援や融資の面で公平に扱われない。
中国は、中所得国水準から抜け出せない段階で急速に高齢化が進む。そんな危機を目前に、民間の活力をそいででも経済に対する党・政府の管理統制を優先する姿勢は大いに疑問だ。
それにも増して不当なのは、社会全般に対する統制の強まりである。習政権のもと、NGO活動の管理、弁護士の摘発、メディアの監視、大学の統制を厳しく進めた。ネット上のちょっとした政権批判めいた言葉も許されない。これまで残っていた市民的自由の空間は、いよいよ狭まってきた感がある。
目標とする30年後は、中国建国からほぼ100年にあたる。そのころ習氏が「世界一流」と自称する軍は、周辺国からどう見られているだろうか。
そもそも一党支配のままで、「強国」になることはありうるのか。もしなったとしても、それは中国の人々にとっても他国にとっても、決して歓迎されるものではないだろう。
中国共産党は2015年11月20日、胡の生誕100周年の記念座談会を北京・人民大会堂で開き、習近平党総書記ら党最高指導部の政治局常務委員が全員出席した[2]。胡の死が天安門事件の伏線となっただけに、「胡氏の評価は、鄧小平氏の否定につながる敏感な問題」(北京大学の政治学者)と言われ、その歴史的位置づけに党は腐心してきた[2]。江沢民党総書記の時代は党中央は追悼行事をしなかった[2]。また前述のように、胡錦濤党総書記時代は、生誕90周年にあたり、座談会に政治局常務委員が3人のみ出席しただけで、胡錦濤総書記は、座談会に欠席した[2]。これに対し、習指導部は盛大に追悼行事を行い、演説で胡を「偉大な革命家で政治家」と讃え、庶民に心を砕き、実務的な政治姿勢を崩さず、清廉さを保った胡に学ぶべきだと述べた[2]。また、胡の著述をまとめた「胡耀邦文選」の出版も認めた[2]。しかし、習総書記の演説では民主化問題には触れなかった[2]。政治改革を巡る議論には踏み込まず、中国の発展に力を注いだ胡の「理想」を強調することで、党内の融和と団結を訴えた[2]。ただし、中国中央電視台の胡耀邦生誕100年記念番組中、1982年9月14日付けの胡の共産党総書記就任を伝える党機関紙・人民日報の1面を映したが、その紙面にあった趙紫陽の写真が外されていたことが朝日新聞で報じられた[16]。人民日報にあった本来の紙面では、胡耀邦、葉剣英、鄧小平と並んでいた趙首相の写真が、序列5位の李先念国家主席の写真に差し替えられていた[16]。第2次天安門事件をタブー視する姿勢に変化がないことを示すものである[16]。
1983年11月の訪日では昭和天皇と会見して天皇訪中を要請(当時交渉を担当したのは胡錦濤[5])、日中首脳会談では中曽根康弘内閣総理大臣が、中国側の提示した3原則に「相互信頼」を加えて4原則にしたいと述べ、民間有識者からなる『日中友好二一世紀委員会』の設立を提案し、胡はこれに賛同した[6]。他方胡は、日本の青年3000人を中国に1週間招待するプランを披露して日本側を驚かせた[6]。この『ニ一世紀委員会』は1984年に発足し、いわば「第2トラック」として日中間の問題の調整を行ってきた[6]。また青年交流では、1986年に中曽根首相が訪中した際、中国人青年を毎年500人ずつ招待することを提案し、胡耀邦プランに応えた[6]。胡耀邦時代は、日中国交正常化後、日中関係が最も良好な時期だった[7]。胡耀邦の親日政策が一つの要素だったと考えられる。胡は1985年の靖国参拝問題でもかなり柔軟に対応したし、1986年の第2次教科書問題でも抑制した態度をとった[7]。日本の軍事力増強も歓迎すらしていた[8]。だが、これらの「対日接近」が、後の胡の「辞任」の引き金の一つになったと言われる[7]。
胡耀邦の政治改革は、保守派の巻き返しにあい、1986年9月の第13期6中全会で棚上げされた。逆に同会議において保守派主導の「精神文明決議」が採択され[9]、胡は保守派、八大元老(長老グループ)らの批判の矢面にさらされた。1986年12月5日安徽省合肥市にある中国科学技術大学の学生によって、全国学生デモの口火が切られた[10]。直接の原因は市の人民代表の選挙にあたっての学生代表の取り扱いについてであった[10]。デモはたちまち北京、上海など全国に波及した[10]。方励之、劉賓雁、王若望らの党員知識人が学生デモを積極的に支持した[10]。鄧小平はこうした事態に12月30日、胡耀邦、趙紫陽、万里、李鵬らを集めて学生デモに対して怒りを爆発させた[10]。
鄧小平は第13回党大会で中央顧問委員会主任を引退し、胡耀邦に後を継がせて世代交代を図ろうとしていたが、顧問委員会が主催した民主生活会で胡耀邦は保守派、改革派を問わず延々と批判され、ついに1987年1月16日の政治局拡大会議で胡耀邦は総書記を解任された。この会議には陳雲ら党長老が出席し、全会一致で胡耀邦の解任と趙紫陽が総書記代理に就任することが決まった。罪状は集団指導原則に対する違反と政治原則問題での誤り、つまり「ブルジョワ自由化」に寛容だったためとされた[1]。11月には胡耀邦の後任として趙紫陽が総書記に正式に選出された。
失脚後の胡耀邦は政治局委員に留まり、党内改革を呼びかけたが、1987年11月の中共13期1中全会で政治局員に降格となった[11]。
ベストセラー『大地の子』の著者の山崎豊子は、胡と親交があった[14]。執筆の際の中国での取材にあたり全面的な協力を得たほか、3度も中南海の公邸に招かれた[14]。山崎の著書『「大地の子」と私』によると、最初の招待は1984年11月29日である[14]。当時の中江要介中国大使も同席した[14]。2回目の招待は1985年12月8日で、党中央書記処のある勤政殿で行われた[15]。3回目は1986年10月2日で、このときも勤政殿である[15]。このとき胡は、山崎に「今度はもうお会いすることはないでしょう」と早くも、自らの運命を予告するような発言を行っている[15]。胡が総書記の地位を追われる3カ月前である[15]。
胡氏が日本の防衛力整備に理解を示したのは、当時の中ソ対立を背景に日米両国との関係強化を目指す中国政府の方針に基づくもの。59年3月に中曽根氏が訪中した際には、趙紫陽首相(後の総書記)も「中曽根内閣の政策を軍国主義政策とは考えていない」と述べていた。
中曽根氏との会談で、胡氏は「いかに日本が自衛力を拡大させようと、中国と戦うことにはならない」とも述べたが、日中間の平和が続くのは「今世紀末から21世紀初めにかけては」と前置きした。改革開放路線を進めていた中国指導部が、経済成長に伴う軍拡による戦略的自立を想定していた可能性もある。
胡氏は朝鮮半島情勢についても言及。当時の中国最高実力者・●(=登におおざと)小平氏が北朝鮮の金日成主席と2回会談した際に、金氏が北朝鮮の南侵について「あり得ないし、またそれだけの力を持っていない」と語り、●(=登におおざと)氏が「われわれも、北朝鮮が南に侵攻することに賛成しない」と表明したことも明かした。ただ、中国側はこうした中朝間のやりとりを対外的に公表しないよう求めた。
胡氏はまた、朝鮮半島の緊張激化を避けることが中国共産党監部の一致した意見だとした上で、「南北朝鮮が連邦制という形で自主平和統一を実現することに賛成である」と述べた。連邦制は北朝鮮政府が1980(昭和55)年に提案していた
※記事などの内容は2015年5月17日掲載時のものです
【香港時事】カナダの中国語軍事専門誌・漢和防務評論6月号は、中国空軍が最近の会議で、新型の長距離爆撃機を開発する方針を決めたと報じた。中国にとって、初の超音速大型爆撃機になるという。
同誌によると、新型爆撃機の開発は、沖縄、台湾、フィリピンを通る「第1列島線」を突破し、小笠原諸島やグアムを結ぶ「第2列島線」まで作戦行動範囲を拡大するのが狙い。台湾海峡有事などを想定して、大規模な米軍基地があるグアムに対する攻撃能力を持とうとしているとみられる。
これまでの経済発展方式を転換すると言いながら、実際には大胆な改革に踏み切れずにいるのも歯がゆい。改革・開放政策に着手してから30年余り。中国はいまいちど、この政策に着手したころ、胡耀邦・趙紫陽がリーダーシップをとっていたころのオープンで溌剌とした雰囲気を思い起こす必要があるのではないか。
胡耀邦に初めて会ったのは、北京空港だった。筆者が特派員として北京に赴任してまもない1979年の半ばころだったと記憶している。すでに前年末の党中央委員会議で、中央政治局委員・党中央宣伝部長への就任が決まっていたが、我々外国人記者の前には姿を見せていなかった。
背が低くて頭は三分刈りくらい、なんとも貧相な男が、突然筆者の前に姿を現した。にこやかに笑っている。すぐに、これがあの胡耀邦だと分かった。つまり、筆者が復活後の胡耀邦の姿を見た最初の外国人記者だったのだ。気がついた他の記者たちが寄ってきて、たちまちのうちに人垣を作ってしまった。
●胡耀邦が経済シンポ開催を
その後はとんとん拍子で出世していく。1981年6月に華国鋒のあとを継いで党主席に就任した(1982年9月には党主席制の廃止に伴い、新しく導入された総書記に就任)。
筆者がその自由闊達な人柄に直接触れたのは、1984年6月、日本経済新聞社が人民日報との交流をスタートさせ、北京に取材代表団を送り込んだ時だった。人民大会堂で、胡耀邦と会見するチャンスを与えられた。初めて会った時の貧相な感じは消え、頭髪も長く伸ばし、威風堂々としていた。
中国首脳との会見では、相手側に一方的に喋りまくられ、こちらから質問するきっかけを作りにくいのが通例だった。しかし我々は違った。儀礼的なあいさつは最小限にとどめ、日本経済新聞社の初代北京支局長だった鮫島敬治氏と筆者がタッグを組んで、次々と質問を繰り出した。
これに胡耀邦も応えてくれた。会見は予定時間を大幅に超え、1時間半にも及んだ。「今後10年間に外国から500億ドルの外資を導入してもいい」と、手に持った鉛筆を振りかざしながら、対外開放に積極的な姿勢をアピールした。
このやりとりがよほど気に入ったらしい。最後に胡耀邦は、同席した人民日報の秦川社長の方を向いて、「ことし秋に人民日報と日本経済新聞が共催してシンポジウムを開くように」と指示したのだった。秦川社長も驚いた様子だったが、すぐに同意し、その場で日中経済シンポジウムの開催が決まってしまった。
かくて1984年11月に「中国の対外開放政策と日中の経済・技術協力」をテーマにした日中経済シンポジウムが北京で開催された。筆者は当時、国際部デスクだったが、数カ月ほどその仕事を離れ、シンポジウムの準備にかかりっきりになったのを覚えている。シンポジウムのパネリストには、いま日本航空再建に采配を振るっておられる稲盛和夫・京セラ社長(当時)にも加わってもらった。
シンポジウム終了後には、胡耀邦と再び会見できた。年に2回も会ったことになる。メディアが単独で年に2回も中国首脳と会えたというのは、異例中の異例だった。
胡耀邦はこの時、韓国との直接貿易について「南北交流の進展を見ながら」との条件付きながら開始を示唆した。いまや中韓の貿易は大きく発展しているが、当時としてはかなり大胆な発言だった。我々との2回目の会談に胡耀邦も気を許したのかもしれない。
胡耀邦は1987年1月に総書記を解任されるが、日中経済シンポジウムは継続され、1988年11月に北京で第3回目が開催される。この時に会見したのが、胡耀邦の後任として総書記に就任した趙紫陽だった。
●会見でビールを飲んだ趙紫陽
趙紫陽も胡耀邦に負けず劣らず、あっけらかんとしていて、オープンマインドだった。ブルジョワ的との批判を恐れずに、いち早く背広を着こなし、ゴルフ場にも通った。
ある時、明の十三陵近くのゴルフ場で趙紫陽とばったり顔を合わせたことがある。アウトの3番か4番だったろうか、ゴルフ場スタッフが駆け込んできて、「中国の偉い人がプレーするので、ちょっと待っていてほしい」と要請された。しばらくすると、趙紫陽がパターを手にしてやってきた。せっかちな仕草で、最後までボールを沈めずに、次のホールへと移動していってしまった。
会見では終始、ハイテンションだった。すでにこの頃になると、批判勢力の攻撃にさらされ、趙紫陽の政治的立場はかなり苦しくなっていた。会見が始まって間もなく、趙紫陽は付き人にビールを持ってくるように要求した。外国人との会見で、中国首脳がビールを飲むというのは、おそらく前例のないことだろう。約1時間の会見中にコップ2杯を飲みほした。ビールに力を借りなければ、思い切ったことも言えなかったのであろうか。この会見の半年後に、趙紫陽も天安門事件にからんで失脚してしまう。
●改革に前向きだった両首脳
胡耀邦失脚の際に、日中経済シンポジウム開催を独断で決めてしまったことが失脚の一つの理由になった、との報道もあった。しかしその後もシンポジウムは隔年開催で続けられ、日中交流の促進に役割を果たした。
胡耀邦、趙紫陽ともに、中国の古くからの悪弊を取り除き、新しい枠組みを作り上げようと一生懸命だった。やや性急なところがあったにせよ、常に前向きの姿勢を失わなかった。
中国はいま、経済成長の維持、インフレ抑制、投資から消費中心への構造転換、という3つの難題に直面している。ところがこの3つの中で、どうしても優先しがちなのは、経済成長の維持である。国際金融危機に際しても4兆元という巨額の財政投入によって、成長率を維持しようとがむしゃらになった。
その結果、GDPが日本を抜いて世界第2位となるなど、世界から大いに注目を浴びたのだが、半面でその後遺症ともいえるインフレに手を焼いている。ましてや、投資から消費中心への構造転換になると、対策が後手に回りがちで、ほとんど効果をあげていない。胡耀邦や趙紫陽のあの改革へのチャレンジ精神をいまいちど、思い返すべきだろう。
特に胡耀邦は清廉潔白なことでも知られていた。昨年4月、人民日報は温家宝首相が執筆した、胡耀邦を評価する論文を掲載している。その中で温首相は、「70歳を過ぎた胡耀邦が、食事や睡眠の時間も惜しんで人々の暮らしぶりを知ろうと、対話などに努めた」と胡耀邦の地方視察に同行した時の思い出を披露している。暖房が効かない宿舎に泊まって風邪をひき、高熱を出したが、それでも仕事を続けたという。胡耀邦がいま存命ならば、腐敗・汚職が蔓延している最近の中国政治に何と言うだろうか。
ふじむら・たかよし 1944年生まれ 67年日本経済新聞入社 北京特派員 論説委員などを経て2000年退社 現在 拓殖大学国際学部教授 著書に『老いはじめた中国』(アスキー新書)『中国の世紀 鍵にぎる三峡ダムと西部大開発』(中央経済社)など