完全に壊れてしまったこの国の政治
いまこそ政治は国民に「信」を問え
【第3回】 2011年6月21日 工藤泰志 [言論NPO代表]
この一連の政治の騒動を見ていて、どうしても理解できない素朴な疑問がある。なぜこの国の政治は、国民に「信」を問おうとしないのか、ということである。
発生後3ヵ月たっても被災地は瓦礫の山。避難所の劣悪な環境から抜け出せないまま、11万人余の被災者は未だに生存の危機に直面している。原発震災の処理は遅れ、汚染地域から避難した住民は、今後の人生すら描けない。
被災者の一人ひとりの命を救うためには、非常事態を宣言し、政府一体で取り組む局面だったが、この3ヵ月間、政権は迅速で有効な対策の方向すら示 せないでいる。そればかりか、首相の不信任を巡って党内分裂を招き、政治家同士の騙し合いは、「嘘をついた、つかない」の話となり、政治の亀裂の修復はも はや不可能となった。
それでもなお、菅政権の退陣を巡って、政権にしがみつく政治家と降ろしたい政治家が、毎日のように党内外で駆け引きを繰り返している。この非常時 に政治が機能しない、いやこの国の政治が壊れている。こんな政治を目前にして、こんな政治家たち、全員いらない、と思っている人も多いだろう。
私の疑問は、この状況に至っても、私たちは、この国の政治をただ見ていることしかできないのか、ということだ。
戦時下の英国でも、関東大震災後でも
総選挙は行われた
こんな時に選挙なんてとんでもない、という意見があるのは事実である。だが、よく考えてみると、その根拠はいささか脆弱である。
1945年に英国では総選挙が行われ、戦争を指揮したチャーチルが退陣に追い込まれている。ヒトラーが自殺をした直後だから、戦局はほぼ決していたが、まだ戦争中である。
日本でも関東大震災時には、政治の混乱から5ヵ月後に解散が行われ、震災の影響で選挙人名簿の作成に時間を要したものの、8ヵ月後に総選挙が行われている。
選挙は民主主義を支えるための重要な装置である。であるならば、「困難な状況だから、国民には信を問えない」というのは、政治サイドの身勝手な言い訳に聞こえる。困難があるからこそ、国民の信を得た「強い政治」で難局に当たる必要がある、と思うからだ。
多くの有力メディアも、選挙はとんでもない、という風潮づくりに加担している。しかし、その議論をつぶさに読んでみても、危機下では「政局」では なく、みんなで力を合わせるべき、程度の論拠しか提起できていない。今の政権に力を合わせるべき、と署名入りで書いている記者もいる。
だが、これらの議論がおかしいのは、この国の政治の混乱は、大震災という自然災害によってもたらされてわけではなく、政権政党である民主党が事実上分裂し、政党間の対立から、政府が十分に機能しなくなっていることにある。
そうした政治の機能不全が、未曾有の震災での対応を遅らせ、原発事故に伴う日本社会のパラダイムの転換に向かい合えない事態を招いている。いわば私たちが直面しているのは統治の危機なのである。
しかも日本の首相は、米国のブッシュ大統領があの9.11で見せたように国民の合意や政治家全体をまとめ上げる力もなく、自己の権力を維持するために躍起である。そして、それは国民の強い支持を得ていない。
一体、いまの政治家の誰に力を合わせればいいのか。その現実を直視する論調は皆無である。いわばほとんどのメディアは、政局のどちらかに加担しながら、お互いの正義を言い合っているだけにすぎない。
その正義の議論に、ぽっかりと穴が空いたように無視された存在がある。それこそ、有権者の存在である。
いまの政党は
烏合の衆になっている
ちょうど菅首相の不信任決議が衆議院に提案された6月2日。偶然にも、同じ時間に言論NPOはアドバイザリーボードの会議を行っていた。
アドバイザリーボードは、小林陽太郎氏、明石康氏、佐々木毅氏ら9氏で構成されている。この日は多くの人の都合が悪く、出席したのは前岩手県知事で、総務大臣も務めた増田寛也氏、オリックス会長の宮内義彦氏、大和総研理事長の武藤敏郎氏の3氏である。
当然、今まさに行われようとしている、首相への不信任決議がその議題となった。私たちの問題意識は、いまの日本の政治の状況をどう認識するか、である。
3氏との議論の中で、今、問われているのはこの国の「統治の崩壊」だと、言い切ったのは宮内氏だった。
宮内氏は、政治とは統治の仕組みと、政党、そして政治と行政の関係という3つの要素で構成されている、としたうえで、「そういうものが、うまくつ ながっていないと政治というのは動かない。私はそれらがいま潰れてしまっているとしか思えない」と語り、さらに特に問われるべきなのは政党の在り方だ、と して次のように語っている。
「いまの政権政党は本当に政党なのだろうか。言うなれば、綱領のない政党です。綱領がないのに集まるというのは何なのだろうか。この指止まれというけど、何に止まっているかわからない、いわゆる烏合の衆なのです。
綱領がない政党はあり得ない。綱領らしきものはマニフェストということで選挙を戦ってきたけれども、勝った途端にそこに書かれたものはどれもこれ もダメだと言われている。自民党もそうだったし、今の民主党も政治を行うには相応しくない集団になっているのではないか、というのが実態だと思う。これ は、全てやり直さなければいけない」
「解散、総選挙」でしか
答えは出ない
政党が「烏合の衆」になっている。意外だったのは、宮内氏のこんな厳しい指摘に他の2氏も同調したことだ。
武藤氏も、不信任を巡る混乱の原因を、「民主党が政党として体をなしていないこと」とし、「出自から見ても、党の中には右から左までいろいろい て、とても一つの政策を標榜しているとは思えない。たまたま大震災が起こり、野党から不信任ということになったときに、色々な意見があって与党がまとまら ない、という矛盾が浮き上がっただけ」という。
増田氏は、「結局、最後は、こうした政権を選んでしまった我が身の不明を恥じるしかない。政党政治はゼロから出発し直さなくてはならないが、その時には政治のゲームにうち興じている政治家には、二度と国政を託したくないな、というのが率直な思い」とまで、言い切る。
こうした日本の政治の状況をどう打開できるのか。これに対する3氏の意見は、時期の問題での意見に差はあるにしても、いずれも「解散、総選挙」でしか答えは出ない、ということである。
武藤氏は、「最も望ましくて、かつ可能なシナリオは、最終的には選挙をするべきだと思う。そうでない限り、この問題は整理がつかない。何らかの意 味で、選挙までの暫定的な政権をとりあえずつくる。それで、きちんと選挙をする。その時が勝負になって、そこから新たな政治に転換していく、というのが最 も望ましい姿」。
そして、こう付け加えた。
「極端な話をすれば、別に首相がどうであれ、政治がどうであれ、日本国民はこの震災を必ず乗り切っていく。その程度のまとまりと、知恵と力はあると思います。ですから、震災を全ての理由にして、政治の動きをそれによって封じてしまうことは、適当ではないと思う」。
(議論の全容はこちらから)
なぜ解散したくないか
その理由はきわめて単純
私たちが、「国民の信」を問うべきだと主張しているのは、今の混乱した政治状況のままでは、迅速に被災者の生活再建や雇用の復興に、答えを出すことは困難だ、と考えるからだ。
私も東北出身だからよく分かるが、梅雨が明け、夏祭りが終わる頃には厳しい冬の気配が迫ってくる。被災地にあまり時間は残されていない。私は、こうした政治の危機的な病巣を棚上げにしても、政治がその機能を取り戻す最大のチャンスが、この大震災だと思っていた。
被災者の命の救済や被災地の復興に、国民との合意を形成して、課題に対して政治が協力して一体として取り組む。政治が課題を通して国民と繋がる。それこそが、震災のみならずこの国の復興に道を開くと期待したからだ。
だが、震災対応が遅れるまま首相の退陣騒動に発展し、野党を巻き込んで、この難局に対応できる体制は、震災後3ヵ月経っても実現していない。そしてそれは、この危機下で機能不全に陥っている民主主義そのものに、私たち自身がどう向かい合うのか、という問題でもある。
民主政治では、有権者は自分の代表として政治家や政党を選び、政党や政治家はその代表として課題に取り組む。こんな緊張感あるつながりが、本来の民主政治に問われる関係のはずである。
その有権者の代表という姿を、今の政治に感じている有権者は皆無だろう。
この国の政党がなぜここまで崩壊の危機に至っているのか。その問題を有権者は真剣に考える局面に今、立っていると思うのである。しかも、この局面においても政治の視野にあるのは国民の姿ではない。一度奪った権力を手放したくないという政治の力学だけなのである。
なぜ日本の政治は解散をしたくないのか。その理由は極めて単純である。
2年前の衆議院選挙で得た政治家の数をそのまま、なるべく長く維持したい、率直に言えば政治家の地位を守りたい、それだけの理由である。
これを民主党の最長老の渡部恒三氏に直接聞いたことがある。
ちょうど、小沢一郎氏との誕生日を一緒に祝う会に出席した、その翌日の朝の勉強会の席上である。
首相は選挙を権力維持の
道具としかみていない
地元の福島原発の被害に対する心労で毎日なかなか眠れずに、白髪が増えたという渡部氏は、スピーチで「原子力発電の事故の問題は、単に福島県が滅びる、滅びないというより、日本の国が滅びる、滅びないかの問題。国益優先、挙国一致で取り組むしかない」と力説する。
その渡部氏に失礼ながらこう聞いてみた。
「こういう国難の時は国民の強い支持がどうしても重要だと思うが、このまま選挙はやらなくていいのでしょうか」
答えは極めて明快だった。
「選挙をやれば民主党が惨敗します。今の小沢チルドレンの150人の中で残るのは5、6人でしょう。一票の格差というのがあります。それを直さない でやると、憲法違反だと言われる可能性があります。再来年の9月まで、あと任期は2年4ヵ月あります。だからあと2年は解散ありません」
私がどうしても理解できないのは、解散に関する首相の認識である。国民に信を問うという、民主主義の基本を、権力維持の道具としか考えていない言動が相次ぐからである。
政治の混乱の中で、解散を巡って驚くべき首相の発言が何度かあった。第1に、菅首相は不信任の可決の公算が高まりかけたまさにぎりぎりの段階で、党内の選挙に弱い政治家の反旗を抑え込むように、解散の準備をするように指示をしている。
さらに、新聞報道によると、さまざまな議員との会合で、大連立前提で名前が挙がった谷垣自民党総裁に関して「谷垣にやらせたら6ヵ月以内に解散をするだろう」と難色を示している。
首相が、解散に関して誰よりも慎重であることはわかるし、選挙の結果を意識するのも当然だろう。しかし、解散が、党内の反対派を抑える方便に使われたり、議席を失うことを避け、国民に選択を求めないとしたら、政治の目的は権力闘争以外なにものでもない。
より多くの人が望めば
それは必ず実現する
もちろん、私が、国民の信を問うべき、と主張するだけでは政治はそれを決断しないだろう。しかし、より多くの人がそれを望めば、それは必ず実現する、と私は信じる。
被災地では多くの市民や専門家が、被災者の生活救援に取り組んでいる。福島でも放射能汚染の健康のモニタリングが市民参加で動き始めた。多くの人 が、目の前の課題に一体となって取り組む。その支援の輪は、被災地が距離的に広がり、深刻な被害状況という困難さの中でも、確実に広がっている。
こうした国民側の立場に立った、課題に取り組む政治を私たち自身が強く求めなくてはならない。
私は今すぐに選挙を行えと、主張しているのではない。なるべく早い実施を国民に約束し、それまでに政治が一体となって、被災者と被災地の再建に取り組むべき、である。その一方で衆議院の一票の格差の是正などの選挙準備を進める。
やる気になれば数ヵ月で出来るだろう。
だが、同時に、政党の再建や再編に取り組む必要がある。それを国民側が提起すべきである。そのためには、社会保障やエネルギー、安全保障など主要な政策ごとの選択肢を提起し、それを政治家に求める必要がある。
私たちのNPOはそれを議論の力で進めようと考えている。
このプロセスはかなり長期化する可能性がある。これだけ、政党政治が壊れている現状では、国民が何回も政治家を選ぶことによって、新しい政党なり政治家の像が、だんだん国民に伝わってくる。そういうプロセスを経ないと、新しい政治は作れないだろう。
ただ、これ以上、先延ばしには出来ない。だから、私たちは解散を求める。そこから、この国の政治に変化を起こしたいからである。政治の世界では今なお、権力に固執する首相のもとで、退任時期も固まらず、さまざな政策課題が停滞している。
私たちはそうした政治に、全て白紙委任したわけではない、のである。
この国の民主主義を国民目線で作り直す
解散は「強い政治」を作るための第一歩
【第4回】 2011年7月15日 工藤泰志 [言論NPO代表]
前回の記事で私は、政治は一刻も早く国民の「信」を問うべきだと、主張した。
私が言いたかったことは、この国の政治に新しい変化を起こすのは有権者しかなく、有権者は覚悟を固める局面だ、ということである。その後も政府の統治の力は弱まり、首相退陣を巡る攻防だけが政局の焦点となっている。
あきれた話だが、被災地の知事に、「お客を待たせるのか、助けないぞ」とすごむ復興担当大臣は辞任に追い込まれ、原発の再開で首相にハシゴを外さ れた経済産業大臣も辞意を漏らす騒ぎとなった。原発の再稼働を巡る方針で政府は腰が定まらないまま、来年には電力危機が想定される事態になっている。
胸に響いた
ある主婦からの発言
震災復興やこの国自体の復興という、国民が直面する現実的な課題と、政局の動きの間には、目に見えるほど大きな距離が広がっている。これは統治の 危機のみならず、国民が代表を選び、その代表が国民の代わりに直面する課題に取り組むという、民主主義の機能不全だと、私は考えたのである。
こうした私の問題提起に、数多くの人が反応し、意見をいただいた。その大部分は、有権者は政治に解散を求めるべき、という私の提案に賛同し、その幾つかは言論NPOへの厳しい注文となった。胸を締め付けられるほど、共感を覚えた意見もある。
その一部を紹介しよう。ある主婦の発言である。
国民として、被災地と何のつながりもないひとりの主婦として今、どう行動すればいいのか、見出せずにいます。選挙があるまで、何もできないのでしょうか。プラカードを掲げて歩けばいいのでしょうか。
前回の総選挙以来、政治の混迷も苛立つばかりで実際には、どうすることもできずにいます。次の1票を投じる機会を得るまでに、いったいどれだけの 産業がダメになり、商店がつぶれていくのでしょう。10年後の市は、町は、国は、どうなるのでしょう。誰がそのビジョンを描いているのでしょう。
物知り顔で世相を説いてみせても、何も変わりません。大阪の大きな商店街で3代目の個人商店を営む両親は、自分たちが過去50年やってきてこんな酷い不況はない、商店街の店もどんどんつぶれていく、そして皆、老人向けの接骨院になってしまう、と悲鳴を上げています。
個人でできる努力には、限界があると思います。むしろ個人レベルでは、誰も必死でやっています。それらを力強くまとめ、未来を指し示す政治の力が必要です。今は個人が力尽き、町が弱り、国が死のうとしています。
政治の努力はどこにあるのでしょうか。政治の復活再生のために、個人は何ができるのでしょうか。どうか教えてください。
この国の政治の崩壊を前に、私たち個人は何ができるのか。それは今、国民全員に問われた問い、である。
前回の記事で私は、やる気になれば数ヵ月でその準備はできる、と書いた。
政治に新しい変化を起こすためには、まず解散を迫り、最終的に選挙で有権者の意思を示すしかない。ただ、今すぐ選挙を行えと私は主張したわけでは ない。選挙のなるべく早い実施を国民に約束し、それまでに政治が一体となって被災地の問題に取り組み、多くの有権者が参加できるための選挙の準備を進め る。
と、同時に私たちは政策を軸とした政党の再編や、選挙制度も含めたデモクラシーの仕組みの立て直しのために議論を開始する必要がある。こうした政 治の立て直しには、何回もの選挙と時間が必要になるだろう。しかし、今始めなくては、その機会を私たち自身が見失ってしまう、と考えたのである。
選挙をやっても
棚に並ぶ商品は一緒
この点で、私に寄せられた多くの意見の中で最も私が関心を持ったのは、むしろ解散に反対する意見だった。今、考えるべきいくつかの論点が示されていたからだ。
この論点は大きく言えば2つに分けられる。
1つは、解散は行ってもいいが、候補者として示される政治家の顔ぶれが同じでは選挙を行っても同じではないか、というもの。
もう1つは、今の政治家を選んだのも今の有権者であり、有権者はその時々の雰囲気や自分の利害を優先するために、それに見合った政治家しか生み出せない、しかも今の選挙の在り方では、代議制民主主義が機能しているのか疑わしい、というものだ。
私はそのあと、この解散を巡って民主党の若い政治家と議論する機会があった。最初の論点に関しては、その時に政治家から同じ意見が出たので、そのやり取りをここで紹介する。被災地の支援の際に出会ったことがある、36歳の内科医出身の梅村聡参議院議員である。
梅村 私は今、36歳なのですが、今の党の幹部というのは運動の世代なのです。統治という概念が非常に薄い。首相が辞めるのか、辞めないのか、こういうことで議論する際に、誰が最終的にまとめるのか。結局、そういう意味で言えば、統治でしょうね。統治機能が無くなっている。
工藤 僕も、今の日本は統治の危機にあると思います。ただ世界の中で、また時代の中で日本の課題もあって、それを早く直して、その課題に挑んでいくという流れを作っていかないと、大変なことになる。必要なのは選挙による、政治家の仕分けではないか。
梅村 工藤さんのお立場から言えば、国民に「信」を問うということですけど、私から言わせれば、国民に「信」を問うても、棚に並んでいる商品は一緒なのですよ。もっと言えば、政治家の棚卸し。これにつきるのではないかと思います。
工藤 では、政治家を棚卸しする力が、今の日本の政党にあるのでしょうか。
ここでの議論は、政党がこの国が直面する課題を解決ができる候補者を、選挙時に提起できるのか、という問題である。梅村議員は、私と同じ問題意識を持ちながら、それが今の政党の中ではできないことをあっさりと認めている。さらに対話を続けてみる。
梅村 本来、二大政党になり、小選挙区制を導入した時に、その裏打ちとして政党の人材育成機能ということが実は 必要だったのです。日本はその肝を抜いたまま、細川政権の時の政治改革の議論の中で、形だけを真似た、と。だから、その育成機能を今の政党につくっていか なければいけない。そこをやらない限りは、国民に信を問うても、国民が迷惑なだけです。
工藤 政党助成金で国民から税金が党に流れている。その使い方を見直して、人材育成に当てればいいのに、結局、みんなに分配して選挙資金のために使ってしまう。そういう動きというのは、梅村さんが党内で提案しても修正は無理ですか。
梅村 それは、国民の側が、そういう選択肢で政権を選ぶという大きなムーブメントが起これば。
工藤 起こらないとダメだということですね。
梅村 起これば、いけると思います。
同じ疑問を私は以前、自民党の石破茂政調会長にもぶつけたことがある。政党はすでに政策を軸にまとまっておらず、政党というものが機能するためには政界再編は避けられない、とする石破氏に、その動きを政治の世界で自発的に行うことは可能か、と尋ねたのだ。
その際の答えも同じだった。「国民の側からそれを提起する動きがないと、難しい」と。
本来、国民の代表にふさわしい候補者を有権者に提起するのは、政党の仕事である。だが、その政党自体が、同床異夢の状態で、適切な候補者を発掘できず、育てられない。むしろ、国民側に政治の建て直しを、政党に迫ってほしい、というのである。
私は解散を行うべき、と主張しているが、選挙が行われ政権が変われば、自動的にこの国に、課題に取り組む新しい政治が生まれると楽観視しているの ではない。政治をただ見ているだけしかできなかった有権者にとって、選挙は意思を表明できる第1歩だが、新しい確かな変化を起こすためにはそれだけでは足 りない。
前回も説明したように、主要な政策の選択肢を提起し、どれを選ぶのかを、政党や政治家自身に問い、政治家ごとにその実行を評価し、公表する。
さらに言えば、課題解決に取り組む新しいリーダーの発掘や、梅村氏が言うように、政党に関しては政党助成金の使い方や、政策の立案の党内ガバナン スも、当然、問うべきだろう。そうしたプレッシャーをかけ続けないと、日本の政党は変わらないし、候補者の棚卸しも実現できまい。
私たちのNPOも当然、議論の舞台でそれを行うつもりだが、そうした準備を、今回の解散から始めようというのが、私の提案なのである。
代議制民主主義の基本を
再吟味する必要があるという意見
解散に反対する2つ目の意見は、現状のままで選挙を行っても同じ繰り返しを招いてしまうのでは、という危惧から出ている。
1つは有権者自身が誤った選択を再びするのではないか、という危惧、そしてもう1つは選挙で代表を選ぶという民主主義の仕組み自体が機能しているのか、という疑問である。
私に対しては次のような意見があった。
「そもそも今の選挙制度と現状の代議制民主主義で、国民の広い信頼・負託を得た議員を選ぶ事が実質的にできていない。今のシステムでは誰が選ばれよ うと、政治は混乱し、リーダーシップの取れる総理や政権は生まれない。今の混乱は政治家の個人的資質の問題や個別政党の至らなさの問題だけではない。むし ろ、国民の熟成度の低さと選挙制度のまずさ、代議制民主主義の限界の問題が大きい」
この問題は、有権者の選択のまずさと同時に、代議制民主主義の基本の再吟味が必要ではないか、という問題を突き付けている。
私は、ここで代議制民主主義の是非まで論じるつもりはないが、私なりに単純化すれば、今の政治家は国民の代表と言えるのか、そこには選挙制度上のまずさはないのか、という問題がある。
第1の有権者の選択のまずさの問題は、率直に言えば有権者自身が学習するしかない。多くの有権者はこの政治の機能不全の状況を見て、安易な投票行動が、どのような政治を生み出してしまうのか、その怖さを痛感したはずだ。
被災地では、震災から4ヵ月も経つのに瓦礫などの処理が進まず、生活不安は解消されるどころか、地域の復興の姿さえ見えない絶望的な状態にある。にもかかわらず、国会では政治の閉じられた世界だけで、党の分裂と権力争いだけを繰り返し、国民との距離を広げている。
民主党の政治家が、この局面においても解散を、被災地の存在を理由にタブー視するのは、水ぶくれのように膨らんだ議席数を任期中は維持したい、というためだけである
非常に甘い
「最低投票」の基準
第2の疑問は、これからの民主主義と有権者の在り方を考える点で、重要な意味を提起している。
私は、この点で「最低投票」の問題を、ここで皆さんに問題提起してみたい。選挙では、相対的に多くの票を獲得した人が当選する。そこではいくら投票率が低くても、「有権者の代表」は選ばれる。
公職選挙法ではこのほかに、あまりにも得票が低ければ当選できない、という「最低投票」の問題があり、衆議院の小選挙区制度では、有効投票総数の6分の1は最低でも獲得しなくては、相対的に1位になっても当選できない。
こうした選挙制度についての、解説本はいろいろ出回っているが、なぜ「最低投票」がここまで甘いのかを説明するものは、現段階で見たことはない。
仮にある選挙区で投票率が50%の場合、これでは有権者全体の9%程度の得票で当選できることになる。小選挙区制は2大政党化を進め、1人の当選者を選ぶ制度である。それが10人に1人の支持も得ないで「有権者の代表」と言えるのか、ということである。
こうした大甘の理由は、6分の1という設定やその計算式の分母に有権者総数ではなく、有効投票総数を置いていることが背景にある。
ある政治部記者出身の政治評論家の子ども向けの解説書によると、選挙による棄権者とは「白紙委任」と書いてある。これはあまりにも政治家目線の解 説だろう。棄権は、有権者としての権利の放棄であるが、今の政治では政党が政策を国民に提起できず、曖昧な公約しか出さないため、選べないから投票もでき ない、という理由も十分理解できる。
そこで、私は選挙で「有権者の代表」を選ぶためにあえて、以下のような提案をしてみたい。
つまり、最低投票は①現行の有効投票数を分母にする場合は2分の1以上、②有権者総数を分母にする場合は4分の1として「最低投票」を算定して、 この水準を上回らない場合は、再選挙を行うか、その再選挙コストを節約するため、当選人を選べない、つまり「政治家空白」としたらどうか、ということだ。
有権者は選挙を棄権する以上、政治家を選ぶという権利を放棄したことになり、「政治家空白」となっても文句は言えないはずである。有権者は政治空白を避けるためには、政治家をしっかりと評価することになり、政党は適切な候補者を選ぶことに必死になるだろう。
有権者の代表を選ぶという民主主義の在り方が俄然、緊張感を伴うものとなる。
私たちがこの間の選挙を元に、簡単な推計をしたところ、03年の総選挙(平均投票率は59.86%)では ①の場合は162、②の場合は55の選挙区で空白が生じ、有権者の支持を確保できない政治家の数は大きく削減されることになる。
世界では最低得票率を50%としたり、投票を義務化する国もある。その国の民主主義の程度にもよるが、今の日本の政治の状況を考えれば、こうした提案も荒唐無稽とは言えないだろう。
政治家の目線で設計された
今の代議制民主主義
代議制民主主義の立てつけには、政治家の目線で設計されたものが並んでいる。
政党助成金や小選挙区制と比例区の重複立候補、そして最低投票の問題、さらには小選挙区制度の問題など、有権者が代表を選ぶ仕組みに様々な疑問が 出ている。例えば、小選挙区で落選した候補が政党の比例区で当選し、その後、その政党を辞めても政治家を続けている衆議院議員も2人いる。政党助成金では その使い方が明確でないだけでなく、受け取りを拒否している共産党分を、ほかの政党が山分けしている。
こうした不可解な事例はいくつもあってもそれを話題にし、改善する動きが政治家や主要メディアから具体的に提起されたことはない。一票の格差も、最高裁で違憲判決が出ても、政党が本気で取り組んでおらず、民主党ではその決定を次の執行部に先送りしている。
この構図は、原発の推進を進める経済産業省所管の原子力安全・保安院が、その安全性のチェックを行っているのと同じ構図である。いわば原子力村な らず政治村の存在が、政治がここまで混乱し、政府の統治が崩れても、国民の信を問うという、有権者に立場に立った発想自体を阻んでいる。
私へのメールで、有権者が今の政治を変えるためには、こうした代議制民主主義の構造そのものを問うべき、という意見がある。その通りだと、私も思 う。そのための議論を私のNPOも始めるつもりだが、しかし、こうした構造を国民の立ち位置で全面的に変えることも、最終的には有権者が選挙で判断するし かないのである。
民主主義を機能させるということは、選挙における「競争」と「成果」を政治家に問うサイクルが実現することである。「成果」を判断するために、政 治家や政党が有権者に取り組む課題と達成目標を説明し、その業績評価を有権者が選挙で行う。そうした緊張感から、新しい強い政治が生まれ、政治のリーダー は必ず生み出せると、私は信じている。
政治に国民に対する「信」を問うことを迫るのは、そうした国民目線の政治を作り出すその第一歩なのである。