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社会福祉の思想は次第に成熟されつつあった。しかし、いつのまにか時は崩壊へと逆行しはじめた。

【第172回】週刊・上杉隆  2011年4月21日 ・ 【第7回】 ポスト3.11の論点 日本と日本人の選択肢

2011年04月28日 23時49分05秒 | Weblog

【第172回】週刊・上杉隆  2011年4月21日 上杉 隆 [ジャーナリスト]
「原発は安い、太陽光発電は高い」は本当か?被災地の復興をも視野に入れた孫正義氏「自然エネルギー財団」の提言


 きのう(4月20日)、ソフトバンクの孫正義社長は、民主党の復興ビジョン検討チームの会合に出席した。フルオープンだったこともあり、衆議院第二議員会館の多目的ホールで開かれた会合に、議員のみならず多くのメディアが詰め掛けた。

 その会合の冒頭、孫社長は、米国での発電コストに触れ、「私自身も驚いたのだが」と前置きしてこう話しはじめた。

「昨年、米国では原子力発電のコストと太陽光発電のコストがクロスオーバーした。原発は低コストだという認識を変える必要があるのかもしれない」
安全対策費用がかさむ原発、
技術革新で安くなってきた太陽光発電

 近年、安全管理の厳格化にともない原発コストは確実に上昇している。とりわけプルサーマルや高速増殖炉などの原子炉は、それ自体の建設維持費用よりも安全対策費用への投資が高コスト化している。そして、その傾向はますます強まっている。

 一方で、高コストで効率が悪いと見られていた自然エネルギー、とくに太陽光発電は、ソーラー技術や送電システムなどの革新によって低コスト化に成功している。

 再生可能な自然エネルギーによって生み出される電力は、かつてのような高コスト・低効率のままで停滞しているわけではない。省エネ技術の進歩とあいまって、世界中で根本的なエネルギー政策の見直しが始まっているのが現状だ。

 脱原発、自然エネルギーへのシフトという世界的なエネルギー事情を受けて、孫氏はきのうの会合で、いきなり新構想をぶち上げた。会場にいた私は、思わず自身のツイッターに次のように書き込んだ。

〈【速報】 孫正義氏 @masason 新しいエネルギー創設のための財団設立(自然エネルギー財団)を発表。すべて個人資産で。先の復興支援寄付の100億円とは別に。被災地には「東日本ソーラーベルト構想」〉
http://twitter.com/#!/uesugitakashi/status/60609850387865600

 孫氏は、先の震災の支援金100億円、ソフトバンクからの10億円とは別に、新たに私財10億円を拠出して財団を設立し、そこで自然エネルギー発電のための政策提言などを行うという。

「原発事故で多くの国民が不安を抱いている。安心、安全な自然エネルギーを日本にもっと増やせるように、世界の科学者100人くらいの英知を集めたい」
代替エネルギーの可能性検証で
揺らぐ政府・東電の「原発必要論」

 この一ヶ月間、政府・東京電力から発表される情報のほとんどは「原発は必要」だというプロパガンダに染まったものばかりだった。それは大手マスコミも同様だった。

 電気は不可欠、だが日本は資源が少ない。環境破壊は許されない。原発はクリーンで安全。よって日本には原発が不可欠――。

 こうした「洗脳」は40年以上にもわたって日本全国に行き渡っていった。そして、政府・東電は、今回の原発事故に際しても、「計画停電」という卑怯な手段で国民生活を脅かしてまで原発の必要性を訴えた。それは本コラムで指摘したように、プロパガンダに過ぎない。

 だが、なによりそれを検証する力も、提示する代替案もメディアなどになかったのである。私たち自由報道協会のフリーランス記者らが指摘するまでは――。

被災地復興をも視野に入れた
「東日本ソーラーベルト構想」

 孫氏は、同時にまた、津波による甚大な被害を受けた被災地への復興計画も用意していた。

 津波を受けた農地や壊滅した工場地帯の回復には相当の時間がかかる。そうした地域に、太陽光や風力など自然エネルギー発電のための施設を建設して復興を目指すのはどうか、孫氏はそう提案したのだ。

 福島原発三号炉の設計者で、自由報道協会でも共同インタビューを行なった上原春男・元佐賀大学学長もこの提案を歓迎する。

「私の発明した海洋温度差発電、温泉水発電も活用できるかもしれない。私自身もまた別の構想を持っている。アイディアを出し合っていくのはいいことだ」

 先週、上原氏と孫氏は都内で会談を行った。両氏をつなげたのは、民主党の中で以前から自然エネルギーの問題に取り組んできた原口一博氏だ。

 エネルギーに関しては暗いニュースの続いたこの一ヶ月、ようやく希望の光が差し込んできたのかもしれない。

 会合にはその原口氏も姿をみせた。その目の前でさらに孫氏は、雇用創出も含めた壮大な地域復興ビジョン、「東日本ソーラーベルト構想」を発表したのだ。

 その構想には、自然エネルギーで発電された電力の買い取り制度の拡充も含まれ、現在のエネルギー政策へのリンクも考慮されている。

 自然エネルギー財団では、自然エネルギーの研究に取り組む一方、世界各国、日本中の科学者や企業の研究成果を収集し、政府に対しての提言を行なっていくという。さらにソーラーベルト構想をリンクさせ、雇用創出、地域再生を視野に入れた、日本全体の経済復興に寄与しようとしているのだ。

 孫氏は、今年中には自然エネルギー財団を設立すると断言している。

 少なくとも、被災地の住民に対して「高台への移住計画」を高らかに宣言している首相よりも、孫氏が、ずっと夢を与えてくれる人物であることは確かだ。



ポスト3.11の論点 日本と日本人の選択肢
【第7回】 2011年4月20日

「日本の救いはグローバルスタンダードから最も遠いところにあった」
震災で露呈した均一化と集中に頼る国づくりの限界
――浜矩子・同志社大学大学院教授に聞く

原発事故、電力不足、物流途絶、食品・日用品不足…。大震災に襲われた3月11日以降のこの国の混迷は、われわれに何を突きつけているのか。同志社大学の浜教授は、「均一化」と「集中」をテコに成長だけをひたすら追求してきた国づくりの行き詰まり、そして「多様化」と「分散」への発想大転換の必要性を示していると説く。
(聞き手/ダイヤモンド・オンライン編集長、麻生祐司)

「均一化」と「集中」。戦後日本の国づくりの特徴を端的に概念化するならば、この二つの言葉に収斂されるだろう。それは、戦後の焼け野原からの復興、そしてその後の経済成長を支えた“二輪”の概念である。しかし、3月11日に東日本を襲った未曽有の震災と、いまだ出口の見えない福島原発震災は、均一化と集中に依存するこの国のあり方が危機に対していかに脆いかという現実をわれわれに突きつけた。

 大きければ強く効率的であるという均一化の論理のもとに組み立てられたものの多くは、今回の震災で、あっけなく崩れ落ちた。物流システムは各所で機能不全に陥り、大手スーパーチェーンや大手コンビニチェーンはちょっとしたパニック的な購買行動や買い溜めによって食料品や日用品の不足どころか枯渇に陥った。 富と都市機能は東京圏に寄せ集めるという集中は、福島原発事故を機に深刻な電力不足問題を引き起こし、交通インフラの大混乱を招いた。

 私は今、声を大にして提唱したい。均一化ではなく「多様化」、集中ではなく「分散」こそが、復興、いや日本の新興を論じるときの新たな二輪になるべきだ、と。

 大手スーパーやコンビニにモノがないとき、救いの手はどこにあったか。それは、グローバルスタンダードとは無縁なところで生真面目に営んでいた零細個人商店にあった。前世紀の遺物と揶揄されていた、存在を忘れられつつあった零細でローカルなお店に、懐中電灯や乾電池、水やティッシュペーパー、パンはあった。グローバルスタンダードの常識からは最も遠いところで、救いは発見できたのである。

 われわれは、こう信じていた。グローバルジャングルの中で日々運営されている日本経済においては、強いものと大きなもののみが勝ち残っていく、そして日本の(成長の)ためにもそうあるべきだ、と。また、現代はグローバルスタンダードへの収斂の時代であり、均一化と集中のグローバルスタンダードに早く準拠した姿・形を整えないと、落伍してしまう、と。

 しかし、現実にはとうの昔にそのような論理は、時代に合わなくなっていたのではないか。

 世界経済に目を向けても、対外債務国と債権国に色分けされた集中は、債務国の財政危機を顕在化させ、いま是正を余儀なくされている。人・モノ・カネはなかんずく国境を超えるのだから、債権と債務がどこかに集中していても、どんぶり勘定の世界ではゼロであるがゆえに問題ない、それがグローバル時代だという論理には無理があった。メタボなキリギリスを蟻たちは支えきれない。世界各所で国家の財政危機リスクが増大している。

 いうまでもなく、この変化は、震災前から見えていたものだ。しかし、戦後復興の成功体験を引きずる中で、日本はグローバルスタンダードへの追随という無定見のうえに胡坐をかき、変化を避けていたのではないか。すでに均一化と集中で成長を目指すモデルから卒業した経済になっていながら、思考を停止していなかったか。戦後初の選挙による政権交代が実現し、新たに国家運営の任を負った民主党の新成長戦略には当初期待が寄せられたが、ふたを開けてみれば、従来どおり、均一化と集中の発想で描かれたものにすぎなかった。 

 むろん、私も成長や競争の意義を否定しているわけではない。すべてがローカル・零細でないとダメなどと言っているわけでもない。ただ、今、日本人が考慮すべきは、小さいものは小さいものなりに、弱いものは弱いものなりに、強大なるものは強大なるものなりに、日本経済という生態系、グローバルジャングルという生態系の中で、厳然たる役割があるということだと思う。普段は大きなものが大きな顔をしていてよいが、一方で小さくて弱いものも脈々としっかりと役割を果たしている、そのいうなれば共存共栄の生態系の底力、重要性を軽視することの恐ろしさは今回の震災を機に痛感できたはずだ。

さて、復興である。われわれは、“復元”の方向にだけ進むことは避けるべきだ。復興を急ぎたいという気持ちは分かるが、急がば回れである。どんな姿を構築するかという落ち着いた検討が今こそ必要だ。もちろんライフラインの復元は喫緊の課題であり、最優先すべきだ。しかし、それ以外の点では、復元の必要があるもの、新興すべきもの、廃棄すべきものをしっかりと仕分けする必要がある。ゆとりのない現状では大変な作業であることは承知しているが、どうしても復元しなければならないものと、そうでないものの仕分けぐらいはできるだろう。

 そのとき中央がすべてを決めていては、何も変わらない。復興のベクトルを示し、お金を集めて提供する役割は、国が集中的に担ってもいいが、あとは地元で使い途を考えるべきだ。地域社会という、いうなれば小宇宙の中で、大きく強いものと、小さくて弱いものが共存共栄できるパターンを描くべきだ。それに則って、使える金を上手に分かち合えばいい。

 先述した小売の世界を例に上げれば、大手スーパーが個人商店を次々と買収しその領域に浸食していくのではなく、場合によっては棲み分けを考えてもよいのではないか。たとえば、大手スーパーで売っている商品はこれだが、違うものが欲しければあの店(個人商店)に行ってくれとネットワークをお互いに支え合う。強いものは弱いものを支えるが、弱いものも強いものを下支えする。各自治体はそれぞれの小宇宙にマッチしたモノを作っていくために、お金の使い途を考えればよい。

 私は、各々の自治体が自己完結的に活力と多様性と創造性を持った小宇宙となり、その集合体として日本経済が存在できれば、足腰のしっかりした国になると思う。これまでの論理で復元するためだけに補正予算を繰り返し組んでいくことが復興だということであるならば、ただでさえ財政状況の厳しい日本に降り注がれる世界の目がいっそう厳しくなることは必定だ。そうなれば、今回の震災は“非日常”の出来事であるにもかかわらず、過度の円安や金利上昇を招き、われわれの“日常”に侵食してくることだろう。それは亡国の道だ。

 世界を驚嘆させる新しい経済モデルの絵を描き、その財源を確保するためにあらんかぎりのクリエイティビティを発揮する必要がある。増税による税収を償還財源の裏付けとする復興債のようなものも検討に値するだろうし、あるいいは突拍子もなく聞こえるかもしれないが、IMF(国際通貨基金)から復興計画に絞って融資を受けるという可能性だって探ってみてもいいのではないか。また、復興紙幣については、私も基本は慎重な考えだが、これを機に、そのメリット・デメリットを考えてみるのもいいだろう。

 ただし、繰り返すが、議論の大前提はあくまで単なる復元ではない日本新興計画の提示である。そこまでしてはじめて、日本は賢さの鏡となり、あらためて世界のお手本となる可能性を持てるはずだ。(談)


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【第178回】 2011年4月27日 東京電力救済案の本当の意図 (山崎元のマルチスコープ)
2011-04-29 00:08:27
被害者からカネを取る前に

 マイケル・サンデル教授のベストセラー『これからの「正義」の話をしよう』の冒頭には、ハリケーン・チャーリーで被災したオーランドで、生活に必要な物資やサービスに高い値を付けて売ることが、倫理的に許されるか否か、という印象的なケースがあった。この問題とは性質が異なるが、福島第一原発の事故をめぐる東京電力の問題に関しても、サンデル教授の意見を聞いてみたいところだが、教授がくれたアドバイスは、「私のアドバイスは、思慮深く、丁寧な議論をすること」というあっさりしたものだった(asahi.comより)。

 この問題については、日本国民が自分たちで考えなければならないようだ。

 数日前に、福島第一原発事故に伴う東京電力の賠償に関わるスキームの政府案が報道された。賠償の範囲も金額も発表されないうちに、支援の仕組みが発表される順番自体が相当に不思議だが、その内容も随分奇妙なものだった。

 賠償を支援する新組織(本稿では仮に「原発賠償機構」と呼ぶ)を作って、ここに政府から交付国債、他の電力会社からは将来の原発事故に備える名目での保険料的な負担金などのお金を集め、さらに政府保証付きで金融機関からの融資も行う形とするようだ。要は、東電を倒産させない仕組みだ。

 事故の被害者に対する賠償は東京電力が行う。この賠償金の最終的な負担者が誰になるのかは、報道されている仕組み図を睨んでいても分かりづらいが、東京電力は、この機構の負担金を、将来の収益から原発賠償機構が支援の際に保有する優先株の配当などの形で返済することとなるようだ。これでは足りない損失が発生した場合、東電も含む電力会社が納める保険料が充当され、さらに足りない場合、あるいは政府が贈与を決意した場合に納税者の負担になる。

 本件の利害関係は非常に錯綜しているが、たとえば首都圏の住民(東電管内の電力ユーザー)から見ると、停電のリスクや節電運動に不自由な思いをし、食品や水に不安を覚えるような被害を東電から受けながら、結局、将来の電力料金を通じた負担で、自分たちが東電の不始末の経済的尻ぬぐいをさせられることを意味するのではないか。

 東北地方沿岸部に多くいらっしゃる、大きな被害を受けた「被災者」の方々のことを思うとことさらに口にはしにくいが、不便や、不安によるストレス、食品や水のコスト高などを通じて、首都圏住民は今回の件の「被害者」でもある。しかし、地域独占企業である東京電力を官民で救済する今回のスキームでは、この被害者が実質的なコスト負担者になる可能性が大きい。

 一方で、首都圏住民は自分たちの電力消費のために、危険な施設を福島県等の他地域に押しつけていた面もあり、形が電力料金であれ税金であれ、最終的に賠償コストの一部を負担することになっても文句を言えない精神的負い目はあるかも知れない。

 しかし、負担には程度(金額)と順番の問題がある。政府が決めた負担方法に簡単に納得する前に、議論を深めておくことについては、サンデル先生も賛成して下さるだろう。
負担の順序を考える

 そもそも、原発事故における東京電力の賠償責任範囲が、同社の負担能力を超えるものになるのかどうかについて議論があって然るべきだ。

 とはいえ、賠償額の見積もりは難しい。原因は「想定外の天災」であって同社の責任範囲は限定的だと考える向き(今や少数かも知れないが)から、直接の被災者や地域への補償だけでなく風評被害や電力制約によるビジネス的損失まで含めると東電の賠償責任範囲は数十兆円に及ぶ可能性もあるという向きまで、考え方には幅があるだろう。但し、被害は現在も拡大中で、損害額自体が流動的だ。

 しかし、政府が現時点で東電救済のスキームを発表するということの状況的な意味を考えると、政府として、損害の範囲が東電の負担能力を超える公算が大きいという認識を持っていることと、政府の意思としては、賠償の責任を東電に負わせようとしているということの二点は「かなり確からしい」と判断することが妥当ではないか。そして、認可事業である東京電力が、訴訟などで政府と対立するということは、理屈上あり得ないことではないが、現実的にはないだろう。

 当面、賠償額は東京電力の負担力を超える公算が大きいという前提で考えよう。

 仮に、電力会社ではないごく普通の事業会社(仮にA社)があって、このA社が何らかの不始末をしでかして、賠償額が巨額になった場合に何が起こるか。
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【第178回】 2011年4月27日 東京電力救済案の本当の意図 (山崎元のマルチスコープ)
2011-04-29 00:10:51
 直接的には、A社が持っている現金や換金できる資産から賠償金が支払われる。この部分は、先ず株主が負担するが自己資本の範囲を超えると、次にこの銀行にお金を貸している形の金融機関(銀行など)、社債を発行していれば社債の保有者が負担せざるを得ない。金融機関や社債保有者が負担する段階の前の、おそらく債務超過がはっきりしたあたりで、会社更生法の申請による会社の倒産など何らかの法的整理が行われるのが普通だ。この段階では、金融機関と社債の保有者は被災者と並ぶ「債権者」として賠償金の負担を分担することになるはずだ。どのくらいの額になるかはそうなってみないと分からないが、負担の順番はそうなる。

 尚、東京電力の場合、5兆円近い社債を発行しており、東電債がどうなるかは資本市場にも大きな影響を与えるが、社債は一般担保付きなので、金融機関よりは立場が強い(負担順序が後になる)ものと推察される。

 A社のケースに戻るが、A社がもたらした損害が莫大で、A社の全ての資産を使っても賠償しきれなかった場合、仮に、A社の業務が何らかの行政的な監督下にあった場合、被害者は国の監督責任を問うて国を訴える可能性がある。国を相手の訴訟はなかなか勝ちにくいが、国に責任があると認定された場合、国は残りの賠償額を負担することになり、これはつまり全国の納税者一般の負担ということになる。

 今回の東電のケースを考えると、仮に、東電が賠償しきれない要賠償額が生じた場合、国の不手際や管理責任が認定される公算は小さくないだろう。場合によっては、そもそもの賠償責任者が東電と並んで国という順序になる可能性もなしとない。

 東京電力が「普通の会社」だと考えると、賠償の実質的な負担者は、一に株主、二に金融機関、三に社債保有者、四に国、といった順序になろうか。

 しかし、ここで面倒なのは、東京電力の場合、地域のインフラとして不可欠な事業を担う独占会社なので、会社が存続すれば、電力料金を上げるという選択肢がある(行政も認めるだろう)。

 こうなると、金融機関や社債保有者はおろか、株主以前の実質的な賠償負担者が東電の顧客になってしまう可能性すらある。

東電の曖昧な存続の意味は?

 東京電力が会社として現在の延長線上で減資も上場廃止もせずに存続すると、株主はしばらく損をしているが、やがて東電が賠償負担から解放された時には利益が出るようになるだろうし、配当も復活するだろう。時間を掛けると損失を相当程度回復できる可能性がある。

 では、金融機関や社債の保有者の責任はどう考えるべきか。さすがに、彼らは、原発の事故に対して管理上の責任を負う立場ではなかろう。しかし、彼らは、彼らのリスク判断で原発事業をも営む東京電力に対して資金を出して、ローンの金利なり、社債のクーポンなりを受け取って「儲けて」いた。たとえば東電債の利回りは、同様のキャッシュフローの国債の利回りよりも少し高かった。これはリスク負担の対価のはずだ。銀行の融資にも同様の性格がある。彼らは、ビジネスとして東電に融資していたはずだ。お金を貸した会社が倒産した場合の損失を彼らが負担することには、十分な正当性がある。金融界が顧客に対してよく使う言葉で表現すると、彼らの「自己責任」だ。

 ところで、原発賠償機構に一種の保険料のような形で資金を拠出する他地域の電力会社の立場はどうなるか。事故が起きてから保険を作るというのは、保険の基本を外れる暴挙であり、他社に本当に負担が生じるなら、少なくとも多電力会社の株主は怒らなければならないし、経営者も株主の手前、易々とこのスキームに乗ることはできない。最悪の場合、株主代表訴訟の被告になりかねない。

 しかし、事実上国策による資金拠出であり、また、当面それが何らかの費用になるとしても、現在の電力行政と電力業界の業界地図を守るためのコストなら、十分負担する意味があると他電力会社の経営者、ひいては株主が思っても不思議ではない。加えて、時間はかかるとしても、東京電力が原発賠償機構に実質的な返済を行う形になるとすれば、今回のスキームに於ける他電力会社の実質的な負担は大きなものにはならない。

 それでは、「東電の顧客」と「国(つまり納税者一般)」のどちらが先に賠償責任を負うべきか。この順番決定は、なかなか難しい。

 先に述べたように、首都圏住民は、事故が起こる前の原発の受益者でもあった。しかし、東電のユーザーが東電の経営や原発の運営について監視する権限を持っていた訳ではない。原発事故に連なる管理の責任に応じて賠償を負担すべきだと考えると、国の責任が先に来るのではないか(尚、原発事故に関して東電と国は一種の保険契約を結んでいるが、この部分の最大2400億円程度の支出は別途先に行われる公算が大きい)。

 そもそも総資産(純資産や時価総額ではない)が10兆円以上ある東京電力の賠償能力を超える負担が発生すること自体が「大変なこと」だが、原発事故の被害者に安心してもらうためにも、この問題については、考え得る限り先の可能性まで考えておかなければならない。
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【第178回】 2011年4月27日 東京電力救済案の本当の意図 (山崎元のマルチスコープ)
2011-04-29 00:12:04
原発賠償機構』の意味

 最終的には、個々の問題に対する責任の認定や、契約関係・法的権利などが絡むが、大まかな原則論として、賠償の負担者の順番は、東京電力の株主→ 東電に融資している金融機関→東電の社債保有者→国(=納税者一般)→東電の(将来の)顧客、という順序になるように思われる。

 但し、この中では、国の責任の認定によっては、国の順位が繰り上がる可能性がある。

 以上が、素朴な「あるべき論」だ。

 原則論を離れて、将来を予想することは愉快ではないが、現実的には、おそらく、何らかの株主責任(減資等による損失負担)を前倒しで問うと共に、東電のリストラ計画を加える程度の「軽度のけじめ」を加える程度の修正を行って、今回のスキームに近い形が出来上がるのではないだろうか。

 金融機関も社債保有者も保護されて、国は責任問題の前面には出ずに済む。いかにもありそうな構図ではないか。

 この場合、「原発賠償機構」の役割は何か。一言で言うと「(東電の)金融機関、社債保有者、国の負担を、東電の顧客負担にすり替えるための、時間と、曖昧さを作るための仕組み」ということになるだろう。

 サンデル先生のいう通り、日本国民は、もっと議論した方がいい。
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