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日本国憲法は「みっともない憲法」なのか

2017年10月24日 14時26分37秒 | Weblog

2017.10.20 PRESIDENT Online

衆院選の争点のひとつに「憲法改正」がある。自民、公明のほか、希望の党、日本維新の会が改憲に前向きだ。安倍晋三首相は、かつて憲法を「みっともない」と表現した。この表現をめぐり朝日新聞は社説で強く反発している。一方、改憲派の読売新聞は「一度も改正されたことがない」と論陣を張る。説得力があるのは、どちらか――。

同じ改憲項目でも食い違いが目立つ

衆院選の争点のひとつに「憲法改正」がある。各政党の選挙公約を見ると、自民、公明のほか、希望の党、日本維新の会が憲法改正に前向きだ。このため、選挙後はかなりの確率で改憲論議が活発化し、憲法改正が現実的になるだろう。

ただ各党が挙げる改憲項目にはばらつきがあるうえ、同じ改憲項目でも食い違いが目立つ。その代表的なのが、自衛隊の扱いにつながる第9条の「戦争の放棄」「戦力の不保持」「交戦権の否認」である。

各党は選挙戦を通じ、党の憲法に対する考え方や立場を分かりやすく有権者に伝えてほしい。有権者も新聞やテレビ、インターネットを利用して、各党の立場を把握しておくべきだろう。

今回は護憲派の朝日新聞と改憲派の読売新聞、それぞれの社説を読み解きながら憲法論議を考えてみたい。

国民意識との間にある「大きなズレ」

10月16日付の朝日社説は、大きな1本社説で「憲法論議」をテーマにしている。難しい憲法論議にしてはかなり分かりやすい。朝日的いやらしさが多少あるものの、それでも十分評価できる。

「国民主権の深化のために」という見出しを掲げ、「憲法改正の是非が衆院選の焦点のひとつになっている」と書き出す。

「自民党、希望の党などが公約に具体的な改憲項目を盛り込んだ。報道各社の情勢調査では、改憲に前向きな政党が、改憲の発議に必要な3分の2以上の議席を占める可能性がある」と解説したうえでこう指摘する。

「政党レベル、国会議員レベルの改憲志向は高まっている。同時に、忘れてはならないことがある。主権者である国民の意識とは、大きなズレがあることだ」

「国民意識とのズレ」。朝日社説はいいところを取り上げていると思う。

「護憲50%」と「改憲41%」の差

朝日社説は続けて「民意は割れている」とズバリ断言する。

その根拠は何だろうか。そう考えて読み進むと、朝日社説は自社の今春の世論調査の結果をあげる。世論調査はどこの新聞社も、質問内容に社の色が付く。だからその点を差し引く必要はある。

その朝日の世論調査によると、憲法を変える必要が「ない」と答えた人は50%、「ある」というのは41%という。この11ポイントの差はかなり大きい。

それゆえ、朝日社説は「国民の意識との間に大きなズレがある」と指摘するのだ。

次に朝日社説は「自民党は公約に、自衛隊の明記▽教育の無償化・充実強化▽緊急事態対応▽参議院の合区解消の4項目を記した」と書いた後、安倍晋三首相の選挙戦略を分析してく。

安倍首相の手の内を推測する朝日社説

「首相は、街頭演説では改憲を口にしない。訴えるのはもっぱら北朝鮮情勢やアベノミクスの『成果』」である。首相はこれまでの選挙でも経済を前面に掲げ、そこで得た数の力で、選挙戦で強く訴えなかった特定秘密保護法や安全保障関連法、『共謀罪』法など民意を二分する政策を進めてきた」

こう解説した後、「同じ手法で首相が次に狙うのは9条改正だろう」と指摘する。説得力のある指摘である。

朝日社説はその中盤で自らの憲法観をこうまとめている。

「憲法は国家権力の行使を規制し、国民の人権を保障するための規範だ。だからこそ、その改正には普通の法律以上に厳しい手続きが定められている。他の措置ではどうしても対処できない現実があって初めて、改正すべきものだ」

自衛隊については「安倍内閣を含む歴代内閣が『合憲』と位置づけてきた」と指摘し、他の改憲項目にも「教育無償化も、予算措置や立法で対応可能だろう。自民党の公約に並ぶ4項目には、改憲しないと対応できないものは見当たらない」と書き、護憲派の意地を見せる。

「安倍首相の個人の情念」という分析

今回の朝日社説の中で特に興味深いのは、安倍首相が改憲にこだわるその理由を思い切って推測した部分である。

「安倍首相は、なぜ改憲にこだわるのか。首相はかつて憲法を『みっともない』と表現した。背景には占領期に米国に押しつけられたとの歴史観がある。「われわれの手で新しい憲法をつくっていこう」という精神こそが新しい時代を切り開いていく、と述べたこともある。そこには必要性や優先順位の議論はない。首相個人の情念に由来する改憲論だろう。憲法を軽んじる首相のふるまいは、そうした持論の反映のように見える」

なるほど。護憲派の朝日新聞らしい主張ではあるが、「中道」を自称するこの沙鴎一歩にも、うなずけるところは多い。とりわけ「安倍首相個人の情念」という分析は、全くその通りだと思う。

朝日社説は最後に「憲法改正は権力の強化が目的であってはならない」と訴えるが、これもよく分かる。やはり「国民主権」「人権の尊重」「民主主義」の大原則を忘れずに憲法論議を進めることこそ、大切なのである。

朝日は「憲法論議」、読売は「憲法改正」

一方、改憲派の読売新聞の社説はどうだろうか。

10月14日付の読売社説(朝日と同じく大きな1本社説)の見出しは「憲法改正」「『国のあり方』広く論議したい」「自衛隊の位置付けへ理解深めよ」である。テーマ自体を「憲法論議」とする朝日社説と違って「憲法改正」としているところから、朝日と読売のスタンスが大きく違うことが分かる。

読売社説は前半で「自民党は公約に、(略)4項目の改正を目指す方針を明記した。抽象的な表現にとどめた前回衆院選と比べて大幅に踏み込んだ。政権党として、9条改正を主要公約に挙げたのは初めてである。高く評価したい」と書く。

9条改正の公約について「高く評価したい」と新聞の社説としては最高級の褒め言葉を贈っている点など、やはり安倍政権擁護の新聞社の体質がそのまま出ている。

読売も論旨展開は憲法の原則に基づく

読売社説はさらに「自衛隊の位置付けや緊急事態時の特例措置、政府と自治体の関係などは、国のあり方に関わる重要なテーマである」と指摘する。

そのうえで「国民主権、基本的人権の尊重、平和主義という現行憲法の3原則の堅持を前提に、大いに議論を深めてもらいたい」と主張する。この辺りは問題ないだろう。

朝日と反対のスタンスを取る改憲派の読売も「国民主権、人権の尊重…の憲法の原則」との言葉を使ってその論を展開しようとする。いつものことだが、読売と朝日を読み比べていると、頭の中が混乱することがある。

「自衛隊合憲」には一応の理解を示すが……

読売社説は「自衛隊の合憲」に理解を示したうえで、自衛隊の位置づけを次のように言及しながら、巧みに改憲論を主張していく。

「政府は長年、自衛隊は9条2項が保持を禁止する『戦力』ではなく、合憲とする憲法解釈を維持してきた。大多数の国民も、自衛隊の国防や災害派遣、国際協力活動を高く評価している」

「合憲」ならば改憲する必要はないだろうと読み進めると、読売社説は筆を反対方向に運ぶ。

「だが、自衛隊の存在は、70年以上、一度も改正されたことのない憲法と現実の乖離の象徴だ」

沙鴎一歩は「一度も改正されない」ことがそんなに問題なのか、と思うが、どうだろうか。

北朝鮮の脅威を改憲に結び付ける読売

次に北朝鮮問題を持ち出して脅威を強調し、改憲論を導き出そうとする。これでは安倍政権と同じである。

「北朝鮮の核ミサイルの脅威などで日本の安全保障環境が悪化し、自衛隊の役割は一段と重要になっている。一部の憲法学者が自衛隊を『違憲』と主張するような異常な現状は是正せねばならない」

読売社説は「憲法改正」に対する筆の運びが弱いと思う。なぜ弱くなるのか。社説を書いている論説委員が、「憲法改正」に対する強い信念を持っていないからではないか。

信念がないから、主見出しそのものが「『国のあり方』広く議論したい」と中途半端な主張になってしまう。仮にも憲法論議の社説である。読者としては泰然自若に構えた主張をしてほしいものである。


民進党は"9条"で分裂する必要はなかった 

2017.10.19 PRESIDENT Online

総選挙を前に「改憲派」(希望の党)と「護憲派」(立憲民主党)に分裂した旧民進党。その分裂を用意したのは2015年の安保法制をめぐる喧騒だったと、東京外国語大学の篠田英朗教授は指摘する。当時朝日新聞が行った憲法学者へのアンケートでは、集団的自衛権の行使は合憲だと答えた学者は122人中2人だけ。他のメディアの調査でもほぼ同様の結果だった。民進党の前身であった民主党もこの路線に沿った議論を展開したが、それでも篠田教授は「合憲」だという――。

憲法論議を歪めた「試験に出る憲法学」

2015年安保法制の喧噪は、結果的に、2017年選挙をめぐる民進党の分裂を用意した。集団的自衛権は違憲だ、と主張する憲法学者たちは、多くの野党議員たちに一瞬の高揚感を与えた。だが憲法学者などの権威を信じて、自分たちの政策の正統性を確信したのは、浅はかな火遊びでしかなかった。

公務員試験や司法試験の準備をしているだけなら、「迷ったら芦部説(*1)をとっておけ」、と指導する予備校講師にしたがえばいいのだろう。試験に通るという目標にそって、試験委員の面々を確認すれば、それは合理的な指導だ。今までもそうだったし、これからもそうだろう。

だが政策論は、試験対策とは異なる。それどころか、実際の日本国憲法典ですら、試験対策で語られる「憲法学」とは異なる。

大多数の憲法学者が集団的自衛権は違憲だと考えていることを示したアンケートがあった。違憲とは言えないと述べた少数の憲法学者のところには、脅迫状が届き、警察の保護が入った。「大多数の憲法学者」とは、日常的にはプライバシーの権利などを研究している方々である。自衛権の専門家ではない。

自衛権は、国際法上の概念である。日本国憲法には登場しない。しかしマスコミは国際法学者の専門家の意見を求めたりはしなかった。倒閣運動に結集した憲法学者たちの「集団的自衛権は違憲だ」という声だけを報道し続けた。ニュースバリューがある面白そうな場面だ、と思ったからだろう。だがそんなその場限りの面白味が、何年も続くはずはない。

集団的自衛権が「違憲」とされたのはいつからか

拙著『集団的自衛権の思想史』で明らかにしたように、集団的自衛権が違憲だという解釈が政府見解として固まったのは、1972年である。違憲論が政府答弁で目立つようになったのは、ようやく1960年代末のことである。なぜか。ベトナム戦争の最中に、アメリカに沖縄返還を譲歩させつつ、国内的には安保闘争後の高度経済成長時代の機運に乗っていくことが政策的な方向性だったからだ。

「政府統一見解ではない」と断って披露した1954年の下田武三条約局長の発言(*2)一つだけで、「政府」は一貫して集団的自衛権は違憲だと考えていた、などと主張する論者もいるが、歴史認識として間違っているというよりも、意図的な操作だろう。1940年代・50年代の政府関係者や言論人たちの発言を見ると、集団的自衛権が違憲だというコンセンサスがあったという形跡はない。国際社会への復帰を目指していた戦後初期の日本においては、国際法規範の受入れこそが問題であった。自衛隊は違憲か否かの争いがあったとしても、集団自衛権という権利の行使が違憲になるという認識はなかった。

一方、1960年代末の時代背景を考えれば、日本の集団的自衛権行使の否定は、つまり日本がベトナム戦争に参加する可能性を否定することであった。1969年以降の佐藤政権は、内閣法制局長官の高辻正己を通じて、憲法は集団的自衛権を認めていないという結論を強調していった。ベトナム戦争によって悪化した集団的自衛権のイメージと、反安保・反沖縄返還運動が交流して東大安田講堂事件が進行中であった当時の世情不穏を考えれば、まずは憲法が認める自衛権は個別的自衛権のみで集団的自衛権発動の可能性はない、と断言することに、大きな政治的意味があっただろう。佐藤首相は内閣法制局の憲法解釈を尊重するように振る舞ったが、それは法制局の法的見解を佐藤が政治的に欲していたことの裏返しでもあったはずだ。

佐藤栄作の「方便」が、なぜか金科玉条に

集団的自衛権違憲論は、アメリカが日本の共産化を恐れていた冷戦時代の産物である。密約を積み重ねて沖縄返還を達成した佐藤栄作に対して、アメリカ側が不満を持ちながらも怒りを爆発させなかったのは、自民党政権を追い詰めて日本に共産主義革命を起こしてしまうことを何よりも恐れていたからだ。そこにつけこんで、 ベトナム戦争においてアメリカの軍事行動を阻害はしないが、積極的には何もしないという姿勢を堅持しつつ、不可能と言われていた沖縄返還を達成した佐藤の狡猾さは、集団的自衛権を憲法が禁止していると信じる憲法学者たちを、後世に大量に作り出す結果をもたらした。

集団的自衛権はなぜ違憲だと言えるのか。それは自衛権を「例外」として認めるという独特の考え方の帰結である。憲法9条が全ての武力行使を全面的に禁止していると考える東大法学部系の憲法学の伝統では、自衛権は後から留保をかける程度のものでしかない。留保が、国連憲章51条(*3)そのままだとは言いたくないらしいので、個別的自衛権と集団的自衛権との間に超えられない一線があるといった、「ガラパゴス」自衛権論を掲げる。

個別的自衛権と総称される、憲法学者が例外として認める自衛権とは、いったいどんなものなのか。拙著『集団的自衛権の思想史』で論じたが、例外の設定にあたっては、プロセイン憲法を模倣して大日本帝国憲法が制定された際に、ドイツ留学者によって編成された沿革を持つ東大法学部の特徴が発揮される。ドイツ国法学の伝統では、国家は単に法人格を持っているだけではなく、実際に意思する実体であるかのように語られる。ヘーゲル流のドイツ観念論の強い影響下で、有機体的な国家観が、標準理論だとされる。

国際政治学者や国際法学者が、排するべき危険な邪説として警戒する「国内的類推(domestic analogy)」の純粋形態である。つまり国家を大真面目に、自然人と比較し得る人格を持ったものだと仮定する。その仮定を基盤にして、法体系を構築するのが、ドイツ観念論的な特有の発想法である。

自衛権をめぐる奇妙な「物語」

国家を生きる実体だと考えるから、憲法典に書かれていないが、国家が自分自身を守る自然権を持っていることは認められる、といった観念論的な発想が生まれる。国家が自分自身を守るという自衛権は、自然人が自分自身を守る正当防衛と、完全な相応関係にある、などとされてしまう。憲法典には書かれていないが、国家が自分自身の存在に内在する自然権を基本権として行使することは、憲法典も例外として認めるはずだ、というのが、自衛権を合憲とする憲法学者の論理構成である。

この発想を絶対視する学会にだけ属していると、「単なるドイツ観念論の発想」が、あたかも不変の絶対法則であるかのようなものとなる。「個別的自衛権は国家が自分自身を守る自然権的な基本権の行使と言える」「集団的自衛権は国家の自然権的な権利ではない」、といった、フィクションにフィクションを積み重ねるかのような物語が構築されていく。

石川健治・東京大学法学部教授によれば、国連憲章における集団的自衛権は、政治的に「自衛権」の規定に「潜り込ませ」られたに過ぎず、「国際法上の自衛権概念の方が異物を抱えているのであって、それが日本国憲法に照らして炙りだされた、というだけ」なのだという(*4)。つまり憲法学者の自衛権の理解によって国際法の自衛権の理解を制限すべきことを示唆するのである 。

国内法の正当防衛に集団的正当防衛がないのだから、本来は集団的自衛権は存在するべきではなかった、という一方的な推論で、国際法が否定される。異物を抱えているのが国際法で、純粋で美しいのが日本国憲法だ、といったガラパゴスなロマン主義が蔓延することになる。

最初から的外れの憲法解釈

憲法学者の問題性は、国際法の論理を理解しないということだけにとどまらない。初めの一歩のところから的外れである。国家は自然人と同様に意思する有機的実体、などではない。ほんらい日本国憲法が依拠している考え方では、国家とは一つの制度に過ぎない。国家の存在目的は、国家という制度を構成して運営している自然人たる人間である。

国際法ではどうだろうか。国家の基本権のようなものを認める国際法は、古い19世紀的な国際法である。現代国際法では、人権法や人道法も発達し、国家は自然人を守る制度として認識されている。

集団的自衛権が違憲となるのは、日本の「憲法学」の世界観である。現代国際法の世界観ではなく、国際協調主義を謳う日本国憲法典の世界観でもない。ほんとうの憲法は、国際社会の法秩序と協調して平和を達成していくことを宣言している。

(*1)日本の憲法学の代表的教科書である岩波書店『憲法』の著者、故・芦部信喜東京大学法学部第一憲法学講座担当教授(1923-1999)の憲法解釈。
(*2)第十九回国会 衆議院外務委員会議事録第57号(昭和29年6月3日)
(*3) 国際連合憲章第51条「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない」
(*4)「座談会 憲法インタビュー―安全保障法制の問題点を聞く―:第2石川健治先生に聞く」、『第一東京弁護士会会報』、2015年11月1日、No.512、5頁。

東京外国語大学教授 篠田英朗(しのだ・ひであき)
1968年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大学大学院政治学研究科修士課程修了、ロンドン大学(LSE)大学院にて国際関係学Ph.D取得。専門は国際関係論、平和構築学。著書に『国際紛争を読み解く五つの視座 現代世界の「戦争の構造」』(講談社選書メチエ)、『集団的自衛権の思想史――憲法九条と日米安保」(風行社)、『ほんとうの憲法 ―戦後日本憲法学批判』(ちくま新書)など。
 
 

社説 衆院選 安保法と憲法9条 さらなる逸脱を許すのか

朝日新聞デジタル  2017年10月13日05時00分

 「憲法違反」の反対論のうねりを押し切り、安倍政権安全保障関連法を強行成立させてから、初めての衆院選である。

 安倍首相は、安保法によって「はるかに日米同盟の絆は強くなった」「選挙で勝って、その力を背景に強い外交力を展開する」と強調する。

 安保法に基づく自衛隊の任務拡大と、同盟強化に前のめりの姿勢が鮮明だ。

 混沌(こんとん)とした与野党の対決構図のなかで、安保法をめぐる対立軸は明確である。

 ■「国難」あおる首相

 希望の党は公約に「現行の安保法制は憲法に則(のっと)り適切に運用する」と掲げた。

 同法の白紙撤回を主張してきた民進党の前議員らに配慮し、「憲法に則り」の前置きはつけた。ただ、小池百合子代表は自民、公明の与党と同じ安保法容認の立場だ。

 これに対し立憲民主、共産、社民の3党は同法は「違憲」だとして撤回を求める。

 首相は、北朝鮮の脅威を「国難」と位置づけ、「国際社会と連携して最大限まで圧力を高めていく。あらゆる手段で圧力を高めていく」と力を込める。

 たしかに、核・ミサイル開発をやめない北朝鮮に対し、一定の圧力は必要だろう。だからといって軍事力の行使に至れば、日本を含む周辺国の甚大な被害は避けられない。

 平和的な解決の重要性は、首相自身が認めている。

 それでも「国難」を強調し、危機をあおるような言動を続けるのは、北朝鮮の脅威を自らへの求心力につなげ、さらなる自衛隊と同盟の強化につなげる狙いがあるのではないか。

 安倍政権は、歴代内閣が「違憲」としてきた集団的自衛権を「合憲」に一変させた。根拠としたのは、集団的自衛権について判断していない砂川事件の最高裁判決と、集団的自衛権の行使を違憲とした政府見解だ。まさに詭弁(きべん)というほかない。

 ■枠を越える自衛隊

 その結果、自衛隊は専守防衛の枠を越え、日本に対する攻撃がなくても、日本の領域の外に出て行って米軍とともに武力行使ができるようになった。

 その判断は首相や一握りの閣僚らの裁量に委ねられ、国民の代表である国会の関与も十分に担保されていない。

 安保法の問題は、北朝鮮への対応にとどまらない。

 国民の目と耳の届かない地球のどこかで、政府の恣意(しい)的な判断によって、自衛隊の活動が広がる危うさをはらむ。

 しかも南スーダン国連平和維持活動(PKO)で起きた日報隠蔽(いんぺい)を見れば、政府による自衛隊への統制が機能不全を起こしているのは、明らかだ。

 来年にかけて、防衛大綱の見直しや、次の中期防衛力整備計画の議論が本格化していくだろう。自民党内では、大幅な防衛費の増額や敵基地攻撃能力の保有を求める声が強い。

 報道各社の情勢調査では、選挙後、自公に希望の党も加わって安保法容認派が国会の圧倒的多数を占める可能性がある。

 そうなれば、国会の関与がさらに後退し、政権の思うがままに自衛隊の役割が拡大する恐れが強まる。

 今回の衆院選は、安倍政権の5年間の安保政策を問い直す機会でもある。

 安保法や特定秘密保護法武器輸出三原則の撤廃、途上国援助(ODA)大綱や宇宙基本計画の安保重視への衣替え……。

 一つひとつが、戦後日本の歩みを覆す転換である。

 次に首相がめざすものは、憲法への自衛隊明記だ。自民党は衆院選公約の重点項目に、自衛隊を明記する憲法改正を初めて盛り込んだ。

 安保法と、9条改正論は実は密接に絡んでいる。

 ■民主主義が問われる

 安保法で自衛隊の行動は変質している。その自衛隊を9条に明記すれば、安保法の「集団的自衛権の行使容認」を追認することになってしまう。

 「(安保法を)廃止すれば日米同盟に取り返しのつかない打撃を与えることになる」

 首相は主張するが、そうとは思えない。

 立憲民主党などが言う通り、安保法のかなりの部分は個別的自衛権で対応できる。米国の理解を得ながら、集団的自衛権に関する「違憲部分」を見直すことは可能なのではないか。

 衆院選で問われているのは、憲法平和主義を逸脱した安倍政権の安保政策の是非だけではない。

 この5年間が置き去りにしてきたもの。それは、憲法や民主主義の手続きを重んじ、異論にも耳を傾けながら、丁寧に、幅広い合意を築いていく――。そんな政治の理性である。

 「数の力」で安保法や特定秘密法を成立させてきた安倍政権の政治手法を、さらに4年間続け、加速させるのか。

 日本の民主主義の行方を決めるのは、私たち有権者だ。

 



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2 コメント

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(社説)自公3分の2 憲法論議 与野党超えて、丁寧に ( 朝日新聞デジタル 2017年10月24日05時00分)
2017-10-24 14:38:00
 衆院選で自民、公明両党が定数の「3分の2」を維持した。改憲の国会発議に必要な勢力を安倍首相は再び手にした。

 本紙と東京大学による共同調査では、当選者の8割が改憲に賛成の姿勢だ。与野党を問わず改憲志向は強まっている。

 一方で、各党の考え方の違いも見えてきた。

 自民党は公約に自衛隊の憲法明記を盛り込んだ。首相は、自衛隊が違憲という論争がある状況に終止符を打ちたいと言う。「自民党内の賛成を得る段階ではないが、そういう観点から議論を進めていただきたい」と、9条改正に意欲を見せる。

 希望の党の小池百合子代表は「(政権を)サポートする時はしていく」というものの、自衛隊明記には「もともと政府は合憲と言ってきた」と否定的だ。

 公明党の山口那津男代表は9条改正は不要との立場だ。「野党第1党の理解を含めた合意形成を図るべきだ」と、与野党を超えた幅広い合意を求める。

 その野党第1党となった立憲民主党は、違憲と位置づける安全保障関連法を前提とする9条改正には反対だ。

 衆院だけではない。参院ではやはり9条改正に反対の民進党が、なお野党の最大勢力だ。

 首相はきのうの記者会見で、国会発議について「すべて(の野党)に理解を頂けるわけではないが、合意形成の努力を払うのは当然だ」と語った。

 「スケジュールありきではない」とも述べた。当然の姿勢だろう。

 国会の憲法審査会で、超党派による真摯(しんし)で丁寧な議論を積み重ねる環境をつくれるかどうかが問われる。

 時代の変化のなかで憲法を問い直す議論はあっていい。

 だが、踏みはずしてはならない原則がある。

 憲法は国民の人権を保障し、権力を制限する規範である。

 改憲はそうした方向に沿って論じられるべきであり、どうしても他に手段がない場合に限って改めるべきものだ。

 改憲にどの程度のエネルギーを費やすか。優先順位も厳しく吟味する必要がある。

 何よりも大事なのは、主権者である国民がその改憲の必要性を理解し、同意することだ。

 本紙の衆院選の出口調査によると、9条への自衛隊明記については賛成、反対とも46%。民意は二分されている。

 衆院選で示された自民党への支持は、必ずしも改憲への支持とは言えない。

 憲法論議が国民を分断するようなことはあってはならない。
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(社説)政権継続という審判 多様な民意に目を向けよ ( 朝日新聞デジタル 2017年10月23日05時00分)
2017-10-24 14:40:37
 衆院選は自民、公明の与党が過半数を大きく超えた。有権者は安倍首相の続投を選んだ。

 森友・加計問題への追及をかわす大義なき解散――。みずから仕掛けた「権力ゲーム」に、首相は勝った。

 ただ、政権継続を選んだ民意も実は多様だ。選挙結果と、選挙戦さなかの世論調査に表れた民意には大きなズレがある。

 ■選挙結果と違う世論

 本紙の直近の世論調査によると、「安倍さんに今後も首相を続けてほしい」は34%、「そうは思わない」は51%。

 国会で自民党だけが強い勢力を持つ状況が「よくない」が73%、「よい」は15%。

 「今後も自民党中心の政権が続くのがよい」は37%、「自民党以外の政党による政権に代わるのがよい」は36%。

 おごりと緩みが見える「1強政治」ではなく、与野党の均衡ある政治を求める。そんな民意の広がりが読み取れる。

 ならばなぜ、衆院選で自民党は多数を得たのか。死票の多い小選挙区制の特性もあるが、それだけではあるまい。

 首相が狙った権力ゲームに権力ゲームで応える。民進党の前原誠司代表と希望の党の小池百合子代表の政略優先の姿勢が、最大の理由ではないか。

 小池氏の人気を当て込む民進党議員に、小池氏は「排除の論理」を持ち出し、政策的な「踏み絵」を迫った。

 それを受け、合流を求める議員たちは民進党が主張してきた政策を覆した。安全保障関連法の撤回や、同法を前提にした改憲への反対などである。

 基本政策の一貫性を捨ててまで、生き残りに走る議員たち。その姿に、多くの有権者が不信感を抱いたに違いない。

 例えば「消費増税凍結」「原発ゼロ」は本紙の世論調査ではともに55%が支持する。希望の党は双方を公約に掲げたが、同党の政策軽視の姿勢があらわになった以上、いくら訴えても民意をつかめるはずがない。

 与党との一対一の対決構図をめざして模索してきた野党共闘も白紙にされた。その結果、野党同士がつぶし合う形になったことも与党を利した。

 ■筋通す野党への共感

 その意味で与党が多数を占めた今回の選挙は、むしろ野党が「負けた」のが実態だろう。

 旧民主党政権の挫折から約5年。「政権交代可能な政治」への道半ばで、野党第1党が散り散りに割れたツケは大きい。

 与党の圧倒的な数を前に、野党が連携を欠けば政権への監視役は果たせず、政治の緊張感は失われる。その現実を直視し、選挙と国会活動の両面で協力関係を再構築することこそ、野党各党が民意に応える道だ。

 留意すべきは、権力ゲームからはじき飛ばされた立憲民主党がなぜ躍進したのかだ。

 判官びいきもあろう。そのうえに、民進党の理念・政策や野党共闘を重んじる筋の通し方への共感もあったのではないか。

 「上からのトップダウン型の政治か、下からの草の根民主主義か」。枝野幸男代表が訴えた個人尊重と手続き重視の民主主義のあり方は、安倍政権との明確な対立軸になりえよう。

 では、首相は手にした数の力で次に何をめざすのか。

 自民党は公約に初めて改憲の具体的な項目を明記した。一方で首相は選挙演説で改憲にふれず、北朝鮮情勢やアベノミクスの「成果」を強調した。

 経済を前面に掲げ、選挙が終わると正面から訴えなかった特定秘密保護法や安保法、「共謀罪」法を押し通す。首相が繰り返してきた手法だ。今回は改憲に本腰を入れるだろう。

 ■白紙委任ではない

 だが首相は勘違いをしてはならない。そもそも民主主義における選挙は、勝者への白紙委任を意味しない。過去5年の政権運営がみな信認され、さらなるフリーハンドが与えられたと考えるなら過信にすぎない。

 首相の独善的な姿勢は、すでに今回の解散に表れていた。

 首相は憲法53条に基づく野党の臨時国会召集要求を3カ月も放置した末、あらゆる審議を拒んで冒頭解散に踏み切った。

 与党の多数は、そんな憲法と国会をないがしろにした政争の果てに得たものだ。そのことを忘れてはならない。

 民意は改憲をめぐっても多様だ。本紙の世論調査では、自民党が公約に記した9条への自衛隊明記に賛成は37%、反対は40%だった。

 短兵急な議論は民意の分断を深めかねない。主権者である国民の理解を得つつ、超党派による国会の憲法審査会での十分な議論の積み上げが求められる。

 憲法論議の前にまず、選ばれた議員たちがなすべきことがある。森友・加計問題をめぐる国会での真相究明である。

 首相の「丁寧な説明」は果たされていない。行政の公正・公平が問われる問題だ。勝ったらリセット、とはいかない。

 民意の分断を防ぎ、乗り越える。そんな真摯(しんし)で丁寧な対話や議論が、いまこの国のリーダーには欠かせない。

 政権のおごりと緩みを首相みずから率先して正すことが、その第一歩になりうる。
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