中国分がんこなパン屋

食い物について思うこと、趣味の音楽、山のこと。

逝去者記念礼拝

2016-11-09 | Weblog
11月6日は逝去者記念礼拝でありますと案内の葉書が来ていた
年に一度くらいは行ってもいいかなと思っているその教会は
昨年1月に亡くなった父が最後に会員として所属していた教会
リベラルで行動的な教会員が多く父の肌にあっていたと思う
教会員として所属していたのは13ヶ月の短い期間で、実際に自力で行動できたのはその半分くらい。
やりたいことはまだ山ほどあったことだろうが身体がもたなかった
政治や社会の問題に関してはたいへん強い関心をもっていたのは確かなのだが
教会に関してはどうだったのだろう。本気で信仰していたのだろうか?
コミュニストであったはずだが宗教にたいしては寛容でむしろ興味を持っていたと思う
そう思うのだが教会員としておざなりの聖書解釈をしていたのだろうか、
両親、叔父夫妻、従兄弟などクリスチャンに囲まれており教会はたいへん身近な存在であったのは確か。
その中には伝道や生協活動に熱心な活動的なものも多かったことは私も知っている。
私も子供の頃両親に教会へ連れて行かれたことを覚えているが
小学校へ上がる頃からの記憶の中の父は労働組合運動しかなく、教会とは無縁だったと思う。
そんな父が50を過ぎた頃から再び教会へ行くようになった、母も一緒に。
なんだ、教会なんか行って、焼きが回ったのか、と思ったほど無縁だった
どんな気持ちで教会へ通っていたのだろう。
そんなことを話し合う機会があったらよかったなと思う気持ちがある反面
神学論争になってしまったらどうしよう
そんなくだらないことに時間をつかうのは馬鹿馬鹿しいとも思うのだ
神の存在など信じないし、そもそもキリストだの釈迦だのムハンマドなど人々を煽動するばかりで
なにも生産しない怠け者を崇めるなど狂気の沙汰と思う
奇跡などとくだらない事言っていないで畑行って耕せ!と言いたい。
だから聖書の話はおもしろくない
おもしろくないがたまにそうおおきな声ではないが歌うのは気持ちがよい
父は賛美歌を大きな声で歌っていたが歌うのが好きだから行っていたわけではないだろうな
聖書をおもしろいと思っていたかもしれないが読み物としておもしろかったのではないか
同様に般若真教などにも興味があったようだ
「主の御名を通し御前にささげます」など父のイメージとあわないのだ

10月30日そんな教会に行ってきた
歌うと左耳に響く自分の声が変だった。難聴が治らない。




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