当時読んでいるはずだがほとんど覚えていなかった。
冷静な村上春樹らしいとても素晴らしいスピーチだと思う
ハフィントンポストの記事を転載します。
村上春樹さん「常に卵の側に立つ」ガザ侵攻したイスラエルで伝えた、たった一つのメッセージ【改めて読みたい】
イスラエルと武装組織ハマスの武力衝突で、イスラエルとパレスチナの双方で多くの人々が犠牲になっている。
双方で市民が犠牲になる中、圧倒的な軍事力を持ち、民間人を無差別に狙うイスラエルの攻撃には国際人道法違反という批判が起き、世界各地で抗議デモも広がっている。
そういった状況下で、作家・村上春樹さんのエルサレム賞受賞スピーチが、SNSなどで改めて注目を集めている。
村上さんは2009年、「社会における個人の自由」を作品で表現し広める作家に贈られるイスラエルの文学賞「エルサレム賞」を受賞した。
この授賞式が開かれた直前の2008〜2009年にも、イスラエル軍はガザ地区に大規模な空爆や地上侵攻を仕掛け、300人を超える子どもを含む1300人以上の市民が犠牲になっていた。村上さんに対しては、イスラエルを擁護することになるとして、日本国内で辞退を求める声があがっていた。
ガザを攻撃した側であるイスラエルで、村上さんは何を伝えたのか。2009年のスピーチ全文を掲載する。
【村上春樹さん・エルサレム賞受賞スピーチ全文】
私は小説家として、つまりの嘘をつむぐプロとして、本日エルサレムにやって参りました。
もちろん、嘘をつくのは小説家だけではありません。みなさんもご存知のように、政治家も嘘をつきます。外交官や軍人も特有の嘘をつくことがありますし、中古車販売員や肉屋、建設業者も同じです。
しかし、小説家の嘘は他の人とは異なります。嘘をつく小説家を不道徳的だと非難する人は誰もいませんから。それどころか、嘘が大きく、うまく、独創的であればあるほど、人々や批評家から称賛されます。なぜでしょうか?
私はその答えをこう考えています。小説家は巧妙な嘘をつく、つまりあたかも真実であるかのような虚構を創り出すことで、真実をあぶり出し、新たな光を当てられるからだと。
ほとんどの場合、真実をそのままの形で把握し、正確に描写するのは不可能です。だから私たちは真実を隠れ家からおびき寄せ、その尻尾を掴み、架空の場所に連れ出して、フィクションの形に置き換えようとするのです。
しかしそれを成し遂げるために、私たちはまず自身の内面のどこに真実が存在するかを明確にする必要があります。それがうまい嘘をつくために欠かせない、重要な条件です。
しかし今日、私は嘘をつくつもりはありません。できる限り正直であろうと思います。私にも1年で数日嘘をつかない日があるのですが、今日はたまたまその日です。ですから、真実をお話ししたいと思います。
日本で、多くの人たちからエルサレム賞を受賞するためにここに来るべきではないと助言されました。行くなら本の不買運動を起こすと警告する人さえいました。その理由はもちろん、ガザで激しい戦闘が行われていたからです。国連によると、封鎖されたガザ市では子どもや老人ら1000人以上の無防備な市民が命を失いました。
受賞の知らせを受けた後、私は何度も自問しました。このような時にイスラエルに行き、文学賞をもらうのは正しいことなのだろうかと。紛争当事者の片方を支持する印象を与え、圧倒的な軍事力を行使する選択をした国の政策を支持することになるのではないかと。もちろん私はそのような印象を与えたくはありません。私はどんな戦争も支持せず、どんな国も支持しません。もちろん本の不買運動も望みません。
熟慮の末、私はここに来ると決めました。理由の一つは、あまりにも多くの人々から行かないよう忠告されたためです。多くの小説家がそうだと思うのですが、私には言われたこととは正反対の行動をする傾向があります。「そこに行くな」「それをするな」と言われた時、特に警告された時には「行きたい」「やりたい」と思う傾向があります。
それは私の性質から来るものです。小説家の性質と言ってもいいかもしれません。小説家は特殊な人たちです。自分の目で見て、手で触れない限り、何かを本当に信じられないのです。
だからこそ、私は今ここにいます。距離を置くのではなく、この場所に来ることを選びました。見ないよりも見ることを選びました。黙っているより、皆さんに語りかけることを選びました。
とても個人的なメッセージを伝えさせてください。私が小説を書く時にいつも、心にとめているものです。紙に書いて壁に貼るようなことはしていません。むしろ心の壁に刻まれているもので、次のようなメッセージです。
「高く強固な壁とそれに打ち砕かれる卵があるなら、私は常に卵の側に立つ」
壁がどれだけ正しく、卵がどれだけ間違っていたとしても、私は卵の側に立ちます。何が正しく間違っているかは他の誰かが決めるでしょう。おそらく時間や歴史が決めることでしょう。もしも、何らかの理由で壁の側に立つ小説家がいたとしたら、その作品にどんな価値があるといえるでしょうか?
このメタファーは何を意味するでしょうか?とても単純で明確な時もあります。高く強固な壁は爆撃機や戦車、ロケット、白リン弾です。卵はそれらに押しつぶされ、焼かれ、撃たれる、武器を持たない市民です。それがこのメタファーが持つ意味の1つです。
しかしもっと深い意味もあります。こう考えてみてください。私たちそれぞれが、多かれ少なかれ卵なのだと。私たちそれぞれが、壊れやすい殻に閉じ込められた、ユニークでかけがえのない魂なのだと。私もそうですし、みなさんもそうです。そして私たちそれぞれが、程度の差はあれ大きな壁に直面しています。
その壁には名前があります。「体制(システム)」です。体制は本来私たちを守るためのものですが、時に独り歩きして私たちを殺し始め、私たちに人を殺すよう仕向けます。冷酷に、効率よく、システマチックに。
私が小説を書く理由は1つしかありません。個々の魂の尊厳を浮かび上がらせ、光を当てることです。警告を発し、体制に対して常に光を当て続け、その網が私たちの魂を絡みとって貶めるのを防ぐ。それが物語の目的です。
小説家の仕事というのは、生と死の物語、愛の物語、人々が泣き、恐怖で怯え、笑いで体を震わせる物語を書くことで、個々の魂のかけがえのなさを明確にし続けることだと、私は強く信じています。それこそが、私たちが日々真剣に虚構を作り続ける理由なのです。
私の父は昨年、90歳で亡くなりました。元教師で、時々仏教僧もしていました。
父は大学院生の時に徴兵され、中国に送られました。戦後生まれの私は子どもの頃、毎朝父が朝食前に仏壇に長く深い祈りを捧げるのを見ていました。ある時、なぜ祈っているのかと尋ねました。父は戦場で亡くなった人々のために祈っていると答えました。味方も敵も関係なく、亡くなったすべての人々のために祈っていると。仏壇の前で正座する父の背中を見つめながら、私には父の周りに死者の影が漂っているように感じられました。
父が亡くなり、私が決して知り得ない父の記憶も去っていきました。しかし、父の周りに潜んでいた死者の影は私の記憶に残っています。それは私が彼から受け継いだ数少ない、しかし最も大切なものの一つです。
今日、私が皆さんにお伝えしたいことはたった一つです。私たちは皆、国籍や人種、宗教を超えた個々の人間です。体制と呼ばれる強固な壁に向かい合う、壊れやすい卵です。どう見ても、私たちに勝ち目はありません。壁は高すぎ、強すぎ、そして冷たすぎます。
もしわずかでも勝つ希望があるとすれば、それは私たちが自分やお互いの魂の絶対的な唯一性とかけがえのなさを信じ、魂を寄せ合わせることで得られる暖かさから生まれるものでしかありません。
少し考えてみてください。私たち一人一人は、触れられる生きた魂を持っています。しかし体制にはそのようなものはありません。
体制に私たちを搾取させてはなりません。体制に独り歩きをさせてはなりません。体制が私たちを作ったのではありません。私たちが体制を作ったのです。私がみなさんにお伝えしたいのはそれだけです。
エルサレム賞の受賞に感謝しています。私の本が世界各地で読まれていることに感謝しています。そして、今日ここで皆さんとお話する機会を持てたことをうれしく思います。