中国分がんこなパン屋

食い物について思うこと、趣味の音楽、山のこと。

三峰神社奥宮(妙法ヶ岳)

2016-11-20 | Weblog
11月13日日帰りで三峰神社へ 今回は奥宮まで足をのばした。

ルート

三峰神社は三度目

紅葉の時期は始めてだ

秩父鉱山跡廃村の小倉沢がある中津峡が紅葉の名所秩父ナンバーワンということだが

少々遠いのと三峰神社はオクサンお気に入りでもあり、

また前回次は奥宮へ行ってみたいといっていたこともあり奥宮にチャレンジ

早く到着したいので普段は使わない寄居皆野道路で皆野へ、そこから県道44、72で荒川へ

7時に市川を発ち9時45分到着 割とはやかった

紅葉が見頃ということですでに第一駐車場はいっぱい、

そういえば神社への道端には駐車場渋滞という立て看板がたくさんあり

仮設トイレも設置されていたが、渋滞も無くスムーズに入場できた

第二駐車場へ誘導されたがこちらのほうが登山口に近いのでこれはよかった

支度をしトイレいって10時10分出発

しばらく雲取山への道を進み左手の鳥居をくぐり奥宮への道に入る

戻ってくるグループにたびたび出会い、その中に子供も多いのでオクサンも少し安心したかもしれない

しかし平地とは勝手が違うからだろう不安になってくるようで

あとどれくらい?半分くらいかな。もう少し行ってみる。

あとどれくらい?もう3分の2くらい来たかな。もったいないから行ってみる。

そんな調子で奥宮直下へ到着すると見上げるような急石段と一枚岩のクサリ場

オクサン怖気づいたようだが奥宮はもう目の前。勇気を奮い起こしクサリに食らい着いた

ここまで来て諦めるわけには行かなかったのだろうな、上りきりと~ちゃ~く。

最後のクサリ場

狭い奥宮は混雑

奥宮からは雲取山方面はよく見えたが北側の両神山その右の白い浅間山は木々の陰になっていてよく見えない

少し戻ったところで両神山

来た道を戻るのだが帰りはスムーズ

登りでは笑顔が少なかった奥さんだが下りでは疲れているはずなのに余裕の表情しぐさだった

登山口到着
立派な茶店

客引きなどはおらず俗っぽくなくてよい







13時45分駐車場を出ると入場待ちの車列が延々2km。

いったい何時間待つ気なのだろう、気の毒。その中には路線バスも2,3台。

行列のできる前に入場できてよかった。

逝去者記念礼拝

2016-11-09 | Weblog
11月6日は逝去者記念礼拝でありますと案内の葉書が来ていた
年に一度くらいは行ってもいいかなと思っているその教会は
昨年1月に亡くなった父が最後に会員として所属していた教会
リベラルで行動的な教会員が多く父の肌にあっていたと思う
教会員として所属していたのは13ヶ月の短い期間で、実際に自力で行動できたのはその半分くらい。
やりたいことはまだ山ほどあったことだろうが身体がもたなかった
政治や社会の問題に関してはたいへん強い関心をもっていたのは確かなのだが
教会に関してはどうだったのだろう。本気で信仰していたのだろうか?
コミュニストであったはずだが宗教にたいしては寛容でむしろ興味を持っていたと思う
そう思うのだが教会員としておざなりの聖書解釈をしていたのだろうか、
両親、叔父夫妻、従兄弟などクリスチャンに囲まれており教会はたいへん身近な存在であったのは確か。
その中には伝道や生協活動に熱心な活動的なものも多かったことは私も知っている。
私も子供の頃両親に教会へ連れて行かれたことを覚えているが
小学校へ上がる頃からの記憶の中の父は労働組合運動しかなく、教会とは無縁だったと思う。
そんな父が50を過ぎた頃から再び教会へ行くようになった、母も一緒に。
なんだ、教会なんか行って、焼きが回ったのか、と思ったほど無縁だった
どんな気持ちで教会へ通っていたのだろう。
そんなことを話し合う機会があったらよかったなと思う気持ちがある反面
神学論争になってしまったらどうしよう
そんなくだらないことに時間をつかうのは馬鹿馬鹿しいとも思うのだ
神の存在など信じないし、そもそもキリストだの釈迦だのムハンマドなど人々を煽動するばかりで
なにも生産しない怠け者を崇めるなど狂気の沙汰と思う
奇跡などとくだらない事言っていないで畑行って耕せ!と言いたい。
だから聖書の話はおもしろくない
おもしろくないがたまにそうおおきな声ではないが歌うのは気持ちがよい
父は賛美歌を大きな声で歌っていたが歌うのが好きだから行っていたわけではないだろうな
聖書をおもしろいと思っていたかもしれないが読み物としておもしろかったのではないか
同様に般若真教などにも興味があったようだ
「主の御名を通し御前にささげます」など父のイメージとあわないのだ

10月30日そんな教会に行ってきた
歌うと左耳に響く自分の声が変だった。難聴が治らない。