宝満山研究会(山岳宗教遺跡の保全と研究)

大宰府の北東に聳える宝満山の歴史的価値を掘り起こし、山の保全を考える会です。

宝満山の草木類(お茶の木編)

2007-06-12 | Weblog
宝満山の草木類

先日のコシアブラに続いて第二弾です。

写真は推定有智山城内に見られる「お茶」の木です。
大半は高さ30cm程度の低平なもので
あちこちにまばらに見られます。
この木も伐採作業のときに事前説明して
切り残したものの一つです。

推定有智山城内の「お茶の木」

山中では特定の場所でお茶の木が自生しています。
お茶は本来栽培品種で自然に生えているものではありません。
山裾では北谷の集落の路傍、山中では内山辛野遺跡周辺
ここの推定有智山城内、中宮周辺、筑紫野市側の東院谷などです。
宝満のお茶の木にはエピソードがあります。
宝満山の仏教・修験道から見た歴史書「竈門山旧記」には
戦国時代の戦乱で疲弊した宝満坊中に対して
黒田藩主長政の採った施策が記載されています。

「豊州求菩提山茶園を以為扶持。是山猶如此すへしとて
永々課役有間敷旨被仰出也。此比四五ヶ寺山下住茶園
くわたつといへとも于終不可有利。山上す茶の実数十石
拝領被下。其地谷山、九重原上辺也。」

推定有智山城の辺りがまさに「谷山、九重原」であり、
城内に見られるお茶の木はその末裔と見られます。


今回の伐採で発見された推定「茶園の石垣」

その証拠に今回の伐採で確認されたのですが
城内ではおよそ山城に必要と考えられない
高さ20cmほどの石を並べた段々の
畑の跡と考えられる施設が連続して営まれています。
この石の段々が茶園に係わる開墾の痕跡と考えられます。

「旧記」では利潤が上がらず事業は
終わったように記載されていますが、
明治前半に編纂された「福岡県地理全誌」には
北谷の項の物産に「茶」の記載があります。
山内でのお茶の栽培は山伏から里人に
引き継がれたのではないでしょうか?

遡って戦国時代に山中が豊後大友宗麟によって支配された際に、
「旧記」では、寺院の前栽、茶園まで検地されたとされており
長政下賜の茶の実以前にも坊中には
小規模なお茶の栽培があったようです。

山中の雑木に歴史有り!