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かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

清見糺の一首鑑賞  142

2021-09-11 19:06:06 | 短歌の鑑賞
 ブログ版清見糺鑑賞 22  かりん鎌倉なぎさの会  鹿取 未放
     
142 たましいをふたつぶら提げ駅までの下り坂ゆく ぶらりへうたん
        「かりん」2000年2月号

 「たましいをふたつ」というのは、男の身体についてのものいいなのだろう。旧仮名の「へうたん」は駅までの下り坂の辺にある属目でもあり、「たましいふたつ」のアナロジーでもあろう。下駄でもつっかけて飄々と歩いている、そんな図である。しかし、下り坂は年齢や人生ののそれかもしれず、この時の魂のありようは明るかった、ともいいきれないようだ。
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渡辺松男の一首鑑賞  310

2021-09-10 18:36:44 | 短歌の鑑賞
 渡辺松男研究37(2016年4月実施)
    【垂直の金】『寒気氾濫』(1997年)124頁~
     参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉 真帆 司会と記録:鹿取 未放

310 銀杏 病気をしたことのないふりをして人仰がせる垂直の金

     (レポート)
(解釈)銀杏の木がある。病気なんかしたことがいなように、垂直に突っ立って、金色に葉を染めている。
(鑑賞)銀杏は東京都の木。霞ヶ関を思う。自分たちには何の病もない風を装い、人を仰がせている。「金」は金権にからむ政界を揶揄しているのか。(真帆)


     (当日発言)
★銀杏で権威を象徴されているのですね。銀杏が病気するとかしないとか、そういう表現が凄いな
 と思います。病気をするしないにかかわらず人は銀杏を見上げますよね。病気をしたことのない
 ふりをするってどういうことなのかなあと、この鑑賞ではまだちょっと分からないのですが。
   (石井)
★銀杏は権威だと思いました。それで、自分たちには一点の非の打ち所もないとかそういう感じ
 かと。ほんとうは悪いところを隠していて。(真帆)
★銀杏は単純に丈夫です。葉っぱもしっかりしている。木の性格として病気しないような。銀杏の
 葉っぱって何か薬草にもなりますよね。そんな丈夫な木が秋になって垂直に立っている。
    (鈴木)
★「垂直の金」というのが一連の題になっているので、この歌は大事な歌なのでしょう。松男さん
 が木を歌うときは木そのものを歌っているので、私は何かの象徴とか取らない方がよいと思いま
 す。もちろん病気をしたことのないふりをするとか擬人化されているので、いろいろ考えられる
 余地はあるのですが、少なくともお金とか権力には結びつけない方が豊かな歌になるように思い
 ます。たまには病むことのある銀杏の木も、秋になって垂直の優美な肢体を保ち金色に輝いてい
 る、その銀杏の讃歌。もう少し先に「一本のけやきを根から梢まであおぎて足る日あおぎもせぬ
 日」という歌があって、こちらは自分の心が木に吸い寄せられて見上げながら満足する日とここ
 ろが木を忘れてしまっている日があるというのですが、主客は違うけど木のすばらしさを讃えて
 いますよね。(鹿取)
★前の章のような政治のことが多く歌われていると、この歌を金権とかに結びつけてもよいと思い
 ますが、ここは病気の話で始まっているので。歌集の構成の中で読まないと。(鈴木)
★ああ、作者は銀杏に寄り添っているんですね。(石井)


         (後日意見)(2016年5月)
 イチョウ科の樹木は中生代(約2億5千万年前~約6千6百万年前)に最も盛えていたという。恐竜と同時代を生きていた木である。しかしその多くが氷河期に絶滅してしまい、現代に見られる銀杏はその中のたった一種の生き残りで「生きている化石」と呼ばれている。松男さんは木をよく知る人だから、上に書いたようなことがらは知識であるなどと意識もしないで彼の内にあるのだろう。この歌がそんな作者の内面をくぐって紡ぎ出されたことを考えると、銀杏が「病気をしたことのないふりをして」いるとか、「垂直の金」であるという表現も更に深く味わえるだろう。(鹿取)
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渡辺松男の一首鑑賞  309

2021-09-09 17:02:53 | 短歌の鑑賞
 渡辺松男研究37(2016年4月実施)
    【垂直の金】『寒気氾濫』(1997年)124頁~
     参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉 真帆 司会と記録:鹿取 未放

309 親戚の皆集まりて撮りしときフラッシュひとつ死を呼ぶごとし

         (レポート)
(解釈)親戚がみんな集まって、集合写真をとる場面。一枚の集合写真を撮ると、また誰かが亡くなり、また次の集合写真の場面が来るようだ。
(鑑賞)光がひとつ光ると、死を呼ぶ、という下の句は、原爆の喩のようにも思った。(真帆)


         (当日発言)
★これも上手いなあと思います。さっき鈴木さんが言われたように光と影があって人間は存在す
 る、これもフラッシュがたかれて、影を失った人が次に死ぬ。年の順に死ぬとは限らないけど誰
 かが次に死ぬわけですから。(慧子)
★死と生って連続性があるんですね。日常性の中に死があるとそういうことをうたっていらっし
 ゃる。親戚が集まるのは死者を悼むそういう場なんですけど。そこに写真というものを登場させ
 て異質なものを詠んでいる。(石井)
★この「ひとつ」はどちらに掛かるんですか?フラッシュが「ひとつ」か?「ひとつ」の死を呼
 ぶのか?(真帆)
★両方に掛かるんじゃないですか。フラッシュが「ひとつ」たかれると「ひとつ」の死を呼ぶ。
 私はこの歌を読むと小高賢さんの次の歌を思い出します。〈一族がレンズに並ぶ墓石のかたわら
 に立つ母を囲みて〉『耳の伝説』(1984年)お父さんのお墓の傍にお母さんが立って、その
 お母さんを囲んで一族が写真を撮っている。墓石にはお母さんの名前が赤い文字で入っている。
 そしてこの歌では次の死とは言っていないけど、次にお母さんの死が来ると充分想像させる。わ
 りと似た状況の歌ですが、小高さんのはあくまで現実に即してリアル。松男さんのは下の句でぱ
 っと次元が移動する感じですね。(鹿取)

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渡辺松男の一首鑑賞  308

2021-09-08 17:53:34 | 短歌の鑑賞
 渡辺松男研究37(2016年4月実施)
    【垂直の金】『寒気氾濫』(1997年)124頁~
     参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉 真帆 司会と記録:鹿取 未放

308 いたずらにからだを張りてしまいたる柘榴が口をあけて実れり

     (レポート)
(解釈)無用に体を張って頑張ってしまった柘榴なのだろう。ぱっくりと口をあけて、実っている。
(鑑賞)上の句は、職場で精魂つかい尽くした作者とも、治療で苦しむ作者ともとれる。口を開けた放心状態でいながら、木に実っているのが切ない。(真帆)


      (当日発言)
★童話で腹が裂けてしまった蛙の話がありましたが、それを思い出しました。いたずらに体を張っ
 たりしない方がよいと。(慧子)
★私には柘榴って非常にグロテスクなイメージがあります。それが実っている状態。人間でしょ
 うか?(石井)
★無様ながら、それが世界に適応している形という。(慧子)
★仕事で成功しているんだと思います。(M・S)
★ふつう柘榴って口開けてはらわたを出してとか悲惨な感じですよね。それを体を張るという。そ
 れは成功したかしないかではなくて、ただ口を開けて実がなっているよという。(鈴木)
★ユーモラスに歌っていますよね。この歌は社会的な成功とか失敗とかは関係なくて、おまえ頑張
 っちゃたねって。滑稽だけど一生懸命で楽しい姿。(鹿取)
★私は、おいしい実りを得る為には体を張らないとダメだよと教えている歌と思います。(M・S)
★歌の解釈は個人の自由ですけど、歌は倫理とか教訓ではないので。まあ、そう思って歌作ってい
 る人もいるかもしれませんが、松男さんの歌は倫理とか教訓とは無関係です。(鹿取)

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渡辺松男の一首鑑賞  307

2021-09-07 18:36:54 | 短歌の鑑賞
 渡辺松男研究37(2016年4月実施)
    【垂直の金】『寒気氾濫』(1997年)124頁~
     参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉 真帆 司会と記録:鹿取 未放

307 わずかなる隙間が壁と本棚のあいだにありてうつしよ寒し

     (レポート)
(解釈)壁と本棚はぴたりとは付いておらず、間にかすかな隙間があるのを見つけた。見ていると、現実のこの世が思われ、つくづくと寒ざむしい心地になった。
(鑑賞)「壁と本棚のあいだ」に象徴されるものを考えた。壁というと、村上春樹がエルサレム賞を受賞したときの式典スピーチで言った、「高くて硬い壁と、壁にぶつかって割れてしまう卵があるときには、私は常に卵の側に立つ」を思う。これは2008年のことだから松男さんの歌の方が先だが、そんな「壁」が、社会での自分に立ちはだかるもののように捉えられ、「本棚」は自分の文学と捉えられ、仕事と短歌などの文芸の活動のなかに、それは一体化はされていなくて、どうしても隙間がある。二つは磁石の+と−のように、くっつこうとしてもくっつかない。それが本当に寒ざむしいことだなあ、と思っている歌だと鑑賞した。(真帆)


       (当日発言)
★家具を壁面に置く時、少し隙間を空けるんですよね。ものが倒れないために。その隙間を「うつ
 しよ寒し」と持ってきた、その飛び方の感覚が素晴らしいと思います。(慧子)
★「うつしよ寒し」はいろいろ想像させますよね。本だから知恵とか人間の営みとかが文字と
 して書かれている。それと壁は何を象徴しているのか、現実でしょうか?その間に隙間があ
 って、やはり現実は寒々としている。(石井)
★真帆さんが葛藤とかそんなものを詠み込まれたと鑑賞されましたが、それもいいなあと思い
 ました。(慧子)
★生活と形而上学的なギャップを詠んでいる。(鈴木)
★ちょっとした隙間からこういう歌にされるところが凄い。(石井)
★いろんな読み方がありますが、私はわりとそのまま取りました。つまり壁と本が何かの象徴とは
 とらない読み方です。でも、「うつしよ寒し」のところで形而上的な思考になる。そこは皆さ
 んと同じです。(鹿取)
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