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かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男の一首鑑賞  312

2021-09-20 18:32:20 | 短歌の鑑賞
 渡辺松男研究38(2016年5月実施)
  【虚空のズボン】『寒気氾濫』(1997年)128頁~
   参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、Y・N、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:石井 彩子   司会と記録:鹿取 未放


312 日に干せばきのうの婬もいつわりも染みひとつなき白のワイシャツ
 
          (レポート) 
 ワイシャツは職業人のユニフォームである。帰宅をして着替えるまで、ワイシャツには作者の体臭とともに一日の様々な行為や思いが染み付いている。婬もいつわりも背徳的行為であり、作者は忸怩たる思いをしている。この内面とパラレルなのは日に干され、すべての痕跡がかき消されて、新品のように再生する白のワイシャツである。それは内面の具象でもある。新品になった白のワイシャツは、禊をした後のように清らかになり、内面も新しく塗り替えられるべく白紙化され、浄化されているのであろう。(石井)


       (当日意見)
★実感がある。しかしそんなに重い歌ではない。(鈴木)
★「婬もいつわりも」って、こんな言葉を使われる相手は可愛そう。(M・S)
★そうですね、レポートには「婬もいつわりも」背徳的行為ってありますが、少なくとも「婬」
 は背徳的行為ではないと思います。婬といつわりが同じ比重で並んでいるのがポイントでし
 ょうか。ワイシャツは洗濯すれば真っ白に再生するが、人間の気持ちの方は婬もいつわりも
 引きずっていく気がする。鹿取)

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渡辺松男の一首鑑賞  311

2021-09-19 18:52:08 | 短歌の鑑賞
 渡辺松男研究38(2016年5月実施)
  【虚空のズボン】『寒気氾濫』(1997年)128頁~
   参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、Y・N、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:石井 彩子   司会と記録:鹿取 未放


311 光化学スモッグのなかに静寂のひとときありて君がほほえむ

       (レポート)
 作者と君は室内にいるのだろうか。光化学スモッグに覆われた風のない夏の炎天下には、人の行き交いが絶え、家々も冷房をつけ室内を閉ざしてしまっている。日常の物音や気配がなくなった今、君はほほ笑む。君は日々の生活に生き難さを覚えているのだろう。すべての生活音が掻き消され静寂に包まれているひとときは、煩雑な日常とは隔離されて安心感をもたらすのであろう。普段、微笑むことの少ない君はやっと本来の君にかえって、作者にほほえみをみせる。それは作者にとって安寧をもたらすものである。「ほほえむ」は暗喩であり、作者の女性に対するあらまほしき所作の具象でもある。これは場を無化することによって成り立たつ理念的価値として表象され、「母性」、「優しさ」といった価値を、場面の中で抒情的に歌う詠法とは異なっている。(石井)
 光化学スモッグ:光化学オキシダントを主成分とするスモッグ。健康に影響を及ぼすことがある大気汚染の一種。発生件数は1970年代をピークに減少傾向にある。夏の熱い日の昼間に多く、風の弱い日に発生しやすい。「Wikipedia」                              

          (当日意見)
★作者がいる場所を屋外と考えた方がよい、そういう条件の中でも静寂のひとときというものはあ
 ると思う。(鈴木)
★あの、鈴木さん……(鹿取)
★でも、光化学スモッグ警報が出る時には一般的には人は屋外には出ないものですから。(石井)
★私も鹿取さんの発言の前に一言言わせてください。君は人間ではなくて静寂であると思います。
 静寂のなかのある感じ、何かがひらめいたような、笑ったように作者が感じたのではないでしょ
 うか。でないと君が唐突すぎますね。(慧子)
★私自身が光化学スモッグで室内に引きこもっている時に、静寂の異次元のような感覚をもったこ
 とがあるので室内であると。整合性を付けるためにいろいろと物語を考えました。(石井)
★私は根拠はないのですが室内と思いました。君がほほえむだから人間の君で、君がほほえむこと
 によってひとときの静寂が生まれる感じ。(真帆)
★やはり君は唐突で分かりにくいと思います。ふつう君というのは妻とか恋人とか友人とか関係性
 が必要ですから。レポートの最後の3行が私には分かりづらいので、それを最初に鈴木さんに聞
 こうとしたのですが……その部分どう解釈されますか?(鹿取)
★私にも難しすぎてよく分からないです。(鈴木)
★作者が理想としている女性像を概念的に捉えたもの。今の短歌は女性を母性だとか優しさで抒情
 的に詠ったものが多いのです。この歌ではほほえむということを作者が女性にやってほしい所作
 として、いちばんに価値をおいていらっしゃる。(石井)


    (後日意見)(2016年)
 当日、私の体調がひどく悪く、司会もうまくできず、発言も思うようにできなかった。当日言うべきだったことを後から言うことになるがお許しください。レポートの最後の3行について、本来なら当人に説明を乞うべきであったと反省している。その答えが石井さんの最後の発言になっている。改めて読み返すとこの3行が特別難しい訳ではないが、内容については異論がある。最後の発言における説明の「今の短歌は女性を母性だとか優しさで抒情的に詠ったものが多いのです」は2016年現在このような認識をしている歌人はほとんどいないのではなかろうか。更にそれとは違う女性の価値として作者は「ほほえむ」をおいているとの説明だが、私には「母性」や「優しさ」と「ほほえむ」はほぼ同列の価値のように思われる。
 レポートの「君は日々の生活に生き難さを覚えている」や「微笑むことの少ない君」という解釈は歌の中ではどこにも書かれていない内容なので無理があるだろう。「君」が唐突に出てきて、〈われ〉との関係性が見えないことがこの歌を分かりにくくしているのだろう。(鹿取)

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清見糺の一首鑑賞  149

2021-09-18 16:10:20 | 短歌の鑑賞
 ブログ版清見糺鑑賞 22  かりん鎌倉なぎさの会  鹿取 未放
     
149 雲のような昼寝にしずむにんげんを減らす戦争の絶えぬはつなつ
              「かりん」2000年7月号

 二句切れの歌。四句でも切れて、間に「にんげんを減らす戦争の絶えぬ」が挿入されている。昼寝にはもってこいのよい気候のはつなつ、作者はソファかどこかで雲にしずむような感覚で昼寝をしている。
 しかし、世界は戦争だらけだ。もしかしたらつけっぱなしのテレビで戦争のニュースを流しているのかもしれない。戦争は人間を減らす行為だろうか、という苦い認識が頭をかすめる。かつてペストが大流行して世界の人口は激減した。そして二十世紀、戦争で大量の人間が死んだ。来年からの二十一世紀はどうなるのか、大量どころか、人間は死に絶えるのか?
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清見糺の一首鑑賞  148

2021-09-17 17:13:15 | 短歌の鑑賞
 ブログ版清見糺鑑賞 22  かりん鎌倉なぎさの会  鹿取 未放
    参加者:井上久美子 寺戸和子  中山洋祐  鹿取未放       
     
148 鐘が鳴るベルリオーズの鐘が鳴るひゃくねんたってもかえらぬむかし
              「かりん」2000年7月号

     (当日意見)
★下句のひらがな表記が、鐘の音によく見合っている。(井上)
★「鐘が鳴る」の繰り返しには、予言めいた昔の童謡を思わせられる。(中山)
★「百年たったら帰っておいで」という寺山修司の詩があった。寺山の最後の映画「さらば箱船」
 のメインテーマになったセリフである。(寺戸)
★それって漱石の「夢十夜」が原典かもしれない。帰ってくると言った女性を、その墓の前で男が
 待つ話。百合が咲いて100年経ったんだって男が悟る。(鹿取)


    (後日意見)(06年3月)
 ベルリオーズは一九世紀後半のフランスロマン派の作曲家。この鐘は有名な「幻想交響曲」のものであろう。ベルリオーズは二度の手痛い失恋からこの自伝的作品を書いたといわれている。失恋した相手を恨んで殺そうとするが失敗し、主人公が自殺する話を〈幻想〉交響曲に仕立てているのだ。その曲の中で主人公の葬儀に教会の鐘を鳴らす場面があるが、「ベルリオーズの鐘が鳴る」とはそのことを言っているのだろう。
 すると「ひゃくねんたってもかえらぬむかし」は作者がかつての失恋を思い出して言っているのだろうか。あるいは何か断念せざるをえないことが差し迫っていたのか。ここからは私見であるが、彼は常々「地獄を見たい」と言っていた。人生の深みをまだ味わっていないから、と。そうするとこの歌は、地獄を見た後の退散のうめき声のようにとれる。地獄を見てしまったのち、そのあまりのおどろおどろさに己の真実の思いを曲げて、清見糺自身を葬送するのである。あえて地獄を見てまでもつらぬこうと思った真実の何かをここで葬り、手放したが最後二度と戻ってこない、それが分かっていて断念するのである。「鐘が鳴る」の繰り返しが呪いの文句のように響く。とまれ、古歌にはこんな歌もある。作者が知っていたかどうか。(鹿取)
  〈ささなみや三井の古寺鐘はあれど昔に帰る鐘は聞こえず〉
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清見糺の一首鑑賞  147

2021-09-16 19:03:46 | 短歌の鑑賞
 ブログ版清見糺鑑賞 22  かりん鎌倉なぎさの会  鹿取 未放
     
147 ひさかたの光の安房へと流れゆくくじらやりいかいるかじんべい
            「かりん」2000年6月号

 「ひさかたの」は「光」にかかる枕詞。「安房」は千葉県南部、房州のこと。これは大空をゆく雲のことを詠んでいるのだが、雲の形容が全て魚の名でなされているため、空か海かも定かではない、ただ広々とした空間が感じられる。下句の平仮名で並べられた韻律のよい魚の名が、尻取りでもなく韻を踏んでいるのでもないが、ゆるやかなリズムをもっていて、おおらかで気持のよい歌である。勿論そうなるように細心の注意を払って工夫されている。 

 * この歌について、坂井修一氏が前月号鑑賞で懇切丁寧な評をなさっている
   ので、全文を引用させていただく。

 上の句はゆったりと古風な感じだが、下句でも急に鋭い転調をすることなく、そのまま受け流すような作りになっている。流れゆくのは、陸から(例えば東京から)ではなく、太平洋の真ん中から日本の房総に向かって、というのである。「くじら・やりいか・いるか・じんべい」は、四つ名詞を並べて三・四・三・四の単純なリズムを作った。これらを全部ひらがな表記にしてやわらかくし、また音を響きやすくしている。音の工夫は「くじら」の「ら」など、最初の三つの名詞がア段の音で終わるのに対し、最後の「じんべい」がイで終わる、という小 さなひねりと、「いか」「いるか」の畳みかけが流れをよくしていることだろう。細かい工夫をしながらゆったりと流す感じを出している。

 この後、〇二年四月ごろから、全ひらがなの歌が大量に作られていくことになるが、既に同年二月号で全ひらがなの歌を試みていた(たいくつというぜいたくをもてあますこのぜいたくをみやことなしつつ)作者にとって、この七月号の坂井氏の鑑賞が何らかの後押しになったように思えてならない。ひらがな表記で分かち書きをしないでも意味がとれ、しかもやわらかくリズムをとっていくやりかたに理解者を得て自信をもったのだろう。(鹿取)
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