かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男の一首鑑賞 317

2021-09-25 15:53:12 | 短歌の鑑賞
 渡辺松男研究38(2016年5月実施)
  【虚空のズボン】『寒気氾濫』(1997年)128頁~
   参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、Y・N、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:石井 彩子   司会と記録:鹿取 未放


317 あいまいな部分は風にとびてゆく疾歩にて君はひかる目となる

        (レポート)
 作中の君は性別も年齢も判らない。君は風に疾歩してあいまいな物事には囚われない、なにか人間離れして風の精霊のようでもある。リアルなのは君の目がひかっているということである。風音の「 どっどど どどうど どどうど どどう…」で始まる「風の又三郎」という童話小説を思い出す。風の又三郎は疾歩して風とともに現れ、去っていく。物の本で読んだのだが、宮沢賢治その人も原野を飄々と疾歩していたという。もしかして君は、宮沢賢治のように現実感の薄く、目を光らせて自然の事物と交感出来る人なのかもしれない。(石井)


       (意見)
★奥さんと歩いている場面。(鈴木)
★ここで「君」と言っているのは作者自身のこと。(慧子)
★君は作者でも解釈はできると思いますが、妻なり恋人なり対象の方が面白い気がします。「あい
 まいな部分は風にとびてゆく」はレポーターとは違って、君が「あいまいな物事には囚われ
 ない」精神性を言っているのではなく、君が速く歩いているので輪郭がくっきり〈われ〉か
 ら見えなくなって、ただひかる目としてあるということだと思う。(鹿取)

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渡辺松男の一首鑑賞  316

2021-09-24 18:00:25 | 短歌の鑑賞
 渡辺松男研究38(2016年5月実施)
  【虚空のズボン】『寒気氾濫』(1997年)128頁~
   参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、Y・N、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:石井 彩子   司会と記録:鹿取 未放


316 新しき鉛筆に換え書くときに性善説ははつかあかるむ

     (レポート)
 閉塞感に陥ったとき、いままでにない所作をしたり、新しいものを得たりすることで改善の兆しを得ることがある。作者は様々な事象に性善説か、性悪説といった哲学的命題を思い悩んでいたのであろうか?あるいは、具体的にある人物から信頼感を裏切られた体験をしたのであろうか?新しい鉛筆に変えて書くという行為によって、今まで否定的だった性善説が、作者の閉塞感を打開するものとして意識されたということであろうか?(石井)


    (後日意見)
 「新しき鉛筆に換え書く」という所作の前に必ずしも鬱屈があったとは考えにくい。もちろんあったかもしれないが、なかったかもしれない。私は前提をレポーターより軽い、ニュートラルな位置で考えた。何かがあったからではなく、ふっと新しい鉛筆に換えてものを書いてみた。きっと気持ちよく書けたのであろう。それで性善説などという考えが明るく脳裡に灯った。それまで性悪説を信奉していたとか性善説に疑いを抱いていたとか、そういうことは一切関係がない。そんなふうな理屈で繋げたら全くつまらない歌になってしまう。(鹿取)

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渡辺松男の一首鑑賞  315

2021-09-23 18:31:45 | 短歌の鑑賞
 渡辺松男研究38(2016年5月実施)
  【虚空のズボン】『寒気氾濫』(1997年)128頁~
   参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、Y・N、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:石井 彩子   司会と記録:鹿取 未放


315 乾燥機キコキコと鳴りおおきなるわれのパンツは回りているも

       (レポート)
 男物の大きなパンツが生き物のように、のたうち乾燥機の中で回っている。キコキコという音は物理的には乾燥機の軋む音かもしれないが、まるで回っているパンツが声をあげたかのようだ。「も」という詠嘆の終助詞は効果的で、一首がペーソスを交えたユーモラスな歌として仕上がっている。解釈は以上だが、渡辺氏のことばは、そのような現実の有り様とは異なった現存在の深いところから下りてきているように思える。この連作ではワイシャツ、ズボンがこころを表象するモノとして詠われていたが、それらのモノは作者から遊離した抜け殻ではなく、いわば作者のこころが形象化されたもので、あらゆる場所に偏在する作者自身でもあった。とすると、キコキコというつましい音は、生の根源から聞こえてくるなにか哀愁を帯びた声のようにも思える。(石井)

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渡辺松男の一首鑑賞  314

2021-09-22 16:52:52 | 短歌の鑑賞
 渡辺松男研究38(2016年5月実施)
  【虚空のズボン】『寒気氾濫』(1997年)128頁~
   参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、Y・N、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:石井 彩子   司会と記録:鹿取 未放


314 股に物干し竿をさされて永遠やわれのズボンが虚空に踊る

     (レポート)
 かって、CMで物干し竿のズボンが風に揺れている映像をみたことがある。この歌と光景は重なるが、様相は全く異なる。ズボンは前の歌にある虚空、すなわち太虚「何も妨げるものがなく、すべてのものの存在する場所」に存在している。「われには捨つるものばかりなり」の捨てるべきものの具象がこのズボンである。CM映像のズボンは永遠の存在に対して、仮象に過ぎない。虚空に踊るズボンこそ、万物の真理を宿した真の実体である。このズボンは作者の外に存在しているのではない、作者自身でもある。この歌に戸惑うのはズボンがCM映像のように現実の景物ではなく、作者の心眼が捉えた物象であることだ。氏の短歌に特徴的な存在、実存、空間といった哲学的命題、あるいはこの一連に見られるような宗教的観照といったテーマは、従来の愛や別れといった抒情的な短歌観や短歌用語で鑑賞するのは難しく、哲学的思索を深めたり、宗教体験といったことが読み手の側にも必要だと思わせる。(石井)
 

     (当日意見)
★体は永遠ではないが、ズボンは体から離れて永遠に繋がって揺れているんだ、という感じ。
   (真帆)
★遙かなものと繋がっている。解放された感じ。(鈴木)
★これが実景だったら「虚空」などとせず、ただの「空」になるはず。(石井)


     (後日意見)
 313番歌「ワープロに太虚という字をたたきこみわれには捨つるものばかりなり」でレポーターは「太虚」の説明を【虚空(こくう)の意味であり、何もない空間、大空と訳されるが、仏教的には何も妨げるものがなく、すべてのものの存在する場所と訳される。(Wikipediaその他)】と書いている。そしてこの歌の解釈は、どうもこの定義に引っ張られすぎたように思われる。
 私はこの定義の「仏教的には」という点に疑問をもっていたが、Wikipediaには「仏教的には」の文言はなく、この定義自体は(注)によると『大辞泉』からの引用と分かる。まだ『大辞泉』そのものに当たっていないが、小学館発行の中型国語辞典であるから仏教の専門書ではない。仮にこれが仏教的な定義だとして、「何も妨げるものがなく」という常識的な定義と「すべてのものの存在する」という定義には「色即是空、空即是色」と同様の質的な転換ないし飛躍があるわけで理解するのは非常に難しい。少なくとも「すべて」とか「もの」とか「存在」とかいう語を日常的な意味から切り離して、それこそ「仏教的に」極めないことには理解は不可能だろう。
 それは措いて、レポートの「捨てるべきものの具象がこのズボンである。…このズボンは作者の外に存在しているのではない、作者自身でもある」というのと「虚空に踊るズボンこそ、万物の真理を宿した真の実体である」は矛盾している。これを等式にすると「捨てるべきもの=ズボン=作者自身=万物の真理を宿した真の実体」となってしまう。この帰結は「虚空」とは「何も妨げるものがなく、すべてのものの存在する場所」という定義から導かれたのだろうが、捨てるべき煩悩であったものが「万物の真理を宿した真の実体」ではまずいだろう。
 永遠、虚空の語選びを考えると、もちろんこの歌は日常べったりの歌ではないだろう。初句から第2句にかけての句跨りが異様で、情景までがグロテスクな感じを受ける。レポートの、このズボンは〈われ〉だととることには賛成で「股に物干し竿をさされて」永遠に在り続ける〈われ〉が感じているのはやはり「苦」であろうか。(鹿取)

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渡辺松男の一首鑑賞  313

2021-09-21 17:10:50 | 短歌の鑑賞
 渡辺松男研究38(2016年5月実施)
  【虚空のズボン】『寒気氾濫』(1997年)128頁~
   参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、Y・N、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:石井 彩子   司会と記録:鹿取 未放


313 ワープロに太虚という字をたたきこみわれには捨つるものばかりなり


      (レポート)
 ワープロに太虚という字を叩きこむという激しい行為によって、作者は様々な欲望や物事への執着に囚われること=煩悩から逃れようとしている。太虚は捨てるものが多い作者の煩悩を消去する場所である。煩悩が心身から離れるという意味では、作者は迷妄を払い去って、生死を超えた永遠の真理を会得する悟り、あるいは涅槃(ねはん)の境地を深く思索しているのかもしれない。(石井)
 太虚:虚空(こくう)の意味であり、何もない空間、大空と訳されるが、仏教的には何も妨げるものがなく、すべてのものの存在する場所と訳される。(Wikipediaその他)

     (当日意見)
★ワープロに打ち込んでいるぐらいだから、もっと日常的な歌だと思います。「太虚」が「煩悩を
 消去する場所」だというのも言葉の綾でしょうが妙な気がします。この歌で悟りとかいうこ
 とまで作者は考えていないでしょう。本人がいつか、悟りなど考えたことはないとも言っていま
 したし。(鹿取)


   (後日意見)
 「太虚」は広辞苑では「①おおぞら、虚空」と出ており、②で北宋の儒学者・張載が説いた特殊な意味が載っている。難しく考えずにここは「おおぞら」でいいと思う。心に昂ぶることのあった〈われ〉は、ワープロに「太虚」という文字を叩き込んだ。おおぞらを思えば自分の怒り(あるいは、悲しみや寂しさかもしれない)など取るに足らないと思う為だろうか。そうして〈われ〉には捨てるものばかりが多いことだ、と思う。捨てるものは自尊心とか虚栄心とか所有欲とかそういう類のものかもしれないが、そしてこれらは立派な煩悩ではあるが、即、〈われ〉がここで悟りを志向していると考えるのは短絡的だろう。もちろん、いくら作者が「悟りへの志向」を否定しても、歌に根拠を求めて論述することはできるが、このレポートではその根拠が説かれていないと思う。(鹿取) 

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