かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男の一首鑑賞  266

2021-07-21 17:17:10 | 短歌の鑑賞
 渡辺松男研究32(15年10月実施)
    【全力蛇行】『寒気氾濫』(1997年)110頁~
    参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、N・F、
        藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:鈴木 良明 司会と記録:鹿取 未放
       

266 ポスト・モダーンの烏が糞をしたまいぬ思いもよらぬ大きなる糞

   (レポート)
 ポストモダーン(近代の終わり)とは、近代の特徴である「人間の開放」「自己実現」「進歩」など人類に共通する価値観(大きな物語)が消失してしまった現代的状況を言い、大量生産によってもたらされた消費社会は、その状況のひとつ。昔、山里に棲んでいた烏は、今や街に出没し消費社会の生ゴミを餌にして大きな糞を垂れる。童謡に謡われた牧歌的な烏ではなく、今や「ポストモダーンの烏」なのである。「したまいぬ」は、傍若無人な烏のおごりを皮肉っており、同時に消費社会にあって大量に食い散らかしてはゴミにするポストモダーンの人間に対する皮肉でもある。(鈴木)


    (当日意見)
★この歌は烏を揶揄していると思います。(曽我)
★ポストモダーンで有名なのはミシェル・フーコーですね。この歌では、いわゆる「ポ
  ストモダーン」という思想をとらえ、その思想にも破綻があると言っている。その破綻
 は思ったよりも大きいと。ポストモダーンという思想が出たのはマルクス主義の行き詰
 まりからですね。相対主義といわれているんですけれど。資本主義でもマルクス主義で
 も宗教でもある時点から理想がうまく回らなくなる。そんな価値を相対化させるのがポ
 ストモダーンの思想だと思います。(石井)
★でもそのポストモダーンでも破綻をきたしてこのようなお荷物を背負うことになったと
 いうことですね。それが「大きなる糞」なんですね。(鹿取)
★ポストモダーンは究極までいくと自己の中に閉じこもってしまうのですね。価値観が全
 て相対的ですから。外との関わりが無くなるということです。現在、そうなっています。
 だからそこから脱却する思想が今生まれているということです。鹿取さんが東浩紀の書
 評をしていらして、あの中の福島第一原発事故の現場をアミューズメントパークにして
 しまおうという計画などは閉じこもらないで外に出て行こう、人と繋がろうという試み
 です。人との関わりを模索しているのが現代です。(石井)
★今の説明はとてもよく分かりました。渡辺さん、フーコーなどもよく学ばれたのでしょ
 うね、歌集にもフーコーを持っている女性の描写とか出てきますから。(鹿取)
★デリダなんかも影響を受けていますね。ポストモダーンの考え方ですが、例えば一本の
 木があって葉っぱが動いている。外側の価値観、宗教だとかの価値観は相対的ですけれ
 ど、葉っぱの揺れに共振することによって共生して生きていける。渡辺さんも自然との
 共生とか親和とか詠っていらして、おそらく現代のポストモダーンの思想を読んでいら
 っしゃるのだと思います。でもなぜポストモダーンが破綻するかというと自己に閉じこ
 もって外に出ないからです。だから先ほどの東さんのように人との関わりを求めていく
 思想が出てきています。ポストモダーンの前はマルクス主義だったんですね。知識人の
 大部分はマルクス主義を金科玉条のように信じていました。その後にイデオロギーも資
 本主義も信じられないというのでポストモダーンが出てきた。そしてポストモダーンが
 盛り上がって世の中を席巻した。そのことを「したまいぬ」って揶揄しているんでしょ
 う。思想というのは盛り上がってすっと消える、そういうものを揶揄している歌かなと。
      (石井)


     (後日意見)
 鹿取発言の中のフーコーの歌は、次のもの。(鹿取)
  トラックの助手席から降りてきし女タオルとともに『フーコー』を持つ
             (『寒気氾濫』)


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