かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

馬場あき子の外国詠 80 スペイン②

2024-08-15 11:16:08 | 短歌の鑑賞
 2024年度版 馬場あき子の外国詠9(2008年6月実施)
    【西班牙 2 西班牙の青】『青い夜のことば』(1999年刊)P52~
     参加者:N・I、M・S、崎尾廣子、T・S、藤本満須子、
       T・H、渡部慧子、鹿取未放
    レポーター:藤本満須子 まとめ:鹿取未放

  ※この項、『戦国乱世から太平の世へ』(シリーズ日本近世史①藤井譲治)・
   『ザビエルとヤジロウの旅』(大住広人)・講談社『日本全史』等を参照した。


80 海と空のあをさほのけさヤジローとふ日本最初の切支丹帰る

       (まとめ)
 切支丹となったヤジローがザビエルに伴われて帰国した日本は、しかし西洋とは全く違う考え方をもつ国だった。あいまいさを好む日本的情趣を海と空の境界も定かではない「あをさほのけさ」という情景によって示している。犯罪者ヤジローが帰国することに身の危険は伴わなかったのであろうか。日本的情緒に布教する難しさを、ザビエルたちは考えたであろうか。(鹿取)


      (後日意見)(2015年10月)
 ザビエルは、マラッカの長官の手配した中国のジャンク船に乗って1549年4月15日マラッカを出発している。一行はヤジローも入れて8人で、インド総督やゴアの司教の親書を携えていた。帆船であるから風頼みで、各国に自由に寄り道しながらなど悠長なことは考えられない旅だったようだ。一行が鹿児島に着いたのはちょうど4ヶ月後の8月15日である。
 ザビエルは日本に来る前に出来る限りの情報収集をしたようだ。ヤジローにもゴアの神学校時代にその長に命じて日本についての聞き取りをさせている。しかし、いざ日本で布教活動をしてみると思ったほどたやすくなく、程なく仏教界とも領主とも摩擦がひどくなったようだ。さまざまな事情が重なって、ザビエルは来日わずか2年余の1551年11月日本を去っている。(鹿取)


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