かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 325

2024-09-28 11:48:38 | 短歌の鑑賞
 2024年度版 渡辺松男研究39(2016年6月実施)
     【明解なる樹々】『寒気氾濫』(1997年)133頁
     参加者:S・I、泉真帆、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:渡部 慧子   司会と記録:鹿取 未放
 

325 一本のけやきを根から梢まであおぎて足る日あおぎもせぬ日

     (レポート)
 暮らしの傍に欅がある。なんとなく余裕があると根から梢まであおいで心のみちる日がある。また、何かにせかれていたり、考え込んでいて目もくれなかった、そんな日もある。欅を巡って作者自身を軽くスケッチしていよう。(慧子)

 
        (当日意見)
★構成が単純なので軽いスケッチととられたのかもしれませんが、この歌はとても深い
 歌だと思うし、生き方の原点のような歌の一つだと思うのですが。(鹿取)
★生活のリズムとかいうのではなく、精神的な大切なことという意味ですか?(S・I)
★説明が難しいですが、あおぐといっても別に樹の表面を眺めているわけではないです
 よね。当然、心の深いところで樹と対話しているわけです。だから「あおぎもせぬ
 日」というのは精神が殺伐としているのでしょうね。(鹿取)
★見てるのは現実の欅なのですか?(S・I)
★この場合は現実の欅だろうと思います。いちおう、自分の外側にある対象としての樹
 なんじゃないですか。(鹿取)
★じっさいにある欅だと思います。『けやき少年』というこの作者の歌集が少年時代を
 思い出したものなので、特別な思い入れが欅にはあるんだろうと思います。レポー
 ターが「軽くスケッチしていよう」と言ったのは下句がとても大きく捉えられている
 からでしょう。(真帆)


     (後日意見)
 たとえば「樹木と『私』との関係をどう詠うか」(「短歌朝日」2000年3、4月号)という渡辺松男の文章がある。どの部分も重要だし、一部分を引用すると文意が通じない恐れもあるが、著作権の問題もあるので、一部を引用する。作者が樹をどう見ているか、少しは参考になるかもしれない。(鹿取)
  ……実際に歌を作るときは木と一体化したいと思うだろう。外側にいるだけで
  は満足できないだろう。木の実態を踏まえつつ、自ら詠おうとする木のなかへ入
  っていこうとするだろう。木の対象性を超越しようとするだろう。主客分離にお
  いて成立する認識は越えられなければならないだろう。木という生と死の一体と
  なった感情のような呼びかけを待ち、木が語りかけるのを待つ。その声は結局自
  分の声かもしれないが、同時に木の声でもあるだろう。木に呼ばれているときに
  私は私を実感するはずだ。木のなかで私を現象させてみたいと思うし、私のなか
  で木を現象させてみたいとも思う。……
      ( 引用文3行目の「越えられ」は、ママ )
……私と木との関係はダイナミックで、私の思いのなかに閉じ込めようとしても
  はみ出してしまう部分、そこに木の本領があるのだし、そこに私は引かれる。木
  の器は相当に大きいので私の人間的解釈を充分に許容するだろうが、木はそこ
  からあっという間にはみ出してしまう。つまりこれこそが木というものだという
  ものはない。

コメント
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