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かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

馬場あき子の外国詠 2 ロシア

2025-08-14 15:47:49 | 短歌の鑑賞

2025年度版 馬場あき子の外国詠1(2007年10月実施)
       【オーロラ号】『九花』(2003年刊)135頁~
   参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、Y・S、T・S、藤本満須子、T・H、
       渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:K・I   司会と記録:鹿取未放

 

2 日本海海戦に堪へしオーロラ号海より革命の砲を撃ちきと


         (まとめ)
 1番歌(日本海海戦より生還せしはただ二艦そのオーロラ号白きネヴァ川)にも記した日本海海戦をからくも生還したオーロラ号はニコラエフスキー橋付近に繋留されていたが、1917年10月25日、この艦から革命の合図の発砲がなされた。この砲を聞いてボルシェビキ革命軍は冬宮に突入を開始、一〇月革命が成就した。その後、このオーロラ号は練習船などを経て1948年現役を引退、ロシア革命の象徴として1956年からネヴァ川に繋留されている。(1でも記したが、このオーロラ号はレプリカ。)
 この歌でも作者は感情表現を行っていない。いわば、伝聞だけで成立している歌である。しかし、ここには当時のロシア革命に対するシンパシーがあるようだ。ちなみにオーロラ号という名はローマ神話の曙の女神からとられている。この艦が造られた時、将来革命の砲を打つことになるとは予想もされなかっただろうが、「あけぼの」の女神と革命はいかにもふさわしい取り合わせである。
 もっともソ連が崩壊してしまって10年後の訪問時(馬場のロシアの旅は2001年7月)、オーロラ号付近は観光名所となり、おみやげ屋がひしめいていた。レーニンやゴルバチョフを含む歴代の大統領のマトリョーシカなども売られていて、市場経済導入後の民衆のたくましさを見せつけられた。(鹿取)

 

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馬場あき子の外国詠 1 ロシア

2025-08-13 10:59:45 | 短歌の鑑賞

  

   2001年7月のオーロラ号、左端の男性はツアーの引率者

 

2025年度版 馬場あき子の外国詠1(2007年10月実施)
        【オーロラ号】『九花』(2003年刊)135頁~
   参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、Y・S、T・S、藤本満須子、
       T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:K・I   司会と記録:鹿取未放


1 日本海海戦より生還せしはただ二艦そのオーロラ号白きネヴァ川


          (当日発言)
★司馬遼太郎『坂の上の雲』にこのあたり詳しい。(崎尾)
★ロシアが負け、皇帝制が崩壊していく象徴としてのオーロラ号。(藤本)


          (まとめ)
 1905年の日露戦争、日本海海戦に参戦したロシアの39艦のうち帰還できたのはたった二艦だったという。そのうちの一艦が「三笠」と対決して敗れたオーロラ号。全長126メートル、6000トンの巡洋艦である。
 作者は史実と目の前の実景だけをうたっている。感情を表現することばはない。あるとすれば「ただ」という副詞と「白き」であろうか。「白き」は連体形だがここでは「ネヴァ川」に掛かるのではなく、詠嘆を表す連体中止法の態で使われている。「白き」の後に目に見えない休止が入っていると考えるとわかりやすい。「生還した二艦のうちの一艦であるオーロラ号が白く浮かんでいる、ここネヴァ川よ」という気分なのだろう。残念ながらこのオーロラ号はレプリカだそうだ。
  日露戦争でバルチック艦隊を率いたロジェストウェンスキー中将の手紙がこの度ロシアで発見され、妻への手紙には「この艦隊は滅亡するだろう」というようなことが書かれているそうだ。(2007年10月25日「朝日新聞」夕刊)『坂の上の雲』に描かれた傲慢な愚将像とはずいぶん違うらしい。(鹿取)

 

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渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 84

2025-08-12 11:06:26 | 短歌の鑑賞

2025年度版 渡辺松男研究2の11(2018年5月実施)
  【夢みるパン】『泡宇宙の蛙』(1999年)P57~
  参加者:泉真帆、A・K、T・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:渡部慧子     司会と記録:鹿取未放  


84 ほのぼのとアンパンマンと呼びたればアンパンマンは頬赤らめる

             (当日発言)
★アンパンマンってほっぺたがまっ赤に塗ってあったような。(真帆)
★そうすると、蜻蛉の赤、妊娠した女の指やお蚕さんの白、秋の白、今度は赤ですか。(鹿取)
★やなせたかしですよね。マント羽織って飛んだりするんですよね。(A・K)
★食パン食べたりするんですよね。(真帆)
★最後に自分を食べてって自己を犠牲にする。(慧子)
★「ほのぼのと」がわからない。「助けてー」って呼ぶとアンパンマンが来て、悪者をやっつけてくれるんでしょう?なんで頬を赤らめるの?(T・S)
★連作だから、美しい場面もたくさんあったけど、最後は少しユーモアで終わるのかなと。最初はパンだからおしまいもパン。ここは白い光の中に湧いて出た子ども達の一人にあまりに可愛いので「アンパンマン」って呼びかけた。そうすると呼ばれた子どもは頬を赤らめた。(真帆)
★今の意見に大賛成です。渡辺さんって方は歌集を作るときの構成力が凄い。連作意識を非情に感じます。一首独立というのは少なくて、ずーと連なっている。生き生きと走っている子ども達のもっている含羞。(A・K)
★アンパンマンが唐突な気がしたんですが、そんなふうに前の歌と繋げて読むとなるほどと思えますね。ただ、私は自己犠牲ということからも読めるかなと思います。つまり自己犠牲をはたらくアンパンマンの含羞、それは〈われ〉の中にある自己犠牲的な部分をふっと感じたときの、あるいは他者 から指摘されたときの含羞かもしれないなと。(鹿取)

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渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 83

2025-08-11 09:13:35 | 短歌の鑑賞

2025年度版 渡辺松男研究2の11(2018年5月実施)
  【夢みるパン】『泡宇宙の蛙』(1999年)P57~
  参加者:泉真帆、A・K、T・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
       レポーター:渡部慧子     司会と記録:鹿取未放  


83 まっしろき秋のいかなる隙間から子らあらわれて丘を走るや

               (レポート)
 白秋という言葉があるように、秋のひかりを白いと感じることがある。そんな秋の「いかなる隙間から子らあらわれて」とフレーズのラ行の音のかろやかさやひびきに子ども達の生命の弾みがあり、その子らは丘を走る。しかしこのフレーズに実景をこえた不思議もある。(慧子)


             (当日発言)
★子ども達がわーと走ってくる様を感じました。どこから来たか分からないけど、気が付いたときには子ども達が走っていた。勢いがあるというか躍動感がある。(真帆)
★生き生きとして明るくてとってもいい情景を詠っている。「隙間」って巧いなあと思いました。こういう言葉って出るようで出ない。秋蜻蛉があふれている歌にも色彩感があったけれど、この歌も子ども達が溢れているんだけれど、まっしろな秋ですがすがしい。(A・K)
★同感です。「隙間」が凄い!ほんとうにどこかから湧いて出たように子ども達が走っているんですよね。そういう不思議な感覚を持つときがあるんだけど、それを秋の「隙間」って言葉ですくい上げて歌にするって凄い。(鹿取)

 

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渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 82

2025-08-10 09:21:06 | 短歌の鑑賞

2025年度版 渡辺松男研究2の11(2018年5月実施)
  【夢みるパン】『泡宇宙の蛙』(1999年)P57~
  参加者:泉真帆、A・K、T・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
       レポーター:渡部慧子     司会と記録:鹿取未放  

82 子を孕みひっそりと吾は楠なればいつまでも雨のそばにありたり

             (レポート)
 78番歌(夢にわれ妊娠をしてパンなればふっくらとしたパンの子を産む)は夢の力が働いて作者は妊娠をしたパンであった。掲出歌はいきなり「子を孕みひっそりと吾は楠なれば」と詠う。「樹木と「私」との距離をどう詠うか」という渡辺松男氏の文章が鑑賞の助けとなった。常緑樹でゆたかな樹形、そんなことから楠が子を孕んでいるという内容を違和感なく味わうことができる。そして「いつまでも雨のそばにありたり」は慈雨なのだろう、しみじみいいフレーズである。ものを育てる力が水にあって、母性には水のイメージが添っている。(慧子)


          (当日発言)
★慧子さん、松男さんのエッセイは先月私がお配りしたものですが、鑑賞の助けになったのはどの部分で、どう助けになったのか、具体的に説明してくれますか?(鹿取)
★読み上げます。
……私と木との関係はダイナミックで、私の思いのなかに閉じ込めようとしてもはみ出してしまう部分、そこに木の本領があるのだし、そこに私は引かれる。(中略)……ダイナミックと言えば昔インドに「AはAでない、それゆえにAである」という発想が生まれた。「AはAでない」で実体としての自己同一性を否定した上で「それゆえにAである」として肯定するのだ。もしAを私とすれば「私は私でない、それゆえに私である」となるし、木とすれば「木は木でない、それゆえに木である」となる。「私は私でない」のだから木であってもよく、「私は木である、それゆえに私」であり、「木は木でない」のであるから私であってもよく「木は私である、それゆえに木であ。このような考え、というよりも直観は「私はインコである」という未開人にも「私は一個の他者である」というランボーにも通ずるだろう。これは観念の遊びではなく、とてもダイナミックな相互性を示していると私は思うし、個のかけがえのなさと矛盾することもなく、多様性へ向かって私を開いてくれる可能性をもっているだろう。「樹木と「私」との距離をどう詠うか」 (「短歌朝日」2000年3、4月号)
                                                  
 この辺がとてもうなずけるような気がしたんですね。「私はインコである」とか「私は一個の他者である」というのは直観で分かる気がする。「個のかけがえのなさと矛盾しない」というところは分 からないですが。(慧子)
★皆さん、分かりましたか(笑)私は未開人の言葉は分かる気がします。しかしランボーのことばはとても複雑で難しい文脈のなかにあって、このことは他のところでも松男さんは書いていましたが、私はよく理解できませんでした。むしろ「個のかけがえのなさと矛盾しない」というところは分から ないながら安心しました。今の所でいうと、「木は木でない、それゆえに木である」あたりは前回鑑賞した「木を否定することは木の本意とぞ針金のごとき若木が伸びる」の参考になるかもしれませんね。この歌は私は分かる気がするのですが。(鹿取)
★連作で詠っていらっしゃるので、夢でパンの子を産んだ、そして今度は孕んで更に木になった、とステップアップしている。自分の発想をどんどん出て行く、それを凄いことだと思いました。命を宿したので雨のそばにありたいというのにも感動しました。奥ゆきがあるというか深みがある。(真帆)
★分かるようで分からない。さっき「ダイナミックな相互性」とおっしゃいましたが、垂直に立っている木と人間が交歓する場面があるのかなと思うのですが、「そばにありたり」だから、子を孕んだ楠であるわれがずっと雨のそばにいた、それって論理的にどういう事なのか?雨に降られて立っていた のではなく「そばにいた」ってどういうことですか?(A・K)
★「そばに」がすばらしいですね。魅力的な下句なのであまりいろんな色づけはしない方がいいと思いますが、雨のそばにいるのは子を孕んだ楠である私の安堵感でしょうかね。(うん?これも一種の色づけですが)。子を育てるための慈雨というような功利的なものではなくて、命の本質みたいなもの に触れていたいというか。主客が普通と違うので分かりにくいのですが、このまま読んでとても好きな歌です。(鹿取)
★分かった!今の聞いてとってもよく分かりました!楠は楠としてある、雨は雨としてある、お互いに何かのためにではなくてただある。(A・K)
★そうですね、それぞれがそれぞれのかたちで「在る」、だから雨を浴びているのでもなく受けているのでもなく、ただそばに「在る」。(鹿取)

 

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