だいずせんせいの持続性学入門

自立した持続可能な地域社会をつくるための対話の広場

環境問題の樹海

2006-05-19 06:59:38 | Weblog

 いろんな人から「環境問題って結局どういうことですか?勉強すればするほどよくわからなくなってくるんです」とよく相談される。私は大学の環境学研究科というところで教員をしていながら、こういう質問を受けると実は私自身途方にくれてしまう。確かに公害問題は環境問題だろう。開発による自然破壊もしかり。ゴミ問題もそうだろう。オゾン層や温暖化問題も環境問題だろう。でも人口問題は?食糧、エネルギー、森林破壊や砂漠化、水、南北格差の問題・・・これらを環境問題というのだろうか?でもこれらの問題こそが現在、環境汚染や温暖化の問題とならんで喫緊の問題として、そして漠然とではあるが、なんらかのつながりのあるものとして意識されているものである。

 私自身、環境問題というものが最も訳がわからなくなったのは、ある地方自治体の地域環境指導員さんたちの研修会の場であった。彼らは役所から要請されて地域の環境をよくするための活動をボランティアとして担っている。私はそこに招かれてグローバルな環境やエネルギーの問題について講演した。その後で指導員さんたちによる地域での実践報告が行われた。そこでみなさんがとりあげていたことがらは、圧倒的にゴミ問題、それも地域のゴミ集積場にもってくる住民のゴミの分別が徹底しているかどうかに集中していた。そして口々に「私の地域にはゴミの分別ができない人が多くて本当に困る」といった発言をされた。本当にそれほど困ることだろうか?当のゴミの分別が徹底できていない人がこの話を聞いたらどういう気持ちになるだろうか?「次からはがんばって分別しよう」という気持ちになるとは思えない。「なんでゴミひとつでこんな言い方をされなければいけないのか?」と反発を感じるだろう。そしてそれが実際に地域で生じている現象だと想像される。
 本来、環境問題とは、地域の人々が力をあわせなければ解決できないたぐいの問題だと思う。それなのに、ゴミの分別・リサイクルという制度ができたおかげで、また、それを地域の中で推進する役目をもったボランティアの志の高いみなさんがいながら、地域の人々の間に亀裂が生じている。これでは問題は解決できない。

 「環境問題があり、それは私たち一人一人の生活のあり方に原因があるのはわかるんですけれども、じゃあ自分はどうしたらいいのか、というのがわからないんです。」これもよく受ける質問である。環境問題については膨大な数の本が出版されている。例えばD.H.メドウズほか『成長の限界』ダイヤモンド社やその解説版である『地球のなおし方』ダイヤモンド社はすぐれた書物であり、ぜひみなさんに読んでいただきたいのであるが、では日本の自分の生活や地域の現実の中で、いったい自分はどうすればよいのかというと、これらのすぐれた書物をいくら読んでもどこにも書いていない。
 一方で、例えば役所が発行している地球温暖化防止のためのパンフレットなどを見ると、「きょうからできること」がたくさん載っている。例えば「冷蔵庫のドアの開け閉めは迅速に」というような細々したことがたくさん載っていて、しかもそれでどれほどの効果があるのかはわからない。そんなことで本当に地球温暖化は防止できるのだろうか?という疑問がわいてくる。

 また、例えば地球温暖化問題を知っていますか?と質問すると多くの人が知っていると答える。ではどういう問題なの?と聞くと、「南極の氷が溶けて海水面が上昇して都市に住めなくなる」ような問題だという答が返ってくる。ところが、世界中の科学者がよってたかって研究した成果をまとめて2001年に発表された『IPCC(気候変動に関する政府間パネル)地球温暖化第三次レポート』(中央法規2002年)には2100年までの温暖化の予測においては南極の氷床は減少せず、むしろ「南極の氷床の質量は、降水量の増加によって増える可能性が高い」(p.21)と明確に記述してある。また、地下に眠っている化石燃料をすべて燃やして大気に出したとしても、ある程度温暖化はするが、それは南極の氷床を大規模に溶かすほどではない、というのが、スーパーコンピュータで温暖化予測をしている研究者の常識である。その話をすると、みなさん「じゃあ何が問題なの?」と逆に質問される。
 あるアンケート調査によれば、日本人の6割が、程度の差こそあれ、「環境問題に関心がある」と答えるそうである。他にも問題が山積している中で、たいへんな関心の高さといえよう。しかしながら、関心があるからと少し勉強しはじめると、何か富士のすそ野の樹海に迷い込んだかのような気持ちになる。

 私の提案は、「環境問題」というとらえ方はもうやめよう、というものだ。むしろ、今の普通の暮らしのあり方やそれを支えている社会の仕組みが、そう遠くない将来に立ちゆかなくなる、すなわち、持続不可能である、という問題だととらえよう。それを持続不可能性の問題、つづめて「持続性問題」と呼ぶことにしたらどうだろうか。その中に、環境汚染もゴミ問題も温暖化問題も入る。また人口やエネルギー、食糧、水、生物多様性、南北格差の問題も入る。むしろこれまではそれらは別々の問題ととらえ、またその対策も個別にばらばらに行われていたものを、一つの問題のさまざまな側面ととらえて、個別の対策も大きな戦線のそれぞれの持ち場であると認識して、相互に連携することによってはじめて全体にも個別にも問題解決の糸口がつかめるのではないだろうか。
 そういうつながりをとらえることこそが、今、情報としても最も不足していると私は思う。世界の問題と自分の日々の暮らしや地域の問題とをつなげて考えることができるようになるためには、一方では原則的なものの見方・考え方が必要だし、もう一方では巨大な想像力とそれをわきたたせるさまざまな体験が必要である。人間はアタマではモノを考えることができない。手や足を動かしてはじめて考えが進むのである。認識や行動をぶれさせないための原理原則とはどのようなものか、想像力をつちかうための体験をするにはどのようなやり方があるのか、具体的に地域の中で何をやっていけばよいのか、ということについてこれからだんだんと書いていきたい。・・・ということで次回につづく・・・
コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 手抜き農作日誌(3) | トップ | 川や海をきれいにするために... »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
いいですね! (Shin)
2006-05-20 01:27:13
持続性問題、スマートなネーミングですね。

僕もこれから使わせてもらいます。
返信する

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事