だいずせんせいの持続性学入門

自立した持続可能な地域社会をつくるための対話の広場

なぜ戦争はなくならないのか

2014-09-21 21:23:32 | Weblog

 ヨーロッパでも中東でもキナくさい状況が深まりつつある。第一次世界大戦前夜の不安定な国際情勢が再現されたようである。もしヨーロッパで戦争が起こり、アメリカが参戦したら、集団的自衛権のもとでは自動的に日本も巻き込まれることになる。地中海まで日本の軍艦が遠征した第一次大戦の再現となりかねない。第三次世界大戦である。東アジアでもじわじわと煮詰まった状況に向かって進みつつあるように見える。

 なぜ戦争が起こるのか。なぜなくならないのか。どうしたらなくせるのか。この当然の問いに答えるには、無数の視点や切り口があり、一概には答えられない。

 最近、塩野七生さんの「ルネッサンスもの」を読んでいて、あきれてしまうのは、当時のヨーロッパは戦争ばかりしていたということだ。当時のフランス王やスペイン王などの王様が個人的な野心のもとに領土や支配権を求めて他国に侵攻する、というのは分からないでもないが、フィレンチェなどの都市国家や、はてはバチカンのローマ法王庁が軍隊をしたてて戦争をはじめるというのは、理解に苦しむ。
 当時の軍隊は常備軍ではなく、傭兵でなりたっていた。中小諸侯は傭兵隊長として大諸侯や都市国家や法王庁に雇われて軍隊を組織し戦った。雇う方はお金がいる。それは銀行が融資した。ある都市を攻め込んで勝利すれば、虐殺と略奪の限りが尽くされる。生き残った市民はとらえられて奴隷として売られる。そういう戦利品の「収入」によって、傭兵の報酬も出れば銀行の融資の返済にもあてられたのである。負ければ、諸侯は領地や領民を失うだけでなく、たいへんな負債を抱えることになる。諸侯とともに雇われた傭兵隊長も融資した銀行も没落する。負けた軍の生き残りの傭兵たちは報酬も支払われないままちりぢりとなり、山賊や海賊となって街道や海を行く商隊を襲ったようである。

 すなわち当時の戦争は、見方によれば諸侯の「投資行為」ともいえる。銀行からの融資によって資金を準備し、傭兵の軍隊に「設備投資」し、戦争での略奪という「生産活動」を行い、戦利品や新たに獲得した領地などの形で「投資を回収」し「利益」を得る。

 この構図は、資本主義経済の投資行為と相似である。今日ではグローバル企業はグローバル経済という一つの土俵の上で、同じ分野の商品について、すこしでもシェアを上げようとして新しい商品生産に投資する。新商品開発や生産設備の設置には多額の資金が必要である。資金は株式の発行や銀行からの融資によって調達する。しかし、その商品が本当に売れるかどうかは、市場に出してみなければわからない。売れなければたいへんな負債を抱える。企業の縮小や倒産に結びつく。リスクを承知でシェア拡大に賭けるのが投資である。

 資本主義経済と戦争とどちらが先だったのか?おそらく戦争のやり方がまず確立して、それをまねて、戦争の「投資行為」が非暴力化したものが資本主義経済なのではないだろうか。

 近代化の過程で、資本主義経済が発展するとともに、国民国家が成立し常備軍がつくられた。傭兵ではなく徴兵制・国民皆兵制度により、国民が兵士となった。近代的な立憲君主国家となり、植民地を求めて世界を分割する帝国主義時代となった。戦争はより大規模になったが、基本的な構図は同じである。

 日本においては、明治国家が形を成すとすぐに征韓論がおこり、帝国主義的な軍国化が進む。日清戦争では清国から巨額の賠償金を得るという形で投資が回収できた。日露戦争では戦争の資金としてユダヤ金融資本から多額の融資を得ている。戦争には何とか勝利したにもかかわらず賠償金が手に入らなかったのは、日本政府にとって大きな誤算であった。それでも中国東北地方と朝鮮半島にさまざまな利権を得て、その経営利益もあって借金の返済を完了している。ユダヤ資本としては大きなリスクのある大胆な賭けであったが、結果、投資としては「成功」であった。

 その後、第一次、第二次の世界大戦という帝国主義戦争をへて、戦後の植民地の独立、東西冷戦、ソ連の崩壊、イスラム対アメリカの相克と世界情勢は大きく変動したものの、帝国主義的な世界という構図は今日においても基本的に変化していない。経済的に強大な力を持った国が強大な軍事力をもち、資本主義的な投資行為は容易に軍事化し戦争の危機となる。
 シリア内戦のような国内の戦争でも、武装勢力に銃や大砲、戦車、ミサイルなどの近代的な兵器が渡らなければ戦争にはならない。武装勢力に「投資」する者がいてはじめて戦争となる。シリア内戦は基本的には西欧側が介入、すなわち「投資」した代理戦争の様相が濃いというのが私の理解である。

 ある知人は、政治をやる人がすべて女性になれば戦争はなくなるだろうと話してくれた。たぶんそうだろうと思う。古来、将軍に女性はいない。同じことがギャンブルに興じるのは圧倒的に男性が多いこと、企業家は圧倒的に男性が多いことにも通じるのだと思う。

 そういう男女の性向の違いは、そもそも石器時代に遡るのではないかとも思う。男が担っていた狩猟というのは一種の投資行為である。わなをしかけたり、獲物を求めて旅に出たりする。その労力は一種の先行投資である。実際に獲物がとれるかどうかは、やってみないと分からない。獲物がとれれば大きなカロリーを得ることができるが、獲物がとれないことも多く、その時にはくたびれて腹が減った分だけ収支はマイナスである。一方女性は採集を担っていた。もうそこに実っている野草、果実、海藻、貝類などを採集するのは確実である。得られるカロリーは少ないけれどもリスクはない。
 今日でも、漁業においては、漁船の建造に投資して漁に出るのは男の仕事であり、磯にもぐってサザエやアワビをとるのは海女の仕事であるのは、石器時代の名残だろうか。

 別の例で考えてみると、今日新たに農業をはじめたいとすれば、二つのやり方がある。一つはいわゆる慣行農法で、商品作物をつくって市場で販売し収益を得るというやり方である。土地だけ確保できても農業を始められるわけではなく、先行投資が必要となる。トラクターをはじめとする各種の農業機械、暖房設備を備えたビニールハウスなど、数百万円から数千万円の元手が必要となる。肥料と農薬も購入しなくてはならない。そのようにしてできた作物が市場で売れるような品質と量になるかどうかは、やってみなければ分からない。かなりリスクの高い投資となる。
 一方、最近いなかに移住してくる若い世代が新規就農しようという場合、有機農業や自然農などをやりたいという人が多い。まずは自分たちが食べるコメや野菜をつくり、もっとたくさんできるようになれば、個人的なつてやネットで注文を受けて販売に回す。自然農であれば、必要な機械は軽トラと刈り払い機ぐらいで、土地と自分の体があれば作物を作ることができる。慣行農法と比べて土地の面積あたり、労働あたりの収穫量は少ないが、経済的なリスクは限りなくゼロに近い。

 もちろん、資本主義経済は戦争ではないので、両者を切り離すことは理論的には可能である。当面は、暴力化しない資本主義経済というのを追求する、ということが課題となるだろう。そして戦争のない資本主義経済というのは、暮らしのあり方として投資行為やその中での雇用というのではなく、自然採集的な生き方、あるいは自然農的な生き方をする人が、社会の中にある程度の割合にならないと実現しないだろうと思う。そしてそれは、資本主義経済が別のものに変わっていくということに他ならない。その先に平和な持続可能な社会というものを展望できるのだと思う。


最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
三和まち町協「全体会議報告」 (朝日有一)
2014-10-02 12:41:06
初めまして。先日、美濃加茂市三和町の町づくり協議会「全体会議」への参加、ありがとうございました。あの日講義の途中から会場へ入ってきました「朝日有一」といいます。
本日は、このブログ内容についてでなく、先日の「全体会議」の内容を、私のメモから抜粋で「まち協ブログ」に掲載しましたので、その連絡と、一読いただければ、ありがたいです。
ブログにアップした内容が違っていたら、ご一報いただくとありがたいです。
ブログURL
http://blog.goo.ne.jp/miwa-machikyou
連絡先が分かりませんでしたので、ここを利用させていただきました。失礼しました。
返信する

コメントを投稿