だいずせんせいの持続性学入門

自立した持続可能な地域社会をつくるための対話の広場

いなかを出ていく理由について

2013-08-23 21:11:38 | Weblog

 いなかの過疎地と呼ばれている地域に、都会生まれ都会育ちのワカモノたちが移住してくるようになった。いわゆるIターンである。私が通っている豊田市旭地区にも個性的なワカモノたちが集まってきて、地域づくりにも貢献してくれる。彼らは地域の中でそれなりの存在感をもつようになった。

 ただ、よそ者のIターン者が地域づくりの主役になるのはやや無理がある。彼らの役割は地域づくりの火付け役であり、火をつけられる方はやはり地元出身のワカモノたちであろう。Iターン者たちが盛り上がっていると、地元で生まれ育ち、高校や大学進学、就職で都会に出ていたワカモノがUターンして戻ってくるようになる。彼らが地域づくりの主役になってくれた時、本当の地域づくりがはじまるのではないだろうか。

 

 昨年、旭地区ではあさひ若者会という地元の30代のワカモノたちが地域について語り合い、地域をよくする活動を行う会を立ち上げた。今年はあさひ同想会と称して、語り合い飲み合う会を催した。地元出身者の同窓会というだけでなく、旭に通ってくる人、移住してきた人も含めた同想会である。

 その場で行われた「旭の愚痴大会」も大いに盛り上がった。地域の課題をみんなで出しあった。イガグリ頭の中学生もいて、進行役のおにいさんに促されてしっかり発言していた。頼もしい限りである。

 それから数日たって、そこに参加していたUターン組がFacebook上でいろいろ対話をはじめた。どうしていなかを出ていったのか、その想いが語られた。そこで語られていたのは、特になにかいやなことがあったとか、どうしても出ていきたかったというわけではなく、高校を出れば大学、就職と、都会に出るのがふつうのコースだったということだ。

 

 その中で私が大いにインスピレーションを受けたのは、ひとりの私の若い友人の発言だった。「わたしは旭ではなく自分のことを好きでなかったので出たまでです」。

 

 ここからは当人の思いからは離れて、この言葉にインスパイアされた私の想いである。人間はときに、自分がこの世界に比べてとてつもなくちっぽけな存在に思えることがある。自分を否定したくなる。そういうときには自分をこういう自分に育んできた身近な周囲の世界もいっしょに否定したくなる。しかしながら、自分は否定してみても自分以外のものにはなれない。そのもどかしさを、身近な世界を否定し、その環境から離れるということで実現したくなることがある。

 もちろん、いつまでも自己を否定する気持ちのままでいると、なにごともうまくいかないし、ほかの人を愛することもできない。ありのままの自分を認めて、許してあげることが大切だ。

 でも、自分を否定したい気持ちというのは、どうしようもなく時々やってくる。そしてそういう自己否定が、次の成長の糧になることによって、人はオトナになっていくのだと思う。

 

 そしてオトナになるということは、ありのままの自分や周囲の姿を認めてあげることができるようになることなのだと思う。そういう境地に達したときに、故郷のいなかに帰ってくることができれば、とてもすばらしい。それは自分が生まれ育った地域を受け入れることで、自分を自分で認めてあげるプロセスなのだと思う。そのときまで、山や川やたんぼが変わらず残っていてくれたら、どんなにいいだろう。いなかをふるさとに持つものは、帰る場所があるというだけで、心おきなく自分の心の世界をさまようことができる。幸せなことである。


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1 コメント

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Unknown (てんちゃん♪)
2013-08-26 17:07:20
高校卒業時と言えば、第二次成長期の終盤でしょうか。自己の確立途中ですよね。(おまけに母親が更年期だったりして、妙にカリカリしていますね)

「わたしは旭ではなく自分のことを好きでなかったので出たまでです」。私にも心当たりがある感情です。

ただ、出ても何も変わらないし、「出た自分」という一つの歴史が積み重なっていくだけなのですが。どこで何をしても人生は一つ、ということに途中で気づきました。
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