メイドが患う病気<女中ひざ> 『ブランディングズ城の夏の稲妻』

『ブランディングズ城の夏の稲妻』

国書刊行会のウッドハウス本の新シリーズ<ウッドハウス・スペシャル>第一弾ですね。
<ウッドハウス・コレクション>が“ジーヴスもの”なら、こちらはそれと並び称される“ブランディングズ城もの”
ブランディングズ城の城主・エムズワース卿のお頭のトロけっぷりが冴えわたっています。(←文法的に矛盾。が、意味的にはこの通りなのです)
たとえば、お茶の時間に現れたエムズワース卿のセリフ。

「あぁ、お茶? お茶か? へ? ほ、お茶じゃ。まったくそのとおり。確かにお茶じゃの。素晴らしい」

もうこのセリフだけで、エムズワース卿のゆるゆる~としたお育ちがうかがえますわ。

さて、今回読んでいて気になった箇所は、ヒューゴ・カーモディー(現在エムズワース卿の私設秘書をしている)の台詞に出てくる<女中ひざ>です。

そのセリフまでのいきさつ――
ヒューゴはエムズワース卿の姪・ミリセントと内密の婚約関係にあり、ヒューゴの女友だちスー(劇場のコーラスガール)はエムズワース卿の甥・ロニーの内緒の恋人であった。しかしある事件をきっかけに、それぞれの恋仲に亀裂が生じる。

恋人との行き違いを解決すべく、ヒューゴとスーは結託する。
スーは“シューンメーカー嬢”になりすまし、ヒューゴとともにブランディングズ城へ乗り込む計画を立てる。
さらにヒューゴは万全の策として、当のシューンメーカー嬢がブランディングズ城を訪れて来ないよう「城内は悪病が蔓延している」と偽りの電報を打つよう提案する。
「(前略) 一ダースは送って大げさに言うんだ。プランディングズ城は悪疾猩獗をきわめ寂寞凄涼たり。猩紅熱だけじゃない。猩紅熱とおたふく風邪だ。女中ひざ、糖尿、サナダムシ、帯状疱疹にボッツ症は言うまでもなくだ。(後略)」

(太字はブログ筆者)


女中ひざ、これ、原語もほぼ同じ housemaid's Knee といいます。
病理学上の名前は、前膝蓋粘液包炎( Prepatellar bursitis )。
膝の皮膚と膝蓋骨(ひざのお皿の部分)の間にある、粘液包(関節の運動を滑らかにする骨液を包んだ嚢)に炎症が起きてしまう病気です。

同じ症状を示す傷病の呼び名として、roofer's knee(屋根職人ひざ) や carpetlayer's knee(じゅうたん張り職人ひざ)があります。
どの病名も、患者が従事している職業から付けられた名前です。
これらの職業に共通するのは「ひざまついて仕事をする」こと。

『19世紀のロンドンはどんな匂いがしたのだろう』の巻末辞典<housemaid >の項にはこうあります。
女中膝( housemaid's Knee )という症候群が知られているが、これは、床をきれいにするために年中ひざまづいて磨いていることから発症するものである。

症状として腫れや圧痛、赤み、歩行による痛みやこわばりが挙げられます。
(参考website:MedicineNet.com)
ヴィクトリア朝メイドの床までとどく長いスカートの内側には、そんな痛々しい膝小僧がかくれていたんですね。

 <女中ひざ>がかもし出すユーモア

<女中ひざ>で思い出すのが、ジェローム・K・ジェローム(1859-1927)の『ボートの三人男』の冒頭です。
主人公の「ぼく」が、気分のすぐれないわけを知ろうと、大英博物館へ出かけて病気に関する本を読むうちに絶望(?)するシーン。
読めば読むほどどの病気の徴候も、面白いくらい現在の体調に当てはまる。
こうなったら徹底的にとアルファベットのAから順に調べて行くと― 瘧(Ague)、腎臓病(Bright's disease)、コレラ(Cholera)、 ジフテリア(Diphtheria)、
…疱瘡(Zymosis)。

結局、かかっていないと結論をくだすことの出来る病気は、ただ一つ膝蓋粘液腫だけであった。

『ボートの三人男』(中公文庫・丸谷才一訳 2004年刊 ※太字はブログ筆者)


この膝蓋粘液腫が、女中ひざですね。( housemaid's Knee だからHの項目ですな)
このあと「ぼく」が、この病気だけ外されたのを不満に思い、「膝蓋粘液腫のやつ、なぜこんな厭味な遠慮をしやがるんだろう?」とブツクサ文句を言う箇所も面白いのですが、その前にまず、そもそもハウスメイド、つまり女中特有の病気であること、さらに言えば<女中>ゆえに女性しかかかれない病気に「ぼく」がかかるワケがない――という二重のユーモアが上記の一文に織り込まれているんですね。
さらっと。何気なく。

さて、それを踏まえたうえでヒューゴの台詞に戻ります。
ヒューゴはさまざまな病名を挙げてまくしたてます。「糖尿、サナダムシ」と言うのもトボけてますが、「女中ひざ」はそれとはちょっと違います。

先の『ボートの3人男』の二重のユーモアを考えていただくと、分かりやすいと思います。
ブランディングズ城に住まう人々はエムズワース卿を含め、みな貴族です。這いつくばって床を磨いた経験など今までしたことなければ、これからもする必要のない身分の人たちです。ブランディングズ城に来させないようヒューゴが偽の電報で脅そうとしている“シューンメーカー嬢”にしたって、同じです。

つまりブランディングズ城において、<女中ひざ>にかかるような人は誰もいないし、<女中ひざ>の蔓延などあり得るハズがないのです。(そもそも伝染性の疾患じゃないし!)

病名の羅列の中ほどに<女中ひざ>をポンと入れる。
作者ウッドハウスの「どう? これ」ニヤリ顔が目に浮かぶような浮かばぬような…。
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