悟りを求める人たちよ。
悟りを得てなんになるんだい?
そんなことをいっているいけもとが小乗的なのであろうか。
論語で孔子はこんなことを言っている。
朝、道を悟ったならば、夕方死んでもかまわない。
あほんだら。
朝、悟りを開いて、夕方死んじまったら、一文の得にもならないじゃないか。
故に儒家はこんなことを言う。
易経だったかなんかに、小人の類いは多く、君子の類いは少ないと。
小人なら小人でかまわない。
いけもとが小人だということは、いけもとが普通の人だということだ。
救いを求める人たちよ。
あんたら一体何から救われたいんだい?
一体あんたら何に苦しめられてるの?
邪悪な隣人だったら、あんたが徒党を組んで仕返しすればいいだろうし、見えない悪霊に苦しめられているっていうんだったら、釈迦の降魔や、キリストの降魔って何なの。
彼らもけちくさいねえ。
降魔と同時に、俺らの仲間を苦しめるなと、魔王に釘を刺しておけばいいのに。
人生山あり、谷あり。
山の時は神や仏に歯の浮くようなお世辞を言い、谷の時には魔のせいにしてみたり、神や仏を口汚く罵ってみたりする。
それで根本尊敬の対象だっていってるんだから、すごい信仰もあったもんだわ。
さてさて、宗教家と呼ばれる人種。
あるときは、つらいことがあれば泣きを入れる泣き虫さんを食い物にしてみたり、神や仏を健康増進薬や特効薬のように思っている、依存心の強いやつを食い物にしているのだから、それこそ、恐れ入谷のなんとやら。
そんなわけで最近の宗教家は、困ったちゃんの太鼓持ち。
最近は、精神科医や心理カウンセラー、さらにはメンターって呼ばれている人たちがその類いだけどね。
まあ、そんなわけだ。
以上、管内千駄ヶ谷一丁目でいけもと。