目覚めた孔雀。独り言三昧。

目覚めた孔雀こと池本哲晃(いけもとてつこう)の独り言です。

平等なくして、博愛と自由なし!

2021-08-09 12:56:13 | しんぶんクロハタ並びに小黒金剛石
メンタル疾患の患者は、実は心優しい人が多い。
そして自分の病状で精いっぱいの適応をしていても、さらに自分を鞭打つ頑張り屋さんである。
 
被害妄想患者の心理は、家の中で絶えず家庭内強者の犠牲になる家庭内弱者に同一化し、やられやくとしての心性を身にまとう。
 
そして実際問題、患者は世間に出て、かつて自分が同一化したところのやられやくとしての役割を実行し、世間でたたかれる。
 
そして身にまとったやられやくとしての心性と、発病前、そして発病のやられやくとしての体験が、患者をして、万事被害妄想的な解釈をするように自己訓練していくのである。
 
この辺のことは、社会的勝ち組には到底理解できないであろう。
いわゆる、健康で頭の良い社会的なエリートに、その逆の人々や、その逆の人たちに加勢する人たちの心性など、感情的に同感できるかどうかは全く疑問だ。
 
さて、ある作業所で、しつこく水前寺清子氏の歌を聴いている当事者がいた。
彼は水前寺清子氏の頑張っている人をさらに鞭打つような歌を繰り返し聴いて、自分を鼓舞していたのである。
 
これは私のとらえ方であるが、違う人にはおんなじ歌を繰り返し聞いているちょっと困った人としか目に映らないであろう。
 
さて、被害妄想を治すためには、官僚的な体質が必要である。
社会的強者と社会的弱者の関係である一種のサドマゾヒズム。
これを何ら違和感なく受け入れることである。
 
このサドマゾヒズムの受肉化こそが、神田橋條治のいうところの職場復帰に必要なことなのかなあと思う?
 
なぜなら寝たきりの患者でもない限り、家事や趣味の世界で仕事復帰をしているからである。
 
さて、きれいごとが通用するのは、二者関係の世界である。
職場や学校で、きれいごとが通用したためしはない。
 
そこは一つの動物の群れである。
 
そこでは偏愛、階層、そして抑圧がまかり通る世界である。
私の毛嫌いする小泉純一郎氏のまねではないが、平等なくして、博愛と自由なし!
 
さて、文頭の主張に戻るが、その群れでの勝ち組と負け犬。
勝ち組に加勢する連中と、負け犬に加勢する連中との一種の闘争があるわけである。
 
私が描いた社会システムから、メンタル疾患発病理論を導き出したのが、おそらく私の理解するハリースタックサリヴァンの主張である。
 
が、彼の翻訳者である中井久夫氏は、翻訳の文底に秘沈して、秘すべし秘すべしとやったのではないだろうか?
 
この社会的強者と社会的弱者の非和解的闘争こそ、仏典や他の宗教の経典にある所の二元論的闘争なのである。
 
阿修羅の論理は正義の論理である。当たり前である。
愛娘を誘拐されてレイプされれば、どんな親だった激怒し、そんなやつに仕返ししたくなるは当然だ。
が、帝釈天の論理はやっちゃったもん勝ちの、現実万歳の論理である。
 
尤も、モチーフとなる神話は原始インド人から土地を強奪し、それを奴隷にしたアーリア民族のバラモンが作り上げたロジックである。
 
阿修羅の論理を認めたら、征服民族は常に先住民族の復讐を恐れて、戦々恐々としなけらばならないからである。
 
ここに法理論における、自力救済禁止の原則が成り立つ根拠がある。
 
さて、このぐらいにしておこう。
 
あまり駄文を書いてグーブログさんのリソースを削るのも忍びない。
 
そんなわけである。
以上、管内田端新町でいけもと。
 

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