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1945年8月17日に神戸市に原爆が投下されたかも知れない

2020年06月08日 04時56分58秒 | Weblog

須磨神戸市編入50周年記念誌 昭和45年(1970)Page57第29話「須磨異人館の
外人さん」井上門司氏が執筆の文末に次のような記載がありました。
井上先生は兵庫県医師会報の「兵庫医師会思い出の記」を連載中であるが、
その中で初めて聞くショッキングなニュースがある。それは昭和21年1月2日、

進駐軍情報部のウィリアム大尉とベン中尉が、当時、兵庫県医師会長を
していた井上先生を自宅に訪問し、ふれこみは「タンスの置いてある畳の部屋で
日本庶民の食事がしてみたい」ということであったそうだが、先生の直観で、

思想調査に来たとピンと感じたそうである。四方山話の末、この二人から直接
聞いた驚くべき秘密情報がある。それは、米軍の計画によれば広島、長崎の
次の原爆投下地は「神戸」であり、期日は「8月17日」ちょうど終戦の日より

2日後を予定していたということである。
もしあの時「無条件降伏」のご聖断が下っていず、軍部に押し切られていたら
果たして今日の神戸が、そして我々があったか否かわからない。

 

そこで原爆投下の経緯、特にどのようにして原爆投下の候補が決められたかを
テーマとして、調べてみました。


1942年 8月 

 アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領が、軍と科学者を総動員して原爆製造の
マンハッタン計画」を秘密裏に始動。当初はドイツへの核使用を想定していた。

1943年 4月 

    ニューメキシコ州に有名なロスアラモス研究所が設置される。
 開発総責任者はロバート・オッペンハイマー博士。 

   20億ドルの資金と科学者・技術者を総動員したこの国家計画の技術上の中心課題は
 ウランの濃縮である。テネシー州オークリッジに巨大なウラン濃縮工場が建造 

1943年5月5日

    軍事政策委員会、最初の原子爆弾使用について議論され、トラック島に集結する
 日本艦隊に投下するのがよいというのが大方の意見であった

1944年 6月 高濃縮ウランの製造に目途がついた。

1945年4月12日

    ルーズベルト大統領の急死により、副大統領であったトルーマンが大統領に就任

1945年4月27日

    第1回目標検討委員会がワシントンで招集された。そこでは、東京湾、川崎、横浜、
 名古屋、大阪、神戸京都、広島、呉、八幡、小倉、下関、山口、熊本、福岡、長崎、
 佐世保の17カ所が原爆投下の研究対象として選ばれた。

1945年5月11日

    第2回目標検討委員会では、爆風で効果的に損害を与えられることなどが条件となり、
 広島、京都、横浜、小倉の4つの目標都市が選ばれた。京都と広島を優先順位の高い
 AA級目標に、横浜と小倉をそれより優先順位の低いA級目標に分類した。

1945年7月20日以降

      第509混成部隊は長崎に投下する原子爆弾(ファットマン)と同形状の爆弾に
 通常爆薬を詰めたパンプキン爆弾(総重量4,774kg、爆薬重量2,858kg)の投下訓練を繰り返した。
 すなわち、原子爆弾の投下予行演習である。テニアン島から日本列島の原子爆弾投下目標都市まで
 飛行して都市を目視観察した後に、その周辺の別な都市に設定した訓練用の目標地点に正確に
 パンプキンを投下する練習が延べ49回、30都市で行われた。 
パンプキン練習作戦は、1945年7月24日、7月26日、7月29日、8月8日及び8月14日と終戦直前まで行われた。

1945年7月24日、京都市の代わりに長崎市が、地形的に不適当な問題があるものの目標に加えられた。

1945年7月25日

     マンハッタン計画の最高責任者レスリー・グローブスが作成した原爆投下指令書が発令される

 (しかし、それをトルーン大統領が承認した記録はない)。
  ここで「広島・小倉・新潟・長崎のいずれかの都市に8月3日ごろ以降の目視爆撃可能な天候の日に「特殊爆弾」を投下する」とされた

1945年8月2日

  第20航空軍司令部が「野戦命令第13号」を発令し、8月6日に原子爆弾による攻撃を行うことが決定した。
   攻撃の第1目標は「広島市中心部と工業地域」(照準点は相生橋付近)、
   予備の第2目標は「小倉造兵廠ならびに同市中心部」、
   予備の第3目標は「長崎市中心部」であった

1945年8月6日、8時15分、広島市にウラニウム型原子爆弾リトルボーイが投下された。

1945年8月8日

  第20航空軍司令部が「野戦命令第17号」を発令し、8月9日に2回目の原子爆弾による攻撃を行うことが決定した。
   攻撃の第1目標は「小倉造兵廠および市街地」、
   予備の第2目標は「長崎市街地」(照準点は中島川下流域の常盤橋から賑橋付近)であった

1945年8月9日、第1目標の小倉市上空が八幡空襲で生じた靄による視界不良であったため、
       第2目標である長崎市にプルトニウム型原子爆弾ファットマンが投下された。

1945年8月10日、トルーマンが全閣僚を集め、これ以上の原爆投下を中止する指令を出す。

 

尚、マンハッタン計画の年表についてはWikipediaの下記サイトに詳述

 https://ja.wikipedia.org/wiki/マンハッタン計画の年表

 

上の写真は広島の原爆ドーム 撮影:2000年x月x日

上の2枚の写真は広島への原爆投下

出典:2020年6月10日放送 英雄たちの選択 古関祐而

原爆投下の翌年、広島の復興を願う歌が生まれた。古関祐而が作曲した「歌謡ひろしま」

被爆から1年の事業として中国新聞社が歌詞を公募した。曲を付けたのが古関である。

 「声も高らに 歌謡ひろしま」「古関氏鏤骨(るこつ)のメロデー完成」。そんな見出しとともに、歌は1946年8月9日付の朝刊で発表された。記事には古関のコメントも載る。「作曲にも苦心して何処でも誰にでもうたへるやうにした」。力の入れようが分かる。

以上は2020年1月3日付け中国新聞電子版からの引用です。

上の写真は歌謡ひろしまの楽譜 出典:2020年6月10日放送 英雄たちの選択 古関祐而

上の2枚の写真は長崎への原爆投下

出典:2020年6月10日放送 英雄たちの選択 古関祐而

長崎の鐘 藤山一郎 昭和の歌

 

日本への原爆投下 By Wikipedia

 https://ja.wikipedia.org/wiki/日本への原子爆弾投下

The Manhattan Project

The Moment in Time: The Manhattan Project

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