現在、鴻山俊雄著 『日中交流七十年 その道一筋の回顧』(1988.7)を図書館
より借りて読んでいます。出版は華僑問題研究所
この本のPage57に島田叡知事の実家の「島田医院」の写真が掲載されていたので
紹介します。貴重なものです。
上の写真が島田叡沖縄県知事の実家の島田医院(島田五三郎先生)
上述の本の著者の鴻山俊雄さんの子供の頃、島田医院で悪性の乾性肋膜炎の治療を
してもらい約半年、療養生活を送ったそうです。
島田叡知事の略歴と功績について過去に下記のブログで書いていますが再述します。
https://seiyo39.exblog.jp/20828414/
https://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/57dc098b3e8f1660e71a648b7e937dbd
島田 叡(しまだ あきら、1901年(明治34年)12月25日 – 1945年(昭和20年)6月27日?)
氏について略歴を簡単に書いておきます。
明治34年(1901)12月25日、開業医・島田五十三郎の長男として生まれる
出生地:神戸市須磨区西須磨上樋詰1番地(現在の須磨寺町2丁目2番地)
明治40年(1907)須磨尋常高等小学校入学(現在の西須磨小学校)
大正3年(1914) 同校を卒業
大正8年(1919) 神戸第2中学校(現在の兵庫高校)卒業
大正11年(1922) 三高文科丙類卒業
神戸二中、三高では野球部で活躍、東大時代は野球部のスター選手
学生野球に参加した経歴から、野球殿堂博物館(東京ドーム内)に建立された
戦没野球人モニュメントに名前が刻まれている。
大正14年(1925) 東大法学部政治学科を卒業
大正14年4月 山梨県属 内務官吏 を皮切りに全国を転勤して歩く
昭和19年8月(1944) 大阪府内政部長
昭和19年10月10日 沖縄に初めて米軍が空爆(日本軍の反撃なし)
昭和20年(1945)1月8日 当時の大阪府知事より沖縄県知事への異動の打診
「誰かが、どうしても行かなあかんのなら、言われた俺が断るわけにはいかんやないか。
俺は死にたくないから、誰か代わりに行って死んでくれ、とは言えん。」として、
日本刀と青酸カリを懐中に忍ばせながら、死を覚悟して単身沖縄へ飛んだ。
昭和20年(1945)1月31日 沖縄県知事に単身着任
ドラマでは前任の沖縄県知事 泉守紀氏のことが悪く語り継がれており悲運な人物
10月10日の空襲以降沖縄県からの転出を画策実際に香川県知事へ転出した。
泉 守紀(いずみ しゅき、1898年2月11日 - 1984年10月21日)
野里洋 『汚名--第二十六代沖縄県知事泉守紀』 講談社(原著1993年12月)
上記の書籍に泉守紀氏のことを擁護する内容も記載されている。
島田 叡氏の功績
(1)着任後に真っ先にやったのが沖縄住民を安全な北側や九州へ疎開させた
約10万人がこれにより救われたといわれる
(2)台湾総督府総務長官(成田一郎元兵庫県知事)に米3,000石を調達してもらう
当初、沖縄にこの物資が到達しなかったということになっていたが
52年後に米が沖縄に到達していたことが証明された
(3)大田実海軍中将(1891-1945)との間で官庁と軍の関係修復に成功
自決する(6月13日)前の昭和20年(1945)6月6日に海軍次官あてに
打った電信は余りにも有名でドキュメントでも詳しく紹介されていました。
念のためにその電報の内容をWikipediaより引用添付させていただきます。
6月6日20:16発 6月7日18:05再発 6月7日17:32受信
発 沖縄根拠地隊司令官
宛 海軍次官
左ノ電□□次官ニ御通報方取計ヲ得度
沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既ニ通信力ナク
三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ
非ザレドモ現状ヲ看過スルニ忍ビズ之ニ代ツテ緊急御通知申上グ
沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来陸海軍方面防衛戦闘ニ専念シ県民ニ関シテハ殆ド顧ミルニ
暇ナカリキ然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ
捧ゲ残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ僅ニ身ヲ以テ
軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難尚砲爆撃ノガレ□中風雨ニ曝サレツツ乏シキ
生活ニ甘ンジアリタリ
而モ若キ婦人ハ卒先軍ニ身ヲ捧ゲ看護婦烹炊婦ハ元ヨリ砲弾運ビ挺身切込隊スラ申出ル
モノアリ所詮敵来リナバ老人子供ハ殺サルベク婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ
供セラルベシトテ親子生別レ娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ
看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ身寄無キ重傷者ヲ助ケテ敢テ真面目
ニシテ一時ノ感情ニ馳セラレタルモノトハ思ハレズ
更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ指定セラレ輸送力
皆無ノ者黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ
是ヲ要スルニ陸海軍部隊沖縄ニ進駐以来終止一貫勤労奉仕物資節約ヲ強要セラレツツ
(一部ハ兎角ノ悪評ナキニシモアラザルモ)只々日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ
抱キツツ遂ニ□□□□与ヘ□コトナクシテ本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形□一木一草焦土ト
化セン糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ
沖縄県民斯ク戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ
電報の現代語訳 [編集]
沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、県はすでに通信手段を失っており、第32軍司令部もまたそのような余裕はないと思われる。県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせ申し上げる。
沖縄本島に敵が攻撃を開始して以降、陸海軍は防衛戦に専念し、県民のことに関してはほとんど顧みることができなかった。にも関わらず、私が知る限り、県民は青年・壮年が全員残らず防衛召集に進んで応募した。残された老人・子供・女性は頼る者がなくなったため自分達だけで、しかも相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれてしまってただ着の身着のままで、軍の作戦の邪魔にならないような場所の狭い防空壕に避難し、辛うじて砲爆撃を避けつつも風雨に曝さらされながら窮乏した生活に甘んじ続けている。
しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、砲弾運び、挺身斬り込み隊にすら申し出る者までいる。
どうせ敵が来たら、老人子供は殺されるだろうし、女性は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうからと、生きながらに離別を決意し、娘を軍営の門のところに捨てる親もある。
看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした頼れる者のない重傷者の看護を続けている。その様子は非常に真面目で、とても一時の感情に駆られただけとは思えない。
さらに、軍の作戦が大きく変わると、その夜の内に遥かに遠く離れた地域へ移転することを命じられ、輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している。
つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要されたにもかかわらず、(一部に悪評が無いわけではないが、)ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、遂に‥‥(判読不能)与えることがないまま、沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている。
食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという。
沖縄県民はこのように戦い抜いた。
県民に対し、後程、特別のご配慮を頂きたくお願いする。
島田 叡知事と最後まで仕事に邁進した荒井退造警察部長の存在が大きかったのは
いうまでもない。
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