CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

山陽電車高砂駅周辺の散策 on 2017-11-12&2018-1-21 その7 申義堂(しんぎどう)

2018年02月08日 05時05分01秒 | 神戸市以外の兵庫県
2017年11月12日と2018年1月21日に山陽電車の高砂駅に下車し
高砂駅の南の地区を散策してきました。初訪問です。

本日はその第7回目で江戸時代に姫路藩の庶民が学んだ申義堂(しんぎどう)
の写真を紹介します。


過去の散策記

第1回 山陽電車高砂駅周辺の散策 on 2017-11-12&2018-1-21 その1 高砂神社

第2回 山陽電車高砂駅周辺の散策 on 2017-11-12&2018-1-21 その2 十輪寺

第3回 山陽電車高砂駅周辺の散策 on 2017-11-12&2018-1-21 その3 キャンドルカフェ記念チェアー しあわせの席「たかさご」

第4回 山陽電車高砂駅周辺の散策 on 2017-11-12&2018-1-21 その4 堀川の風景

第5回 山陽電車高砂駅周辺の散策 on 2017-11-12&2018-1-21 その5 北堀川界隈

第6回 山陽電車高砂駅周辺の散策 on 2017-11-12&2018-1-21 その6 藍屋町の川地蔵

復元された申義堂の基本情報

住所:高砂市高砂町横町1074-5 
TEL:079-448-8255(高砂市教育委員会生涯学習課文化財係)
公開日:土曜、日曜、祝日 公開時間:10:00~16:00
復元された申義堂の竣工:平成24年(2012)1月


公式サイト:http://www.city.takasago.hyogo.jp/index.cfm/18,24141,175,html

Goo地図を添付


復元された申義堂




上の2枚の写真は復元された申義堂の建物(正面)と側面

申義堂(しんぎどう)は江戸時代の文化年間(1804-1818)に高砂町北本町に
創立された学問所で、姫路藩家老の河合寸翁(1767-1841)の命により、当時
高砂の大年寄であった岸本吉兵衛が土地・建物を提供した、町民による町民のための
教育機関でした。 高砂の庶民が学んだ郷学として、教育の原点ともいえる施設です。

以上の文は 説明リーフレット(高砂市指定文化財 申義堂)より引用

建物は木造平屋建本瓦葺寄棟屋根、3間×3.5間、20畳の座敷1室、奥の間が3室、
縁側から構成 東西8.2m・南北7.8m・棟高6.2m、建築面積65㎡

平成11年(1999)に株式会社カネカから受けた寄付金を原資に復元計画を策定
平成22年(2010)から復元工事に着手、平成24年(2012)1月に完成


上の写真は建物内部


上の写真は申義堂の額で揮毫は河合寸翁(複製品)


上の写真は現地説明版


上の写真は復元された正面玄関の飾瓦六角露盤


上の写真は王の字が書かれた瓦

展示説明

 近隣の学問所
 

 申義堂の教育
 
 上の写真は申義堂での教育風景を描いたイラスト

 
 上の写真は岸本家に伝わる申義堂の出席簿 天保6年、7年、9年

 
 上の写真は出席表 在学者10人から15人程度 1年間から4年間学んだ

 
 上の写真は授業のある日と授業の内容

 
 上の写真は申義堂の教授陣と関係者のリスト

 教授陣の中で最後の教授であった美濃部秀芳(1841-1904)の次男は憲法学者の美濃部達吉
 孫には東京都知事を務めたが美濃部亮吉がいることで有名(詳細は下の写真)
 

申義堂があった場所

 申義堂のあった場所は現在の高砂地区コミュニティセンター(下の写真)のある場所で
 現地には説明版(下の写真)が設置されています。
 

 

 
 上の写真は申義堂の跡地のその後変遷を示した説明パネル
 明治4年(1871)の廃藩置県で申義堂は廃止され岸本家に払い下げされました。
 明治12年(1879)に加古川の西井口村(加古川市東神吉町西井ノ口)に姫路光源寺
 の説教所として移築。以下略

 移築に当たっては長谷川亀次郎が学校設立に関与。

 
 上の写真は地図で示された元の位置と加古川の移転地

 
 上の写真は平成2年(1890)に発見された時の様子

 


  
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ごはん処  大戸屋 須磨パテ... | トップ | 第30回 南京町 春節祭 o... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

神戸市以外の兵庫県」カテゴリの最新記事