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倭国から日本国になった年は大宝2年(702)

2020年10月28日 05時56分20秒 | 神戸情報

倭国から日本国になった年号には諸説あるようですが2020年9月23日に放送された

英雄たちの選択「日本のかたちを決めた女帝 持統天皇の真実」で倭国から日本国

になったのは持統天皇(645-702)が唐に遣唐使を再開した大宝2年(702)であるとの

解説がありましたので紹介します。

上の写真は持統天皇による702年(大宝2年)の遣唐使再開の場面

上の写真は史記正義に書かれた文章

史記正義は736年にできた『史記』の注釈書である。

 「武后改 倭國為日本國

当時の唐(首都は長安)王朝の女帝 武則天=則天武后(690-705に在位)に

遣唐使の使いは倭国ではなく日本国の代表であることを認めさせた。

唐は当時一時的に王朝名を武周としていた。

上の写真は番組の中で持統天皇が造営させた藤原京(694-710に首都とした)の上に

日本國と書かせた場面

 

番組からの情報ではありませんが712年に編纂された「古事記」では国号として倭が

使用され720年に編纂された「日本書記」では国号として大部分、日本と表記されています。

また、中国の歴史書をみると

  1. 『後漢書』……倭
  2. 『三国志』……倭
  3. 『宋書』………倭
  4. 『隋書』………倭
  5. 『旧唐書』……倭・日本
  6. 『新唐書』……日本
  7. 『宋史』………日本
  8. 『元史』………日本
  9. 『明史』………日本

 と、(5)を境に「倭」と「日本」とが分かれます。(5)は中国の王朝「唐」の時代の

歴史を記したものですから、つまり、唐代に「倭」が「日本」になった

番組で大宝2年(702)に倭から日本国となったとの仮説と整合性があります。

 

持統天皇は天武天皇(673-686)と供に檜隅大内陵(明日香村大字野口)に眠られています。

上の写真は番組で紹介された天武・持統天皇陵(檜隅大内陵)

関連ブログ:

 https://seiyo39.exblog.jp/18312499/

天武・持統天皇陵に関するNHKテレビ報道と訪問(2011-5-16)時の写真

 天武・持統天皇量は八角五段の陵 (Exciteニュース)

 

 

上の写真は持統天皇が唐から受け入れた火葬で葬られたことを解説されている

飛鳥資料館 主任研究員の西田紀子さんの場面

歴代天皇で初めて火葬された天皇が持統天皇であり、先取の気性を類推できます。

火葬のはじまりについてブログを書いていますのでリンクしておきます。

 火葬のはじまり

参考のために持統天皇を中心とした系図を添付しておきます。(下の写真)

出典:「古代天皇列伝」学研(2010) Page99 執筆者は倉本一宏さん

大友皇子(弘文天皇)は即位の実体はないが明治3年(1870)に諡号(しごう)

を贈られて第39代弘文天皇となった。

今生天皇が第126代であるとの整合性から赤字の数値のように訂正しました。

 

参考情報として次のブログにリンクしておきます。

 ブラタモリ#162「奈良・飛鳥~なぜ飛鳥は日本の国の礎となったのか?~」

 

最後に番組「英雄たちの選択」の内容を記載して筆を置きます。

天智天皇の娘であり、天武天皇を夫に持つ持統天皇。彼女こそ日本のかたちを決定した

女帝といわれている。古代史上最強といわれる女帝の強さの秘密をさぐる。

672年、天智天皇の後継の座を巡って大海人皇子と大友皇子が争った「壬申の乱」は

古代最大の内乱と言われる。激しい争いをかいくぐって持統天皇は、父と夫の遺志を継ぎ、

藤原宮を建設し、律令制度を確立するなど、古代史に大きな足跡を残した。

日本のかたちを決めた女帝といわれる持統天皇の真実に迫る。
出演者
【司会】磯田道史,杉浦友紀,【出演】瀧浪貞子,里中満智子,上田紀行,【語り】松重豊

 


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