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神戸ゆかりの有名人 その4 佐川満男さん

2022年01月19日 09時30分51秒 | 神戸情報

本日は神戸ゆかりの有名人シリーズの第4回で俳優の「佐川満男さん」

をテーマに書いていきます。

佐川満男さん(82歳)は神戸市に生まれ東京への移住もありましたが現在も神戸で

暮らしておられます。

シリーズ過去の記事

第1回 滝川クリステルさん

第2回 プロゴルファー古市忠夫さん

第3回 政井マヤさん

 

佐川満男さんについて記事を書こうと思いたったのは1月18日NHKテレビの朝ドラ

カムカムエヴリバディ(Come Come Everybody)の第54話で東京の笹川プロダクションの

社長「笹川光臣」として登場されていたからです。

1月18日の第54話はトランペッターコンテストの当日からはじまります。

タイトルは「間に合った衣装」です。

関西一のトランぺッターを決めるトランぺッターコンテストでライバルのトミー北川

(早乙女太一)のあと、大月錠一郎(オダギリジョー)が「On the sunny side of the street」

の曲を演奏します。最終的にはトミーとジョーが残り課題曲を演奏するところまでで終わります。

1月19日の第55話「メジャーデビュー」ではコンテストで大月錠一郎(オダギリジョー)

が優勝し佐川満男さんが演じる審査委員長の笹川プロの社長「笹川光臣」より表彰されます。

さらに、東京に出てLPレコードを出す運びとなります。東京では笹川社長宅(佐川満男)に

住み込むこととなります。

上の写真は1月18日(火)に放送されたカムカムエヴリバディに出演の佐川満男さん

82歳ではありますがお元気そうです。

蛇足ですが佐川満男さんの娘役(笹川奈々の役)で佐々木希(のぞみ)さんも出演

されています。(上の写真)

上の3枚の写真は1月19日(水)に放送されたもの

ここでWikipediaより佐川満男さんの略歴を引用紹介します。

昭和14年(1939)11月6日、貿易商を営む家の4人きょうだいの末っ子として、神戸市垂水区塩屋に出生。甥(姉の子)に佐川一政がいる。ちなみに、実家の界隈は外国人の別荘地で、実家の洋館は建築から80年以上経ってなお現存する。

神戸市立塩屋小学校・神戸市立鷹取中学校を経て、神戸市立須磨高等学校を1年で中退した後に、英語によるカントリー・ミュージックの歌詞やギターによる演奏法を独学で身に付けた。やがて、神戸市の須磨界隈で活動していたロカビリーバンドにボーカルで参加すると、「白馬車」(神戸・新開地のジャズ喫茶)と「銀馬車」(当時有名だった大阪・難波のジャズ喫茶)のオーディションに合格。「銀馬車」でのオーディション合格翌日から、「クレイジー・バブルス」というバンドで内田裕也とツインボーカルを務めたところ、バンドは大きな人気を博した。昼は神戸・夜は難波で歌う多忙な日々が続いたことから、ボーカルを1名追加させる目的でオーディションを実施したところ、歌手志望の中村泰士が参加。この時は佐川曰く「人相が悪くて歌が下手」との理由で「クレイジー・バブルス」のメンバーになれなかったものの、後に作詞家・作曲家として佐川の人生に多大な影響を及ぼす。

「銀馬車」での東西ロカビリー大会で知り合った「ザ・スイング・ウエスト」の堀威夫から誘いを受けたことを機に上京すると、1960年に「二人の並木径」でビクターレコードから歌手デビュー。デビュー当初は、「佐川ミツオ」という名義を使用していた。「二人の並木径」を作曲したのはニール・セダカで、1960年に来日公演を開いた際には、「ザ・スイング・ウエスト」がバックバンドを務めていた。

デビュー後は、リバイバルブームを追い風に、「無情の夢」「ゴンドラの唄」「背広姿の渡り鳥」などのヒット曲を連発。NHK紅白歌合戦には、デビュー2年目の1961年から2年連続で出場した。しかし、ネフローゼ症候群や結核でおよそ3ヶ月間の入院生活を余儀なくされたことや、有頂天になった反動で悪評が立ったことから人気が急降下。その最中に、自身のステージで前座を務めていた中村が、佐川の自宅でギターを弾きながら10分足らずで「今は幸せかい」という曲を作ってしまう。

佐川は「今は幸せかい」を音楽出版社に自ら持ち込んだものの、行く先々で門前払いに遭ったため、自費で500枚のレコードを製作。中村と2人で大阪の盛り場を回ったところ、有線放送のリクエスト件数で1位を記録したあげく、日本国内の全レコード会社からリリースを正式に打診された。結局、1968年に本名の「佐川満男」名義で、「リリースの条件が特に良かった」という日本コロムビアから「今は幸せかい」をリリース。およそ60万枚の大ヒットに至ったばかりか、翌1969年には、この曲をひっさげて『NHK紅白歌合戦』へ7年振りに返り咲いた。

1970年に『NHK紅白歌合戦』へ通算4回目(自身2度目の2年連続)出場を果たすと、1971年に同業者(歌手)の伊東ゆかりと結婚。「伊東の歌が元々好きだった」とのことで、結婚後に一人娘(歌手の宙美)を授かったが、1975年の5月に離婚している。佐川が離婚後に語った話では、子どもの頃から歌っている伊東の才能や歌のうまさに嫉妬するあまり、伊東とたびたび口論していたという。津川雅彦長女誘拐事件(1974年)の犯人が警察に逮捕された後で、「最初は宙美を誘拐しようとして、仕事先から帰宅中の佐川が運転する乗用車を尾行していたが、佐川に途中で振り切られてしまった」と供述したことも、伊東との口論につながったとされる。結局、「人生をリセットしないといけない」と考えたあげく、離婚を機に「ルーマーズハウス・アスク」というクラブを大阪の北新地で開業。離婚の1ヶ月後(1975年6月)に開いた記者会見で「歌手を廃業する」と宣言したことによって、芸能界をいったん離れた。

中略

趣味は絵画の制作、料理、登山。絵画の制作については、小学生時代に画家の中西勝が主宰していた絵画教室へ通っていて、須磨高校からの中退後にも新開地の喫茶店で手ほどきを受けていた。

筆者注):中西勝の家(アトリエ)は塩屋の旧ジェームス邸の西南のすぐ近くにあった

     佐川の実家は海岸に面して建っており旧ジェームス邸にも近い

中略

しかし、ギターの演奏へのめり込んだことを境に、絵画の制作から40年以上遠ざかっていた。60歳になった2000年から『ちちんぷいぷい』(毎日放送)の「前略、旅先にて」(紀行ロケコーナー)に「旅人」(リポーター)として出演したことを機に、絵画の制作を再開。2011年9月28日に同コーナーの放送を終了するまで、11年余りにわたってロケで200ヶ所を訪れたほか、後年の放送では「ロケ先での風景をボール紙に描く」という独特の画法も披露していた。2008年4月16日には、ロケ中に描いた絵画の一部を所収した画集『前略、旅先にて -心はいつも旅の空- 』が、ぴあから刊行されている(ISBN 978-4835616988)。もっとも、佐川曰く「『旅をしながら絵を描きたい』という夢が60歳から叶ったものの、自分の画風を作ることができなかったので、『前略、旅先から』が終了してからは絵を一切描いていない」とのことである

上の2枚の写真は神戸市垂水区塩屋小学校の近くにある塩屋幼稚園の壁に描かれた

佐川満男さん作のタイル画 撮影:2014年7月1日

タイル画は旗振山周辺から明石海峡を臨む風景を描いたもので佐川満男の並々ならぬ

郷土愛が込められた作品だと思います。

塩屋駅前のチーズケーキで有名なシーホースには塩屋周辺の見どころの地図も描かれています。

上の写真はJR塩屋駅前のチーズケーキの名店シーホースの店内に飾ってあった

佐川満男さんの絵画で、シーホースも電話番号とともに描かれています。

詳細は下記ブログを参照してください。

 神戸菓子 シーホースのレアーチーズ on 2013-6-1 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 

神戸市須磨区高倉台のおらが茶屋で明石海峡大橋を描いた佐川満男さん作の水彩画を観た記憶があります。
  おらが山(高倉山)のおらが茶屋でモーニング

 

ラジオ関西のおもしろ神戸楽で下記を分担されています。

 
36  『ジェームス山』 佐川満男

37  『塩屋の外国人』 佐川満男

38  『終戦後の塩屋』 佐川満男


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