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聖徳太子墓(叡福寺北古墳)訪問記 on 2014-12-2

2014年12月04日 04時42分41秒 | 大阪情報
2014年12月2日、大阪府南河内郡河南町の近つ飛鳥博物館での平成26年度
秋季特別展「箸墓以降ー邪馬台国連合から初期ヤマト政権へー」を観るために
出かけていた。

常設展で聖徳太子墓(叡福寺北古墳)の展示があり叡福寺が近くにあるとのことで
叡福寺に出かけて写真を撮りに行くことにしたその写真を紹介していきます。

聖徳太子墓のあるあたりを「磯長」という。「しなが」と読む。山号に使用。

まず、叡福寺の所在など基本情報を記載しておきます。

叡福寺の基本情報
住所:大阪府南河内郡太子町太子2146  TEL:0721-98-0019
宗派:現在は真言宗系単立だがもとは真言宗金剛峰寺の末寺 太子宗とも
山号:磯長(しなが)山
開基:聖武天皇
創設:不詳だが寺伝では推古天皇30年(622)
御本尊:聖如意輪観世音菩薩
別名:太子寺、御廟寺、聖霊院、上之太子
「上之太子」と呼ばれている「中之太子」野中寺、「下之太子」大聖勝軍寺とともに河内三太子
 と称され、四天王寺と合わせて参詣する巡礼が盛んに行われた。

公式HP(太子町):
        http://www.town.taishi.osaka.jp/kanko_info/taishijikkei/eifukuji.html

関連事項:
生誕地の橘寺と叡福寺と兵庫県太子町の斑鳩寺とは一直線に並ぶ
花山法皇は、叡福寺の僧といわれる仏眼の導きを得て西国三十三所を復興した。


Goo地図はこちら
 

叡福寺の境内の看板など境内のハイライトのみ写真を掲載しておきます。

上の写真は境内全体案内図の看板

上の写真は中門(南大門)

上の写真は金堂(本堂)

上の写真は本堂側から多宝塔と中門を臨み撮ったものです。
多宝塔(重要文化財)は1652年、江戸の三谷三九郎の再建。
本尊は東面に釈迦・文殊・普賢の三尊像。
西面に金剛界の大日如来を安置し、4本の柱には四天王の像が描かれている。

さて本題の聖徳太子墓(叡福寺北古墳)の話題に移します。

まず、近つ飛鳥博物館の常設展で聖徳太子墓(叡福寺北古墳)の展示の説明版を
示します(下の写真)



上の写真は近つ飛鳥博物館の常設展の展示で叡福寺北古墳の石室の内部が復元されています。

この墓には聖徳太子の他に聖徳太子の母君の穴穂部間人皇后(あなほべのはじひとこうごう)と
妃の菩岐々美郎女膳臣女(ほききみのいらつめかしわでのおみのむすめ)の3人が
葬られていることから三骨一廟と呼ばれています。

造営年代と納骨時期について:
聖徳太子は生前にこの地に廟を造ることに決め、推古28年(620年)に墓所を造営したとされる。
推古29年、太子の母・穴穂部間人皇后が死去したのでこの墓に埋葬した。
更に推古30年(622)2月、大后の眠る廟に、太子と前日に亡くなった妃の
菩岐々美郎女膳臣女が合葬された。
法隆寺金堂に安置されている釈迦像の光背に刻まれた銘文による


石室は現在宮内庁の管理下にあり立ち入ることができない。

近年での学術調査として宮内庁職員である富岡鉄斎が、明治12年に入廟し、
このときも三棺合葬となっている石室図を記録として残しています。
明治の初めまでは石室にはいることが可能で先人がいくつかの記録を残している。
近つ飛鳥博物館の展示より紹介します。


上の写真は展示パネル。

小さいので拡大したものを添付します。

上の写真の右側は聖徳太子絵伝1300年代より、左側は弘仁元年(810年)、弘法大師(空海)がこの
聖徳太子御廟へ参籠したときの廟内の記録を宝暦5年(1755年)に叡福寺東福院の僧、玄俊が
書写したものが伝えられています。
展示の説明では1790年乗如上人よりと記載。

上の写真は上述の富岡鉄斎による記録と大正10年(1921)梅原末治氏による記録。
復原模型は1921年のものを基礎にしていると思われました。


上の写真は日本全国を歩き布教した一遍上人が1299年に弟子の絵師でもある法眼円伊を
伴って37日間参篭し聖徳太子墓「太子廟参篭の図」(一遍上人絵伝、歓喜光寺蔵・国宝)を
描かせています。


上の写真は聖徳太子関連の系図です。
平成26年(2014)3月2日近つ飛鳥博物館管長の白石太一郎先生の講演資料よりです。

拡大版はこちら
 http://seiyo39.blog.eonet.jp/default/files/shoutokukeizu.pdf


上の写真も同じく平成26年(2014)3月2日近つ飛鳥博物館管長の白石太一郎先生の講演資料よりです
叡福寺北古墳の図面です。

拡大版はこちら
 http://seiyo39.blog.eonet.jp/default/files/syotokutaishitomb.pdf








上の写真は聖徳太子墓の現況です。
 ここで特筆しておかなければならない事項として結界石があります。
 円墳の周囲に先が尖った石が2重に配列されています。その内側の部分には弘仁元年(810)、
 弘法大師空海がこの地に来られ築造されたもので梵字が刻まれています。
 外側の石は享保年間に信者の寄進で修築されたものだそうです。


上の写真は三骨一廟碑〔二十句の霊碑〕(廟窟偈碑)です

御廟窟内の西に、皇太子自ら彫刻した霊碑の二十句を埋納したと云われている石碑を、
享保年間(1716~36)に、願主が廟前の東にその模刻をしたものを建立しました。
霊碑の文は下記の通りであります。


       上段       中段       下段
右より一列目 大慈大悲本誓願  愍念衆生如一子  是故方便従西方
   二列目 誕生片州興正法  我身救世観世音  定恵契女大勢至
   三列目 生育我身大慈母  西方教主弥陀尊  真如真実本一体
   四列目 一体現三同一身  片域化縁亦巳悉  還帰西方我浄土
   五列目 為度末世諸衆生  父母所生血肉身  遺留勝地此廟窟
   六列目 三骨一廟三尊位  過去七仏法輪所  大乗相応功徳地



太子廟の七不思議 (Wikipediaより引用)

一、樹木が生い茂った御廟内には、松や笹が生えない。

二、鳥が巣を造らない。

三、大雨が降っても御廟の土が崩れない。

四、御廟を取り巻く結界石は何度数えても数が合わない。

五、メノウ石に太子の御記文が彫られたものが、太子の予言どおりに
    死後430年後(1054年)に発見された。


六、御廟の西にあるクスノキは、母后を葬送したときに、太子自らが
   かついだ棺の轅(ながえ)を挿したものが芽をふき茂った。

七、894年、法隆寺の康仁大徳が御廟内を拝見した時、太子の着衣は朽ちて
   いたが、その遺骸は生きているように温かくやわらかだった。



聖徳太子関連の年表


関連年表
538年 仏教伝来(一説では552年)
540年 大伴金村、任那問題で失脚
552年 蘇我稲目と物部尾輿が崇仏論争
562年 新羅が任那を滅ぼす
574年 聖徳太子生誕
      574年2月7日(敏達天皇3年1月1日)出生地は橘寺     
577年 百済より経論、律師、禅師、仏工、寺工渡来
585年 物部守屋等 仏寺、仏像などを焼き捨てる
     聖徳太子の父・橘豊日皇子が即位(用明天皇)
587年 崇仏派の蘇我馬子が物部氏を滅ぼす
588年 蘇我馬子が飛鳥寺の造営を開始
582年 蘇我馬子が崇峻天皇を謀殺
      推古天皇即位
593年 聖徳太子が摂政となる、四天王寺建立開始
594年 仏教興隆の詔
600年 第1回の遣隋使を派遣
601年 斑鳩宮を造営
603年 冠位十二階を定めた
605年 諸王諸臣に、褶の着用を命じる。斑鳩宮へ移り住む
604年 十七条憲法を制定
615年 仏教を篤く信仰し「三経義疏」を著す
622年 聖徳太子死去
      622年4月8日(推古天皇30年2月22日)

さらに詳細は http://en.wikipedia.org/wiki/Prince_Sh%C5%8Dtoku
      

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