CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

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深江文化村について NHK総合テレビ「かんさい熱視線」-亡命のウクラニアンを視聴して

2022年06月04日 03時31分06秒 | 神戸情報

2022年5月27日(金)19:30NHK総合テレビ「かんさい熱視線」-亡命のウクラニアン

百年の記憶という番組を視聴しました。

番組の後半で紹介されたホロドモールについては下記ブログで纏めました。

 ホロドモールとは NHK大阪放送局「かんさい熱視線」を視聴して - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

本ブログでは1917年のロシア革命以後、ロシアを出て東へ向かいハルビンを経由して

神戸に到ったウクライナの亡命者達が神戸市東灘区で深江文化村に移住し音楽活動を

中心に日本の音楽家たちに影響を及ぼした事象を紹介していきます。

ウクライナから来た音楽家の代表格として作曲家のアマヌエル・メッテル、ピアニストの

レオ・シロタ、バイオリンのアレキサンダー・モズレフスキーを取り上げます。

彼らは所謂、白系ロシア人と呼ばれた人達である。彼等は、神戸にとどまる人もいれば

神戸を経由してアメリカへ渡った人達もいた。

日本に亡命してきたウクライナの人達は日本では白系ロシア人として扱われその人数は

約7,000人位(番組では数千人)とされています。

本論に入る前に彼らが何故、亡命しなければいけなかったのか、その背景を纏めました。

1917年2月のレーニンによるロシア革命以降、ウクライナでは自治組織の

ウクライナ中央ラーダが組織され独立の方向性を目指した。

(1917年11月7日、中央ラーダはウクライナ人民共和国の成立を宣言)

上の写真はウクライナ国民共和国の範囲

しかしこの動きを嫌ったレーニン政府と中央ラーダとの対立は深刻なものとなった。

1918年11月11日に第一次世界大戦でドイツ軍、オーストリア軍が敗北すると、同年12月に

ウクライナの編入を目指すレーニン政権は再び、ウクライナ侵攻を開始し、1919年1月6日

には、ハルキウでソビエトの傀儡政権ウクライナ社会主義ソビエト共和国樹立が宣言された。

1919年2月5日にソビエト軍がキエフを占領すると、ボリシェヴィキはウクライナに対して

無理難題を強要する圧政を行った。

ボリシェヴィキの強硬策に対してウクライナでは反発が強まり、ウクライナでは1919年4月に

93回、5月に29回、6月に63回の暴動が発生。4月から7月までに合計300回の暴動が発生した。

前置きが長くなりました。これからが深江文化村に関するものです。

参照した資料は下記のとおりです。

 1)上述のNHK総合テレビ「かんさい熱視線」

 2)神戸深江生活文化史料館の資料

 3)2012年6月30日の「深江文化村」への訪問時の写真

 4)Google のマップ

 

深江文化村の位置

上の写真はGoogleマップに深江文化村の位置を示したものです。出典:4)

所在地の住所は神戸市東灘区深江南町1丁目

深江南町1丁目と2丁目の境界は津知川(昭和55年以降、現在は暗渠となっています)

上の写真は深江文化村の位置(1932年=昭和7年) 出典:3)

上の写真は深江文化村の位置 出典:2)

個人情報保護のため拡大版は作成しません。

神楽町公園前の現地説明板

上の写真は神楽町公園前の現地説明板の遠景 出典:3)

上の写真は神楽町公園前の現地説明板の中景 出典:3)

上の2枚の写真は現地説明板の文章 出典:3)

日本語の説明文にはText文も掲載しておきます。

大正から昭和にかけて、この辺り一帯には、ピアニストのアレクサンダー・ルーチン、指揮者のジョセフ・ラスカやエマヌエル・メッテルら、ロシア革命(1917年)の亡命者たちが住居していた。彼らを慕って多くの門下生が集まり、音楽を通した交流からは、朝比奈隆、服部良一、貴志康一、大澤壽人ら多くの日本人音楽かが生まれた。この地域が深江文化村と呼ばれる由縁である。
深江文化村は、関西で多くの西洋建築を手がけた米国人ウイリアム・ヴォーリズの弟子で、建築家の吉村清太郎によってデザインされた。敷地には十三棟の洋館が中庭の芝生を取り囲むように建てれられ、大正モダニズムを象徴する空間として知られたが、近年の宅地開発や震災により、今や2軒が現存するのみである。
現存する富永邸、古澤邸は有形登録文化財に指定されている。

上の写真は神楽町公園前の現地説明板ではなく、神戸深江生活文化史料館の説明板 出典:2)

深江文化村は大正12年(1923)、深江の開業医、坂口氏が自己の所有地2,000坪に

在日外国人を対象とする理想的な住宅団地を計画したことに始まる。・・・・以下略

上の写真は現地説明版の深江文化村の13軒の家屋 出典:3)

上の写真は13軒の家の所有者又は賃貸者の氏名を記載したもの。出典:3)

上の写真は昭和36年(1961)に撮影された深江文化村 出典:2)

上の写真は深江文化村の全景  出典:1)

古澤家住宅(有形登録文化財(建造物))

上の写真は神楽町公園側から撮った古澤邸 撮影:2012-6-30 出典:3)

上の2枚の写真は上空から撮った古澤邸 出典:1)

13棟建てられた芦屋文化村住宅のうちの一つで、最も凝った意匠になる。複雑な平面形に

対しハイピッチに屋根をかけた独特なデザインにまとめ上げている。関西における

近代住宅史を語る上で貴重な作品である。設計はロシア人建築家ラディンスキー。

以上の文は国指定文化財等データベース古澤家住宅主屋

大正14年(1925)の建築。登録年月日は平成10年(1998)12月11日 登録No.:28 - 0032

構造及び形式:木造2階建、スレート葺、建築面積80㎡

住所:神戸市東灘区深江南町1-3-29

上の写真は古澤邸の階段。ウクライナのビザンティン形式の特徴を有するもので

ウクライナ正教の影響を受けたマークが施されています。出典:1)

冨永家住宅(有形登録文化財(建造物))

 

上の2枚の写真は冨永邸 撮影:2012-6-30 出典:3)

上の写真は冨永邸(真ん中)と旧ベーカー邸(右)、旧ビルマン邸(左)

真ん中に設置されたコートヤード南の家々 年代は不明 出典:2)

大正末期に開発された通称芦屋文化村と呼ばれる小住宅地に建つ洋風住宅。木材関係の

仕事をしていた施主の冨永初造の構想案をもとに馴染みの建築家ベイリーが設計し、

大工吉田勝二郎が施工した。枠組工法の原型をなす作品で、近代住宅史上も貴重である。

 以上の文は国指定文化財等データベース冨永家住宅主屋より引用

大正期(1912-1925)の建築。登録年月日は平成10年(1998)12月11日 登録No.:28 - 0030

構造及び形式:木造2階建,瓦葺,建築面積93㎡

住所:神戸市東灘区深江南町1-3-9

冨永家住宅附属屋(11㎡登録No.28-0031)についても登録有形文化財に指定されています。

 以下の文は国指定文化財等データベース冨永家住宅附属屋より引用

敷地の南側に位置し,端正な意匠になる総2階建の主屋と同様,窓枠を白色,外壁を緑色に塗って,簡潔にまとめあげる。切妻造,平屋建の小規模な建物で,背後に庇が付き,道路側に大きく開いた方形の窓を見せる。主屋と共に,大正期の洋風住宅の好例である。

 

冨永邸は、大正14(1925)年竣工の米国2×4(ツーバイフォー)構法による西洋風住宅で、

鈴木商店シアトル駐在員だった冨永初造が帰国後、木材部材を米国より取り寄せて建築した

上の写真は上空から撮った冨永邸 駐車場の左手手前の庭がある家 出典:1)

 

旧メッテル邸(旧ベーカー邸)

上の写真は旧メッテル邸 出典:1)

上の2枚の写真は現存していない旧メッテル邸(旧ベーカー邸) 出典:2)

当時メッテルが居住していた家はその後、ベーカー邸として残ったが、平成19年(2007)

に解体され、最後まで残った3邸(旧メッテル邸、冨永邸、古澤邸)の内の一つが消え去った。

上の写真はウクライナの著名な指揮者、エマヌエル・メッテル(ヘルソン出身) 出典:1)

エマヌエル・メッテルは1878年2月28日生まれで1941年8月28日に63歳で死去した。

有名なサンクトペテルブルク音楽院中退のクラシック音楽の指揮者であり、

1926年3月に、これも先に日本へ亡命して宝塚音楽歌劇学校で教えていた、バレリーナの

妻のエレナを追って来日した。そして深江文化村に住んだ。亡命前はハルビン交響楽団で

指揮をしており、来日してからは大阪放送管弦楽団や現在の京大交響楽団などの指揮を

長期間務めた。1939年に米国に向けて離日した。

そして、カリフォルニア州ロスアンゼルスで1941年に死去した。

又、彼の妻、エレナ・オソフスカヤも亡命前にはロシアでプリマ・バレリーナとして

活躍し、宝塚音楽歌劇学校で後進の指導に当たった。


上の写真は宝塚でバレイの指導をするエレナ・オソフスカヤ 出典:1)

メッテルは服部良一(作曲家)、朝比奈隆(指揮者)、貴志康一(バイオリン、指揮者)

など日本人門下生を指導した。

番組では服部良一さんが1939年離日する時、船を見送りに行った時にメッテル先生から

かけられた言葉を回想されていました。また朝比奈隆さんの長男で神戸フィルハーモニック

の指揮者でもある朝比奈千足さんが父の遺品である指揮棒に関する逸話などを話されて

いました。

上の写真はメッテル先生夫妻の送別会に集った人々 出典:1)

ラディンスキー邸

上の写真はラディンスキー邸とラディンスキー夫妻(ロシア人の建築家) 出典:2)

彼は神戸・海岸通の明海ビルに事務所を構えていた。

旧岩田邸と旧フルター邸

上の写真は旧岩田邸(左)と旧フルター邸(右) コートヤード北側の建物 出典:2)

 

旧永田邸と旧ヴォーク邸

上の写真は旧永田邸(右)と旧ヴォーク邸(左)コートヤード北側の建物 出典:1)

上の写真は旧永田邸(小林邸) 昭和5年~15年頃 出典:2)

深江文化村の神楽新田駐在所

上の写真は深江文化村の請願で設置された神楽新田駐在所 出典:2)

深江文化村の住人達

上の写真は深江文化村の住人達の記念写真(コートヤードにて) 出典:2)

日本の音楽家を指導したウクライナ人

上の写真はピアニストのレオ・シロタ

園田高弘の指導をした。

上の写真は バイオリニストのアレキサンダー・モギレフスキー(オデーサ出身) 出典:1)

 日本のバイオリニストの諏訪根自子に影響を与えた。

バイオリニストとして著名な貴志康一は甲南学園でも学んでおり神戸に縁が深い音楽家である。

番組では紹介されなかったがヨーゼフ・ラスカ は日本初のオーケストラである宝塚交響楽団の指揮者

 


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