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工楽松右衛門旧宅開館記念シンポジウム「工楽松右衛門旧宅と高砂みなとまち」 on 2018-6-3

2018年06月05日 16時28分50秒 | 神戸市以外の兵庫県
2018年6月3日(日)の11時~12時30分まで表題のシンポジウムが
高砂地区コミュニティセンター1階 集会室でありました。
その内容についてメモとして残しておきます。

パネラーは今井修平氏(神戸女子大学教授)、曲田浩和氏(日本福祉大学教授)、
村上裕道氏(京都橘大学教授・市立図書館名誉館長)です。

まず、上記の御3方から報告がありました。当日配布の資料を中心に記述します。


報告1 「工楽松右衛門の人物像」 
今井修平氏(神戸女子大学教授、高砂市史編さん専門委員会委員長)

工楽松右衛門は「松右衛門帆」の発明と港湾の建設・修築事業で大きな功績をあげた。
港町高砂が生んだ近世海運発展の最大の功労者。

年別に纏めた方が判り易いので年譜としました。Wikipediaの情報に修正加筆

1743年(寛保3年) - 播州高砂(現在の兵庫県高砂市高砂町東宮町)の漁師の
           長男として生まれる。姓は宮本 
1758年(宝暦8年) - この頃兵庫に出て、佐比江町にある「御影屋」という船主のもとで
          船乗りになる。その後、兵庫の廻船問屋北風荘右衛門に知己を得て、
          その斡旋で佐比江町に店を構え、船持ち船頭として独立。
          持ち船を所有する廻船問屋として全国的に活躍
1785年(天明5年) - 木綿を使った厚手で大幅な新型帆布の織り上げに成功。
          「松右衛門帆」として全国に普及。
          のちに帆の開発で得た収益で「御影屋」を買収、当主となる。 
           
1790年(寛政2年) - 江戸幕府より択捉島有萌に船着場を建設することを命じられ着手する。
1791年(寛政3年) - この年の夏、択捉島の埠頭が竣工。2つの人工島を造成
1795年(寛政7年) -このころエトロフ島のシャナの港が完成。
1799年(寛政11年)- 高田屋嘉兵衛、エトロフ島とクナシリ島の航路を開く
1802年(享和2年) - 幕府から功績を賞され、「工楽」の姓を与えられる。
1804年(文化元年) - 箱館にドックを築造。その後、択捉開発や蝦夷地交易に使った
           函館の地所を、高田屋嘉兵衛に譲る。
1808年(文化5年) -故郷高砂の港の船の往来を容易にするため、私費で浚渫工事実施
1810年(文化7年) -高砂に居を構える、高砂港の築港完成
 高砂湊の改築工事について「ひろかずのブログ」が詳しく記述されています。

1811年(文化8年) -鞆ノ津(広島県福山市)において大波止、明神波止の修増築を行う
1812年(文化9年) - 8月21日(新暦換算1812年9月26日)死去。墓所は高砂の十輪寺、
           供養墓は神戸市兵庫区八王寺(福昌寺)にある。


 年譜などのさらに詳細は工楽松右衛門の公式サイト

姫路藩の依頼を受け高砂の新田開発や港湾の修築事業を工楽松右衛門の2代目、3代目が
請負いその職責を全うした。

松右衛門帆」とは木綿布を縫い合わせた刺帆とは異なり
特製の太い木綿糸を撚り経糸・横糸を2本ずつで織られた、丈夫でしなやかで風受けの
良い帆布である。松右衛門は帆布の製造法を秘密とせず多くの職人に伝えたため、
播州内の二見、明石、加古、阿閇を皮切りに、倉敷や尾道など広くに工場が立地し、多く
生産されるに至った。地元の兵庫津佐比江にも工房が建てられた。

文政5年(1822)刊 「農具便利論」の中で著者の大蔵永常は初代松右衛門の言葉として
「人として天下の益ならん事を計らず碌々として一生を過ごさんハ禽獣にも劣るべし、
およそ其の利を窮すむるに、などか発明せざらん事のあるべきやハ」「其の志すところ
無欲にして皆後人のためになる事をのみ生涯心をもちいたりき」と引用し称賛した。

「私」を殺して「公」に尽くす事が松右衛門の信条であった。

その他、兵庫津の兵庫城と高砂の高砂城との類似性も指摘されました。
小林一茶(1763-1828)との交流の記録が残っている。
シーボルトが工楽家に立ち寄った記録がある。
宮本家(工楽家)は商人としても成功をおさめ地元でも有力な家系であった。
姫路から江戸に五本の丸太を運搬した時、筏の工夫について。
司馬 遼太郎の「菜の花の沖」には高田屋嘉兵衛の記述として書かれている部分が
実際は工楽松右衛門のことである部分が多数ある。

報告2 「文書からみた工楽家の歴史と、近世の高砂みなと」
 曲田浩和氏(日本福祉大学教授、工楽家文書調査指導)


工楽家の文書史料は約1万点を超える。
工楽文書は廻船による荷物輸送などの幕府・藩御用、各地の港湾修築、工楽商店の
経営、高砂町の公務、文化人との交流など多岐にわたる史料群である。
高砂から兵庫に出た初代松右衛門は廻船業に従事し、のちに八幡丸、仲吉丸、貞宝丸
住吉丸などの船を差配した。
酒田、新潟、松前などから米、材木、海産物などを持ち帰った。
酒田では木綿販売を行っており、播州の産物との関係が考えられる。
初代松右衛門の事蹟が注目されるが、その晩年に行った鞆の津の修築は実質的には
二代(天明4年(1784)-嘉永3年(1850))が担い、二代が初代から土木技術者・
御用請負の立場を引き継いだ。高砂湊の整備に関わる宮本新田の開発は二代の事蹟である。

さらに二代目以降は高砂を拠点とした。幕末期にはすでに砂糖問屋を営んでおり、
のちの工楽商店の基礎を築いた。また、工楽家では姫路藩から高砂の川方掛り役を
任じられ、明治以降は高砂町の収入役を勤めるなど町政を担った。
昭和の初期(6代目長三郎の頃)には「白泥会」言うサロンを結成し、版画家棟方志功
や俳人永田耕衣ら多くの文化人が訪れた。

工楽家の歴代当主は高砂にこだわり、経済・政治・文化など様々な分野で高砂のために
貢献した。



北海道や島根(太田市大浦)にも工楽松右衛門の土木技術が生かされたとの史料が残る

その他、遠州牧の原川崎、宇和島奥浦などでも工楽松右衛門の土木技術が活用


工楽松右衛門のはどの教科書にも登場する三重県出身の河村瑞賢に匹敵する業績を
残したにも拘わらず一般的には知名度が低い。

報告3「工楽松右衛門旧宅の建築と、高砂の歴史文化遺産」
   村上裕道氏(京都橘大学教授・市立図書館名誉館長)


通常の文化遺産は3~4年かけて復元されるが今回の工楽松右衛門旧宅の復原は
1年4か月の短期間で完成された。
外壁が白となっているが、建築当初は黒であったのでは?

工楽家明治20年絵図が活用された。

「文化財は残すだけでなく、生きている人が意味づけをして生かさなければ」
「旧邸に研究者らが集まる拠点を整備し、まち全体の発展を考える場所にしてはどうか」



上の写真はシンポジウム会場(高砂地区コミュニティセンター1階 集会室)の様子です。


上の写真は6月3日の13時に開館した工楽松右衛門旧宅



上の写真はテープカットの様子


テープカットの動画
工楽松右衛門旧宅の開館のテープカット on 2018-6-3


テープカットをされた方々は右から高砂市マスコットキャラクターの「ぼっくりん」、
兵庫県東播磨県民局長の四海達也様、高砂市議会議長の入江正人様、高砂市長の登幸人様、
工楽家第8代当主の工楽誠之介様、兵庫県会議員の山本敏信様です。



参照資料:工楽松右衛門物語 高砂市教育委員会 - 松右衛門帆



関連報道:神戸新聞 東播(2018-5-25)

     神戸新聞 東播(2018-6-1)

     KAKOGAWA FUN CLUB

     兵庫県東播磨県民局PDF 

     山陽電車高砂駅周辺の散策(増補版) on 2018-2-17&2018-2-25 その4 工楽松右衛門旧宅(工事中)

    
 
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