CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

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 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その9 井上剣花坊の川柳碑

2015年01月07日 04時18分20秒 | 旅行記
萩の散策とグルメシリーズを再開します。本日は萩出身の川柳作家で新しい作風を
創出し川柳界の正岡子規の異名を持つ井上剣花坊の川柳碑を写真紹介します。


萩の散策とグルメシリーズの第9回となります。
過去8回の記事内容は以下のとおりです。

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その1 旧湯川家屋敷

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その2 萩市指定史跡 桂太郎旧宅

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その3 松下村塾と松陰神社

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その4  松浦松洞誕生地

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その5 厚東 常吉(ことう つねきち)翁像 in 松陰神社 

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その6 「薩長土連合密議之処」の石碑  in 松陰神社

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その7 割烹「千代」でのランチ

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その8 唐樋高札場跡



いきなりですが上の写真が井上剣花坊(いのうえけんかぼう)の川柳碑です。

「絶頂で 天下の見えぬ 霧の海」と詠まれています。

川柳は井上剣花坊52歳(大正12年頃)の作品だそうです。
平成10年(1998)3月に光国忠史氏が建立されました。
光国忠史氏は長州屋光国製菓という和菓子店を経営されています。

また光国忠史氏はしたの写真のような川柳を書かれています。
「見ただけで 碑文は読ます 皆通り」
地元の萩の人々を何ともユーモアたっぷりに皮肉ったもので笑いを誘う
良い作品だと思いました。

長州屋光国製菓のHP:http://www.e-hagi.net/mitsukuni/



井上剣花坊の川柳碑の設置場所は萩グランドホテルの西側 萩市大字古萩町25-26です。

Goo地図はこちら
 

 赤印のところではなく萩グランドホテル西側の長州屋光国製菓の道路に
面したところに碑が設置されています。

萩市内に井上剣花坊及び奥様の井上信子の石碑は20以上設置されています。

これらの石碑を紹介したサイトにリンクさせていただきます。
 http://hagilib.city.hagi.lg.jp/genkou/hagibungaku/bungakuhi5pdf.pdf
 上記サイトのNo.19が本日紹介のものです。

萩市で井上剣花坊顕彰会もあります。(下記サイトで活動を紹介)
 http://hagicenter-yui.jp/lib/24.pdf


上の写真は井上剣花坊を紹介した現地の説明板です。

Wikipediaより井上剣花坊の紹介を引用させていただきます。


井上 剣花坊(いのうえ けんかぼう、明治3年6月3日(1870年7月1日)~
昭和9年(1934年)9月11日)は、日本の川柳作家。幼名は七郎、のちに幸一。
著書に『江戸時代の川柳』などがある。

明治3年(1870年)6月3日、山口県萩市江向に生まれた。家系は毛利家に仕えて
いたが、廃藩後に没落、父栄祐は1891年に、不遇のうちに亡くなった。

独学で小学校代用教員となり、のちに山口県の新聞社『鳳陽新報』
(のち『長周日報』、その後防長新聞に併合されて消滅)に就職して新聞記者と
なった。同じ頃山県トメと結婚し、3人の子供を授かるも、トメは3人目出産後の
予後が悪く、1898年に他界。なお井上はその3年後の1901年に岡ノブと再婚、
2人の子供をもうけた。同じ1901年には『越後日報』に就職、主筆となった。

1903年7月、『越後日報』を退社し新聞「日本」に入社。ここで剣花坊の筆名で
新川柳の選者を務めた。なお筆名は、山口県で「争気がある人」を「喧嘩ぼう」
といったことから、自らをそれになぞらえて「剣花坊」の漢字を当てたものである。
その後退社したものの、客員として同誌の選者を務めた。
また他に『國民新聞』や『読売新聞』でも選者を務め、新興川柳の普及に努めた。
1905年結成の柳樽寺派の先達としても活躍「大正川柳」(のちに「川柳人」に改題)
を創刊、新興川柳派を支援した。しかし同誌に掲載された鶴彬の句が
治安維持法違反とされたため、同誌は廃刊に追い込まれた。

1929年からは『福岡日日新聞』『主婦之友』『中国民報』でも選者を務めた。

しかし1933年頃から体調不良を自覚し、翌年の1934年には軽い脳溢血を起こして
右半身が不自由となった。1934年9月8日に脳溢血で倒れ、9月11日、仮寓の神奈川県
鎌倉の建長寺で死去した。没後は妻の信子が後継となり、川柳誌を発行し続け、
また川柳作家の鶴彬を支援した。


「萩ものがたりvol.13 川柳中興の祖 井上剣花坊」(井上剣花坊顕彰会監修 
有限責任法人萩ものがたり発行 2006年)という小冊子(以下「小冊子」)
が刊行されており「小冊子」の後半に萩市内にある井上剣花坊の句碑が紹介
されているそうです。



上の写真は萩グランドホテルです。

萩グランドホテル玄関右脇にも井上剣花坊の「あの船のどれにも帰る港あり」
の川柳碑があります。
平成18年3月の建立だそうです
















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