CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

ポポラマーマ イオンジェームス山店でのランチ on 2021-11-21

2021年11月23日 04時37分20秒 | 神戸情報

2021年11月21日(日)、ポポラマーマ イオンジェームス山店

ランチを頂きましたので写真紹介します。

今迄、何回か訪問したことがありますがブログを作成したのは初めてです。

 

ポポラマーマ イオンジェームス山店の基本情報

住所:神戸市垂水区青山台7-7-1 イオンジェームス山店2階 TEL:078-753-9250

営業時間:11:00~21:00  料理ジャンル:イタリア料理(パスタ、ピザなど)

公式サイト:ポポラマーマ イオンジェームス山店 | ポポラマーマ (popolamama.com)

 

上の写真は当日、私が選んだランチセット Aセット イカとキャベツのバジリコペペロンチーノ

サイドメニューとしては本日のスープとミニサラダを選択 ドリンクバー付き 980円(税込)

上の写真は奥様が選んだ ランチセット Aセット ソーセージとしめじ・ブロッコリーの

しょうゆ サイドメニュー2種類とドリンクバー付き 980円(税込)

上の2枚の写真は奥様が選んだサイドメニュー ミニサラダとガーリックトースト

 

上の写真は今回、私達が選んだランチセットのメニュー表

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近鉄特急12200系(新スナックカー)ラストラン on 2021-11-20

2021年11月22日 17時12分08秒 | 神奈川県情報

近畿日本鉄道 大阪上本町駅で11月20日、近鉄特急12200系(新スナックカー)ラストラン

出発式が行われ、多くの鉄道ファンが駆け付けた。

Youtube 動画にGooで共有させていただきました。

 

近鉄特急12200系「新スナックカー」ラストラン出発式

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播磨町で初めて国登録有形文化財となった梅谷家住宅(梅谷七右衛門清政の子孫宅) on 2021-11-20

2021年11月22日 04時19分18秒 | 神戸市以外の兵庫県

2021年11月20日(土)、播磨町で初めて国登録有形文化財となった梅谷家住宅

(4代目の梅谷七右衛門清政の子孫宅)の写真を撮りましたので写真紹介します。

上の2枚の写真は北西側から撮った梅谷家住宅

梅谷家住宅の主屋・離れ・北塀及び西塀が令和2年(2020)4月3日、国登録有形文化財に

登録されました。

主屋は昭和13年(1938)10代目の梅谷美方氏が跡取りの孫(12代目)が播磨小学校

(旧阿閇小学校)に通うのに便利なように建設された住宅です。

以下、文化庁のデータベースよりの引用です。

所在地住所は兵庫県加古郡播磨町宮北一丁目408-5(現在は播磨町宮北1丁目1-20)

所在地のGoo地図を添付しておきます。

 

 

梅谷家住宅主屋:木造平屋建、瓦葺、建築面積94㎡ 昭和13年(1938)に建造

        登録番号:28 - 0738

        解説文:喜瀬川右岸の小学校前に通学用の別宅として建てた。

        敷地北東に建つ木造平屋建で、寄棟造と入母屋造を組み合わせた屋根をかける。

        北東端に玄関を配し、南に書斎と居間を並べる。書斎は洋室で漆喰塗天井に

        シャンデリアを吊る。別宅の必要機能をまとめた住宅。

 

梅谷家住宅離れ:木造2階建、瓦葺、建築面積76㎡ 昭和14年(1939)頃/昭和40年代改修

        登録番号:28-0739

        解説文:主屋の西側に建つ木造二階建、入母屋造桟瓦葺で、外壁を焼杉の

        竪板張とする。一階は床、棚、付書院を備えた八畳の主座敷と六畳の座敷の

        南に広縁を付し、北に茶室を配す。二階は座敷が三室で南に縁を付す。

        良材を駆使した上質な離れ。

 

梅谷家住宅西塀・北塀:木造、瓦葺、総延長35m 昭和初期(1926-1945)に建造

        登録番号:28-0740

        解説文:敷地北面と西面を囲む塀で、北塀の中央付近に木戸を開く。

            半間おきに柱を立て腕木で桁を支え、屋根は桟瓦で葺く。

            外側は焼杉の竪板張で上部を真壁漆喰塗とし、内側は北塀が

            真壁漆喰塗、西塀が竪板張で、大谷石の支柱で支持する。

            宅地外周部の景観を形成する。

 

上の写真は登録有形文化財の証書銘板です。

上の写真は兵庫県が景観形成重要建造物として第13次指定(令和2年度)したことを

証明する銘板

上の写真は北側から撮った梅谷家住宅

上の写真は北東側から撮った梅谷家住宅

 

上の写真は梅谷家住宅の玄関

 

住宅の内部の状況については下記サイトに詳述されています。

播磨町 梅谷家住宅 (harima.lg.jp)

 

梅谷家4代目の梅谷七右衛門清政は篤志家として著名です。清政(1683-1762)の略歴を

記しておきます。

16歳の若さで庄屋を継ぎましたが、その当時村は決して豊かではありませんでした。 

打開策として新田開発を志し、その成功によって村の困窮を救うことになります。

その後魚問屋(八幡屋)を開業して財を成し。その財を活用して地域の神社や寺を立て直し、

感謝されています。(菩提寺の蓮花寺本堂は正徳2年(1712)に本堂を修復、阿閇神社

の修復や新しい神輿を作り神事を復活させたのは享保15年(1730))

さらに喜瀬川の治水工事にも貢献しています。

意外に質素な暮らしぶりの中で地域には惜しみなく金銀を使い、困った人にはできる

限りの世話をしました。古宮組大庄屋の今里十三郎死去に伴い大庄屋代として今里家を支えました。

 

梅谷七右衛門清政についてはその遺構と共に調査して纏めていきたいと考えています。

 

最後に播磨町郷土資料館館長の井上珠彦さんが解説された動画をGooで共有して筆を置きます

東播フォーカス第59回「梅谷七右衛門清政とゆかりの文化財」

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きょうは何の日 11月21日

2021年11月21日 06時34分21秒 | Weblog

NHKラジオできょうは何の日の番組をよく聞いています。

本日(2021年11月21日)は5時台と6時台の両方を聞きました。

以下が5時台と6時台に放送された内容は以下のとおりです。

神戸で聞いた内容なので地方によって違う内容かも?


■1889年(明治22年) 初代「歌舞伎座」が開場

  初代(第一期)の歌舞伎座は、演劇改良運動に熱心だった福地源一郎が中心

  となって自らの理想を実現すべく、明治22年(1989)11月21日に開場しました。

  外観は洋風でしたが、内部は日本風の檜づくりでした。

  現在の歌舞伎座は5代目の建物だそうです。 詳細は下記サイト

   歌舞伎座の歴史 (shochiku.co.jp)

1903年(明治36年) 初の野球の早慶戦

  この内容は6時台にのみ放送されました。

■1939年(昭和14年)日本郵船の 照国丸がイギリス東海岸沖で機雷に触れ沈没

  懸命の救助により約200年の乗客などは全員救助されました。

■1964年(昭和39年) 世界最長の吊り橋がニューヨークに完成

   その名前はスタテン島とブルックリンを結んでいるベラザノナローズ橋(1928m)

  現在の吊り橋の世界最長記録は1998年に完成した明石海峡大橋で1991m

上の3枚の写真は2018年8月12日に撮影した明石海峡大橋

■1989年(平成元年) 総評が解散

 総評の解散により連合が新たに組織されました。


以上が放送されたないようですが他にこんなことがありました。

平成23年(2011) 立川談志さん逝くなりました。今年でちょうど10年になります。

 

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江戸六地蔵第3番眞性寺銅造地蔵菩薩像

2021年11月21日 04時17分13秒 | 東京情報

標題と同じ真性寺の地蔵菩薩をテーマに2007年に下記のブログ作製しています。

 真性寺 江戸六地蔵  - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 江戸六地蔵第3番眞性寺銅造地蔵菩薩像 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

この時の写真を利用して再度纏めてみました。

 

真性寺の基本情報

住所:東京都豊島区巣鴨3丁目21−21  TEL:03-3918-4068

宗派:真言宗豊山派(長谷寺の末寺) 山号:医王山 院号:東光院

御本尊:薬師如来

 
所在地のGoo地図を添付しておきます。
 
 
 

 

上の写真は真性寺の本堂を横斜めより撮ったものです。

上の写真は銅造地蔵菩薩坐像(東京都指定文化財)の拡大版

Wikipediaでは次のように解説されています。

頭部は前後に、体部は15個の部材に分けて鋳造し、鋳掛けや鋲止めなどで接合している。このように別々に鋳造した部材同士を組み上げる技法は、江戸時代の大型像によく見られ、像の制作や運搬の労力を減らすことが出来る合理的で優れた技法である。毎年6月24日には、江戸六地蔵の供養のために「百万遍大数珠供養」が行われる。

 



上の写真(真性寺)の左が江戸六地蔵の1つ銅造地蔵菩薩座像です

高さ2.68m。正徳4年(1714)ごろの建立とのこと
製作者は神田鍋町の鋳物師太田駿河守正儀

江戸六地蔵は宝永3年(1706)に地蔵坊正元(しょうげん)が発願し、民衆から

多くの寄進を受けて造立されました。

上の写真はスタジオワーク著「仏像とお寺の解剖図鑑」(2016)のPage90で

真性寺の地蔵菩薩を解説したものです。



また江戸六地蔵は下記のとおりである。
1)東海道:品川寺
2)甲州街道:太宗寺
3)奥州街道:東禅寺
4)水戸街道:霊厳寺
5)千葉街道:永代寺
6)中仙道:真性寺

猫の足あとさんが江戸六地蔵を上手くまとめられていますのでリンクさせていただきました。
 江戸六地蔵の案内 (tesshow.jp)

 

6地蔵は地蔵菩薩の像を6体並べて祀った六地蔵像
お寺の中にあることが多い。
六道輪廻の六道(地獄,畜生,餓鬼,修羅,人,天)の夫々を6種の地蔵が救うと
することから6体の地蔵菩薩像が祀られる。


1)檀陀地蔵又は金剛願地蔵
2)宝珠地蔵又は金剛宝地蔵
3)宝印地蔵又は金剛悲地蔵
4)持地地蔵又は金剛幢地蔵
5)除蓋障地蔵又は放光王地蔵
6)日光地蔵又は預天賀地蔵


六地蔵像は墓地の入口などに祀られている場合と街道筋に祀られていることが多い。

京都の六地蔵は以下のとおりである。
1)奈良街道:六地蔵の大善寺(伏見地蔵)
2)西国街道:上鳥羽の浄禅寺(鳥羽地蔵)
3)丹波街道:桂の地蔵寺(桂地蔵)
4)周山街道:常盤の源光寺(常盤地蔵)
5)若狭街道:鞍馬口の上善寺(鞍馬口地蔵)
6)東海道:四ノ宮の徳林庵(山科地蔵)

上記の京都六地蔵を回る「六地蔵めぐり」が毎年8月22日から23日に開催されます。

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川崎重工業株式会社の水素基地 on 2021-10-31 と川重の橋本康彦社長

2021年11月20日 03時51分32秒 | 神戸情報

2021年11月14日(日)5:40~6:10、4ch早朝番組「ザ・リーダー」で

川崎重工業株式会社の橋本康彦社長が出演されていました。

その中で川崎重工が取り組む水素エネルギーの利用について少し話がありました。

川崎重工は11年前から水素エネルギーの利用に取り組んでいるそうです。

川重の水素基地の写真を2021年10月31日に神戸スカイブリッジより撮っていますので

写真紹介すると共に上記番組の内容についても若干、触れていきます。

上の写真は上組の神戸空港島ロジスティックセンターのヤードが入った川重の水素基地の遠景

神戸空港島に建設された液化水素の荷揚基地には、液化水素を荷揚げするためのローディング

アームや、大量の液化水素を貯蔵できるタンク(150 トン)が設置されています。

上の3枚の写真は停泊中の「すいそフロンティア」を主役に撮ったものです。

すいそフロンティア号の船尾には船名の他に英文表示のSUISO FRONTIER 神戸 KOBE

さらにIMO 9860154と書かれています。

以下は神戸市のサイトよりの引用です。

オーストラリアで褐炭(かったん=水分を多く含んだ石炭)から水素を製造します。

褐炭は輸送時に乾燥して自然発火するなど取り扱いが困難なことから、オーストラリアでも

限定的に利用されている資源です。

製造された水素はガス(気体)です。水素ガスをマイナス 253 ℃まで冷やすことで、水素は

液体となり、体積を800分の1に圧縮することができ、大量に運搬することが可能となります。

この液化した水素を、魔法瓶と同じ真空二重構造の貯蔵タンク(75 トン)を搭載した

液化水素運搬船(フロンティア号)に積み込み、神戸港まで海上輸送します。

航行距離は 9,000 km以上、16 日間を要する長距離輸送の間、マイナス 253 ℃の極低温状態を

維持するための高度な技術が求められます。

<実施主体>
技術研究組合 CO2 フリー水素サプライチェーン推進機構(HySTRA)

(構成企業7社)
・川崎重工業株式会社
・岩谷産業株式会社
・シェルジャパン株式会社
・電源開発株式会社
・丸紅株式会社
・ENEOS 株式会社
・川崎汽船株式会社

<助成>
国立研究開発法人新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)

上の写真は当日、神戸空港内の施設で行われていた水素エネルギーを運ぶ技術に関する

高校生向けのイベントのポスターです。

川重の社員が高校生に水素エネルギーの利用技術について見学を含めて説明するイベント

(Ocean’s17 2nd Event)だったようです。

上の5枚の写真は上述の番組で紹介された川重の橋本康彦社長。

橋本康彦氏は神戸市生まれで実家は代々、医師であるがその道は選ばず川重に入社

半導体向けのロボット開発で実績をあげた。

上の2枚の写真は上述番組の内容です。

上の写真は番組で紹介された川重の水素基地

水素自動車で利用される水素はマイナス80度Cだそうです。

 

水素関連ブログ

 水素で走るトヨタの車の展示 in JR三ノ宮駅海側広場 on 2021-10-31 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 東京五輪の競技が始まる on 2021-7-21 及び開会式 on 2021-7-23 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

  聖火台の燃料に水素が使用されました

 容器包装リサイクル法 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

  バイオ発電、ゴミ発電、アルコール燃料、水素燃料なども注目を
  浴びていますがCO2の削減やエネルギー変換もさしせまった
  問題となっています。企業では環境税が施行された場合の対策も必要です。

 

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【ライブ動画】「ほぼ皆既」の月食 羽田空港のはるか先に

2021年11月19日 18時34分30秒 | Weblog

Gooで下のYoutube動画を共有させていただきました。

【ライブ動画】「ほぼ皆既」の月食 羽田空港のはるか先に

以下は動画の説明文

最大で月の97・8%が欠ける「ほぼ皆既」な部分月食が2021年11月19日、全国各地で見られた。月は北海道と東北を除いて欠けた状態で昇り、雲間に隠れたり出たりしながら午後6時過ぎに食の最大を迎えた。神奈川県川崎市川崎区では、羽田空港を離着陸する旅客機の奥に、赤黒い色で輝く月が見えた。次の月食は2022年11月に皆既月食が、23年10月に部分月食がある。

 

東の空に月が段々、明るくなる様子を神戸でも観察できました。

上の写真は2021年11月19日18:24に撮影した月

 

 

 

 

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広東小菜点心の店 黄老須磨店でのランチ on 2021-11-15

2021年11月17日 04時13分34秒 | 神戸情報

本日は地下鉄名谷駅下車、大丸須磨店の4階にある広東小菜点心の店 黄老須磨店での
昼食を紹介します。 訪問日:2021年11月15日(月)

本日より舞鶴旅行(2泊3日)のためブログ作製をお休みします。

黄老 須磨店の基本情報
住所:神戸市須磨区中落合2-2-4 大丸須磨店4F   TEL:078-791-7115

営業時間:11:00~19:30  料理ジャンル:中華料理(広東)

公式サイト:広東名菜 黄老 [レストラン・喫茶] 【大丸須磨店】 (daimaru.co.jp)

 

上の5枚の写真は私が注文したお昼の定食 メインが焼きそば 1,456円(税込)

上の写真は奥様が注文した海鮮汁そば(単品) 1,314円(税込)

奥様のコメントではコストパーフォーマンスの面で金龍閣の中華の方が良いとの評価

 

 

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三木市立みき歴史資料館で「企画展 地域の史料たち5 ~三木の染め型紙~」が開催中

2021年11月16日 03時49分31秒 | 神戸市以外の兵庫県

三木市立みき歴史資料館(三木市上の丸町4-5)で現在、「企画展 地域の史料たち5

~三木の染め型紙~」が開催されている。2022年1月16日まで。入館無料。

興味のある方は是非ご観覧ください。

私は2021年11月12日に観覧しました。

染形紙は、柿渋が塗布された紙面に鯉や蝶、花などの模様を切り抜いてその模様を染め出す、

形染めには欠かせない紙製の道具の1つです。

三木の染形紙は着物地などの文様を染める際に使用されるもので、手彫りで切り抜いた

型紙のことで昔から刃物とともに三木地方で盛んな地場産業でしたが最近は着物の衰退で

需要が少なく産業としては衰退しています。

染め型紙と言えば伊勢の白子や京都が全国的に有名ですが三木市も江戸時代には、「染め型紙」の

一大産地でした。宝暦12年(1762)に発刊の播磨鑑には三木の土産品として染め型紙

が紹介されています。

また、寛保2年(1742年)には染め型屋が16軒もあり、盛んな産業であったようです。

さて、本題に戻り、上述の企画展の内容に入ります。

企画展の基本情報

タイトル:地域の史料たち5  ~三木の染め型紙~

期間:前期11月6日(土)~12月5日(日)、後期12月7日(火)~1月16日(日)

時間:9:00~17:00

開催場所:三木市立みき歴史資料館(三木市上の丸町4-5)

 

 

上の3枚の写真はリーフレットの内容です。

上の2枚の写真は展示会場の全景と近景です。

上の写真は三木の型屋の興隆に関する説明パネル

 

上の写真は欧州におけるジャポニズムの高まりで型紙が19世紀に大量に輸出された事績

について説明したパネルです。

上の2枚の写真は海外に渡った型紙の保管先

上の写真は紅葉(楓の葉)をモチーフとした型紙

上の写真は秋のモチーフの型紙

上の2枚の写真は型紙調査の様子と調査内容の説明パネル

上の写真は調査結果を要約したパネル

詳しい内容も展示されていましたが略します。

上の写真は裃(かみしも)に使用された紋様の展示

 

三木の染形紙について過去に書いたブログにリンクして筆を置きます。

 本の紹介「三木の染形紙 第2号」 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

 三木市 ビストロ・ド・ノブでのランチ on 2017-1-22 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

  表題はビストロ・ド・ノブでの食事になっていますが2017年1月22日(日)、

  三木市立みき歴史資料館のワークショップ「染形紙で染める」へ参加した内容についても記載

   講師:三木の染形紙の保存と活用を考える会

 

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令和3年度秋季企画展「福原京の考古学」in 神戸市埋蔵文化財センターが開催中です 11月28日まで

2021年11月15日 04時12分00秒 | 神戸情報

令和3年度秋季企画展神戸市埋蔵文化財センター開館30年記念「福原京の考古学」が開催中です

興味のある方は是非ご観覧ください。会期は11月28日(日)が最終日です。

私は9月25日と10月23日に観覧しました。

上の2枚の写真は神戸市埋蔵文化財センターが作製した案内リーフレットです。

上の2枚の写真は展示の遠景です。

展示の構成は以下のようになっています。

1.福原という土地

2.「福原京」の発見と発掘

3.楠・荒田町遺跡

4.雪見御所(ゆきみのごしょ)遺跡

5.祇園遺跡

6.福原京に関する遺跡

7.本皇居の位置

8.新内裏への行幸

9.土地区画の基準軸

福原京とは

平安時代末期、平家一門が日宋貿易の港である大輪田泊を見晴らす福原の地を領有し、
ここに多くの邸宅を構えた。
治承4(1180)年6月、政権の強化を図った平清盛が孫の安徳天皇を奉じて都造りを
はかったのが福原京「福原遷都」である。当初は和田京として計画されたがすぐに撤回。
しかし都造りは中途で頓挫、半年で平安京に遷都したため実態としての都は完成しなかった。

上の写真は神戸大学附属病院の楠・荒田町遺跡の説明パネルの一部

上の写真は展示内容ではありませんが福原京の全体像を把握するのに便利なので添付

出典:福原京復原推定図 (山田邦和案をもとに作製されたもの)

①平清盛邸 (安徳天皇皇居)
②平重衛邸 後半期の高倉上皇御所 雪御所)
③湯屋
④後白河法皇三条殿
⑤小松家邸?
⑥越前中守平盛俊邸?
⑦楠・荒田町遺跡(邸宅跡)
⑧楠・荒田町遺跡(二本の堀遺跡)
⑨平頼盛邸(前半期の高倉上皇御所)
⑩新造内裏
⑪新造内裏の陣中
⑫藤原忠親新邸
⑬平時忠新邸予定地
⑭楠・荒田町遺跡(邸宅跡)
⑮藤原邦綱宇治新邸?
⑯後白河法皇夢野殿?
⑰平教盛邸(後白河法皇籠御所)?

考古学的な調査で初めて福原京関連の遺跡が確認されたのは昭和57年(1982)楠・荒田町遺跡

第2次調査での二重堀検出以降である。

楠・荒田町遺跡

上の写真は神戸大学附属病院の楠・荒田町遺跡の説明パネル

上の2枚の写真も同じく神戸大学附属病院の楠・荒田町遺跡の二重の堀の発掘現場

 

雪御所遺跡

上の写真は雪御所遺跡の展示遠景

雪見御所旧跡の碑の説明板より雪見御所についての解説文を引用させていただきます。
雪見御所(ゆきみのごしょ)
平安時代末期、平家一門が日宋貿易の港である大輪田泊を見晴らす福原の地を領有し、
ここに多くの邸宅を構えた。
治承4(1180)年、政権の強化を図った平清盛が孫の安徳天皇を奉じて都造りを
はかったのが「福原遷都」である。
しかし都造りは中途で頓挫、半年で平安京に遷都したため実態としての都は完成しなかった。
「平家物語」などには、平清盛が福原の地にいくつかの邸宅を持っていたことを伝える。
そのひとつが「雪見御所」で、その名を伝える雪見御所町に所在した可能性が高い。
ただし町名のもとになった古い字「雪御所」の範囲は湊山町南半が過半を占める。
西が石井川、東および北は天王川の西のほとりを北上し、そして西へと弧状にのびる
古道により画される範囲になる。
南限は湊山小学校の敷地を北東隅から南西隅に横切る方向にのび、その南は
「川原」という字名になる。この範囲には一町(約109メートル)四方の屋敷地が収まる。
当事の貴族の邸宅は広い屋敷地の北寄りに建てられるのが一般的で、南に庭園が広がる。
したがって雪見御所の屋敷建物が存在するのは湊山小学校の敷地よりも北側ということになろう。
1986年に湊山小学校の校舎建設に先立ち行われた発掘調査(雪御所遺跡第一次発掘調査)
で確認された石垣のひとつはこの南の字境に一致する。
これは雪見御所の南を画する石垣、またはそれを踏襲する字境の石垣である
可能性が考えられる。
雪見御所の北に安徳天皇が「福原遷都」の半年を過ごした「本皇居」=「平野殿」
のあったこと、また、清盛邸の近隣に子息宗盛邸のあった可能性が当事の貴族の日記の
記述などから知られる。
発掘調査によっても雪御所町の東にある上祇園町の祇園遺跡で平安時代末期の
貴族の邸宅あとの庭園の存在が確認されている。
古記録と発掘調査の成果から、この地に「福原京」の時期を中心とする平家の邸宅が
いくつも存在することを推測することができる。
ここ「平野」の地はまさにその名の示すとおり「平」家の本拠があった「フィールド(野)」
といえるだろう。
この「雪見御所旧跡」の石碑は、明治39年に湊山小学校の校庭より掘り出された、
往時の御所の庭造りに使用されていたと考えられる石に、明治41年に湊山小学校
三代校長篠崎三郎氏が、生田神社宮司田所千秋氏の揮毫を得て、設置したものである。

雪見御所は神社の三合思想により西の位置(酉)の夢野八幡神社、東北の位置(丑)の
祇園神社、東南の位置(巳)の荒田八幡神社の3点を結んだ領域の真ん中に位置して
おり吉相の場所に造営されたと岡山大学の曽我とも子氏はその研究報告で述べられて
います。

上の写真は雪見御所旧跡の碑のある位置を示したものです。
その周辺の平家の屋敷群についても記載しました。

前の地図とダブリますが神戸史談264号平成元年1月号48ページに服部晃氏により

雪見御所の推定位置が推定されていましたので引用添付させていただきます。(上の写真)

平家物語の第7巻の福原落に下記の記述があります(現代語訳)
全軍が福原の旧里で一夜を明かしました。季節は初秋で、月のころは下弦の月、
この月の出が遅い。月の昇らぬ今夜は、何事もなく静かな夜であり、更けゆくに
つれてますます静けさを増して行きました。屋内に入れぬ人々は草枕にて野宿をし、
その枕は涙にために濡れ、秋の夜露も涙に劣らずしっとりと草葉に落ちて、
ただ見る物、聞く物、すべて悲しみの種になってしまいました。
いつ帰れようとも思われないで、亡き入道相国清盛公がその権勢に任せて都を遷し、
乱の兆によって造営中途にして捨てられた都福原ではありますが、今こうして
再びこの福原の地を訪れ、所々を見てみると、春は花見の岡の御所、
秋は月見の浜の御所、その他、泉殿・松陰殿・馬場殿、二階の桟敷殿、雪見の御所
萱の御所、偉い方々の多くの館、五条大納言邦綱卿が命を受けてお造り申された
仮の皇居とされた里内裏などがあります。鴛鴦(おしどり)の形の瓦、
玉を敷き詰めたような石畳、それらどれもが三年の放置を経て荒れ果て、
年経た苔が生して道を塞ぎ、秋の草が門を閉じていました。瓦からは忍草が
顔を覗かせ、垣に蔦が生い茂り、高楼の台は傾いて苔がむしています。
御簾も朽ち果てて寝屋が丸見えとなってしまっています。かように荒れ果てた
室内で眠りを取る人々に、静かに松風が吹きつけ、月の光だけがさしこんで
いるのでありました。

そんな夜が明けての翌朝、福原の旧都に火を放って、天皇をはじめとして
人々はみな船に乗り移りました。都を離れる時ほどではなかったのですが、
この福原の旧都にもそれなりの名残が惜しまれました。海上より燃える火を
眺めるに、塩をとる海人の焚く藻の夕煙、尾根で明け方に鳴く鹿の声、
そこここの渚に寄せる波の音、涙で濡れた袖にかかる月の光、草叢に集まって
鳴く蟋蟀の声、すべて目に見えるもの耳に聞こえてくる音、どれ一つとして
感慨を起こさせ、悲しい思いをさせないという事がありません。

寿永二年(1183)七月二十五日、平家全く、都を落ちる。

平家の一族が家族とともに西国に落ちていく場面で、荒れ果てた福原京の様子と
かって様々な壮麗な屋敷が立ち並んでいた頃のことを回顧している場面が描かれて
います。また、福原が焼かれた場面も描かれています。

 

祇園遺跡

上の写真は令和2年度春季企画展「地下に眠る神戸の歴史展2020-平成時代発掘精選-」より

祇園遺跡に関する説明

関連ブログ:

神戸市兵庫区平野の祇園遺蹟から平家有力者の邸宅跡が発掘 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 

はなはだ、纏まりの無い記述となりましたが最後に8.新内裏への行幸での説明パネルを

添付して筆を置きます。

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