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デジカメを持って歩こう.

個人の 登山、トレッキング、散歩、海外旅行 の記録です。

 2012年9月 南米.ペルー周遊からブログ参加です

・中山道を歩く(9) 倉賀野<倉賀野宿>-<高崎宿>-<板鼻宿>安中

2016-12-23 22:15:06 | 中山道

2016年12月23日 中山道歩き、9回目は倉賀野駅から安中駅まで約14.7Kmを歩きました。前2ケ月碓氷峠越えと長野県の中山道を歩いたので関東平野の街道歩きが連動するのは6月以来5ケ月ぶりとなります。 今年最後の街道歩きです。夜半の雨もあがり良い天気になりそうです。

9時過ぎに<倉賀野宿>駅に到着。駅舎の表に出て半年前を思い出します。  歩いてほどなく総鎮守・倉賀野神社。正面に鎮座する本殿は小ぶりながら荘厳な屋根の建物です。境内には飯盛り女の信仰が厚かった冠稲荷、そして北向道祖神があります。  次の安楽寺は寺の裏がそのまま古墳になっている珍しいものです。     間もなく新幹線を潜り上信電鉄を渡ると<高崎宿>です。高崎市は上州一の街だけあり都心と同じ近代的な街並みです。メイン道路には宿場の雰囲気は全くないです。中山道から寄り道をして高崎城址へ行きます。遠くから高い特徴的な建物がありましたが高崎城址に建つ高崎市役所でした。その手前のお濠が唯一残っている城址の遺跡の様です。 先を急ぎ中山道に戻る途中、新町諏訪神社を眺めます。この神社は鳥居が建物に張り付いていて変わっています。(事後に写真を見て良くわかりました)    この後、地元の人のお奨めで蕎麦屋さんで昼食、奥の個室に案内され値段も手頃、量もたっぷりあって美味しくお得。    午後は高崎神社を見学。高崎市の総鎮守とあり立派です。奥では結婚式をやっていて白無垢姿の花嫁さんが見えました。   烏川を君が代橋で渡ります。橋の上から榛名山や後方に赤城山が冬空にクッキリと見えます。  下豊岡の茶屋本陣跡では中を案内してもらい狭いながらも格式のある建物です。 その前にあるだるま造り工房で作業を見学させてもらいます。店の前ではだるまが天日干しされています。 群馬県に唯一現存するという藤塚の一里塚を見た後、寄り道をして碓氷川対岸中腹にある達磨寺を見学です。結構長い石段を2つ上り本堂です。高台にあるだけあって赤城山が木々の間から良く見えます。     碓氷川沿いの国道18号線を歩くと間もなく<板鼻宿>です。国道を離れ旧道沿いには昔風の建物が多く残ります。旧道沿いにきれいな水が滔々と流れる用水があり、昔の田舎を思い出します。この用水は「板鼻堰」といい碓氷川と九十九川合流地から引いて高崎市西に配水しているとか。 さらに歩き碓氷川を渡ると前方に東邦亜鉛工場群鬼の巣窟の様に異様に聳えています。安中駅はその工場群の真ん前にあり終着です。  

次のルート:⑩安中宿~横川宿        前のルート:⑥本庄宿~倉賀野宿 

 

  <倉賀野宿> … 倉賀野宿 鳥川之図[英泉]    烏川縁に建った茶屋、そして英泉が得意とした子供と女性を近景に描いている。小川は宿を流れる五貫堀、筏は材木・船は米を江戸に運んでおり、河岸背後は上武国境の山々である。

日光例幣使街道の起点であると共に、烏川の下流が利根川に流入していたので利根川水系最上部の河港でもあった。信州や越後からくる物資は碓氷峠を越えて牛車で倉賀野宿まで運ばれ、河岸から船で烏川から利根川を経て江戸へ運ばれた。  江戸からの物資もここの河岸に陸揚げされ各地へ牛車で運ばれた。水陸交通の要衝として、宿内人口は2千人を越え、大いに繁栄していた。周辺には古墳群・万葉の地・代官所など史跡が点在する。

倉賀野高札場跡碑         / 倉賀野神社 …丸彫り彫刻で飾られ、鷹や梟・兎が彫られる

               

 冠稲荷…もと太鼓橋の近くにあり宿場女郎に信仰された       / 安楽寺 …本堂の裏手で古墳の横穴式石室にに接している

                                    

  <高崎宿> … 木曾海道六拾九次之内・高崎[広重]    遠景に藍一色で表わされた榛名山の方角、軒を連ねる民家などによって、現在県の史跡に指定されている一里塚の近くあたりを描いたものであろうか。  夫婦連れの旅人に金をせびる物乞い、自扇をかざして駈け寄る男。広重は、保永堂版「東海道五拾三次」の画中にもみせた旅する者の心得といった親切な解説をこの図でも試みて
いる。そして流れに張り出した茶屋で一人榛名山に見とれる男の姿を描いて、広重独自のムードある面面としている。

「お江戸見たけりゃ高崎田町」と謡われるほど賑わった。宿の長さは中山道最長であったが、徳川四天王の一人、井伊直政が構えた高崎城の城下町で他大名が遠慮するため、本陣も脇本陣もなかった。高崎城のほかに竜見町に武家屋敷、本町や新町に土蔵造りが残る。

                    / 高崎市街          / 愛宕神社 …和田城(鎌倉時代)の鎮護神として創建

                   

高崎城址 …唯一残った三の丸の堀                           / 諏訪神社 …建物に龍の絡まる鳥居が貼り付いている

                            

●● 昼食 ●●                             / 高崎神社 …

                

高崎神社では結婚式をやってました                 / 烏川へ向かう旧市街を歩く                      / 烏川 君ケ代橋親柱

                                   

橋の上から榛名山を望む   / 烏川 下流側                         / 赤城山

            

烏川越しに赤城山

道標 草津道・信州道        / 若宮八幡宮 …                     / 高崎 だるま工房

                 

上豊岡茶屋本陣                                                             / 藤塚一里塚

                             

碓氷川堰堤上から榛名山                                                       / 少林寺・達磨寺

                                                            

達磨寺 …心越禅師 開山(一筆達磨の木型が高崎だるまの起源)/ 本堂

                

赤城山                / 榛名山         / 八幡宮大鳥居

        

  <板鼻宿> … 木曾海道六捨九次之内・板鼻[英泉]    板鼻宿の入口あたりを描いたものか、雪の深い街道を行き交う旅人も、笠を傾け、合羽や蓑をつけて黙々と歩く。英泉は北斎に私淑したといわれるが、ひょろひょろとのびた街道の松の描写には、北斎の「富嶽三十六景」中の「東海道程ケ谷」にみる描法に共通点が見とめられる。

高崎から一里三十町の板鼻は、慶長末頃(一六一〇頃)には家並みも完成していたという。西に碓氷川の渡しをひかえていたので、幕末頃には総戸数三百余。本陣・脇本陣各一、問屋二、宿屋大小合わせて六十一、茶屋十五、雑商七十余、農家百五十ほどあり、上野七宿の中で旅篭が最も多く栄えた。そして宿場女郎が百四、五十人もいたと伝えられる。

安中市・板鼻宿           / 双体道祖神           / 板鼻宿の町並み                     / 板鼻本陣跡碑         

                   

               / 板鼻堰 …碓氷川と九十九川合流から取水し、高崎市に配水する /東邦亜鉛工場群    / 安中駅

                

=おわり= 

次のルート:⑩安中宿~横川宿       前のルート:⑥本庄宿~倉賀野宿 


・中山道を歩く(8) 横川<坂本宿>-碓氷峠-<軽井沢宿>軽井沢

2016-11-06 22:31:09 | 中山道

2016年11月6日 中山道歩き、8回目は横川駅から軽井沢駅まで碓氷峠越えの道を14Km歩きます。コース予定では軽井沢駅に着くのが17時半頃になるという事で懐中電灯も準備します。朝晩寒く、初冬の趣きのあるこの季節着るものの選別に苦労します。   

9時過ぎに坂本宿手前横川駅に到着。バスで来たと思われる団体と碓氷関所で一緒になり、どうなることかと思ったら「アプトの道」方面に向かったのでホットします。   上信越道の下をくぐると<坂本宿>になります。正面に見える丸い刎石山に向かって真っ直ぐに整備された坂道が伸びています。下木戸跡から本陣跡や旅篭跡が残っていますが坂の上から車がひっきりなしに通ります。上木戸跡を過ぎると間もなく山道様の坂が多くなり、いよいよ碓氷峠越えの旧道山道に入ります。   ここから熊野神社のある碓氷峠まで7km強 標識では2時間半ということです。  1km弱程行くと「柱状節理」、「上り地蔵」「下り地蔵」の地蔵尊があり、その先に「覗き」という場所があります。坂本宿側の展望が開け宿の町並みがまるで箱庭のようにみえます。   完全な山道を歩きますが、一般の山と違い坂に名前が付いていたり所どころに仏様や史跡、建物跡があり街道であることを窺わせます。峠への最後の坂という「長坂」は急登ではないけどほどほどの坂がいやになる程続きます。   やっと上野國と信濃国の国境である碓氷峠に着きます。ここから信州側<軽井沢宿>になります。峠には立派な「熊野神社」があり国境上に本宮、上州側と信州側に二つの社があり「熊野三社」と言います。神社に詣でした後、展望台へ向かい浅間山や妙義山の展望を楽しみます。浅間山はシルエットの状態ですが高く見え、妙義山は目下に良く見えます。  予定の時間より2時間程早く着くことが出来たので持ってきたアルコールで乾杯しのんびりします。  この後、旧街道が一部崩落して通れないという情報があったので碓氷遊覧歩道という場所を通り、軽井沢・ショーハウスで旧中山道に合流します。  この後は原宿の様な旧軽井沢の人混みの道を歩き旧軽ロータリーへ出て、前回の街道歩きルートと合流します。  軽井沢駅へ到着後、予定より2時間早いバスで横川駅に戻り今日の街道歩き終了です。 

次のルート:⑦軽井沢宿~望月宿     前のルート:⑩安中宿~横川宿    

  

 

 

<坂本宿> …  木曽海道六拾九次之内・坂本[英泉] 坂本の宿は、七百メートルばかりの両側に、間口十二・七メートル、あるいは六・三メートルほどの家を、宿の中央の本陣二軒、近くの脇本陣四軒、大小の旅籠屋四十戸ほどを含めて百六十戸を計画的にぎっしりと建てた街であったという。道の中央を流れる宿場用水がよく表現されている。英泉描く坂本の図は、そうした町並の面白さをとらえている。そして東に碓氷の関所、西には碓氷峠をひかえ繁盛したという宿場の活気を巧みに表現している。宿の正面にある刎石山を宿の後ろに移し、迫る山の描写に点描と色彩とを併用して、写実感を盛り上げた効果が生きている。

東に碓氷関所、西に中山道の難所・碓氷峠を控えていたため、旅装を解く旅人が多く、飯盛女も置かれて宿場は活気に溢れていた。 昔のままの門構えをもつ永井脇本陣、連格子の旅篭かぎやなどがあり、往時の面影をしのぶことができる。

 

坂本宿          / 碓氷峠

     

横川駅前広場            / 碓氷関所         / 坂本宿下木戸跡                         / 佐藤本陣跡 

                

宿のまっすぐな道、正面に刎石山                  /  上木戸跡      / 芭蕉句碑「ひとつ脱て うしろに負ひぬ衣かへ」

                

坂本八幡宮

    

碓氷峠への道          / 柱状節理            / 石仏石塔群                           / 「覗」から覗く

                

「覗」からの坂本宿                                                / 林の中を歩く

                

                    / 南向馬頭観音       / 北向馬頭観音      / 紅葉の中の道を歩く  

                

 

        

<軽井沢宿> … 広重/木曽海道六拾九次之内・軽井沢 浅間の山も、宿の家々も、そして森も墨色で彩られ、月光に照らされた畠の部分だけがやや明るい。その輸の中で燃える焚火。そしてまた街道のかたわらで勢いのよい炎をみせ焚火だけが動的なものを感じさせる。その焚火から煙草の火をつける旅人。馬子と馬上の客とが煙管の火をつけ合う。こうした人々の動きも、あたりの静寂さに押されて、ひっそりと行なわれているように感じる。焚火や小田原提燈の光に照らされた部分だけを鮮かな色彩で描く手法は、当時としては新しい表現であった。

中山道最北の宿、標高960m。碓氷峠を越え、信濃入りする最初の宿場で足休みする旅人たちで繁昌した。 

碓氷峠・熊野神社         / 本宮:国境上        / 那智宮:信州側       / 新宮:上州側

                

峠・見晴台から

浅間山                / 妙義山

            

軽井沢へ向かう途中 吊橋を渡る(中山道ではない)

ショーハウス…避暑地としての軽井沢を広く紹介    / 芭蕉句碑:馬をさへ ながむる雪の あした哉

                             

                

つるや旅館…昔は茶屋であった                   / 神宮寺

                         

                     / 旧軽ロータリー      / 軽井沢駅

        

=おわり=

次のルート:⑦軽井沢宿~望月宿      前のルート:⑩安中宿~横川宿 


・中山道を歩く(7) ③<八幡宿>-<望月宿>バスターミナル

2016-10-25 00:00:59 | 中山道

中山道も<八幡宿>に入るとおよそ江戸から三分の一歩いたことになるとのことです。 ただ、この時点で<倉賀野宿>から<軽井沢宿>は歩いてなく中抜け状態なので、三分の一は未だです。

すきっ腹の足しにはならないけど宿の入口にある八幡神社で女性陣が持っていたお菓子を分けて食べます。(昔の人の気持ちが分かるようになってきた?)八幡神社正面にある「高良(こうら)社」は国の重文とか。八幡宿は本陣跡が一か所あるだけで昔の風情は殆んどありませんが、国道脇を通って百沢(ももさわ)集落に入ると短いですが格子戸の建物が残っています。集落のはずれに男女が酒を飲みかわす祝言道祖神があり微笑ましいです。 ここからは国道を横切ったり戻ったしてトンネル手前国道脇から右に狭い畑道に入ります。今の中山道は車が通れる様になっているのでもっと手前から分岐してます。   
望月宿>狭い畑道から車の通る中山道に出て坂を上ると「瓜生坂一里塚跡」です。ここは山道の中の土が高くなった場所で説明道標がないと気が付かないでしょう。峠の先から完全な山道を下り急な舗装道路になると長坂石碑群が現れ鹿曲(かくま)川に突き当たります。川を渡った対岸が望月宿です。鹿曲川は木々の緑と紅葉しかかった紅に映え非常に美しいです。 川を渡り緩やかな坂を上ると国道に出ると望月宿・バスターミナルです。    バスの出発時刻まで1時間程あるので食事をする場所を探しましたがなく、バスで佐久平駅へ着いてからになります。   
昼食を摂らずに歩きましたが見るものの多い充実した一日が終わりました。 歩数3万6千歩、16.2Kmでした。

次のルート:⑫望月宿~下諏訪宿      前のルート:⑧横川宿~軽井沢宿 

<八幡宿> … 木曽海道六捨九次之内・八幡[広重] 広重描く図は、宿場はずれの小川を描いている。八幡宿と次の百沢との間あたりであろうか。煙管をくわえ鍬を背に家路をめぎす百姓、籠いっぱいの刈草を背負った少年とすれちがい、こちらの岸に足をかける老人と天秤棒の荷を担ぐ男は手甲をつけており、旅の者とわかる。こうした細かい描写で人々の風俗の違いを描き分けているので、遠景にほどこした虹の横線によって表わした日暮れの暗示が生きている。

宿場の遺構は問屋をかねた脇本陣の一部が残るだけで、昔の面影 はほとんど残されていない。

八幡神社

            

本陣跡・表門                             / 百沢(ももさわ)集落…家紋入りの土蔵が点在

                

祝言道祖神           / 元禄の中仙道道標   / 山道の中山道

          

<望月宿> …  木曾海道六拾九次之内・望月[広重] 

古代の信濃官牧(御料牧場)の中心地で、満月の夜献上馬を天覧に供したことから、望月の地名が起こったという。

新望月宿入口             / むらおこし道祖神   / 瓜生坂一里塚    / 復活した草付き道中山道

            

鹿曲(かくま)川手前の長坂石仏群               / 鹿曲川が美しい

            

                   / 弁財天碑          / 長坂橋            / 馬頭観音

                

≪バス出発までの1時間、望月宿を散策≫

望月バスターミナル      / 旅篭山城屋           /歴史民俗資料館            / 大森本陣跡 

                 

井出野屋旅館                                / 佐久平駅

                           

=おわり=

次のルート:⑫望月宿~下諏訪宿       前のルート:⑧横川宿~軽井沢宿 


・中山道を歩く(7) ②<小田井宿>-<岩村田宿>-<塩名田宿>-<八幡宿>-<望月宿>バスターミナル

2016-10-24 23:59:59 | 中山道

【2日目】
2016年10月24日 中山道歩き7回目・2日目はしなの鉄道御代田駅裏にある宿からスタートです。昨日は山頂付近に雲がかかり全貌が見えなかった浅間山も良く見え、今日は朝からすっきりと晴れています。

旅館から中山道へ少し戻り、御代田駅表方から暫らく緩い下り坂を下っていけば  <小田井宿>に入ります。道が急に広がり東の枡形になります。古ぼけた出桁造りという縦格子の家が多くあり風情のある町並みです。道の片側には用水路があります。かつては道の中央にあったものが寄せられたとか。「寶殊院」というお寺の茅葺屋根の鐘楼は1779年建立とかで格式があります。問屋跡の建物も切妻造りの母屋が堂々として風情があります。宿を抜け国道沿いに「皎月原」という伝説の原っぱを覘き先に行きます。ちょっと休憩して休みたいのですがまだ9時過ぎ、コンビニはなくレストラン等も開いていません。途中の馬頭観音前にあった柿を失敬したけど渋柿でペッペッ。     
その先<岩村田宿>江戸口にあった「住吉神社」、樹齢四百年たち火災で空洞があっても立派に立っているケヤキに圧倒されます。 朝方少しあった浅間山の雲も取れすっきり見えます。  武田信玄が再興し、遺骨があるという「龍雲寺」、山門が見事です。「西念寺」は岩村田藩主内藤氏の菩提寺でこの寺も立派で風格もあります。 岩村田のはずれから田園地帯になり高い建物が減り右手に浅間山の山並み、左手に八ヶ岳連峰を常時見ながら歩きます。また、稲刈りの終わった田圃とたわわに実った林檎園が多くなり絵になります。この時点で正午ですが千曲川端の川魚料理で昼食を摂ることにして「諏訪神社」の境内で軽食を摂り先に行きます。   塩名田宿手前で道を間違え田圃の中を歩きましたが無事旧道に戻ります。   
塩名田宿>は千曲川手前から川端にかけてあり河岸段丘の上部に本陣、下部に200m程 旧宿の旅情を感じさせ静かな雰囲気の川原宿があります。  13時を過ぎましたが、川原宿にある昼食予定の川魚料理店は予約をしていないとダメという事で別の店を探します。 千曲川を渡る時、右手に浅間山、左手に八ヶ岳連峰がきれいに見えます。  千曲川渡り坂を上る途中の大日如来像と芭蕉句碑があります。 昼食の店を探したけれどある雰囲気はなくイラつく人も出てきましたが なだめつつ先に行きます。   
すぐに<八幡宿>に入ります。中山道も八幡宿に入るとおよそ江戸から三分の一歩いたことになるとのことです。

   =八幡宿以降の頁へJUMP

 <小田井宿> … 木曽海道六捨九次之内・小田井[広重] 広重は、広いススキの原を行き交う本堂造立の旗を手にした勧進僧と親子づれの巡礼を描いている。広重は物悲しい情緒あふれる風景を描く場合、いわは浮草のような生活を送る勧進僧・虚無僧・巡礼といった人々を画材の一つとして描き、そのムードを盛り上げることに努めている。この図でもそうした作画傾向をみせて成功している。この原に流れる流れは小田井宿で用水として用いられたもので、追分に近い前田原から引いたのだという。

小田井宿は飯盛女が少なく静かなことから隣宿の追分を避けて浅野宮や皇女和宮等女性が安心して宿泊したことで、「姫の宮」とも呼ばれた。本陣・問屋・旅篭など江戸時代からの建物がよく残る。

出発時に望む浅間山                        / 御代田駅にD51が!

               

寶殊院               / 茅葺の鐘楼            / 小田井宿

                

                                           / 下の問屋跡(尾台家)

                

「皎月原」

    

<岩村田宿> … 木曽道中・岩村田[英泉] 両側の商店街を押しつぶしてしまうように浅間山が見えるのに、英泉はそうした岩村田の風物を描かすに、盲人たちのけんかを描いている。杖を手に争う盲人たちの姿に犬もほえるのを忘れているような迫力のある描写である。人間を描かせては当代を代表する絵師であった英泉の作画力は感じられても、風景画として考えると味気ない作品である。

内藤氏の城下町で、善光寺道、甲州街道、上州下仁田道の分岐点にあたり、交通の要衝として発展した。城下町のためか旅籠は少なく、中山道では高崎宿とともに本陣・脇本陣がなかった。 

 

 

住吉神社 …岩村田宿 江戸口に位置する             / 樹齢四百年の欅…威厳がある

                              

            

龍雲寺

                

   

 西念寺                                                     / 念仏通り

            

 浅間連峰

                

                       

 

 

                                    / 荘山(かがりやま)稲荷社

            

百万編供養塔           / 諏訪神社 … 浅間山を見ながら軽く軽食

        

 のどかな田園風景の中にある集落 門構えの立派な古い家

            

石碑石塔群…浅間山山体崩壊時の岩屑の上

                

         

<塩名田宿> … 木曽海道六捨九次之内・塩なた[広重] 広重描く「塩なた」の図は、千曲川渡船場の風景をとらえている。菰(こも)や派手な布を身にまとい、茶屋で一服する仲間と合流しようとする船頭たちの姿に、寒さの早いこの地方の季節感がよく表現されている。そして三人連れの船頭の一人、手拭で頼かむりをし、手を後ろにくんだ男の表情に、世を達観したようなところがみえて面白い。対岸遠くにみえる山々は、中津橋から眺めた船山、鬼岩山の姿に似ている。 近景をあぎやかな色彩で彩り、遠景を墨の濃淡で処理する手法を、広重はこの「木曾街道」でしばしば用いている。この図もその手法が生きた図といえよう。

西側に千曲川の難所を控え、小諸道への分岐点でもあり、千曲川西岸一帯の米の集散地として賑わった。千曲川は洪水が度々あったので、徒歩渡し、橋渡し、船渡しの三様であったという。 

                                                    / 塩名田宿・問屋本陣

                

千曲川畔にある「川原宿」お滝通り       / 滝不動

                

                 / 川魚料理店「竹廻屋」…ここで遅い昼食のはずだったが予約がないと入れず

    

千曲川を渡る                                                  / 千曲川と浅間山    / 千曲川と八ヶ岳連峰    

                

    

大日如来像・芭蕉句碑‥「涼しさやすぐに野松の枝のなり」

    

   =八幡宿以降の頁へJUMP

八幡宿> 

 <望月宿

   =八幡宿以降の頁へJUMP


・中山道を歩く(7) ①軽井沢<軽井沢宿>-<沓掛宿>-<追分宿>-<小田井宿>

2016-10-23 23:59:59 | 中山道

2016年10月23日~24日 中山道歩き7回目は軽井沢駅<宿>から望月宿までを2日間かけて約30Km歩きます。7月、8月、9月と予定の日に雨で中止、4ケ月ぶりの中山道歩きです。参加者7名、秋の気候に浅間山山麓の高地を歩くため寒さ・暑さ、両方に対応した服装です。

【1日目】 
9時に軽井沢駅に到着。「軽井沢紅葉まつり」の真っ最中でたくさんの人が出ており、マラソン・ランナーが走る道を旧軽ロータリーに着き、<軽井沢宿>から中山道へ向かいます。調度紅葉真っ盛りの街路樹を見ながら中山道途中の雲場池に寄り道をし、紅く・黄色く色づいた紅葉と池を楽しみます。  
沓掛宿>に入ると石碑・道標等が出てきて旧街道らしくなります。調度昼食時になり途中にあった川魚料理屋で蕎麦とビールで腹を満たします。 「遠近宮(おちこちのみや)」という神社は落ち葉が神域に広がり京都のお寺の様な風情のあるもので好ましいです。
18号国道の標高1003m地点を過ぎ<追分宿>に入ると短いながらも宿のイメージと堀辰雄等の文人達のふるさとの雰囲気を残します。追分宿はずれ「分去れの碑」は良く見る絵ですが実物もその通り風情のあるものです。  この後、暫らくは史跡もなく昔は原野だったろう道を歩き、やっと
小田井宿>の入口にある御代田の一里塚に着きます。この塚は道から外れた畑の中にあり両塚とも残っています。片方は良く手入れをされて好ましい雰囲気です。    この一里塚からすぐの御代田駅、その裏の旅館に着き今日の街道歩き終了です。 歩数3万歩、13.8Kmでした。

 <軽井沢宿> … 広重/木曽海道六拾九次之内・軽井沢  浅間の山も、宿の家々も、そして森も墨色で彩られ、月光に照らされた畠の部分だけがやや明るい。その輸の中で燃える焚火。そしてまた街道のかたわらで勢いのよい炎をみせる焚火だけが動的なものを感じさせる。その焚火から煙草の火をつける旅人。馬子と馬上の客とが煙管の火をつけ合う。こうした人々の動きも、あたりの静寂さに押されて、ひっそりと行なわれているように感じる。焚火や小田原提燈の光に照らされた部分だけを鮮かな色彩で描く手法は、当時としては新しい表現であった。

中山道随一の難所碓氷峠を越え、信濃入りする最初の宿場で、足休みする旅人で繁昌した。その繁栄も天明三年(1783)の浅間山大噴火によって壊滅。その後も大火や大飢饉に襲われて衰退したが明治に入って日本有数の避暑地として知られるようになった。 

軽井沢駅             / 駅前通り          / 旧軽ロータリー 中山道合流    / 中山道の街並木紅葉

                

マラソンランナーを左手に見ながら歩く

                      / 雲場池(浅間山湧水堰止池)の紅葉   / ホテルの上に覗く「離山」浅間山の側火山     

              

 <沓掛宿> … 木曽街道・沓掛ノ駅 平塚原雨中之景[英泉]  英泉描くこの図は、前方にみえる川が湯川と思われ、右手の家並は沓掛の宿であろうから、古宿の坂の下か、湯川の旧道の坂あたりを構図したものといえよう。浅間の山から吹きつける強い雨と風に立木の葉は飛び散り、旅人の合羽の裾はあおられる。そして狩野派の粉本から抜け出したようなずんぐりした牛も、人々も頭を下げて風雨に耐える。山麓地方で体験する風雨の実感を巧みに描写している。

浅間三宿の一つで、草津道の入口にあたり、草津温泉へ向かう湯治客の往来で賑わった。しかし、天明三年の浅間大爆発で甚大な被害を受け、宿場の賑わいは停滞したが幕末にはやや持ち直した。

 沓掛宿碑            / 中軽井沢駅(旧沓掛駅)  / 男女双体道祖神       / 廿三夜供養塔       / ここで昼食を摂る

                

遠近宮‥在原業平「信濃なる浅間の嶽に立つ煙遠近人の見やとがめん」に因む 

                           

馬頭観音            / 草津道分去れ道標    / 標高1003m標識‥国道18号最高地点

        

 <追分宿> … 木曽街道・追分宿 浅間山眺望[英泉] 英泉描く追分宿は、そそり立つ浅間山の麓を巡って続く街道を三人がかりで荷を運ぶ人足、馬の背に荷を積み上げて行く馬子などの姿を前景に配し、泰然とした自然の大きさと労働する人間との対比とを巧みに融和させ、浅間の実感を強調した図となっている.

沓掛から一里半で追分宿に達する。このあたりの街道は、文政版『木曾路名所図会』に、「此の辺浅間の麓故、焼石焼砂多し」と記されているように、火山地帯独特の地質である。また追分宿は標高一千メートル、中山道宿駅中最も高地にある宿場だといわれる。そして中山道と北国街道(善光寺道)への分岐点にあたり、古代の官道時代から交通の要衝として発展した。 

追分一里塚                              / 浅間神社      /芭蕉句碑「吹き飛ばす石も浅間の野分かな」 /堀辰雄記念館 

                

青空文庫             / 旧本陣            / 高札場跡(復元)      / 諏訪神社    / 枡形跡に建つ枡形茶屋・つがる屋                   

                

分去れの碑‥北国街道と中山道の分岐

 <小田井宿> … 広重/木曽海道六捨九次之内・小田井 広重は、広いススキの原を行き交う本堂造立の旗を手にした勧進僧と親子づれの巡礼を描いている。広重は物悲しい情緒あふれる風景を描く場合、いわは浮草のような生活を送る勧進僧・虚無僧・巡礼といった人々を画材の一つとして描き、そのムードを盛り上げることに努めている。この図でもそうした作画傾向をみせて成功している。この原に流れる流れは小田井宿で用水として用いられたもので、追分に近い前田原から引いたのだという。

追分宿でわかれて、右が北国街道、左が中山道。左の道をとって一里半で小田井宿である。その途中の街道は『木曾路名所図会』にも「追分の駅まで家なし」と記されているが、今でもススキやカラマツ林などが日立つ、あまり人家をみないさぴしい所で、広重の描く図に近い。

 

 御代田の一里塚 … 畑の中に両塚が残る

            

 

 しなの鉄道「御代田駅」     / 宿の夕食です

    

2日目に続く


・中山道を歩く(6) 本庄<本庄宿>-<新町宿>-<倉賀野宿>倉賀野

2016-06-19 23:59:59 | 中山道

2016年6月19日 中山道歩き、6回目は本庄駅から倉賀野駅まで約15.2Kmを歩きました。先月、先々月とグループでの街道歩き、欠席だったのでメンバーと歩くのは久しぶりです。今日歩くルート<新町宿>までは7日に一人で歩いています。   参加者8名、前日の猛暑日と比べ今日は若干低めの24℃曇りの予報、初夏の歩きとしてはまあ良い方かなという感じです。  今回の15.2kmは6日間での最短距離を更新しました。

9時に<本庄宿>駅に集合。前月リーダーが歩いた中山道ポイントまで横道を律儀に戻り街道歩きスタートです。一人で歩いた時は気づかなかったポイントを発見する事が出来ます。   歴史民族資料館に寄り移設された本庄宿の本陣門を見てから館内に入ります。明治に警察署として使われていた資料館には古墳時代の埴輪等の出土品や近世の繭や絹で本庄宿が繁栄した一端を垣間見る事が出来ます。   前回見たお寺や建物を回り宿の総鎮守・「金鑚(かなさな)神社」を見ます。皆は立派なお寺と大きなクスノキをじっくり見入っていました。  長松寺では前回行った時は目立たなかったハスに立派な花が咲いていて2週間の違いで花があり季節の流れを感じます。 陽雲寺では境内に良いベンチがあったので水分補給の休憩です。太陽が照らしつける事はないのですが汗がにじみ出てくる蒸し暑さです。
神流川を越えいよいよ<新町宿>です。神流川の両脇にある「見透燈籠」は皆、興味がない様で先に行きます。神流川古戦場跡碑をじっくり見て芭蕉句碑がある八坂神社の手前で昼食です。    昼食が終り表に出ると女雨(死語?)が降っています。日傘を持ってきた人はさし、ない人はそのままです。  元の道に戻り「八坂神社」芭蕉句読み方の事で一談義です。 この先で前回私が歩いた場所は終わり、新しく歩く街道です。  広重の浮世絵描画の場所、温井川の橋袂には上州の山々の展望図があり、見えれば素晴らしい様です。    関越自動車道を潜り鳥川の堰堤・サイクリイング道を歩きます。小雨は時々止んだり降ったりです。  烏川の柳瀬橋を渡り、舟渡し場のあった旧道に戻り2本の高崎線を越えると<倉賀野宿>です。  日光例幣使街道追分の常夜燈を見て、間もなく倉賀野駅に着き今日の街道歩き終了です。

次のルート:倉賀野宿~安中宿        前のルート:⑤深谷宿~新町宿 

 

 <本庄宿> … 本庄宿 神流川渡場[英泉]   昔は宿の手前、傍示堂(ぼうじどう)に武州・上州の国境標示があったが、一般的には神流川をもって、武蔵・上野両国の境とした。        図中の常夜灯は川の両岸に一基ずつ建ち「見返し灯篭」と呼ばれ、夜、川を渡る人の目安になっていた。   広くひろがる空に上毛三山、左から妙義山、榛名山、赤城山。さらに妙義山背後の茶色い山は信州の浅間山、赤城山の後の灰色の山は日光白根山とみられる山岳に、文人画の谷文晁の作品にみられる描法を活用している。

深谷宿と並んで街道有数の歓楽街を形成し、本陣や飯盛女の客引合戦も激しかったという。助郷に来た近郷の若者が村に戻らず、役人に取締り願いが出たという。 が、『壬戌紀行』に「(書店)があり。文広堂といふ。又新古本屋林といふも見ゆ」とあって、文化面も高かったようである。   

 

本庄駅               / 大正院        /              / 歴史民俗資料館前・田村本陣門   /  歴史民俗資料館

                

歴史民俗資料館・元警察署

   

 安養院                                                    / 旧本庄商業銀行跡・繭倉庫

                

金鑚(かなさな)神社                             / 長松寺                         / 唐鈴(とうれい)神社参道

                

金鑚(かなさな)神社

 

 歩く                / 円墳の浅間神社       / 金窪八幡神社         / 陽雲寺           / 勝場の一里塚跡

                

神流川・本庄側「復元見透燈籠」               / 新町側

         


<新町宿> … 新 町[広重]   日本橋から英泉の図をみてきたが、ここで初めて広重の図である。      宿の西に温井川が流れ、中山道は弁天橋で渡った。   『木曽名所図会』には「左の方に赤木山見ゆる。富士峯に似たり」とあり、広重はその記事そっくりの藍の赤城山を描いている。   これまでの重苦しい画趣の英泉の図を見てきただけに、何かほっとした気分にしてくれる。木版独特のボカシや色面構成による広重の作風によるためであろう。

神流川を渡り、中山道は群馬県・上州/上野国に入る。江戸から11番目の宿場となる。当初は寂しい寒村だったが、後に街並みが出来、落合新宿と笛木新宿となり二つの村で宿場をなした。

  

神流川古戦場跡碑       / 復元見通燈籠        ●● 昼食 ●●      / 八坂神社 … 

                         

浄泉寺 …            / 伊勢島神社 …        / 豪商川端家      / 鳥川堰堤に上る     / 烏川に架かる柳瀬橋から

                

烏川対岸を舟渡し場辺りへ戻る / 岩鼻の北向子育観音

    

 <倉賀野宿> … 倉賀野宿 鳥川之図[英泉]    烏川縁に建った茶屋、そして英泉が得意とした子供と女性を近景に描いている。背景の風景は観念的な描写(具体的な景色を描いていない)となっている。

新町から倉賀野はわずか一里半であるが温井川渡し、烏川・柳瀬の渡しがあるので昔の旅人は手間取ったであろう。     倉賀野宿は日光例幣使街道の起点であった。     また烏川の下流が利根川に流入していたので江戸との舟運が開けており河岸が連なっていた。信州や越後からくる物資は碓氷峠を越えて牛車で倉賀野宿まで運ばれ、河岸から船で烏川から利根川を経て江戸へ運ばれた。  江戸からの物資もここの河岸に陸揚げされ各地へ牛車で運ばれた。そのため問屋が十軒もあり、他の宿場とは違った雰囲気があったという。

日光例幣使道追分                     /               / 倉賀野宿本陣跡碑

                

=おわり=

次のルート:倉賀野宿~安中宿       前のルート:深谷宿~新町宿 


・中山道を歩く(5) 深谷<深谷宿>-<本庄宿>-<新町宿>新町

2016-06-07 23:59:59 | 中山道

2016年6月7日 中山道歩き、5回目は北深谷駅から新町駅まで17.7Kmを歩く予定です。   今回もグループ行動の日に用事があり参加できなかったので一人で歩きます。梅雨入りした関東地方、それ程暑くならず最高21℃曇り予報日の歩きです。  先行グループが歩き終わった本庄駅の先、神保原駅か新町駅まで歩くのが目標です。  

早めの8時30分頃に<深谷宿に到着。煉瓦デザインの特徴的な駅を後にして出発。   左手に煉瓦造りの高い煙突が目立つ造り酒屋「滝沢酒造」があります。その先に中山道最大級といわれる深谷の常夜灯があります。道路正面にあり非常に目立つ立派なものです。 JR線路の向こうにある「清心寺」は簡素なお寺です。  17号線と旧道の分岐点に芭蕉の句碑がありますが、説明資料がなければ読めない句です。  本庄宿の北、小山川を渡る手前の道は曲がりくねり、坂の途中に百庚申という庚申塔群があります。築造時、黒船の渡来や桜田門外の変があり国情騒然の時期に民衆の安定を願ったものとの事で歴史を感じさせるものです。   小山川を越え、川沿いの旧道は上州の空っ風にさらされる寒村という風情です。     
かつては武州・上州の國境であったという傍示堂跡を過ぎると<本庄宿>に入ります。若干は昔の宿の雰囲気を残す建物が残っています。 遅めの昼食を摂った後、先をいそぎます。本庄宿のはずれにある総鎮守「金鑚(かなさな)神社」は樹林に囲まれ社殿は丹塗り、極彩色の彫刻で飾られて美しいものです。  暫らく旧道の郊外の道を歩くと古墳の上に作られた浅間神社があります。構造の説明板があり興味深々です。    この様な道を歩き武蔵國と上野國の國境、現在の埼玉と群馬の県境を流れる神流川に出ます。「神流川合戦の碑」と「復元・見通し燈籠」が川の両岸にあり、古の往来を思いますが狭い橋の横をダンプカーが疾走し現実に引き戻されます。   
上州<新町宿>に入るとすぐに「八坂神社」があり芭蕉句碑もあります。  雲ゆきも怪しくなり16時近く、先に行くにはまだ2時間程度かかりそうなので新町駅で今回の街道歩き終了です。 

次のルート:⑥本庄宿~倉賀野町       前のルート:④鴻巣宿~深谷宿 

   

<深谷宿> … 深谷之駅[英泉]  生き生きとした宿場女郎屋の様子。竹之内の紋入り提灯からもれた光で足元を照らす。こうした明暗の表現は英泉が好んで描いた美人画に用いた手法でこの図にもその手法が生きている。 

深谷は旅篭が中山道の中で一番多くそれぞれに飯盛り女を二人から三人おいていた。宿内の男女構成比は女性が138人多く、飯盛り女ぐらいが多い計算になる。その要因の一つが、前の熊谷宿が飯盛り女を置くことを禁じていたため、遊女は深谷に住みつき、自然と旅人も深谷に来るようになり一層賑やかになったということである。   [英泉]は江戸吉原に通い遊女を描く事を務めていたそうで、下記浮世絵は英泉面目躍如というところである。  

  

  

深谷駅                / 「七ツ星」蔵元       / 「菊泉」蔵元            / 深谷の常夜灯 

                

清心寺 … JRの線路を越えた向かいにある簡素なお寺                                                 

       

 

<本庄宿> … 本庄宿 神流川渡場[英泉]   昔は宿の手前、傍示堂(ぼうじどう)に武州・上州の国境標示があったが、一般的には神流川をもって、武蔵・上野両国の境とした。        図中の常夜灯は川の両岸に一基ずつ建ち「見返し灯篭」と呼ばれ、夜、川を渡る人の目安になっていた。   広くひろがる空に上毛三山、左から妙義山榛名山赤城山。さらに妙義山背後の茶色い山は信州の浅間山、赤城山の後の灰色の山は日光白根山とみられる山岳に、文人画の谷文晁の作品にみられる描法を活用している。

深谷宿と並んで街道有数の歓楽街を形成し、本陣や飯盛女の客引合戦も激しかったという。助郷に来た近郷の若者が村に戻らず、役人に取締り願いが出たという。 が、『壬戌紀行』に「(書店)があり。文広堂といふ。又新古本屋林といふも見ゆ」とあって、文化面も高かったようである。   

龍宮神社 …         / 二十二夜塔          / 源勝院 … 岡部藩主安倍氏の菩提寺

            

宝登山神社           /雲雀塚 … 芭蕉句碑「原中や物にもつかず啼雲雀

    

島護産泰神社 …                                             / 百庚申        /小山川・滝岡橋

             

                                / 八幡大神社         / 古の國境・傍示堂跡

                   

旧本庄商業銀行跡の煉瓦造り繭倉庫 / 安養院 …江戸末期の文人碑が林立・加賀千代尼句碑、芭蕉画像句碑、渡辺崋山書、等27基  / 昼食

                 

金鑚(かなさな)神社 … 本庄城主 小笠原忠真が創建した 丹塗りの社殿と極彩色の彫刻

                

 長松寺 …            / 二柱神社 …       / 浅間神社 … 古墳の上にある

            

勝場の一里塚跡碑

   

神流川                  / 復元見透燈籠:武蔵國側

            

 

<新町宿> … 新 町[広重]   日本橋から英泉の図をみてきたが、ここで初めて広重の図である。      宿の西に温井川が流れ、中山道は弁天橋で渡った。   『木曽名所図会』には「左の方に赤木山見ゆる。富士峯に似たり」とあり、広重はその記事そっくりの藍の赤城山を描いている。   これまでの重苦しい画趣の英泉の図を見てきただけに、何かほっとした気分にしてくれる。木版独特のボカシや色面構成による広重の作風によるためであろう。

神流川を渡り、中山道は群馬県・上州/上野国に入る。江戸から11番目の宿場となる。当初は寂しい寒村だったが、後に街並みが出来、落合新宿と笛木新宿となり二つの村で宿場をなした。  

 

 

 

復元見透燈籠:上野國側   / 神流川古戦場跡碑

               

八坂神社 … 芭蕉句[傘におしわけ見たる柳かな]  / 諏訪神社      / 専福寺       / 新町駅

           

=おわり=  

次のルート:⑥本庄宿~倉賀野町      前のルート:④鴻巣宿~深谷宿 


・中山道を歩く(4) 北鴻巣-<鴻巣宿>-<間・吹上宿>-<熊谷宿>-<深谷宿>-深谷

2016-05-16 21:26:28 | 中山道

 2016年5月16日 中山道歩き、4回目は北鴻巣駅から深谷駅まで20.4Kmを歩きました。   グループ行動の日に用事があり参加できなかったので一人で歩きます。猛暑で名高い熊谷を歩くので曇り予報の本日の歩きです。  先行グループが歩いた北鴻巣駅から籠原駅まで歩くのが最低限の目的ですが出来れば深谷駅まで歩く予定です。  今回の20.4kmは4日間で最も長い距離です。

9時前に<鴻巣宿北鴻巣駅に到着。箕田追分に戻り街道歩きスタートです。それ程車の多くない道をJR高崎線と並行して歩き、そしてJRを渡り間の宿となる<吹上>に入ります。英泉の浮世絵ではこの手前で富士山を描いていますが今日は曇り空、展望はききません。メイン通りから脇道に入り再度JR線路を跨線橋で渡ります。     
熊谷宿>まで遠く元荒川の起点という小さな標石をみて荒川の土手に上がります。土手の上に出ても荒川本流は見えず非常に広い河川敷です。 江戸時代は熊谷八丁堤、桜並木が有名で「久下の長土手」と呼ばれ景勝地であったが物騒な場所であったとも。    熊谷まではまだ距離がありそうで久下村の集落で見つけた顧客のいない小さな食堂で昼食です。  たまたま寄った荒川土手下にあった東竹院というお寺は新緑の中に建つ本堂が立派です。だるま石というのが有名とか。     熊谷駅近くでは秩父鉄道・JR新幹線・高崎線と連続して越え国道17号線を歩きます。大きな市街地の熊谷では神社・寺が昔の面影を偲ばせるだけで江戸時代の遺跡は残っていません。 旧街道がデパートの中を突っ切っているというありさまです。(デパート東口から入って西口に抜ける) 暫らくは17号線沿いを歩き途中から再度脇道旧道になります。   見るべきものがあまりない旧道をえんえんと歩き籠原駅入口を通り過ぎ5Kmほどで深谷宿に入ります。    
深谷宿>は旧道沿いに旧家などが残っており大きな田舎の街という雰囲気です。 今日の目的地、深谷駅は渋沢栄一が煉瓦造り事業で財をなしただけあり東京駅駅舎を思わせる立派な煉瓦造りの建物です。18時近くになり今日の一人歩き終了です。

次のコース:⑤深谷宿~新町              前のコース:③上尾宿~鴻巣宿

 

 

<鴻巣宿> … 鴻巣 吹上富士遠望[英泉] 吹上村から熊谷へ向かって出た辺りから富士山を望んで描く。蛇行する街道には榎が植えられ、その両側には麦畑が広がっている。 

鴻巣宿は江戸時代からひな人形の産地として知られていた。ここの雛市は江戸十間店、武州越谷と並んで「関東の三大雛市」といわれるほど繁盛した。 

北鴻巣駅から中山道に合流・箕田追分 / 地蔵堂     / 英泉 の「鴻巣 吹上 遠望」はこのあたりと刻まれる / 前砂道標

                             

JR線路を渡る        / 妙徳地蔵             / 勝龍寺

          

<間の宿・吹上宿> … 

 

吹上神社                              / 吹上 間の宿碑     / 中山道榎戸村 碑  / 元荒川起点標石

          

<熊谷宿> … 熊谷宿 八丁堤ノ景 [英泉] 荒川に面した茶屋を描いたものという。道の傍らの地蔵は、荒川水難者の川守地蔵であろう。そばに立つ石柱には「左深谷 二里廿丁」という文字が見られる。茶屋にいこう旅人や馬子。駕籠に乗る人物と挨拶する男の二つのグループを前景に、榎を植えた縄手道を描いた構図も面白い。  

熊谷宿は江戸時代は忍藩領で、絹・綿織物を商う六斎市が立って賑わった。また、秩父・川越・足利方面へ通じる交通の要地として発展した。    

権八延命地蔵 … 荒川護岸手前             / 荒川堰堤上を歩く                   / カスリーン台風による荒川決壊跡碑

                         

久下の一里塚                             / 久下神社         / 久下権八地蔵    / 久下の渡し跡碑

            

東竹寺 … 

        

  

熊久橋 …     (ムサシトヨミ生息地)      / 八丁の一里塚跡碑   / 秩父鉄道・上越新幹線を超える  

                  

高城神社 … 武蔵大里郡総鎮守                    / 札の辻跡碑         / 千形神社 …   

                

熊谷(ゆうこく)寺  …                           / デパート 西口・東口にある道標

            

新島の一里塚       / 東方の一里塚(ケヤキ)

                 

<深谷宿> … 深谷之駅[英泉] 生き生きとした宿場女郎屋の様子。竹之内の紋入り提灯からもれた光で足元を照らす。こうした明暗の表現は英泉が好んで描いた美人画に用いた手法でこの図にもその手法が生きている。 

深谷は上杉氏の城下町として発展。寛永4年の廃城後は商人や遊女の多い宿場として、また五・十の日に開かれる市場町として繁昌した。宿は秩父入口・寄居への分岐点に位置し、また、北方の利根川河岸と江戸との間に舟運が開けていた事もあって商業が盛んであった。   

熊野大神社 … 

        

見返りの松 … 旅人が朝、遊女との別れを惜しんだ場所               / 県立深谷一高

                                            

深谷宿常夜灯 … 深谷宿江戸口   / 豪商 大谷邸     / 地名由来 行人橋

                      

煉瓦造り深谷駅

         

=おわり=

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・奥の細道(6)(野木)野木宿-間々田宿-小山宿(小山)

2016-04-23 23:59:59 | 中山道

2016年4月23日 6日目はJR野木駅から小山駅まで約13Kmを歩く予定です。9時半に野木駅に集合。 参加者は女性5名、男性5名の10名です。 天気は晴です。

野木駅から4号線に沿って歩きます。所どころにお寺があり境内に牡丹の花が満開の場所が多く見事です。    間々田宿に入りJR駅入口でちょっと早めの昼食です。     途中、浄光院というお寺は山門の上に鐘楼があるという珍しいものです。このお寺の境内にも牡丹やシャクナゲ、ツツジ等、季節の花が満開です。   小山宿では小山城跡の城山公園に寄ります。小山氏の本城で一名を祇園城というのですが城としての面影は殆んどありません。思川に面した丘陵を利用した城の様で、空堀が唯一城の面影を残しているくらいです。城跡公園を一巡りしてから駅に向かい今日の細道歩き終了です。

野木駅         /  法音寺      / 芭蕉句碑「芭蕉翁 道ばたのむくげは馬に喰われけり」

            

境内に咲く牡丹が美しい

    

 若宮八幡宮                                      / 佛光寺

        

乙女八幡宮                        狛カエル?がいる

    

●●● このあたりで早めの昼食 ●●●

古土蔵の家      / 蛇祭りが有名 … 間々田宿

  

間々田宿 入口 … 龍昌寺                           / 梅が実っています

        

                   浄光院 … 牡丹の花が満開

   

         

西堀酒造に立つレンガ造りの煙突。(文化財)

  

小山宿 … 

須賀神社

        

小山城跡        Map                  / 空堀                       / 本丸

小山駅                 

=おわり= 


・中山道を歩く(3) 上尾<上尾宿>-<桶川宿>-<鴻巣宿>北鴻巣

2016-03-13 23:34:44 | 中山道

2016年3月13日 中山道歩き、3回目は上尾駅から北鴻巣駅まで16.6Kmを歩きました。   参加者8名です。終日曇り空、気温は真冬なみの予想です。  当初は吹上駅19.6km、ないしは行田駅まで22.8Kmを歩く予定でしたが途中の宿で見るものが多くて時間を取られ、また寒さもあり北鴻巣駅で終了です。  今回の16.6kmは3日間で最も短い距離でした。

9時半に<上尾宿>駅に集合。上尾宿はK校友会クラブで散策しています。酒造・文楽の蔵元があるので覗いて行こうとしましたが未だ開いていません。   
桶川宿>へ入り3階建ての「お助け蔵」の中を見、建物の頑健さに感心しました。「女郎買い地蔵」という変わった名の地蔵があるという「大雲寺」は写真だけ撮り、中は見ません。   ここで早めの昼食。    
間の宿である<北本宿>からは今まで見たことがない<十三佛>というものがあちこちのお寺に出てきます。北本駅前の「多聞寺」にも十三佛があり、その前に見た十三佛とは並びが違うようですがきれいです。 
ほどなく<鴻巣宿>に入り「雛屋歴史資料館」を覗いてみると変わったお雛様、年代物のお雛様と飾ってあり女性陣が魅了されて、なかなか動こうとしません。 宿の入口にある「勝願寺」は屋根に葵の紋瓦がある大きなお寺でNHK大河ドラマの小松姫のお墓も寺の境内に面した場所にあり、あまり荘厳な雰囲気はありません。  鴻巣駅で16時近くなりここで終了にするか相談した結果、北鴻巣駅まであと1時間頑張る事にします。  北鴻巣駅に向かって分かれる手前で水流の豊かな「武蔵水路」を渡ります。激流なので何かと思い後で調べたら昭和39年東京オリンピック開催前に東京の水不足解消のために利根川の水を東京に引く水路でした。 駅に着き、本日の街道歩き終了です。

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<上尾宿> … 上尾宿 加茂之社[英泉]  宮と上尾の中間に加茂村があり、絵の加茂社があった。境内に立った赤と白の幟には「加茂大明神」に混じって、絵の版元「保永堂」と版名「竹之内板」の字が見える。 旅人や人足が休める立場であったこの村には、茶屋が何軒もあり、農家の隣がその一軒のようである 

 

上尾宿は中山道の中、比較的小さな宿場であったが「飯盛り女」が大勢いて、宿は結構賑わっていた。風紀の取り締まりが厳しい川越藩から若侍が毎晩のように通っていたとか。   

 

 

 

 遍照院                                           / 庚申塔 …   / 銘酒「文楽」  /  紅花で財をなした旧家 

 

         

 

<桶川宿> …   桶川宿 曠原之景[英泉]   葉煙草を軒にかげ干しにし、昔から評判の「中山道麦」を手にする農婦に道でも聞くのか、旅人が声をかけている。 「人のいる風景画」といった構図であるためか、これまでの英泉画とは一味違ったムードをもつ作品となっている。

 

「桶川臙脂(えんじ)」の産地。その紅花の大半は中山道を通って京都に運ばれた。また、染料の藍を栽培しており「武州藍」として江戸に送られた。   

 

 

 

桶川宿 東木戸碑 / 旅篭風武村旅館                      / 浄念寺

 

              

 

三階建て土蔵:お助け蔵        蔵の中の陳列物                          / 梁

 

           

 

蔵造りの商家          / 桶川宿府川本陣遺構

 

       

 

大雲寺… 夜な夜な女郎買いに出るという「女郎買い地蔵」がある 背中に鎹が打たれ鎖で繋がれる

 

            

 

上木戸跡碑         / 桶川宿碑

 

       ●●●   このあたりで早めの昼食   ●●●

 

北本宿碑 … 鴻巣宿ができる前、このあたりを本鴻巣村といっていた    / 観音堂      十三佛

 

                                      

 

多聞寺 … 県指定文化財で樹齢約200年のムクロジがある。6月下旬には淡い緑色の花が咲く。  十三佛

 

                    

 

天神社 …                                         / 東間浅間神社

 

         

 

<鴻巣宿> …  鴻巣 吹上富士遠望 [英泉]  縄手になった街道を行く旅人たちを配し、このあたりの広々とした広野を描いている。そして遠くに望む榛名や赤城の山々の描写には、明らかに北斎の影響が認められる。  

 

鴻巣宿は江戸時代からひな人形の産地として知られていた。ここの雛市は江戸十間店、武州越谷と並んで「関東の三大雛市」といわれるほど繁盛した。  

 

 

 

                           / 金剛院 …                   

 

           

 

                  / 不動堂

 

       

 

鴻巣名産 ひな人形展示

 

            

 

鴻巣宿碑      / 勝願寺   … 

 

               

 

何か違う狸像                     / 鴻巣野口本陣跡碑                    / 鴻神社

 

                   

 

龍昌寺 … 

 

           

 

氷川八幡神社…箕田碑がある

 

      

 

=おわり=

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