2017年12月9日 例会山行で奥多摩・青梅丘陵に行きました。 11名の参加。 晴天、初冬の1日を楽しめそうです。
軍畑駅から歩き始め高水三山分岐、平溝橋を曲がらずそのまま真っ直ぐ。石灰岩を産出する成木街道途中から右の尾根道に取りつく。最初は急坂、稜線に出ても小さな瘤を登ったり下ったりして青梅駅に向かう。途中、辛垣(からかい)城址の遺構の中を通って青梅へ。簡単な山のつもりが以外と手ごわい丘陵歩きだった。
軍畑駅前 平溝橋を真っ直ぐ 榎峠から山道へ 稜線の瘤を登り下り
雷電山に登る 雷電山山頂から北方面 雷電山から元の道へ
辛垣(からかい)城址の竪堀?を歩く
予定場所より早い場所で昼食
=おわり=
【3日目】
朝起きてみると曇り空。予報では午前中雨。 曇り空の中、日本ライン今渡(いまわたり)駅から中山道に戻り3日目の街道歩きを始める。
最初に木曽川左岸「今渡(いまわたり)の渡し跡」を見る。今まで見てきた岩の間を流れる激流ではなく広い川幅の大河になっている。 渡しの代わりに架けられた太田橋で木曽川を渡り太田宿へ。
<太田宿>は飛騨街道や郡上街道の分岐点として栄えた町、現在もJR高山本線や長良川鉄道が集まる交通の要衝になっている。 旧道の宿入口・出口は枡形、交通量も少なくこじんまりとしていながら古い屋敷もあり宿場の雰囲気を保っている。 この先旧道は木曽川の変遷で特定できなくなり堤防の上、「日本ラインロマンチック街道」を木曽川を見ながら歩く。この頃から雨が本降りとなり傘をさして歩く。 対岸の山肌に若干紅葉が残っており雨の奇岩の間を流れる木曽川を見ながら歩く。 堤防を降り国道沿いを暫時歩くと山側の崖に登る細道があり「岩屋観音」に着く。雨に濡れた岩肌をくり抜いた中に観音像がある。 国道に降り左側から国道とJRの下をトンネルでくぐると「うとう峠」入口である。 うとう峠への道はこれまでの国道の喧噪とは別世界の静かな道。岩屋観音あたりから雨も上がり峠への深い緑の中を歩く。 中山道で土の道を歩くのはこれが最後ということで土の感触をかみしめて歩く。峠手前から石畳道になるが丘陵の上「うとう峠一里塚」の手前から右手が新興住宅街になり興ざめである。 この先も住宅街の中を下り、まもなく赤坂地蔵堂<鵜沼宿>入口である。今回はここでで中山道歩き終了。 昼食の乾杯後犬山城観光に向かう。
危惧された途中脱落者もなく、代わりに当初予定より先まで歩くことが出来、絶好調のハイキングクラブ有志である。
歩数3万8千歩、19Kmの歩き。
次のルート:⑱鵜沼宿~美江寺宿 前のルート:⑯中津川宿~大湫宿
<大田宿> … 広重/木曾海道六拾九次之内・・太田 広重の図は、「木曾で桟(かけはし)、太田で渡し、碓氷峠がなくばよい」と馬子歌に歌われたという太田の渡し場を描いた。この太田から一里ほど上で木曾川と飛騨川とが一つになったという広い川幅の水面を筏が下り、渡し舟が急流に舳先をたてて漕ぎ渡る。こちらの岸には大きな石「化石林」にどっかと腰をおろして旅人が次の舟をまつ。
ここ太田、あるいは今渡から峡谷の急流を犬山まで下る″日本ライン下り″は有名であるが、大正十年、岐阜から高山線が開通した際、その名付け親である志賀重昂博士の発案から起こったものだという。
今渡(いまわたり)の渡し場跡
木曽川を越える太田橋 対岸 太田宿側 太田の渡し場遠望
大田宿 祐泉寺
祐泉寺:日本ライン命名者「志賀重昂」、槍ヶ岳開山者「播隆上人」の墓碑。 太田宿の代官所役人の子供であった「坪内逍遥」、芭蕉、白秋の歌碑がある
卯建の上がる旧家
木曽川・日本ライインの景観
岩屋観音 中央西線に沿って歩く
うとう峠へのルート トンネルを潜る うとう峠登り口
国道、JRの下をくぐるトンネル
うとう峠登り口
うとう峠登り口:国道を離れこれまでの喧噪とは別世界の静かな道。深い緑である。
うとう峠一里塚
鵜沼宿入口 今回はここで終了 … 犬山城観光へ向かう
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ( 犬 山 城 観 光 ) ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
今年9月にも城郭巡りで 犬山城 を観光している
木曽川超しの犬山城 木曽川左岸を犬山城へ向かう
木曽川、犬山城、ライン大橋
次のルート:⑱鵜沼宿~美江寺宿 前のルート:⑯中津川宿~大湫宿
=おわり=
【2日目】
大黒屋の朝、スッキリとした青空である。2日目<細久手宿>の街道歩きを始める。今日は初実施の朝から夕方までまる1日の街道歩きなので全員が順調に歩けるか気がかり。
細久手宿から御嶽宿の間はほぼ山道、深い緑に包まれた道を下り登りの繰り返しで歩く。所々東海自然歩道が中山道と同じところを通り、案内標識が間違えやすい。
御嶽宿入口、物見峠先の御殿場跡展望台から恵那山、御嶽山、笠置山が見えるはずだが、樹木が生い茂り笠置山以外は良くわからない。 謡(うとう)坂石畳を下り、そして登り西洞坂を下ると平坦地・田圃・国道に出て<御嶽宿>になる。蟹薬師・願興寺東側にこじんまりと当時の面影を伝える旧家が残る。願興寺は質素な雰囲気だが立派な本堂と広い境内を持ち時代を感じさせる建物。この宿が願興寺の門前町として繁栄したことは名鉄線の終端駅があることからもわかる。 みたけ郷土館紹介の店で昼食。 この先、すぐに伏見宿である。
朝の大黒屋 本陣跡 馬水池 平岩辻の風景
秋葉山の三尊石窟 鴨(こう)之巣の一里塚:南塚と北塚が地形の関係から東へ16mずらされている
<御嶽宿> … 広重/木曾海道六拾九次之内・御嶽 広重描く御嶽の図は、宿からはなれた木賃宿の情景である。木賃宿というのは野宿から旅寵に移る過渡期の休泊所で、旅人たちは食糧を携帯し、宿からは湯をもらうだけであったという。その後米を買って自炊し、煮たきをするようになったという。一つ釜を囲んだ貧しい人々の和気藹々たる雰囲気が伝わってくるような図である。
宿の西はすれに蟹(かに)薬師の名で有名な願興寺があり、門前町として誕生した。この寺は、一寸八分の薬師さまの体を数千のカニが取り巻いて池から現われたという話が伝えられ、ここから蟹薬師の愛称が生まれた。本陣から東に連子格子の家並みが残る。 地域名は御嵩、宿名は御嶽と表記し、御嵩町御嵩に御嶽宿がある。
物見峠への入口 唄清水 一呑ひとのみ清水 この辺りが広重描画の場所
謡(うとう)坂石畳:余りの急坂に苦しさを紛らすのに唄いながら 耳神社:錐を奉納すると耳の病にご利益が
謡(うとう)坂石畳:険しい石畳のため、歌を謡って元気をつけた 花崗岩の割石で200m余りを修復
西洞坂:牛の鼻欠け坂 まもなく御嶽宿に入る 水田地帯
牛の鼻欠け坂あたりを境にして、東は山間地域の入口となり、西は比較的平坦地になる。地理的にこの辺りが山間地と平坦地の境界になる。
和泉式部の墓 旧旅篭吉野家 商家竹屋跡 脇本陣跡
●●● この辺りで 昼食 ●●●
蟹薬師:願興寺 名鉄広見線終点:御嶽駅
願興寺:平安時代開創の古刹。本堂は天正期の再建で400年。重文級の仏像も多数擁する。
<伏見宿> … 広重/木曾海道六拾九次之内・伏見 この広重の図はどの辺だかわからないが、街道の一本杉の根元に憩う旅人や往来する人々を主題とした図で、「人のいる風景版画」といえる。 木陰で弁当を使う夫婦。笠を枕に仮眠する男。どこを目差すのか瞽女三人。左の道からは傘をさし、薬箱を背にした医者がもっともげな瀕をして歩を運ぶ。簡単な描線で描かれた人物ではあるが、よくそれぞれの職業、生活状態までも描き分けており、広重もやはり浮世絵師だなと感じさせる図である。こうした一本杉の根元に憩う人々を扱った図は、保永堂版「東海道五拾三次」中の「浜松」が有名であるが、本図の方が温か味があふれている。
御嶽から一里五丁の西に伏見がある。木曽川の渡し場変更により木曽川南岸の土田どた宿から宿が移ったため、他の宿より90年余り遅れ、中山道では最も遅く誕生した。明智光秀や森蘭丸の出身地に近い。今は国道が通り抜ける。
<伏見宿>からはほぼ平坦な道を歩く。宿内を国道が通っているため、当時の雰囲気はほとんど感じ取れない。 旧家がほんの少し残っているだけで後は碑だけである。 予定では「上恵土神社」先から新可兒のホテルへ行く予定だったが、見るものが少なく時間も早いので1駅先まで約1時間余計に歩く。 名鉄今渡駅から新可兒駅に戻りホテルへ。
危惧された途中脱落者もなく、代わりに当初予定より先まで歩くことが出来き絶好調のハイキングクラブ有志である。
歩数3万8千歩、19Kmの歩き。
鬼の首塚 比衣ひえ一里塚跡 本陣跡碑 兼山道道標:右御嶽 左兼山 八百津
伏見宿本陣碑 ・ 「是より東尾州領」の領界石
旧旅篭三吉屋 名号碑:槍ヶ岳開山の播隆上人が建立 子規句碑「すげ笠の 生国名のれほとゝぎす」
上恵土神社 恵土の一里塚跡碑
上恵土神社 裏手から中山道に蛇行してきた木曽川が望める
【3日目】 に続く ……
2017年12月6日~8日 中山道歩き17回目は美濃路・大湫宿から鵜沼宿までを3日かけ約**Km歩きます。今回から新幹線を利用してのアクセスになるため<2泊3日>の街道歩きです。7名の参加。
【1日目】
塩尻駅構内で立ち食い蕎麦の昼食。中津川駅から≪恵那駅≫に移動し「広重美術館」で浮世絵を見る。生憎中山道の浮世絵はやっていなかったが版画印刷を体験。
釡戸駅からタクシーで<大湫宿>へ14時到着。晴天だが高地であることで冬の寒さがキリリ。1週間前に来た宿だが季節がだいぶ進み冬枯れの景色。「観音堂」と「神明神社の大杉」を再度観光。 美濃路で標高が一番高い琵琶峠540mの石畳道へ向かう。 この辺り「隆起準平原」といって河川の浸食の最終段階「準平原」が隆起した場所。再び浸食が始まると旧河川が残した山砂利が分布し、二つ岩の様な特異な姿が現れるという。 巨岩・二つ岩を右手に見、すぐに琵琶峠石畳道に入る。峠は以外と近くすぐである。和宮の歌碑や文学碑が置かれる。御嶽、白山、伊吹山が見えるというが今は樹林が生茂り展望はない。昭和45年に発見された日本一長い旧石畳を下り、初夏にカキツバタが咲く弁天池をすぎると<細久手宿>である。
今も旅館を経営している旅篭の大黒屋に着く。尾張藩指定の本陣で、卯達のある外観、上段の間があり当時の雰囲気を色濃く残す宿に泊まる。2階の上段の間に宿泊したが良く揺れる建物で寝返りをするだけで2階全体が揺れる。 今日は短め歩数1万6千歩、7.8Kmの歩き。
次のルート:⑱鵜沼宿~美江寺宿 前のルート:⑯中津川宿~大湫宿
<大湫宿> … 広重/木曾海道六拾九次之内・大久手 なだらかな高原で背負子で自分の丈より高い柴を運ぶ夫婦が、今にも落ちそうな露出した大きな岩を見上げている。大久手と細久手間にあった二つ岩とする説が多いが、形が異なる。花崗岩の露頭が大洞にあって背景も一致する。
この図をみるたびに、浮世絵版画における配色の妙によって、遠近感、立体感を表現する色面構成の微妙さを再認識させられる。
山間の別天地、桃源郷のような宿は美濃高原の窪地(湫くて)にある。大湫の「くて」は湿地の意味で、谷間の中央に水田が広がる様は、その名の印象と一致する。琵琶峠への道に長い石畳が敷かれたのも、この辺りに湿地が多かったためである。
中央線車窓 南アルプス 甲斐駒 恵那駅を起点とする「明智鉄道」
左方:鳳凰三山 右方:甲斐駒ケ岳
1週間ぶりに訪れる大湫宿 観音堂 神明神社の大杉 1週間で季節がだいぶ進んでいる
大湫宿内を歩く 高札場の南天の実が赤くなった
大洞小坂碑 二つ岩 琵琶峠石畳道の「東上り口」
琵琶峠石畳 琵琶峠 頂部:中山道美濃路の最高地点540m 八瀬沢一里塚
峠から八瀬沢集落まで730mの日本一長い琵琶峠石畳(昭和45年に発掘された)
琵琶峠石畳道の「西上り口」 焼き坂の馬頭観音:三面六臂
<細久手宿> … 広重/木曾海道六拾九次之内・細久手 広重描くこの図は、丘陵地のひっそりした道端に、ポツンと一軒置き忘れたような家があるため、地名も「一ツ屋」と呼はれるあたりから見下した風景である。画面の左右から中央へその頂をよせ合う松の大木、その間から望まれる美濃平野、そして中間の山山、さらに藍で摺られた遠山。一点を凝視するかのように展開する野や山の描写に、巧みな遠近透視画法が活用され、また巧みな配色によって広がる空間の伸びやかさを表現している。それは、刀の柄に水筒とした竹筒をひっかけて旅する武士の姿に通ずる和やかさがあるといえよう。
美濃高原の窪地(久手)に40軒になった宿がひっそりと残る。旅篭大黒屋は江戸時代の建築を生かし、今も旅館を続けている。本陣は地下水路が、脇本陣は土蔵が残る。
弁天池 奥之田一里塚 夕暮れ迫る
細久手庚申党から宿を見る <宿>大黒屋:問屋兼旅篭 尾張藩の定宿 上段の間 ここで寝る
大黒屋 尾張藩定宿のため玄関門・式台・上段の間があり本陣の建物に準じた造り … 当時の面影を残す貴重な遺構
豪華というのではないが手作りで心のこもった料理
【2日目】 に続く ……
2017年12月1日 W校友会クラブで御嶽山へ行きました。7名の参加。曇り空だが昼過ぎには晴れる予報。忘年山行だが山は早々に引き揚げ下界の居酒屋で忘年会の予定。
2人でケーブルカーに乗らずに歩く。曇りで寒い様だが歩きだすと汗が出る。御岳の中腹・宿坊へ行く舗装道路、頻繁に軽自動車が通る。 御岳神社奥ノ院まで行くと電話がありケーブルカー組は山頂へは行かず日の出山へ直接行くと。 途中まで戻り皆と合流し、日の出山へ。山頂で昼食後下山。晴れる予報が全然晴れず、展望もなし。
御岳山ケーブルカー 登山口 霧に霞む杉林
上の道に合流 神代ケヤキ 濡れ落ち葉
御岳山奥ノ院への道 奥ノ院
日の出山山頂 下山途中・変わった樹木 多摩川
=おわり=