2018年4月20日 W校友会で生藤山に行きました。7名の参加。この山は例会山行では同じ時期に何回も登っています。東京は夏日になる予報が出る暑い日です。
上野原駅に降りるとバス乗り場が北口から南口に変更になっていて、広い駅前広場ができている。JRの駅から広場まで5階建てのエレベータ棟ができ、相当な標高差である。
見覚えのある「石楯尾神社」から歩き始める。新緑が気持ちよい里歩き。暫くして登山道になる。尾根道に出ると間もなく「甘草水」である。今回も桜の花は散っていて、時々花びらが落ちているくらい。「甘草水」に寄り道、2日前に結構な雨が降ったのでしっかりと水が湧き出ている。
生藤山山頂で昼食。 三国山(峠)へ戻り井戸バス停方面へ向かう。
峠から先の案内板には「井戸」という文字が出てなく、相当先まで行ってから誤りに気が付き戻る。 本来の下りルート手前の「軍刀利ぐんだり神社元社」に手作りの案内板を見つけ、ここを下る。<初心者は無理>とう注意書きのある、あまり人が歩いていなさそうな足場の悪い急な下り道である。
最初から最後まで同じ悪場・急坂を30分ほど下りやっと本来の山道に合流。 立派な大桂の樹がある「・神社奥の院」。そして、良く手が入って立派な「軍刀利神社本社」を経由してバス停に着き本日の山行終了。
道を見失ったにも関わらず急下り道を通ったので当初予定の時間で戻れた。(次のバスは2時間後)
石盾尾神社 里歩き
甘草水 三国峠 生藤山山頂
下山 … これからルートを間違え途中から戻る 軍刀利神社奥ノ院の「桂の大樹」 軍刀利神社本社
ボケの花が満開 里に着き ホット
=おわり=
2018年4月13日 本日は街道歩きお休みで1日近江路の観光です。昨日2名早帰りしたので6名です。晴天。
1日目:街道歩き(醒井宿--高宮宿)、2日目:彦根城、街道歩き(高宮宿--武佐宿)、3日目:近江八幡・八幡山城址・安土城址
【3日目】 … 近江八幡散策・安土桃山城址
ホテルから西、琵琶湖方面に歩き、八幡山のふもと、昔ながらの商家がたちならぶ近江商人屋敷の一画を見、水郷・八幡堀のほとりから日牟禮(ひむれ)八幡宮へ歩く。 豊臣秀次が八幡山城城下町として開いた商人屋敷は千本格子と白壁の二階家が続き絵になる。軒下が低く、焼杉で作った半分真黒に炭化した板塀がさらに風情を醸し出す。 八幡堀は琵琶湖から城下町に通ずる運河で秀次が設けた。穏やかに流れる水と遊歩道に植えられた柳等の緑が古の風景を思い起こさせる。時代劇のロケ地に良く使われるというのも理解できる。 さらに日牟禮八幡宮の先にあるロープウェーに乗り八幡山城跡へ。山上、西の丸跡から田園風景の向こうに琵琶湖、対岸に比良山系の山が見える。女子中学生がガイドの説明を神妙に聞いている。 北の丸へ向かう。こちらからは琵琶湖北方の安土城跡の山や琵琶湖の内湖・西の湖が見える。本丸跡にある秀次・菩提寺と二の丸資料館を見て、下りは山道を歩き、日牟禮八幡宮脇へ出る。 近江八幡駅で昼食。駅北側は昔からの町並みらしく食事をする所はなく、南側の大きなショッピングセンタ-内で摂る。
一駅戻り安土駅へ。駅隣接の安土城郭資料館で情報を得、駅前で自転車を借りて安土城跡へ向かう。約20分ほどで安土城址前のPへ。遠くから見ても石垣群が並ぶように見え壮大である。登城口から真っ直ぐ、幅広の大手道が続く。通常は屈曲して敵兵を登りにくくするのが常識だが信長の城らしく奇想天外。但し石段と石段にかなりの段差があるので登りにくい。 大手道を登りきると折れ曲がりながら右方向に進み黒金門跡。二の丸の信長廟を見、本丸御殿跡を通って「天主台」へ着く。 足元に整然と並んだたくさんの礎石がここに壮麗な天主があったことを想像させる。かつては五層七階の豪壮な天守閣がそびえ、金箔の瓦を葺いたともいわれ、面積も礎石面積の2倍半近くあったとあり如何にその規模が大きかったかがわかる。 天主台北側から琵琶湖方面の田園が見え、湖は遥か彼方である。 がかつては安土山は琵琶湖に突き出た岬で目の前いっぱいに湖が広がっていたという。 元来た道を戻り、途中琵琶湖岸に寄りチラリと見てから駅に戻り、今回の街道歩き+観光 終了である。
≪近江八幡≫
八幡山へ向かって歩く 近江商人のふるさと・近江八幡の心のよりどころ
八幡山城下はかつての安土と同じく、楽市楽座を取り入れ商人の町として大いに活気を呈した
八幡堀 … 豊臣秀次は八幡掘を運河として開削し、琵琶湖を往来する荷船をすべて八幡の町へ寄港させた
日牟禮(ひむれ)八幡宮 参道に「八幡まつり」用の松明が並ぶ
翌日開催の「八幡まつり」(松明・太鼓祭)用の葭(よし)を使った松明群 … 10mを越える物もある
日牟禮(ひむれ)八幡宮
ロ-プウエイで八幡山城址へ 西の丸から琵琶湖 北の丸から安土山方面
西の丸から琵琶湖と対岸の比良山系の山々
北の丸から左:西の湖、 正面黒い低い丘:安土城址
山頂本丸跡に建つ「瑞龍寺」 北側展望
秀次の菩提寺「瑞龍寺」の桜
八幡山ハイキング下山口 白雲館 近江八幡駅
安土城郭資料館
幻の名城”安土城” … 1/20に復元 天守閣ひな形 5層7階建
活津彦根(いくつひこね)神社 …
≪安土城址≫
Map 復元・天守断面透視図
安土城址 大手門
真っ直ぐに伸びた大手門 … 幅広い石段の両側には、石垣で囲われた諸将の館跡が続く。当時、十数万の動員力を誇った織田軍団、館跡も続く。
黒金門跡 佛足石 二の丸址 天主台から本丸跡
天主台跡 … たくさんの礎石が残る 天守台石垣から琵琶湖方面
… 最高所の天守台址にまでのぼりつめると、予想しなかったことに、目の前いっぱいに湖がひろがっていた。安土城は、ひろい野のきわまったところにあるため、大手門址からの感じでは、この山の裏が湖であるなどは、あらかじめ想像していなかった。
古い地図で見ると、山というより、岬なのである。琵琶湖の内湖である伊庭湖にむかってつき出ている。この水景のうつくしさが、私の安土城についての基礎的なイメージになった。織田信長という人は、湖と野の境いの山上にいたのである。 …
司馬遼太郎 『街道をゆく』近江散歩、奈良散歩より
大手道を見下ろす 伝羽柴秀吉邸跡 琵琶湖
伝羽柴秀吉邸跡 … 上下2段に別れた郭(造成された平地)で構成され、下段に厩(うまや)と広場があり、上段に主人の住む主殿が建っていた。
風に波立つ琵琶湖
1日目:街道歩き(醒井宿--高宮宿)、2日目:彦根城、街道歩き(高宮宿--武佐宿)、3日目:近江八幡・八幡山城址・安土城址
=おわり=
1日目:街道歩き(醒井宿--高宮宿)、2日目:彦根城、街道歩き(高宮宿--武佐宿)、3日目:近江八幡・八幡山城址・安土城址
もっとゆっくり見ていたい彦根城であったが本来の街道歩へ戻る。近江鉄道で高宮駅へ戻り、昨日駅に着くのにひと悶着あった道を歩き中山道へ。<高宮宿>は近江商人を輩出した地で現在の伊藤忠商事や高島屋、西武鉄道、西川産業など多くの産業に進出している人が多いと。宿氏神・高宮神社や多賀大社鳥居、布惣ぬのそう(麻織物問屋)、円照寺等がありそれぞれ立派である。また、袖卯建を持つ漆喰壁の建物等古い家並も一部だが残っている。丸紅&伊藤忠創業者・伊藤忠兵衛の生家を見学。総合商社の創業時逸話・品物が残っており凄い才覚を持つ人であることを知る。 伊藤忠の生家の向かいにある蕎麦屋で昼食。 暫く歩き平将門の伝説がある「歌詰橋」を渡ると<愛知川宿>である。宿の入口を跨ぐ標識ゲート下を通るといくつかの古い民家も現れるが、本陣など、・・跡碑ばかりである。大きな愛知川を渡りその先のMacで休憩。先に帰る二人がもっと先まで行けるか検討、結局当初の計画通り近江鉄道・五個荘駅入口で別れる事になる。2人いなくなりちょっぴり寂しくなったが先をいそぐ。
この辺り近江商人発祥地といえる五個荘(ごかしょう)の町である。近江八幡・日野と並び近江商人を輩出し、行きは売り物、帰りは仕入れ物の往復で商いをする「ノコギリ商法」で活躍したとある。また、茅葺き入母屋の民家も点在する。石塚の一里塚の近くには近江商人が天秤棒(てんびんぼう)を担いだ行商人姿の銅像も立ち近江商人を強調。 湖東三名の一つ「清水鼻の名水」ではシャガの花が涼しげに咲いている。 新幹線の高架下をくぐると左前前方に鬱蒼とした森が現れる。その森をなぞる様に歩くと「老蘇(おいそ)の森」・奥石神社とあり見学して観たかったが先行者が先に行ってしまい素通り。 間もなく<武佐宿>である。醒井宿にあった西行法師の子供が泡になったと同じ「泡子地蔵碑」伝承がここにもある。宿氏神・牟佐神社を過ぎると古い建物が連なりだす。切妻造り桟瓦葺の2階建て商家などがあり当時の雰囲気を伝える。武佐宿本陣跡標識や、後で知った「象が通った道」絵を過ぎると今回の街道歩き終着「武佐駅」である。
本日は歩数3万2千歩、16.2Kmの歩きである。
次のルート:㉑武佐宿~草津宿 前のルート:⑲赤坂宿~醒井宿
<愛知川宿> … 66 広重/木曾海道六拾九次之内・恵智川(えちがわ) 柱に「むちんはし はし銭い らす」と示す橋の完成から8年後に描かれた。広い河原は、天井川の特徴を持つ大河の愛知川である。馬に代わって牛が荷を運ぶのは近畿の風習で、京都に近いことを暗示している。左に観音山、右に伊庭山と和田の山があり、今は御幸橋がかかる。
湖東平野の中央を流れる愛知川の東岸に、宿が誕生した。五箇荘・近江八幡・日野と共に近江商人の輩出地で、平将門伝説のある歌詰橋・不飲橋、商人が架けた無賃橋を商人や旅人が利用した。
伊藤長兵衛家屋敷跡 伊藤忠兵衛旧宅の家訓 江州音頭発祥の地碑 歌詰橋
将門の乱を平定し、首を都へ運ぶ途中「平将門この場所にて歌に詰まりて倒れし」と伝わる
愛知川宿ゲート 愛知川宿北入口標 本陣跡
八幡神社 旧旅篭・竹の子屋(現竹平楼) 不飲橋(のまずばし)
びんてまり(口の狭いガラス瓶の中に刺繍した手毬が入り、縁起物として飾られる)をデザインする不飲橋…平将門の首を洗った伝承から呼ばれる
愛知川一里塚跡碑 祇園神社 愛知川 睨み燈籠
今は穏やかな流れだが、かつては「人取り川」の異名もある暴れ川であった。増水すると自力で渡れず溺死する人がしばしばいた。
そこで地元の篤志家が資金を集め橋を架け、無賃で人々を通した。
★★★★★★ ここ (近江鉄道:五個荘駅) で2人 先に帰る ★★★★★★
大神宮常夜燈 名残松 旧五個荘局 京町風商家 大郡神社
金毘羅大権現常夜灯 茅葺き民家 石塚一里塚跡碑 てんびんの里・近江商人像
近江商人像 … 近江から天秤棒一本で近江の産物を持ち行商、行商先からその地方の産物を購入して上方に運び商っていた
清水鼻の名水 … 湖東山名水(観音寺山麓) シャガ 大神宮常夜燈
奥石神社 … 東老蘇道標 根来陣屋跡
武佐の手前、東老蘇(おいそ)、西老蘇の付近は、中山道の歌どころとして知られる老蘇の森がある。昔、この一帯は湿地で、とうてい人の住める所ではなかった。近くに住んでいた石辺大連という老人が松、杉、檜などの苗木を植え、神に祈った。するとたちまち大森林となった。大連はこの森林の中に住み、百数十年の長寿を保ったというのが、老蘇の伝説で、今も安産守護の奥右(おいそ)神社が森の中にある。
<武佐宿> … 67 広重/木曾海道六捨九次之内・武佐(むさ) 前の恵智川宿から草津までの街道は、近江盆地の広潤な緑野であるため、広重も画材に困ったのか、高宮、恵智川、そして武佐と、橋づくしのように橋ばかりを描いている。 2つの舟を縦にして舟橋としたのは日野川であり、右に村役人が見守り、対岸西横関で橋銭を徴取する。
京都から武佐宿まで46Km、健脚の旅人の1泊目の宿として利用された。万葉の里蒲生野・楽市発祥の地石寺・信長の安土城も近く、歴史が漂う。本陣門・陣屋・問屋・宿役人宅などが残る。
安土:寛永通楽 轟橋 中山道標石 兼若宮神社
泡子延命地蔵尊御遺跡 西福寺 蛇沢川 武佐宿氏神・牟佐神社
武佐宿本陣跡 旧八幡警察署 像の通った道の「絵」
愛宕山常夜燈 近江鉄道・武佐駅
… 翌日 次へ …
1日目:街道歩き(醒井宿--高宮宿)、2日目:彦根城、街道歩き(高宮宿--武佐宿)、3日目:近江八幡・八幡山城址・安土城址
【2日目】 … 彦根城観光・ 高宮宿→武佐宿 …
1日目:街道歩き(醒井宿--高宮宿)、2日目:彦根城、街道歩き(高宮宿--武佐宿)、3日目:近江八幡・八幡山城址・安土城址
朝から乾燥した晴れ。 絶好の街道歩き日和。
開門する直前に≪彦根城≫に着きTOPで入る。 券売所に入る手前、佐和口門から見たお濠や櫓が美しく水鏡に写った多門櫓が絵になり、登り石垣も緑に映え芸術的な美しさである。 大堀切への石の階段を登ると、石垣の上に見上げる様に廊下橋が架かり青空に映える。 橋の下をくぐり270°反転して廊下橋を渡る。その先の太鼓門櫓を見ながらの曲りくねった道も風情がある。太鼓門櫓をくぐると天守のある本丸である。小ぶりだが三角形の破風屋根が多く壮麗な天守閣が眼前に現れる。本丸広場はそれ程広くない。時期によっては人で溢れかえるのであろう。 3階建の天守に昇ると西側、西の丸の先に琵琶湖が見え、東側には彦根市街が展望できる。 帰りは西の丸から玄宮楽々園へ向かう。 西の丸では三重櫓の内部が公開されており中に入ってみる。そこから見る琵琶湖や本丸天守が美しい。西の丸三重櫓は長浜城から移築したという。彦根城は各所に豊臣家が造った城の一部を移築した建造物があり、東軍の覇権の痕跡を誇示しているという。
城外北側にある玄宮園は井伊家旧下屋敷の庭園となっており彦根城天守を借景にしている。近江八景をモデルに造営したもので、緑の松、茶室、池 3つが合まって非常に優美な景観である。 彦根駅前広場には彦根藩初代藩主井伊直政の馬に乗った凛々しい銅像がある。
もっとゆっくり見ていたい彦根城であったが本来の街道歩へ復帰。近江鉄道で高宮駅へ戻り、昨日駅に着くのにひと悶着あった道を歩き中山道へ。<高宮宿>は近江商人を輩出した地で現在の伊藤忠商事や高島屋、西武鉄道、西川産業など多くの産業に進出している人が多いと。宿氏神・高宮神社や多賀大社鳥居、布惣ぬのそう(麻織物問屋)、円照寺等がありそれぞれ立派である。また、袖卯建を持つ漆喰壁の建物等古い家並も一部だが残っている。丸紅&伊藤忠創業者・伊藤忠兵衛の生家を見学。総合商社の創業時逸話・品物が残っており凄い才覚を持つ人であることを知る。 伊藤忠の生家の向かいにある蕎麦屋で昼食。 暫く歩き平将門の伝説がある「歌詰橋」を渡ると<愛知川宿>である。
≪彦根城≫ … 藩政時代からの天守閣が現存する
朝食前にホテル近辺散歩 彦根城遠望 外堀跡
佐和口から左・右 両側の多門櫓を望む お濠
多門櫓 … 復元
表御門 登り石垣 不揃いな石段の坂道を上る
石垣の2段積みで、石垣と石垣の間に土塁がもうけられている
登り石垣
大堀切の右・天秤櫓 廊下橋 潜り抜けて振り返る 廊下橋へは左へ廻る
廊下橋 … 江戸時代には屋根と壁があった、中の人の動きは見えない、いざという時は落とし橋に!
廊下橋先の天秤櫓
天守閣 …
天守からの展望
西の丸三重櫓 … 長浜城の天守から移築
三重櫓の下を廻り込み「玄宮楽々園」へ向かう
玄宮楽々園
●●●●●● 街道歩き開始 ●●●●●●
もっとゆっくり見ていたい彦根城であったが本来の街道歩きに戻る。近江鉄道で高宮駅へ戻り、昨日駅に着くのにひと悶着あった道を歩き中山道へ。宿内人口が中山道で三番目に多かったという<高宮宿>は近江商人を輩出した地で現在の伊藤忠商事や高島屋、西武鉄道、西川産業など多くの産業に進出していると。宿氏神・高宮神社や多賀大社鳥居、布惣ぬのそう(麻織物問屋)、円照寺等がありそれぞれ立派である。また、袖卯建を持つ漆喰壁の建物等古い家並も一部だが残っている。近江商人が資金を出して造ったという犬上川の無賃むちん橋を渡る。ささやかな松並木、ケヤキ並木道を歩き、間の宿<石畑>になる。丸紅&伊藤忠創業者・伊藤忠兵衛の生家をがあり見学。総合商社の創業時逸話・品物が残っており凄い才能の人であることを知る。 伊藤忠の生家の向かいにある蕎麦屋で昼食。 暫く歩き平将門の伝説がある「歌詰橋」を渡ると<愛知川宿>である。
本日は歩数3万2千歩、16.2Kmの歩きである。
<高宮宿> … 65 広重/木曾海道六捨九次之内・高宮(たかみや) 背丈より高い荷を背負った女性二人の姿がある。その背の荷は名産高宮布の原料となる麻であろう。広重は高宮宿の手前を流れる犬上川のあたりを描いている。この川はまた高宮川ともいったとある。水が涸れ、橋板もとりのぞかれた広い河原を中景に、対岸に高宮宿が見える。正面は男鬼おなり山、左遠くに丸い伊吹山が望まれる。
この高宮の中央に大鳥居がデンとすえられているが、ここは多賀神社への入口で、鳥居前町でもある。高宮布の機織りで栄え、宿内人口は大津宿・本庄宿に次いで多かった。布の売買で財をなした近江商人が資金を出し、宿西口に無賃むちん橋をかけた。古い家並みが残り、ベンガラ格子や袖卯建が見られる。
高宮 大北の地蔵さん 氏神・高宮神社
高宮神社
多賀大社大鳥居 本陣跡
圓照寺 無賃橋
むちん橋碑
産の宮 了法寺 還相寺
彦根市モニュメント…麻原料を背負った婦人、菅笠を被った旅人、そして近江商人 の像
阿自岐神社 春日神社 安食・やりこの里 石畑の一里塚跡
間の宿・石畑 碑
… 先へ続く … <愛知川宿>-<武佐宿>
2018年4月11日~13日 中山道歩き20回目、近江路・醒井宿から武佐宿までを2日かけ約**Km歩きます。7名の参加。 うち2名は2日目、途中までの街道歩きです。
今回は1日目がフルの街道歩き(醒井宿--高宮宿)、2日目午前中彦根城見学をしてからの街道歩き(高宮宿--武佐宿)です。
また3日目は観光のみ、近江八幡市内散策と八幡山城址そして安土城址を観光します。
近江路(琵琶湖周辺)Map
【1日目】 …
未だ記憶の新しいJR醒ヶ井駅に降り街道歩き開始。曇り空。前回非常に清々しい気持ちにさせられた<醒井宿>の「居醒めの清水」 をちょっぴり覘いてから先へ行く。後方になった伊吹山は雲の中、ハッキリとは見えない。
中山道中最短の宿<番場宿>は戯曲「瞼の母」の主人公、番場の忠太郎の出身地に設定された地とのこと。その忠太郎地蔵がある蓮華寺の境内で昼食を摂る。蓮華寺書院内を見学。庭園では背後の山にミツバツツジが咲き、コウヤマキの巨樹が群生し、見事。また、鎌倉幕府滅亡時に北条仲時ら430余名が本堂前庭で自刃したという壮絶な事実もあったようだ。名神高速道路の脇を並行する中山道を上ると小摺針峠。その先、望湖堂跡のある場所が摺針峠だが琵琶湖は良く分からず。
国道に出ると彦根市のモニュメント標柱が現れ<鳥居本宿>になる。静かで落ち着いた雰囲気の中、適度に曲がった道に街道情緒が残っている。赤玉の健胃薬を売る店や看板だけが残る合羽を売る店があり珍しい。地図を見るとこの宿の真西が佐和山城の下を通って彦根城下であり非常に近い。小野小町の出生地だという伝承がある小野集落や、境内の新緑が美しい芭蕉ひるね塚と白髪塚のある「原(床山)八幡神社」を見る。<ひるね塚>には芭蕉の夏の句、<白髪塚>には門人の秋の句が彫られる。
もう間もなくで<高宮宿>になり本日の終着駅近江鉄道「高宮駅」である。ここからJR彦根駅へ行き宿泊。 本日の街道歩き歩数3万歩、13Kmの歩きであった。
次のルート:㉑武佐宿~草津宿 前のルート:⑲赤坂宿~醒井宿
<醒井宿> … 62 広重/木曾海道六拾九次之内・醉か井(さめかい) 醒井宿へ向かう大名行列の最後尾をやり過ごし、農夫が高台でやすんでいる。左に続く茅葺屋根は北側に軒を連ねていた六軒茶屋である。奥に醒井宿の西端が見えている。
この宿は、『木曾路名所図会』に、「此駅に三水四石の名所あり、町中に流れ有りて、いたつて清し、寒暑にも増減なし」とある。この三水四石というのは、「日本武尊 居寤(いさめ)の清水」、「十王水」、「西行水」、「日本武尊腰掛右」、「蟹石」、「くらかけ右」、「明神影向石」を指す。 そしてまた『十六夜日記』に、「醍が井という水、夏ならはうちすぎましやと見るに、かち人は、なおたちよりてくむめり」とあり、また西行の「むすぶ手ににごる心をすすぎなばうき世の夢やさめが井の水」の和歌も残っている。三水のなかの「居宿の清水」は、日本武専が伊吹山の賊を討伐に行き、悪雨にあってからだをこわしたとき、この清水でやすんだところ病気が治ったことからこの名がつき、後に醒ヶ井と地名が変わった。
JR醒ヶ井駅 居醒の清水 十王水
前回の中山道分岐 雲の中の伊吹山 「一類狐魂等衆」の碑
<番場宿> … 63 広重/木曾海道六捨九次之内・番場 左の石垣と土塁は宿入口の見附で、番場宿は東西に見附があった。茶屋の看板が「いせや」で西見附近くに伊勢屋があることから西見附。また、中山道が曲がるのは東なので東見附であるとの説も。馬を止めて雑談する三人の馬子の姿に、のんぴりしたこの宿のムードが感じられる。
米原湊を経て琵琶湖の水運に通じる宿として、山間に誕生した。鎌倉幕府滅亡時に悲劇が起きた地で、その歴史が周辺に残る。山間の寒村のため、宿の長さは中山道のどの宿より短かった。
敬永寺 久礼一里塚碑
問屋場跡碑 番場宿碑 本陣跡碑
蓮華寺 楼門 鎌倉幕府滅亡時、北条仲時ら432名自刃
昼食 ツツジが美しい
名神高速道路脇の泰平水 磨針一里塚跡碑
摺針峠 望湖堂を見上げる
<鳥居本宿> … 64 広重/木曾海道六捨九次之内・鳥居本(とりいもと) 番場からの松並木がある中山道の路は、しだいに上りとなり、その最高が摺針峠である。その昔はこの峠の手前の峠を小摺針峠といい、こちらは大摺針峠といった。
ここは広重の図でも絶景の地、左は望湖堂、右下は臨湖堂。旅人は摺針峠から眼下に広がる「中山道第一の景地」を眺めている。 この峠を下ったところが鳥居本の宿である。
琵琶湖の東端にある鳥居本では天候が急変することが多く、旅人に合羽がよく売れ、また、道中薬の赤玉を売る店も多かった。合羽屋は2軒残るだけだが、赤玉の薬屋は大きな屋敷の本家1軒が健在である。
彦根市モニュメント 赤玉神教丸本舗 合羽所:木綿屋
鳥居本宿の名産・赤玉神教丸を現在も売る有川製薬 … 食べ過ぎ、食欲不振、消化不良、胃弱、胸やけ、胃もたれ、吐き気 に効能あり(多賀大社の神教により調合)
脇本陣・問屋場跡 合羽所庵看板
合羽は和紙に柿の渋で防水を施したため赤く染まっていた … 現在は全て廃業、看板だけが残る
専宗寺 彦根道道標
彦根道道標 … 佐和山の南を彦根城下へと向かう道。中山道と彦根城下を結ぶ重要な道。別名・朝鮮人来朝道(朝鮮人街道)とも呼ばれる
六地蔵 小町塚
原八幡神社
「ひるね塚」 <ひるかほに ひるねせうもの とこのやま 芭蕉>
… 中山道を往来する人が夏の暑い日に涼しいここの境内で昼寝をしている「床」と、先にある「鳥籠山(とこのやま)」をかける
五百らかん道標 金毘羅大権現道標 春日神社 琵琶湖に注ぐ芹川 床の山碑
左 大堀山(鳥籠山とこのやま) と 芹川
石清水神社 … 能の一派 喜多流九世・古能が残した扇の塚がある
<高宮宿> … 65 広重/木曾海道六捨九次之内・高宮(たかみや) 広重描く高宮の図に背丈より高い荷を背負った女性二人の姿がある。その背の荷は高宮布であろう。高宮宿の手前を流れる犬上川のあたりを描いている。この川はまた高宮川ともいったとある。水が涸れ、橋板もとりのぞかれた広い河原を中景に、遠く比叡山が望まれる平凡なこのあたりの風景を写生風にまとめている。
鳥居本を出て、右手に彦根城が望まれる街道を進んで一里半で高宮の宿である。この高宮の中央に大鳥居がデンとすえられているが、ここは多賀神社への入口である。前の鳥居本も多賀神社の鳥居があったので、鳥居本という地名が生まれたという。この高宮は、『木曾路名所図会』に、「此の駅は布島類を商ふ家多し、此のほとり農家に高宮島細布多繊出すなり。これを高宮布と云ふ」と記されているほど、絹、綿、麻の生産工業が今日でも盛んである。
高宮宿碑 近江鉄道:高宮駅
駅待合室のモニュメント
次のルート:㉑武佐宿~草津宿 前のルート:⑲赤坂宿~醒井宿
【2日目】に続く …
1日目:街道歩き(醒井宿--高宮宿)、2日目:彦根城、街道歩き(高宮宿--武佐宿)、3日目:近江八幡市内散策・八幡山城址・安土城址
2018年4月2日~5日 鹿児島・開聞岳(かいもんだけ)登山&鹿児島・宮崎観光を行いました。開聞岳は2回目の登山です。
<初日> … 宮崎から鹿児島県・指宿(いぶすき)へ移動
空港から宮崎駅へ行き、指宿・山川駅へ行く時間を確認。当初予定より早く到着できそう。
山川駅前の素泊まり専門の宿に宿泊。
JR日豊本線・錦江湾越しの桜島
<2日目> … 鹿児島指宿・開聞岳登山
早朝の電車に乗りJR開聞駅へ。駅舎がなくただの土盛りだけになった駅、うん十年前とは大きな様変わり、利用する人が少ないのであろう。
登山開始。中学生が朝練をしている舗装道路を開聞岳を仰ぎ見ながら「山麓公園」へ向かう。朝、気が付いた「イッペ」という黄色い大輪の花があちらこちらに咲いている。鮮やかな黄色の花で南国の花らしく華やかで綺麗だ。時期もあるが以前来た時はこの様な花はなかった。
溶岩が小さく砕けた小石の道を登る。歩きずらい。途中、薩摩半島が望める場所を過ぎ山体を1周半。山頂近くになると現れてくる大きな岩々の上を登る様になる。 山頂は樹林に覆われていて一部に岩塊があり開けている場所があり、そこが山頂である。太平洋側は樹林に覆われ先が見えず、反対の内陸側だけ展望がきく。 昼食後、元来た道を慎重に下山。
予定のバスを1台遅らせ以前から気になっていた「枚聞ひらきき神社」に寄る。こじんまりした神社だが南国の神社らしく朱塗りが映えて美しい。 バスは長崎鼻を経由して行くのだが殆んどがアジア系の人、途中から満員になる。開聞岳に登っていた欧米人らしき人が途中から乗ってきた。山のガイドブックにはこのバスに乗る様なルートは書いてなく外人向けのWebサイトに記載されているルートなのだろう。 「指宿国民休暇村」近くになると乗客は私だけになり、運ちゃんの話しによると日本人は私だけだったらしい。
指宿温泉名物<砂むし風呂>を初体験。身体を動かす事が出来ないので結構苦痛な風呂だなという実感。
山川湾 イッペの花 山川駅ホーム
<開聞岳> …
JR枕崎線から開聞岳 開聞駅
八重桜
4合目 5合目から
5合目から薩摩半島最南端の長崎鼻方面の展望
溶岩礫岩ゴロゴロの道 7合目 長崎鼻方面 7.1合目展望図 岩場にロープも
東シナ海と池田湖
開聞岳山頂 太平洋側 長崎鼻方面 池田湖側
狭い山頂部分…太平洋側は樹林に覆われて見えない 内陸側・池田湖方面だけが開ける
山頂部分 下山開始 御嶽神社 麓から開聞岳を振り返る
<枚聞ひらきき神社> 指宿国民休暇村
<3日目> … 鹿児島観光をして宮崎移動
薩摩藩・鹿児島(鶴丸)城址と背後の山城(城山)に登る。城は石垣と濠があるだけで何もなし。但し、石垣に残る西南戦争の弾痕が、凄まじい戦いの片鱗を残している。城山から桜島の展望が素晴らしい。 鹿児島駅で宮崎在住の後輩に合流してドライブ観光。
島津家の別邸であった「仙巌園」を見る。目前にある桜島を築山に、錦江湾を池に見立てて造ったという大名庭園で自然豊かなものである。
高速道路で宮崎へ向かい後輩の出身地にある「高岡城」公園に寄ってから家に向かう。 「高岡城(天ケ城)」公園は昔は城などなく只の公園だったらしく最近になって建てられたものと。宮崎近郊で市民の憩いの場所になっている様。
指宿駅 鹿児島中央駅 西郷隆盛像
<鹿児島(鶴丸)城跡> … 西南戦争の痕跡~石垣にのこされた弾痕~
鹿児島(鶴丸)城跡の背後、城山に登る
<仙巌園(磯庭園)> …
<復元・高岡城(天ケ城)> …
<4日目> … 宮崎観光(飫肥城、鵜戸神宮)
最終日は後輩の車で宮崎県観光。飫肥おび城跡、鵜戸うど神宮を見る。
高速で日南市・飫肥城跡へ。ここは飫肥城跡より飫肥杉で有名である。電車で行く場合は駅から城跡まで結構離れているのでサイクリングで行くのが多い様だ。天守はない平山城という事。復元された大手門・白壁塀そして本丸跡に伸びやかに生える飫肥杉が美しい。松尾ノ丸に復元御殿・歴史資料館を見学する。
宮崎へは一般道を走り途中、鵜戸神宮を見学する。日向灘に面した海食洞に本殿があり、隆起した海底が波浪や風雨に浸食されてできた奇岩がたくさんあり面白い景観である。青島に似た”鬼の洗濯岩”といわれていると。 見覚えのある青島の前の通りを走り空港へ到着。
今回の登山・観光の旅行終了である。
<飫肥城跡> …
大手門通り 小村寿太郎生家 飫肥城大手門 大手門・裏から
松尾ノ丸方面
外から北門を見る 飫肥杉が林立する本丸跡 松尾丸に建つ資料館 大手門を振り返る
本丸の飫肥杉
復元:松尾ノ丸内の展示物
<鵜戸神宮> … 日向灘に面した断崖の中腹、東西38m、南北29m、高さ8.5mの岩窟(海食洞)内に本殿が鎮座
神宮本殿…岩棚の下に鎮座する 海蝕崖の奇岩
=おわり=