2016年10月23日~24日 中山道歩き7回目は軽井沢駅<宿>から望月宿までを2日間かけて約30Km歩きます。7月、8月、9月と予定の日に雨で中止、4ケ月ぶりの中山道歩きです。参加者7名、秋の気候に浅間山山麓の高地を歩くため寒さ・暑さ、両方に対応した服装です。
【1日目】
9時に軽井沢駅に到着。「軽井沢紅葉まつり」の真っ最中でたくさんの人が出ており、マラソン・ランナーが走る道を旧軽ロータリーに着き、<軽井沢宿>から中山道へ向かいます。調度紅葉真っ盛りの街路樹を見ながら中山道途中の雲場池に寄り道をし、紅く・黄色く色づいた紅葉と池を楽しみます。
<沓掛宿>に入ると石碑・道標等が出てきて旧街道らしくなります。調度昼食時になり途中にあった川魚料理屋で蕎麦とビールで腹を満たします。 「遠近宮(おちこちのみや)」という神社は落ち葉が神域に広がり京都のお寺の様な風情のあるもので好ましいです。
18号国道の標高1003m地点を過ぎ<追分宿>に入ると短いながらも宿のイメージと堀辰雄等の文人達のふるさとの雰囲気を残します。追分宿はずれ「分去れの碑」は良く見る絵ですが実物もその通り風情のあるものです。 この後、暫らくは史跡もなく昔は原野だったろう道を歩き、やっと
<小田井宿>の入口にある御代田の一里塚に着きます。この塚は道から外れた畑の中にあり両塚とも残っています。片方は良く手入れをされて好ましい雰囲気です。 この一里塚からすぐの御代田駅、その裏の旅館に着き今日の街道歩き終了です。 歩数3万歩、13.8Kmでした。
<軽井沢宿> … 広重/木曽海道六拾九次之内・軽井沢 浅間の山も、宿の家々も、そして森も墨色で彩られ、月光に照らされた畠の部分だけがやや明るい。その輸の中で燃える焚火。そしてまた街道のかたわらで勢いのよい炎をみせる焚火だけが動的なものを感じさせる。その焚火から煙草の火をつける旅人。馬子と馬上の客とが煙管の火をつけ合う。こうした人々の動きも、あたりの静寂さに押されて、ひっそりと行なわれているように感じる。焚火や小田原提燈の光に照らされた部分だけを鮮かな色彩で描く手法は、当時としては新しい表現であった。
中山道随一の難所碓氷峠を越え、信濃入りする最初の宿場で、足休みする旅人で繁昌した。その繁栄も天明三年(1783)の浅間山大噴火によって壊滅。その後も大火や大飢饉に襲われて衰退したが明治に入って日本有数の避暑地として知られるようになった。
軽井沢駅 / 駅前通り / 旧軽ロータリー 中山道合流 / 中山道の街並木紅葉
マラソンランナーを左手に見ながら歩く
/ 雲場池(浅間山湧水堰止池)の紅葉 / ホテルの上に覗く「離山」浅間山の側火山
<沓掛宿> … 木曽街道・沓掛ノ駅 平塚原雨中之景[英泉] 英泉描くこの図は、前方にみえる川が湯川と思われ、右手の家並は沓掛の宿であろうから、古宿の坂の下か、湯川の旧道の坂あたりを構図したものといえよう。浅間の山から吹きつける強い雨と風に立木の葉は飛び散り、旅人の合羽の裾はあおられる。そして狩野派の粉本から抜け出したようなずんぐりした牛も、人々も頭を下げて風雨に耐える。山麓地方で体験する風雨の実感を巧みに描写している。
浅間三宿の一つで、草津道の入口にあたり、草津温泉へ向かう湯治客の往来で賑わった。しかし、天明三年の浅間大爆発で甚大な被害を受け、宿場の賑わいは停滞したが幕末にはやや持ち直した。
沓掛宿碑 / 中軽井沢駅(旧沓掛駅) / 男女双体道祖神 / 廿三夜供養塔 / ここで昼食を摂る
遠近宮‥在原業平「信濃なる浅間の嶽に立つ煙遠近人の見やとがめん」に因む
馬頭観音 / 草津道分去れ道標 / 標高1003m標識‥国道18号最高地点
<追分宿> … 木曽街道・追分宿 浅間山眺望[英泉] 英泉描く追分宿は、そそり立つ浅間山の麓を巡って続く街道を三人がかりで荷を運ぶ人足、馬の背に荷を積み上げて行く馬子などの姿を前景に配し、泰然とした自然の大きさと労働する人間との対比とを巧みに融和させ、浅間の実感を強調した図となっている.
沓掛から一里半で追分宿に達する。このあたりの街道は、文政版『木曾路名所図会』に、「此の辺浅間の麓故、焼石焼砂多し」と記されているように、火山地帯独特の地質である。また追分宿は標高一千メートル、中山道宿駅中最も高地にある宿場だといわれる。そして中山道と北国街道(善光寺道)への分岐点にあたり、古代の官道時代から交通の要衝として発展した。
追分一里塚 / 浅間神社 /芭蕉句碑「吹き飛ばす石も浅間の野分かな」 /堀辰雄記念館
青空文庫 / 旧本陣 / 高札場跡(復元) / 諏訪神社 / 枡形跡に建つ枡形茶屋・つがる屋
分去れの碑‥北国街道と中山道の分岐
<小田井宿> … 広重/木曽海道六捨九次之内・小田井 広重は、広いススキの原を行き交う本堂造立の旗を手にした勧進僧と親子づれの巡礼を描いている。広重は物悲しい情緒あふれる風景を描く場合、いわは浮草のような生活を送る勧進僧・虚無僧・巡礼といった人々を画材の一つとして描き、そのムードを盛り上げることに努めている。この図でもそうした作画傾向をみせて成功している。この原に流れる流れは小田井宿で用水として用いられたもので、追分に近い前田原から引いたのだという。
追分宿でわかれて、右が北国街道、左が中山道。左の道をとって一里半で小田井宿である。その途中の街道は『木曾路名所図会』にも「追分の駅まで家なし」と記されているが、今でもススキやカラマツ林などが日立つ、あまり人家をみないさぴしい所で、広重の描く図に近い。
御代田の一里塚 … 畑の中に両塚が残る
しなの鉄道「御代田駅」 / 宿の夕食です
=2日目に続く=
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