2016年6月19日 中山道歩き、6回目は本庄駅から倉賀野駅まで約15.2Kmを歩きました。先月、先々月とグループでの街道歩き、欠席だったのでメンバーと歩くのは久しぶりです。今日歩くルート<新町宿>までは7日に一人で歩いています。 参加者8名、前日の猛暑日と比べ今日は若干低めの24℃曇りの予報、初夏の歩きとしてはまあ良い方かなという感じです。 今回の15.2kmは6日間での最短距離を更新しました。
9時に<本庄宿>駅に集合。前月リーダーが歩いた中山道ポイントまで横道を律儀に戻り街道歩きスタートです。一人で歩いた時は気づかなかったポイントを発見する事が出来ます。 歴史民族資料館に寄り移設された本庄宿の本陣門を見てから館内に入ります。明治に警察署として使われていた資料館には古墳時代の埴輪等の出土品や近世の繭や絹で本庄宿が繁栄した一端を垣間見る事が出来ます。 前回見たお寺や建物を回り宿の総鎮守・「金鑚(かなさな)神社」を見ます。皆は立派なお寺と大きなクスノキをじっくり見入っていました。 長松寺では前回行った時は目立たなかったハスに立派な花が咲いていて2週間の違いで花があり季節の流れを感じます。 陽雲寺では境内に良いベンチがあったので水分補給の休憩です。太陽が照らしつける事はないのですが汗がにじみ出てくる蒸し暑さです。
神流川を越えいよいよ<新町宿>です。神流川の両脇にある「見透燈籠」は皆、興味がない様で先に行きます。神流川古戦場跡碑をじっくり見て芭蕉句碑がある八坂神社の手前で昼食です。 昼食が終り表に出ると女雨(死語?)が降っています。日傘を持ってきた人はさし、ない人はそのままです。 元の道に戻り「八坂神社」芭蕉句読み方の事で一談義です。 この先で前回私が歩いた場所は終わり、新しく歩く街道です。 広重の浮世絵描画の場所、温井川の橋袂には上州の山々の展望図があり、見えれば素晴らしい様です。 関越自動車道を潜り鳥川の堰堤・サイクリイング道を歩きます。小雨は時々止んだり降ったりです。 烏川の柳瀬橋を渡り、舟渡し場のあった旧道に戻り2本の高崎線を越えると<倉賀野宿>です。 日光例幣使街道追分の常夜燈を見て、間もなく倉賀野駅に着き今日の街道歩き終了です。
<本庄宿> … 本庄宿 神流川渡場[英泉] 昔は宿の手前、傍示堂(ぼうじどう)に武州・上州の国境標示があったが、一般的には神流川をもって、武蔵・上野両国の境とした。 図中の常夜灯は川の両岸に一基ずつ建ち「見返し灯篭」と呼ばれ、夜、川を渡る人の目安になっていた。 広くひろがる空に上毛三山、左から妙義山、榛名山、赤城山。さらに妙義山背後の茶色い山は信州の浅間山、赤城山の後の灰色の山は日光白根山とみられる山岳に、文人画の谷文晁の作品にみられる描法を活用している。
深谷宿と並んで街道有数の歓楽街を形成し、本陣や飯盛女の客引合戦も激しかったという。助郷に来た近郷の若者が村に戻らず、役人に取締り願いが出たという。 が、『壬戌紀行』に「(書店)があり。文広堂といふ。又新古本屋林といふも見ゆ」とあって、文化面も高かったようである。
本庄駅 / 大正院 / / 歴史民俗資料館前・田村本陣門 / 歴史民俗資料館
歴史民俗資料館・元警察署
安養院 / 旧本庄商業銀行跡・繭倉庫
金鑚(かなさな)神社 / 長松寺 / 唐鈴(とうれい)神社参道
金鑚(かなさな)神社
歩く / 円墳の浅間神社 / 金窪八幡神社 / 陽雲寺 / 勝場の一里塚跡
神流川・本庄側「復元見透燈籠」 / 新町側
<新町宿> … 新 町[広重] 日本橋から英泉の図をみてきたが、ここで初めて広重の図である。 宿の西に温井川が流れ、中山道は弁天橋で渡った。 『木曽名所図会』には「左の方に赤木山見ゆる。富士峯に似たり」とあり、広重はその記事そっくりの藍の赤城山を描いている。 これまでの重苦しい画趣の英泉の図を見てきただけに、何かほっとした気分にしてくれる。木版独特のボカシや色面構成による広重の作風によるためであろう。
神流川を渡り、中山道は群馬県・上州/上野国に入る。江戸から11番目の宿場となる。当初は寂しい寒村だったが、後に街並みが出来、落合新宿と笛木新宿となり二つの村で宿場をなした。
神流川古戦場跡碑 / 復元見通燈籠 ●● 昼食 ●● / 八坂神社 …
浄泉寺 … / 伊勢島神社 … / 豪商川端家 / 鳥川堰堤に上る / 烏川に架かる柳瀬橋から
烏川対岸を舟渡し場辺りへ戻る / 岩鼻の北向子育観音
<倉賀野宿> … 倉賀野宿 鳥川之図[英泉] 烏川縁に建った茶屋、そして英泉が得意とした子供と女性を近景に描いている。背景の風景は観念的な描写(具体的な景色を描いていない)となっている。
新町から倉賀野はわずか一里半であるが温井川渡し、烏川・柳瀬の渡しがあるので昔の旅人は手間取ったであろう。 倉賀野宿は日光例幣使街道の起点であった。 また烏川の下流が利根川に流入していたので江戸との舟運が開けており河岸が連なっていた。信州や越後からくる物資は碓氷峠を越えて牛車で倉賀野宿まで運ばれ、河岸から船で烏川から利根川を経て江戸へ運ばれた。 江戸からの物資もここの河岸に陸揚げされ各地へ牛車で運ばれた。そのため問屋が十軒もあり、他の宿場とは違った雰囲気があったという。
日光例幣使道追分 / / 倉賀野宿本陣跡碑
=おわり=
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