惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

8-4 (ver. 0.1.5)

2010年04月09日 | MSW私訳・Ⅲ
第8章 人権(human rights)

8-4 消極的な権利と積極的な権利

さらに、18世紀以来微妙な変化が生じている。アメリカの独立宣言と権利章典(Bill of Rights)はそのころ書かれた。そこで自明な権利と考えられたものはすべて消極的な権利であった。つまり、それらは国家の部分や他の人々に対していかなる積極的な行為を要求することもないものである。それらは単に国家が自由な表現や武器の所持携帯を妨げないことを要求していた。しかし人権の概念は次第に拡大され、十分な暮らしを送る権利、高等教育を含む教育の権利といった、積極的な権利が存在するという観念にいたった。これらの権利はまさにその定義によって他の人々に責務を課する。たとえば国連世界人権宣言の第25条(1)にはこうある。「すべて人は、衣食住、医療及び必要な社会的施設等により、自己及び家族の健康及び福祉に十分な生活水準を保持する権利並びに失業、疾病、心身障害、配偶者の死亡、老齢その他不可抗力による生活不能の場合は、保障を受ける権利を有する」。こうした声明にある困難は、声明が有意味であるためには特定の誰かがこれらの「権利」のために支払う責務を持たなければならないということである。厳密に言って、これらの権利は誰に対するものなのだろうか?これは論理的な重要事である。我々は先に権利の概念が責務を導くことをみた。権利は常に誰かに対する権利であり、誰かが誰かに対して権利を持つことは、一方の責務のもとで持つのである。責務なくして権利なしである。だから、誰もが十分な住居、よい生活水準、高等教育を受ける権利を有するならば、たとえばあなたやわたしは他の全員が十分な住居、生活水準、高等教育を受けるために、それを購う責務のもとに置かれるのである。そうした主張を確立するには非常に強い立論を要するように、わたしには思われる。人権に関する議論の多くにおいて、その著者は単に「そうだったらいいのにな」と言っているように読める。そこから望みうる「権利」の声明が出てくるというわけである。誰もが十分な住居、生活水準、教育を受け「られたらいいのに」ということには誰もが同意するだろう。しかしそれによってあなたやわたしが、また誰もがその他の全員にこれらのものを供給する責務に置かれるとなれば話は別である。わたしは世界人権宣言はまったく無責任な文書であると信じている。その起草者達は普遍的な権利と普遍的な責務の論理的な結びつきを考えていないし、基本的・普遍的人権について社会的に望ましい政策について過ちを犯している。

言論の自由に関する普遍的な権利については、次のような権利と相当する責務についての単純な文を作ることができる。

Xは権利をもつ(Xは自由に話す)
ならば
Yは妨げない責務をもつ(Xは自由に話す)

積極的な権利について同じような論理的な導出を行うとどうなるだろうか?以下のように言うだけでは十分ではない。

Xは権利をもつ(Xは十分な生活水準をもつ)
ならば
Yは責務をもつ(Yは妨げない(Xは十分な生活水準をもつ))

少しも十分ではない。Xがその権利を持つ生活水準を享受するために上の条件では足りないのである。十分な生活水準を得ることを試みる権利を与える責務だけでは足りない。積極的な権利は「妨げない」という以上のことを要求するのである。

我々は我々自身に対して、以下を語ることなしに権利について語ることを決して許してはならない。

(1) その権利は誰に対する権利なのか
(2) 権利を持つものに対する責務の内容は厳密に何であるのか
(3) 権利を向けられた側の人がそのような責務のもとに置かれるのは、厳密になぜなのか

[この原則に沿って]わたしが人権の最小リストを作成するとこんな風になる。

・生きる権利(個人的な安全の権利を含む)
・私有財産(衣服とか)を所有する権利
・言論の自由についての権利
・他の人々と交際する、また誰と交際するかを選ぶ自由についての権利
・信じたいことを信じる権利(宗教的な信念と無神論を含む)
・移動(旅行)の権利
・私秘性(privacy)の権利

権利の存在が責務の存在を導くならば、わたしは確かにそう思うのだが、人権が問われるところでは、消極的な権利と積極的な権利の間に基本的な区別をつけることが必要である。そうした区別が絶対的な確実さで行えるとは、わたしは思わないのだが、直観的には十分に明確なことである。言論の自由のような消極的な権利は他の人々に対してその人を放っておくことを義務づけるのである。わたしが言論の自由の権利を持っているということは、あなたは他のすべての人と同様、わたしに言論の自由を行使させておく責務のもとに置かれるということである。積極的な人権、たとえば十分な住居を得る権利を主張することは、全員が全員に対して十分な住居を供給する責務を、[権利を主張している以外の]全員に課するということである。積極的な権利を正当化することは、消極的な権利を正当化することとは、かなり異なることであるように思われる。消極的な権利を正当化することはたやすいことだとわたしは思う。積極的な権利を正当化することは、はるかに困難なことである。

国連世界人権宣言は、その内容を文字通りに、また真面目に受け取ろうとすれば、世界中の全人類に責務を課そうとするものだと解釈されなければならない。また、わたしは、彼らが与えたあらゆる積極的な権利は、実施することを念頭に置いたものだとは思っていない。直ちにふたつのことを明らかにすることが必要である。まず、すべての市民が十分な住居をもつことを保証する、という実際の政府(ここではカリフォルニア州政府のことである)による決定と、税金を課して権利の実施に充てることを区別することが重要である。それは普遍的人権の問題ではなく、その国の立法府によって制定された特定の州の市民の権利の問題である。他方で国連世界人権宣言は国家の権威に責務を課するというものではなく、負の権利義務力[つまり責務]を世界全人類に課そうという試みである。そのように解釈すると、それはひどいハナシだということになろう。しかしそれほど愚かな宣言なのだから、多くの人々はこれを真剣には受け取らないだろうとわたしは思う。わたしは国連であれ、また誰であれ、人権宣言でなされた主張を正当化するようなことをしたとは思わない。

第二に、問題の「権利」の大部分を占める積極的な権利の場合において、それが積極的な権利としてではなく、単に積極的な権利が保証することを主張するさまざまな目的を遂行することについて附与される消極的な権利として主張されるものなら、それは完全に合法的であるということが強調されてしかるべきである。わたしはすべての人が十分な住居を持つことの普遍的人権を持つということを信じないが、すべての人が彼ら自身とその家族のためにそうした住居を求めようとする権利を持っている、とは思っている。そしてそれは現実に意味のある権利である、というのも、それは政府をして、そうした権利を侵害してはならないという責務のもとに置くからである。同様のことが私有財産にもあてはまる。わたしが「すべての人は私有財産の権利を持つ」と言ったら、それは特定の対象物に関する権利を意味するのではなく、持ち物を取得し維持しようとすることの権利を持つという意味である。このことはどれだけ論じても議論のタネは尽きないということになりそうである。しかし、わたしはわたしの着ている服、住んでいる家、運転するクルマについての財産権を附与されているというのは、消極的な権利の合法的な主張であるとわたしには思われる。

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