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惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

今日の検索語(Apr. 24)

2010年04月25日 | 「普通」の世界
  負の権利
  波頭亮 ブログ
  フーコー 生権力と統治性
  ドゥルーズ ニーチェ
  thinkpad x61T XGAがいい
  codeless trackball logi

今日は日曜だからいいようなものの、毎日これを書いていたら軽く死にそうだ。今日これを書いているのは「負の権利」でわざわざ検索してきた人がいたおかげで訳文をデバッグできた、というお話だ。「負の権利」とは「negative rights」を最初そう訳していた(ややこしいことにnegative deontic powerという表現が本文中にはあって、この場合は「負の権利義務力」と訳さなくては意味が通らない。ちなみに負の権利義務力とは義務や責務のことである)というもので、現在は「消極的権利」に直してある・・・つもりだったのだが、検索語一覧にこれがあるということは修正漏れがあるということだ。で、探してみたら確かに8-2に一箇所だけ修正漏れがあった。

ThinkPad X61tの画面サイズはXGAとSXGA+の2種類があって、わたしのはXGAである。単にこれを買ったときSXGA+のバージョンがあるのを知らなかったというだけで、プログラミングのことを考えるとそっちの方がよかったかなあ、と、買った当初は若干後悔したりもしたものだったのだが、X61tユーザの間では「XGAの方がいい」という声が案外多い。どうやらタブレットPCとしてはXGAの方が使いやすいということらしい。

検索語は上の通りだが、実は昨日はtwitterからの閲覧者が相当な数でいた。何事ならんと思ったら「白蛇の神様」である。ちょうど1年前に気まぐれで書いたものが今でもぽつぽつアクセスされているのだから、さすがホワイトスネイクは神である(違)。件のページの画像はその日にweb上のどこかで拾ったものにイタズラ描きしたもので、記事中にもある通りもっとキレイな全身画像を某新聞社のサイトから引用してあったのだが、記事のページが消失してリンク切れになってしまっている。このblogでは現在は、よその画像にリンクする際、直リンせずに画像を複製した上でリンクしている(アフィリンクの画像は別)が、それはこの件を教訓としたものである。
ザ・ベスト!
ホワイトスネイク
ポリドール
Amazon

グレイテスト・ヒッツ
ホワイトスネイク
ソニー・ミュージックレコーズ
Amazon

上は初期の、下は中期のベスト盤である。

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今日の検索語(Apr. 23)

2010年04月24日 | 「普通」の世界
正直、最近は私訳と買った本の紹介以外には書くネタが見つからないのである。松井の動画やアイスランド火山噴火の画像とかを貼っているのは、ぶっちゃけ苦し紛れである。

もちろんわたしは松井ファンには違いないし、わが国以上に経済の危機に瀕している上に今また火山の噴火で苦境が倍加してしまったアイスランドのことが、同じように経済が左前な火山国の人間として気がかりである(わたしが乗れないヨーロッパのヒコーキのことなんぞはどうでもいい)。とはいえニュースはニュースサイトやテレビで見れば(もっとも後者は来年滅亡するが)十分なので、このblogで重ねて言及する必要は、ないと言えば全然ない。単にgooglebotさんに仕事を供給しているだけのような気が自分でする(笑)。

  中山 フーコー
  野矢茂樹
  内奏 後藤致人
  投機の理論
  中井久夫
  人権 フーコー
  人間的自由の条件
  ロボット
  レヴィナス 倫理と無限
  マジェ黒軸最高
  ポメラ 中古
  ダール 権力 批判
  アイスランド 火山 考察
  realforce 87u
  matsuiland

今回は「マジェ黒軸最高」の検索語がちょっと嬉しい、という、ただそれだけのことでこれを書いている。

「中山 フーコー」で複数回検索があった。こういう場合は同一人物かもしれない。紹介でも書いたが中山本はダイジェストとしては手軽でいい本だと思う。あと「人権 フーコー」という組み合わせは珍しい。どういう問題意識なのかちょっと気になる。

「投機の理論」なる検索語もこのblogでは珍しい。確かに一度か二度は触れているのだが、ナカミのあることを書いたことはまだなかったような気がする。去年の夏から秋にかけて外為相場をそれなりに研究していたのだが、理論として確立できそうなネタはない。また既存の理論のほとんどは、少なくとも個人投資家が外為相場で「儲けを出せる」かどうかという点に限って言えば無意味であるか、悪い場合はかなり程度の低い騙しであるとわたしには思える。なるほど統計的にプラスの戦略は構成しうる、けれどもそれは個人投資家が晒されるであろう無数のシステムリスクと比較したら無視できるノイズに等しい。

FXを結局ただのつまらぬ小バクチにしてしまっている最大の要因が、相場そのものではなくシステムの(投資環境の社会的な)不備だというのは悲しむべきことである。消えてなくなれとまでは言わないにしても、わが金融庁の駄目政策もそれに拍車をかけている。愚かしいことである。

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今日の検索語──その翌日

2010年04月15日 | 「普通」の世界
別にこれから毎日これをやろうというわけではない。昨日の検索語が特異的だったから紹介したわけではないことを示しておくだけである。

  倫理と無限――フィリップ・ネモとの対話
  レヴィナス 特徴
  中井久夫 ナース
  中井久夫
  知識人の裏切り 波頭亮 コメント
  西部邁 波頭亮
  メタフィジクス
  ポメラ 中古
  チラシ 今後
  matsuiland
  Realforce87U
  Mighty Mouse Unicomp

新刊が出てからレヴィナスで検索されることがちらほら増えている。そんなに読者は多くないとわたしは見ている(判らずとも読む、という人がそんなにたくさんいたら驚く)が、どんなに少なくてもいるのは結構なことである。

ある意味で対照的なのは中井久夫である。コンスタントに検索がある。わたしは去年まで知らなかったのだが、著者として相当人気があるのだと思う。「中井久夫 ナース」というのは、わたしも引用したサリヴァンについての文章のことだろうか。当時はまだ一般に「看護婦」と呼ばれていた女性の看護士を「ナース」と呼ぶのは、本職の医者だからなのだろうが、意味内容は別としてあの文章は「ナース」の一語に強い印象が残る。中井久夫はわたしなどのまったく知らないギリシャの詩人の訳詩集を出版して賞まで貰っているような人で、それだからなのか、語の選択に意味内容を超えた力(フォース)を感じることがときどきある。そういうのを読むと、わたしも若いうちにもうちょっと詩の練習をやっとけばよかったと思う。

昨日はなかったがRealforceやMightyMouseは結構検索されている。MMは、世間の評判は必ずしも高くはないのだが、いいキーボードだとわたしは思っている。今となってはブツは中古でもまず手に入らないというのは残念なことだ。今使っている最新型のTrackPointキーボードはMMのかわりを十分務めている。ただ、わたしのX61tでは出たことがないのだが、PC本体との相性があるようで、場合によって細かいトラブルが生じる場合もあると聞く。

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今日の検索語

2010年04月14日 | 「普通」の世界
昨年末にblogを再開してから、MSWの私訳をうpすることのほかに、可能な限りいろんなネタを書くようにしているわけである。テキトーなことばかり書いてはいるが、まったく知りもしないし興味もないことを、ただウケを狙って書くようなことはしていないつもりである。まあともかく、その甲斐あってか近頃は少しずつ、検索結果からこのblogに飛ばされてくる気の毒な(笑)閲覧者の数が増えてきた。以下は昨日分の検索語リスト(順不同)である。バラしたところで検索語の主が特定できるものではないと思うし、万一特定できそうなものがあったらそれは省いてあると断っておく。

  ポメラ 中古
  matsuiland
  隣の病い
  波頭亮
  中井久夫
  代休 強制
  進化 熱力学 分子
  熊野 和辻哲郎
  吉野家
  おもしろい チラシ
  ATOM-8

コメントをいくつか。「matsuiland」はとにかくやたらたくさん検索されてくる。このblog始まって以来である。ポメラより多いのである。それにしても、ポメラは近頃は「ポメラ 中古」ばっかりである。そんなに中古が好きなのか?近頃はDM20でもヤフオクで2万切ったりしているらしいぞ。

「おもしろい チラシ」って何だよ(笑)。新聞の折り込み広告には確かに時々面白いのがあったりするし、そういうのばっかり集めたサイトが、広いWeb上のどこかにはあるのかもしれない。が、さすがにこのblogではそういうのは扱ってない。それを匂わせるような記事も書いたことはないつもりだが、何勘違いしたのだろう。それとも、文字通りチラシの裏に書いたような「おもしろい」哲学風駄文のblog、つまりデンパな人のデンパなblogだと思って覗きに来たのだろうか。事実そうかもしれないが、大きなお世話だコノヤロウ(泣)。

「ATOM-8」は、その個人的な思い出話を書いた後で何度か検索されている。googleで探してもろくに引っかからなかった割には、書けば検索してくる人がいるというのは、知りたがっている人が結構いるということなのかもしれない。「つくるコンピュータ」の実物は絶版だし、もともとトラ技別冊という雑誌扱いだから図書館とかにも残っていないのかもしれない。まあ本気で知りたいのなら版元のCQ出版社に問い合わせてみるのが一番だろう。バックナンバーのコピーはいつでも有償で提供してくれるはずである。ところで上の検索語は、よく見てもらうとわかると思うが全角文字である。英文字を全角のまま打つのは・・・あなたオッサンですな。わたしもオッサンだけどさ。

意外というか、ホントに少なくて我ながら泣けてくるのは、サールやMSWで検索してくる人がめったにいないことである。英米哲学の中では、サールは名前の知られている方だと思うのだが、まあつまり英米哲学自体が今でも一般にはほとんど読まれていないということなのだろうか。

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Making Table 2.1

2010年03月27日 | 「普通」の世界
2-5aの表2.1を作るのは、別に難しくはないのだが、これでも多少は手間がかかっている。

  ① 表そのものはExcelでひょいと作る(マジ3分)
  ② それを印刷してpdf化する。これの場合はPrimo PDFを使っている
  ③ pdfをAdobe Readerで表示させ、適当に拡大表示する(400~800%)
  ④ 拡大表示したページを切り抜いてPhotoShop等にペーストする
  ⑤ レイヤ複製
  ⑥ 下のレイヤをこのblogの背景色で塗りつぶす
  ⑦ 上のレイヤの描画モードを「比較(暗)」あるいは「乗算」にする
  ⑧ レイヤを結合し縮小する(この場合横500px程度)
  ⑨ 新規レイヤを描画モード「比較(明)」で作成
  ⑩ 新規レイヤをこのblogの文字色で塗りつぶす
  ⑪ レイヤを結合する
  ⑫ png形式で保存して完成

こういう作業に慣れている人にとっては、別にわざわざネタにするほどのことではないと感じられることだろうが、仕事なんかでも、この程度の手間もかけたがらない、というか、かけることを知らない人が多いわけである。せめてExcelのフォントは「メイリオ」にしろよ、と。

・・・何をいきなり素人の料理自慢みたいなことを書いているのだ、と思われてしまうことだろうが、いいではないか。素人の料理自慢みたいなことばっかり書いてるblogはたくさんあるわけだから。・・・いや、だからそういうことではなくて、

本当は言いたいのは、こんなことだ。仕事というのは普通、退屈でバカらしいもので、それで食い扶持を稼いでいるのでなかったら金輪際やりたくないようなことばかりではあるわけだ。それどころではない、退屈でバカらしいことは金を貰ったってやりたくない怠け病のわたしにどうして曲がりなりにも勤め人が務まっているのかというと、わたしは内心では上述のごとき(本当は無意味な)ひと手間の集積のようなことが自分にとっての本質的な仕事だと見なしていて、プログラミングや原稿書きの方を補足的な作業だと思っているからである(それはそれで大事なのだ。プログラムを書かなかったら、その変数名が何気なく百文字以上もあったりするような「イタズラ」も仕込んでおくことはできないわけだ)。

だから仕事嫌いのキミもそうしろ、などというバカな話ではなくて(笑)、外側から見たら直接的には絶対的に何の価値もない、意味があったとしても負の意味しかなさそうな行為が、自分の内側ではなぜか本質的な意味や価値を担っているということが、普通にありうる、ということである。それをあえて文字にして具体的に書けば上の①~⑫のような手順を書くことになるわけだが、それを読んでも誰にもそれは決して読み取ることができない、ということである。

「素人の料理自慢」のblogというのもきっとそんな一面があるのに違いない。へたくそなレシピとへたくそな料理写真を公開していったい何のつもりだと感じることがあったら、きっと書いてる人の内側では誰にもわからないしわかることのできない、何か途方もないことが生じているのに違いない。誰も他人のイタズラ心の中身など知りたいとは思わないことだが(実際問題として、知ろうとすればひどい恐ろしい目に会うことになるはずだ)、それが普通に存在することの事実を見失ったら、哲学に意味はないとわたしは思う。

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来週もなうなう

2010年03月13日 | 「普通」の世界
題名に意味はない。語尾に「なう」をつけるのが流行っているのだそうである。出所はtwitterのプロンプトで「what's happening (now)?」などと表示されていたところから、だそうだ。実際にどう使われているかは、たとえばgoogleの画像検索を「なう」で検索してみればわかりやすいかと思う。

こういう愉しい流行は自分でも使ってみたい気はするのだが、twitterなどとっくに放置状態の中年孤男には使いどころがない。題名のようなパロディを作ってみるのが精一杯だが、上記題名でググってみたら、同じことやってる奴がすでに7件もヒットした。まあ、指でも咥えながら眺めていようかなう。

これに限らず、ワカモノの間で流行る言葉とか表現のうちには、特にこの十数年ほどで顕著になってきたことだが、欧文をそのまんま日本語にしたらたぶんこうなる、といった類のものが増えたような気がしている。

たとえばちょっと前、MSWの私訳で4-9節にあった「something is coming toword it(me) now」を、最初のうち「なんかキター」とふざけて訳していたのだが、そうすると後の方の例と統一が取れなくなってしまって、泣く泣く諦めたということがあった。そのルールで訳文を押し通そうとすると、後から出てくる例文は以下のような訳になってしまう。

  It is manning now toward me commingly → なんか男々してこっちキターみたいな
  It is raining now on me heavily → なんか雨降ってきてどしゃーっていうか

・・・いくらなんでもこれは無茶だ。特に後者は普通の英語文の例なのだし、ということで、最初の例まで遡って全部普通の訳に直したわけである。しかしだ、訳の適切ということを別にすれば、結構それらしいと思わないだろうか。思わないか。まあいいや。

何にせよ、こういうことをやると(現在標準的とされる)日本語の音韻や文法の構造が複雑骨折するのは避けられないわけである。ワカモノ達は単にそれを面白がっているのか、あるいはプロの、よく訓練されたアナウンサーが普通にニュース原稿を朗読していてさえ時々「噛んで」しまうことが増えているのと同様、人々の身体や無意識の上で静かに、ゆっくりと日本(語)が廃棄されつつあることの反映なのか、はっきりしたことなどわかりようもないわけだが、本当は後者かもしれないと思って興味深く眺めている。

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何でもない回想(4)(完)

2009年04月19日 | 「普通」の世界
とまあ、そんな具合で、わたしにとってネットカフェは限りなく現代の理想郷に近いと言いたくなるような場所だったのである。

それほど気に入っていたのにそれをやめたのは、とにかく行くとエロサイトを眺める以上にましなことは何ひとつする気が起きない、一方で仕事上の課題も素人哲学の課題も日を追ってさし迫ってくる感じがあるのに、さすがにこうまで時間を無駄にはしていられない感じになってきたということがひとつ、あったと思う。

もうひとつは、まさにその仕事の関係で、そのころかなりきついストレスを溜め込んだ挙句、ひと月近くも寝込んでしまうということがあって、身体の方は回復しても精神の方は一向に回復しない状態が続いていた。

ここは何か、自分の機嫌をよくすることをひとつしなければいけないと思ったわけだ。わたしの不機嫌はどうしたら回復するか?簡単なことである。それなりの額でお金を無駄遣いさせればいいのである(笑)。

そういうことだ。ネカフェ通いもそろそろ仕方のないことになってきたところであるし、ここは一番どーんとお高いノートパソコンか何かをひとつ、自分に買い与えてくれようじゃないかと思ったわけだ。思い立ったが吉日とばかり、ろくに調べもしないまま某家電量販店に直行し、先に書いたようなやりとりを経るまま即決して買って帰ってきたのが、いま目の前にあるThinkPadのタブレットPCである。本体は買った時点で20万円前後の品物だったが、一緒に周辺機器とソフトウェアのあらかたを揃えて買ったから、ハケン社員のワープア中高年にとっては結構目ン玉が飛び出るような出費となった。無駄遣いが目的だから、そのくらいにはならないといけないわけだ。

しかし、わたしを一番よく知るものはやはりわたし自身であった。たったそれだけのことで、それまであたりを覆っていた不機嫌の靄みたいな気分が、一気に銀河系の裏側まで晴れ渡ったかのように清々しくなってしまったのだから情けない(笑)。無駄遣いだなんて言ってもたかが数十万、なんとも安上がりでいいねえと思われることだろう。どうぞ、大いに羨んでもらって結構である。

まあ、それはそれだ。結局のところネカフェ難民の人達の心情は、もはや書くまでもないだろう、最初から最後までちっとも判らなかったのである。これがたとえば「田舎にはネカフェがないから帰りたくないのだ」と言われれば、たぶんわたしなら涙が出るほどその気持ちが判ってあげられる自信があるのだが、決してそんなことではなかろうということだけしか、今のわたしには判らないのである。

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何でもない回想(3)

2009年04月19日 | 「普通」の世界
(さすがに以下の話にsituationはないのでカテゴリを変える)

ネカフェ通いと言って、実際問題としてわざわざ書くほどのことはあまりないのである。何かひとつでも事件らしきものに遭遇したとか、そうでなくても店内の風景にこういう面白いのがあったとかいうことでもあれば、面白がって読んでくれる人もいるだろうが、別にそんなものは何もない。強いて言えば、普通の喫茶店ならドトールにだってきちんと揃ってあるような商業装飾的な要素が、ネットカフェのたいがいにはまったくないことだろうか。

何と言えばいいか・・・ちょうど学園祭や何かで喫茶店をやるとなったはいいが、誰もあんまりやる気がなくて、結局いつもの教室でコーヒーが飲めるようになっただけ、という態たらくに陥ったような、あの感じである。つまり商業的な空間が創出されていなくて、少なくとも商業的な真面目さのもとに追及されてはいなくて、結果として壁は文字通り壁、床は文字通り床だというような、メタフィジカルなむき出し感が店内のいたるところから放射されているわけである。こんな状態でコーヒーが一杯何百円もしたら直ちに客に放火されかねないが、ネカフェのコーヒーはセルフサービスの飲み放題が普通だから別段文句もない、要は空き地の掘っ立て小屋がブース式に区切ってあって、1時間あたり××円、あとは(コーヒーを)飲むなり(マンガ雑誌を)読むなり(インターネットを)眺めるなり、好きにやってくれという感じである。

はっきり言うが、わたしのような男にとってはこの、世界最低級のだらしない女の部屋に迷い込んだような設定は、大変に居心地がよろしい(笑)。管直人が漏らした感想も、あれは政治家のノーテンキな感想では、必ずしもなかっただろうとわたしは思っている。学生時代に研究室で寝泊りしながら実験したり論文を書いたり、くたびれると友達をつかまえては(レポートや論文の締め切りが迫っているにもかかわらず)どうでもいい話に耽ったりした、あのデレデレ感に近いのである(ただしもちろん、ネカフェでは客同士の会話などは一切ない。客どうしが友達になることも、まずありえないと思う)。管直人もあれで一応理科系の大学卒だから、自分のそんな経験を思い出したのではなかろうか。「夢のような」と形容しなかっただけいいではないか。わたしは思った。これは夢のような環境ではないか?

その上に、ネカフェの椅子は少なくとも大学の研究室であてがわれるような安物の事務椅子よりはよほどましな、なるほど寝心地のよさそうな椅子である。都庁では知事が座っているような、もとは高級椅子だったのだと言われてもわたしは信じよう、ただ客も店員も乱雑に扱って少しも気にしないのだろう(わたしも気にしない)、あっちこっち破れたり壊れかかったりしていて、高級感など少しも残っていない、そこがまたなんとも言えずいい感じなのである(笑)。研究室の椅子や机がこんなだったら、俺も博士中退なんてことにはならないで、もうちょっと頑張れたんじゃなかろうか(笑)などと、いまさら虫のいいことを一瞬思ったりしたほどであった。

ただし、というか、置いてあるパソコンに関しては、お世辞にも満足な代物でない場合が多かった。ちゃんと動かなかったら文句が出るから、動作に関してはだいたい問題はなかったのだが、ひどいのはキーボードである。マウスである。特にキーボードなどはひとつとして完全な状態なものを見たことがなかった。どれかのキーが壊れているとか、キーは壊れていないがスタンドは壊れているとか、どこも壊れていないがあまりに安物すぎてポコポコ言ってやがるとか、パソコン屋が喜んで使うような道具の正反対にあるような代物ばかりだったことは確かである。

ネカフェ通いを始めてしばらくのうちは、ここからblogでも立ち上げてみようか、などと思うことがないでもなかったのだが、しばらくするとそんな気はまったく失せた。ネカフェのパソコンにもちゃんとOfficeとかのアプリケーション・ソフト一式はインストールされているのだが、とてもじゃないがあのパソコンで原稿書きなどする気にならないわけだ。古株のパソコン屋であるわたしにとって、パソコンは文字通りパートナーなのである。そのパートナーが「おい、何を気取った顔してんだい、今日はエロサイトでも眺めて過ごそうじゃないか」という顔をしていると、おおせの通りだ、そんじゃまあ、とっておきのエロサイトでも眺めようかということになってしまう(笑)のであった。

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「名誉」の世界(3)

2009年04月11日 | 「普通」の世界
その人はこのblogのことは知らない(友人知人に教えると、当然ながらその友人知人の悪口は書けなくなるので(笑)誰にも教えていない)から、これを読むこともないだろう。だからこそここにわたしの答を書いてしまう(笑)。なーに、いたって簡単な秘訣があるのだ。(もと)優等生の集団なんていうのは見た目がどうあれ所詮は線の細い、せせこましい、煮ても焼いても食えない神経質な連中ばっかりなのである。だからその神経質を逆撫でするような習慣を、なんでもいいからひとつ身につけておけばいい。

今だったらそれはいともたやすいことだ。もうお判りだろう。煙草を一本取り出して、彼らの名誉の象徴たる禁煙ナチスのマーク(笑)の、そのど真ん前で火をつけてみせればいいのである。百円ライターの小さな炎がすべての真実を照らし出す。明日からは、周囲の誰も相手にしてくれない孤独の人になれること請け合いである。

もとからろくでもない優等生の世界の中では、その中で孤独であることが唯一の、また最大の名誉なのである。そしてわたしは、ことの最初からその名誉を保有している。したがってそれ以上を求める必要がさらさらないし、なかったのである。

(ひとまずおわり)



・・・どうもこの話は結論が凡庸すぎてイマイチだ。

実はこの原稿、書いたのは先週で、その時点ですでに出来上がっていたのだが、例によって出来がひどかったのでちょっとずつ手を入れては、どうにか格好はついた部分からうpしてきたわけである。しかしまあ、結局いくら直してもこの程度だ。

「『普通』の世界」カテゴリなんだからネタも結論も凡庸で構わないわけなのだが、普通とそうでないことの境界付近に面白そうなことがあるからこのカテゴリがあるわけで、書いていても、(書いたものを自分で)読んでいてもつまんないのではやっぱり失敗なのである。

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「名誉」の世界(2)

2009年04月09日 | 「普通」の世界
さて、

普通に考えると、名誉というのはその社会がその名において個人に授与したり、時には褫奪(ちだつ)したりするような何かのことだろう。そしてその意味(機能)はといえば、その個人のその社会の中における位置(ポジション)が定まるとか、あるいは上昇したりすることだろう。

名誉欲なんていうのはだから、その位置がいつまでも定まらない感じがして不安だとか、他人が上昇する中で自分が相対的に下降しているように感じて、つまり「俺はナメられてるな」という感じが継続的に生じている間に湧いてくるのではないだろうか。で、そんなことならわたしにだってないとは言えない。たぶんあると思う。ないなんてことはないんじゃないだろうか。男だったら普通、自分が他人や世間からナメられていると感じることは、単にそのことで生じる損得の問題以上に、激しく不愉快なことである。

・・・という即席の考えもその場で滔々と述べたりした(前回を参照)のだが、どうもこれも違うらしい。

「ナメてるとかナメられてるとか、そんなことが気になるのはヤクザの人でしょうに」・・・それはそうか。確かに。それは気になることではあるし、不愉快なのも本当だが、普段から気になってしょうがないというようなことではない。またそういうことがあったって、啄木の歌にあるように「花を買ひきて妻と親し」んでみるような、そんな程度のことで済んでしまう──わたしには妻という人はいないのだけれど。

いろいろ考えてみたのだが、その場では一向にそれらしい答が出なかった。それから先も休日いっぱい考えていたが、埒があかない。いやはや参った。相手も答を知らない問題を考えるのはくたびれることである。月曜も仕事しながらちょいちょい思い出しては考え直し、やっぱり違うを繰り返してはくたびれ果てて、今日はもう、ちょっぴり仕事を早仕舞いして帰ろうとしかけたとき、やっとひとつそれらしい答のひとつを思いついた。

社会が個人に授ける名誉というのとは別に、その社会の中の部分社会というか、この文章の題名通り「『名誉』の世界」というものがあるのである。

ひとくちに言ってしまえば、優等生の閉(closed)サークルのことである。優等生の世界の内側には、優等生だけで構成されるような閉サークルが存在する。そうと自覚された集団ではなかったとしても、それはもともとひとつの閉じた価値観の世界であって、かえって当事者だけが気づかない暗黙の集団性が成り立っていたりする。

優等生というのは社会の全体から見れば、お役所と同じかその次くらいの嫌われ者、どこへ行ってもつま弾きにされる(疎外される)存在である。そんなことはない、などとムキになって言う奴こそが優等生だ(笑)。それが寂しい人達は、自然と寄り集まって閉サークルを作る。起きていることは、ただそれだけのことである。

要は疎外された者どうしの仲良しクラブで、何か人の興味を惹くようなことが起きるわけではない。なんとなく集まって、ぼんやり世間話に終始するだけだといっても過言ではない。ただ、その外から眺めると、そぞろ秘密結社か何かのように見えてしまうことがあるらしい、というのも肩書だけ見ると、集団の平均年齢に応じて、どこぞの大学の講師だ准教授だ教授だ、大企業の課長だ部長だ取締役だというような、そんな連中がずらり雁首を並べていたりするからである(笑)。

してみると、かの人はわたしの中に、今でもどこか優等生くさいところが残っているのを敏感に感じ取ったのであったに違いない。お前(とはわたしのことだ)だってもと優等生ならこの種の閉サークルの、どれかには加わっているはずだ、もし加わっていなければ、加わりたい、加えてほしいと心の底では望んでいるはずだ、にもかかわらず、その気配がわたしからはあまり感じられない、いったいどうなっているのだ、と、ひょっとするとそんなことをわたしに問うていたのであったかもしれない。

(あとすこしつづく)

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「名誉」の世界(1)

2009年04月07日 | 「普通」の世界
素人哲学が他人からお題を頂戴することなんて滅多にないわけだが、その滅多にないことが休日中にあった。上の題名がそれである。その人が言うには、わたしに名誉欲らしきものが感じられないのが不思議で仕方がないらしいのである。

そんなこと言われたって困ってしまう。ないものはないのだ、ということ以前に、どうしてわたしに名誉欲がなくてはいけないのだろう。主観的にも客観的にも、そんなもの自分に焚きつけていられるような状況にないのは、傍から見たって判りそうなものではないか。

哲学と科学をさておくならば、ただの個人としてのわたしに必要なのはおカネである。嘘もごまかしもない金銭の自由である。名誉なんてものは、宝くじでいいからそれが当たった後にでも、その暇があったら追及すればたくさんのことである。第一さあ、名誉なんて、あって嬉しいものでも何でもないだろう。この世間は自由にさえ責任を求めてくるような、そういうケチくさいことばっかり言う世の中ではないか。名誉なんてものになればもう、ろくなゼニも寄越さないで責任だけ追及してくるに決まっているのだ。いらんいらん、そんなものは──

これでもわたしは普通のことを、つまり、ごくごく常識的なことを喋っているつもりなのである。実際、これを読んでいる閲覧者の人がわたし同様に男で大人だったら、いまどきは大方そんな風に感じているのではないだろうか。そうではないとしたらわたしの見当は相当狂っていることになるので、以下は読まない方がいいかもしれない。

そういうことではないのだ、とその人は重ね重ね言うのである。どうも話がよく見えない。

哲学のお題を頂戴したというのは、つまりそういうことなのだ。その人が言わんとした「名誉」とはいったい何を言わんとしたものであったのか、別れてからずっと考え込む羽目になってしまったのである。それを考えながら手先はまるっきり違う方向に動いて、全然別のネタをblogに書いていたりする。実は昨日からわたしのアタマの中はとんだアクロバットの状況を呈していたわけなのだ。

(つづく)

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無趣味とわたくし

2009年04月01日 | 「普通」の世界
Amazonで哲学・思想書新刊をチェックしていたら、なぜだか知らないが村上龍の「無趣味のすすめ」なる本がリストに入っていた。村上龍は小説家、あるいは時折エッセイストだったり経済勉強家であったりはするにしても、べつに哲学者ではないと思うのだけれども。

それはともかく無趣味というと、わたしは自分の無趣味のことを思わないわけにはいかない。

お前のどこが無趣味なんだ、お前こそは何をやっても、仕事でさえも「趣味」レベルでしかできないダメ人間の典型じゃないかと言われてしまいそうなことだが、そんなのはどっちだっていいことである。わたしの無趣味は、そもそも「趣味」ということがまったくわからないという意味での無趣味なのである。

「まったく」というのは語弊があるかもしれない。わたしにだって一応の理解はある。就職面接とかお見合いの席とかで「読書」とか「音楽鑑賞」とかいう、そういう答に相当する問いのことを「趣味」という、といった具合に。

これは実用的な理解ではあるわけだが、でもやはりひねくれた理解の仕方ではあるだろう。普通はそんな、どこにも実態のない虚偽問答のことではなくて、個々人の私的な領域で営まれるような、ある種の行為の系列のことを指して「趣味」と呼んでいるはずだ。

そこで改めて考えてみる。たとえば「お菓子づくりが趣味です」という女性がいたら、その女性は少なくとも本当にお菓子づくりの好きな人であることは間違いない。たとえ彼女が本当は小麦粉と片栗粉の区別もつかない人で、つまりお菓子づくりは好きだが、実際にお菓子を作ったことは、夢の中でしか経験がなかったとしてもである。そこで「夢の中でしか経験しない行為は存在しないのと同じだ」と考えたりしたら、たぶん読者はその女性からひどい目に会わされるはずである。

わたし自身、いいトシこいて独身だったりするくらいだから、多く女性の語りたがるその種の夢は非常に苦手である。ついつい上のような勘違いをして、実際にひどい目に会わされたことも2度や3度のことではない。何をどれだけ心得たって毎日つきあう気はまったくしない。いつ、その夢の中で彼女が受けたセクハラ行為のかどでわたしが訴えられないとも限らない。それどころか、刃物や鈍器だけが実物であるような夢で殺されるかもしれない、という不安の方がどうしても先に立つ。これでは結婚できなくて当然である。

とはいえ、それでも、そこで語られているのが夢の趣味あるいは趣味の夢であるうちは、本当はそんなに嫌でないことも確かである。少なくともわが国の女性が仕事のことを「お仕事」などと呼んだりすることに比べたら、それどころかその「お仕事」を「真剣にやっている」などと言い出したりする、あの絶望的に不可解な言語に直面させられることに比べたら、他愛ない夢の中の趣味でも語っていてくれた方がずっとましである。

目の前にいるのがたとえ幼児や老婆でも、その夢の中で女性はみんな17歳の美女である。わたしはわたしなりに現実離れした世間知ラズの人のような心持ちを、まあ・・・3時間くらいなら保てるから、相手が何者でもその夢の中の姿だけを眺めようとして実際に眺めていることができるからである。

してみると趣味とは実は、そうした女性的な夢それ自体のことではないのだろうか。実際、男どうしの会話の中では「趣味」の2文字は軽蔑的な響きを伴って語られることの方が多いものである。そういうこともあってわたしは夢をそのまま夢と呼ぶことの方が好ましく思えるし、実際それに馴れているのだが、普通の人は夢を「趣味」と呼んでみたり、あるいは「真剣なお仕事」として行為しようとするのであるのかもしれない。

それはしかし、なぜなのだろうか。これより先は男の語るべきことではなさそうな気がする。

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携帯電話とわたくし

2009年03月29日 | 「普通」の世界
こんな題名をつけておいて何だが、わたしは携帯電話を持っていない。電話代も払えないほど貧乏しているわけではないのだが、持っていても使うあてがまったくないから持っていない。

ただ数年前、出戻り学生を続けられなくなって就職活動をやっていた一時期だけは、プリペイド式の携帯電話を使っていた。最初はそれさえ使う気がしなかったのだが、採否の電話を家でじーっとして待っていると、ひとり暮らしの身はマジで気が狂いそうになる(笑)。何もしないで部屋に閉じこもっているのは平気だったりする割に、いつかかってくるか判らない電話を待っていなければならないというだけで、居てもたってもいられない、他のことは何も手がつかないくらいイライラしてくるわけだ。まったく冗談じゃない、たまりかねて一番安上がりなプリペイド携帯電話を購入して使っていた。採否通知の着信専用に使って月千円。それでも高ぇなあと感じたが、まあ仕方がなかった。

ないと本当に困るといった状況ですらそんな調子だったから、確かにわたしは携帯電話が好きではない、というか率直に言って嫌いなのは間違いない。



とはいえ、わたしは世間によくいる「似非インテリのテレビ嫌い」のたぐいとは違うつもりだ。ああいう連中は自分がテレビが嫌いなのはいいとして、どういうわけか必ず、他人と世間に対しても自分のテレビ嫌いを押しつけようとする。テレビでなくても、うかうかするとつまんないラーメン一杯にすら同じ調子のことを言い出す。たとえそれが肩書詐称ではない本物の大学教授であろうと、その上にノーベル賞がつこうとも、わたしはそういう連中を知性とは認めない。学習の進んだ推論エンジンに、目鼻耳や手足の入出力装置がついた出来損ないの知識ロボット、学術論文生産機械にすぎない。

似非インテリが決まって口にするのは「テレビを見るとバカになる」というセリフだ。判で押したように同じこと言うから、このセリフひとつで見分けがつく。ある意味では便利だが、もちろん無意味で愚かな言い草だ。彼らにとってバカの基準が奈辺にあるのか一向に知らないが、少々バカになってもいいからテレビは見た方がいいのは明らかだ。似非インテリのごとき重篤なバカにはならずに済むことだけは間違いないからだ。まあ、もっとも、そのテレビにしたところが、再来年の7の月には滅亡してしまうのだけれども。

わたし自身はケータイ嫌いだが、電車の中でケータイのメールやらゲームやらをカチカチやっているワカモノに顰蹙したりすることは、実はない。理論的にもないし、心情的にもないのである。不可解と感じるかもしれないが、それがわたしだ。同じ電車の中でわたしが哲学書を読んでいるように、彼らはケータイで遊んでいるのだと思っている。あるいは、彼らがケータイで遊んでいるように、わたしは哲学書を読んでいると、自分ではそう思っている。第一、そうと思うこともできないで素人哲学なんぞをやる意味があるだろうか?わたしはないと思っている。

いつだったか電車の中で、隣に座っていた男が目の前のワカモノに大声で怒鳴り散らしていた。ここは禁止区域だからケータイの電源を切れとか、マナーを守れとか何だとか。

いかにも、そのワカモノは不注意だったかもしれない。だが公然と怒鳴り散らされなくてはならないほどの不注意や不品行だとは思えない。仮にわたしが心臓にペースメーカを埋め込んでいたら、ケータイの電磁波が飛んでないか気にするよりは、軽量型の鎖カタビラでも着用して(笑)さながら中世騎士のごときシールド万全の体勢で電車に乗るだろう。ケータイ禁止区域なんぞという電鉄会社の貼り紙などが役所じみた茶番にすぎないことは、最初からはっきりしているからだ。

それよりわたしは、こういう「マナー」を居丈高に言う奴の方がよほど嫌いだ。言っていることの中身も、それを言うこと自体も含めて嫌いで、理屈さえ整えば(なかなか整わないのだが)本気で否定したいと思っている。

だいたい、ふんぞり返って大声出せるくらい元気なくせして、当のその男が座っているのは「優先席」というやつなのだ。禁止区域でケータイをいじってるワカモノに文句を言うなら、お前だってその席を立つがいい──怒鳴られて恐縮してしまったワカモノにかわってそう言いたいくらいだったが、わたし自身がその隣に座っていたもんだから(笑)言えなかった。

要は人と世間に向かってマナーやら何やらを強要する連中は、みんなこれと同じだと言いたいわけだ。自分の名前で著書を出版しても、その中で「自由意志はない」などとぬけぬけ言ってみせる愚劣な脳科学者などとも同じ、自分のことは棚に上げてものを言うのである。

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玩具メーカの悪夢

2009年03月26日 | 「普通」の世界
とは、コドモのころのわたしのことだ。コドモのわたしは普通にテレビの大好きなコドモだった。

…いや、いささか常軌を逸して好きだったところが、なかったとは言えない。田舎育ちでもともと娯楽が少ない時代と土地柄の上に、テレビのチャンネルもおそろしく少なかったから、テレビが好きなら「教育テレビの白黒教養番組も辞さず」くらいの意気込みでなくてはならなかった。以前別のカテゴリで書いた「コンピュータ講座」も、そういう中でたまたま見つけて、以後熱中して見るようになった番組だった。

そんな番組を小学生の身空で見ていたなんて、まともなガキじゃなかったんだなと思われたことだろうが、仕方ないのだ。たとえば当時、わたしが見たくてたまらない(ということは、ついに見ることのできなかった)番組のひとつに「怪奇大作戦」というのがあった。小学館の学年雑誌に主題歌のソノシート(!)がついてきたので、聴いてみるとコドモ心にもエライ格好いい歌だと思ったわけだ。毎日聴いてとうとう覚えてしまった。しかし田舎のテレビ局では、その番組はやっていなかった。主題歌は歌えるのに番組の中身がまったくわからない、全然知らない、文字通り「見ず知らず」の番組の主題歌をなぜか歌えて、どういうわけか大好きだ…と、いう、なんとも超現実的な育ち方を、わたしはしてしまったのであった。

要するに本来は、怪獣番組とかロボット・アニメとか、あとプロ野球中継とか、普通に男の子の好きな番組が好きな普通の少年だったのである。「ウルトラマンはなぜ最初からスペシウム光線を出さないのか」とか「宇宙戦艦ヤマトはどうして宇宙空間で爆発音がしたり火災の煙がたなびいたりするのだ」とか、他愛ない不思議に首を傾げて考え込んだり、すべてはまったく普通の少年のすることだった。

そういう中で唯一どうも、これに限って自分はまったく普通じゃなかったと思うことのひとつは、つべこべ言いながらも怪獣番組やロボット・アニメはとにかくたくさん見ていた割に、そういう番組のスポンサーであるところの玩具メーカの製品、つまりその番組のキャラクター商品のたぐいはほとんど何ひとつ買ったことがなかった、ということである。

かくべつ裕福な家に育ったわけでもないが、玩具のひとつも買ってもらえないほど貧乏だったわけでもない。たぶん親にせがめば、それなりに買ってもらえたはずである。けれどもそうしたことがなかった。正直言って別に欲しくなかったのだ。

CMは見ていた。たぶんわたしは一番最初の「超合金」ロボの玩具のCMを、マジンガーZのCMで見ている。他に見るものがない時間帯なら教育テレビも辞さないコドモにとっては、CMだって当然れっきとしたテレビ番組のうちだった。認知度100%である。にもかかわらず、わたしは決してそれらの商品を買わなかった。欲しいと思ったことさえなかった。当時はそんなこと考えてもみなかったことだが、そもそも怪獣番組とかロボット・アニメというのは、スポンサーがその玩具を買わせたくて作っている番組なわけだ。番組だけ見て(しかも大いに楽しんで)そのくせ玩具は一切買わないし欲しくもないというのだから、そりゃもう玩具メーカにとっては悪夢のようなガキだったというわけである。

当時も今も、同世代の間でそういう話になると、わたしはこの件で全員から不思議がられる。人によってたくさん持ってた人も、そうでなかった人もいるのだが、そもそも欲しくなかったから買うこともなかった、などというのはわたしくらいのものなのだ。

「またなんで?」
「だってさ、玩具のマジンガーZが目から光子力ビームを出すわけじゃないだろ」
「そういう問題かよ」
「光子力ビームを出さないマジンガーZなんて偽物だ。偽物は欲しくない」
「本物ってアニメじゃないか」
「そうだ。それが現実であることと本物であることは別だということだ」
「昔っからそういう哲学みたいなこと言ってたのか。嫌なガキだな」
「我が事ながらまったくだ。コドモは嫌だな」

…なんでこんな年寄りじみた昔話を書いてみたくなったかというと、しばらく前からこのblogには広告を表示させているわけなのだが、調べてみると見事にただの1回もクリックされていない(笑)。これも超合金ロボのたぐいだと思って、クリックくらいしてやってもらいたいものである。

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「つまんない自然」

2009年03月25日 | 「普通」の世界
なんか期せずして「つまんない自然」という言い方を繰り返している。これは、わたしがもともと持っている考え方というか感じ方のうちで、たぶん一番「普通」ではないもののひとつではないかと思う。

ずっと前のことだが、親兄弟と連れだって上高地あたりに旅行したとき、その風景を眺めて開口一番、わたしが言わずにおれなかったのは「すげえ。あたり一面絵ハガキみてえだ」という一言だった。ホントにそう見えた、というか、何度見返してもそういう風にしか見えなかったのだ。別にひどい光景ではないのだが、絵ハガキを見て感動することはできない。別の言い方をすれば「よくできたCGだなあ」というようなことになる。ああいう風景に美的な何かを感じる心が、コドモのころからわたしにはどうにも皆無なのである。

だからどうだというわけでは、必ずしもないのだが、たまたまそういう心性の持ち主であるために、他人が自然の風景を称賛しているのを見ると、特に書かれた文章の上で称賛していると、そこでその人のアラが全部見える(ような気がする)のである。どうもほとんどの人は自然の風景のこととなると手放しになってしまうところがあって、ほかのことでは緻密だったり難解だったりする書き手でも、そういうことを書き出したとたん、いっぺんに正体が(わたしには)バレてしまうことがある、ということだ。直観的に。

普通とは逆の意味で「大自然って奴は怖えなあ」と思わないわけにはいかないことである。

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