惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

8-3b (ver 0.1)

2010年04月06日 | MSW私訳・Ⅲ
8-3 いかにして普遍的人権が存在するのか(承前)

いくつかの場合、特に道徳の問題がからんでくる場合においては、我々は地位機能の附与(entitlement)ということを地位機能の所持形態として扱う。したがって、自己矛盾がなければ、人々はその権利が認識されなくなったときに喪失すると主張することと、彼らはその権利を失ってはおらず、引き続き保持しているが、ただその権利はもはや認識されないだけだと主張することは矛盾しないということができる。明らかな矛盾は最初の文においてXの充足条件を地位機能Yの所持に対する充足とみることで除去される。二番目の文(utterance)の場合は地位機能Yの機能することには認識が必要であり、したがって認識の不在において我々はその存在を否定することができる、と我々は認識している。その場合、「人権」の概念は曖昧であるということになるが、それは他の多くの地位機能概念においても当てはまる曖昧さである。

ここまで来ればベンサムやマッキンタイアの主張との緊張を解くことができるように思える。ベンサムやマッキンタイアは普遍的人権のようなものは存在しないと述べる際、彼ら自身そのことを自明な常識的事実として考えている。そして我々の方では普遍的人権は事実存在すると、これも常識的にそう思っているわけである。我々はベンサムやマッキンタイアについて、権利は他の地位機能と同様にそれらが認識されることによってのみ機能するのだと言うことができる。認識なかりせば権利義務力なし、である。と同時に、我々はあなたはあなたの権利を否定されようが認識されようが失うことはない、という常識的な仮定を共有することができるように思える。X項の充足における地位機能の存在する基盤は──あなたが合衆国で生まれた生物学的人間なら──Y項の充足に対する基盤と受け取られる。あなたは市民権を附与されているし、人権を附与されている。しかしこの最後の文を読む場合、権利の存在について附与されているのではなく、既存の権利の認識について附与されているのだと読むことができる。

哲学においてはしばしば根深い不同意が注意深い分析によって解決されることがある。懐疑論者は、彼ら自身は、それについて注意深く考える者なら誰にとっても平易でなければならない自明(obvious)な真について言っていると考えている。そして人権についての常識を信じる人は単に何かが誰にとっても「自明(self-evident)」でなければならないと主張しているだけだと思っている。両者の説明において何が真であるのかを明確にしてみよう。

多くの人は、特に合衆国の多くの人は、すべての人権は神より授かりしものでなければならないと考えている。つまり、神が我々にこれらの「譲渡不能な(inalienable)」権利を賦与(endow)したのでない限り、それらの権利は基礎を持たず、それを主張しても我々は自分自身を正当化することができないのだ、というように。さまざまな理由でこの考えは充足的でない。カミサマの存在を仮定したとしても、我々がそのカミサマから権利を授かることにおいて、カミサマはしばしば心変わりしなくてはならないことになる。なぜといって、基本的人権の一覧表はちょくちょく改訂されるからである。合衆国憲法は神の啓示である(divinely inspired)と考える人達は、たとえば以下のような権利について、カミサマがいつ我々にそれを授けられたかの事実に悩まされるべきである。カミサマは1865年までドレイ制度をお認めになっておられた。女性は1920年まで投票する権利をまったく持っていなかった。カミサマから権利を導く試みは理論的にも実践的にも弱点がある。もしカミサマが存在しなかったら、わたしはそれがほとんど確実だということを恐れているのだが、全部パアだ(誰もいかなる権利も持っていない)ということだ。そしてもうひとつ、神様がどんな権利を我々に授けてくださっているかを勘定する試みにおいて、カミサマの与えし権利一覧が決定版であると仮定することには問題がある。その一覧表は変化し続けている。十戒とか七つの大罪とか七つの枢要徳(the Seven Cardinal Virtues)などというものとは違って、人権とは何であるかについての一般的な合意は存在しない。国連世界人権宣言(the United Nations Universal Declaration of Human Rights)の第15条にいわく「すべて人は、国籍をもつ権利を有する」。なぜだろう?どうして国家が、国籍を失うことが基本的人権を失うことであるような社会組織の基礎形態だと仮定されるべきなのか?先の引用でバーナード・ウィリアムズは、人権の問題とは我々がそれが何であるかを知らないということではなく、我々がそれを実施することに困難を抱えていることだと言っていた。わたしは、それは間違いだと思う。問題とは、我々が権利とは何であるかを知らないということの方なのである。本章の目的は、それが何であるかの主張を整えるための、ある原則を与えることである。しかし、基本的人権の一覧について一般的な合意は存在しないということを強調しておくことは重要である。

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 5-4 (ver 0.1) | TOP | 実は8-4が超面白い »
最新の画像もっと見る

Recent Entries | MSW私訳・Ⅲ