何度も言ってる通りセラーズのPSIM(哲学と科学的人間像)は原文の字面から難儀なテキストである。結局私訳を作ってみなければちっとも先に進めない、けれどもPSIMはTHNなどのように私訳だからと言ってホイホイ公開するのが著作権的に躊躇われる。
しかしそうするとblogにうpするものがなくなってしまうので、さてどうしたものかと考え込んで、とりあえず今日のところは、邦訳書の訳者といい、わたしといい、どういう苦労を強いられているんだ!か、それをちょっと見てもらうことにした。まあ勝手私訳の舞台裏といったところで。
[原文](第1節・第11段落冒頭)
For the philosopher is confronted not by one complex many-dimensional picture, the unity of which, such as it is, he must come to appreciate; but by two pictures of essentially the same order of complexity, each of which purports to be a complete picture of man-in-the-world, and which, after separate scrutiny, he must fuse into one vision.
[訳1] 邦訳書p.7-8
というのは、いまいった哲学者が直面しているのは一個の複雑な多次元画像ではないからである。たしかにこの画像の統一性も、それはそれとして正しく認識されるようにならねばならないけれども、二つの画像だけでも複雑性のレベルは本質的には変らない。いまから述べる二つの画像がそれぞれに、世界の内にある人間の完結した画像であることを目指しているからであり、哲学者は両者を、別々に精査したのち、一個のヴィジョンに融合しなければならないのである。
[訳2] 私訳(逐語訳)
哲学者が直面しているのはひとつの複雑な多次元の描像ではないので、彼はそれらの統一をそのようにあるものとして鑑賞するようにならなければならない。ただし、複雑さの等級が本質的に同じであるようなふたつの描像、各々が世界-内-人間の完備な描像と見まがうそれらによって、そして彼が別個に詳しく見た上で融合してひとつの幻像としなければならない、それらによってである。
[訳3] 訳2にいくらか手を入れてみたもの
哲学者が直面しているのは複雑な多次元の描像ひとつではなく、ふたつである。両者は複雑さの等級が本質的に同じで、各々が人間の完備な描像と見まがうものである。哲学者はふたつを別個に詳しく見た上で融合し、統一された幻像のありのままを鑑賞しなければならないことになる。 |
邦訳書の訳はかなり「苦しい」訳だと思うわけだが、これが案外流れを見失ってはいないのである。十分役に立っている。そういう意味では、訳1がなければ訳2訳3は存在しえなかった何かなのである。とはいうものの、原文も難儀だし、原文と訳1から訳2を作り出すのも、これは相当難儀な作業なのだということは、眺めてもらえばわかると思う。
最終的な「超約」が出来上がるまでには、上の「訳3」をさらに縮めて行くことになる。そんなことできるのかと言って、あらゆるレベルで前後のとっちらかった原論文の構成を整理しまとめて縮めれば、まだまだたくさん縮められる。実際、それくらいとっちらかっているのである(笑)。