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惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

THN私訳・付録からの挿入(5件)

2012年04月16日 | 私訳メモ
以下の記事に付録の訂正を転記した。

  THN1-2-05c

以下の4つの記事に付録からの指示でパラグラフないし著者ヒュームによる註釈の挿入を行った。
どこの挿入したのかは挿入した先で指示されている。

  THN1-1-07c
  THN1-2-04h
  THN1-2-04k
  THN1-2-05i

以上の挿入は今日うpした分(THN1-Apdx(4))以後、付録の終わりまでに指示されている分である。

以上でTHN私訳作業はひとまず終了ということになる。訂正などを行った場合は随時報告する。

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PSIM私訳ぼやき(1)

2012年04月13日 | 私訳メモ
何度も言ってる通りセラーズのPSIM(哲学と科学的人間像)は原文の字面から難儀なテキストである。結局私訳を作ってみなければちっとも先に進めない、けれどもPSIMはTHNなどのように私訳だからと言ってホイホイ公開するのが著作権的に躊躇われる。

しかしそうするとblogにうpするものがなくなってしまうので、さてどうしたものかと考え込んで、とりあえず今日のところは、邦訳書の訳者といい、わたしといい、どういう苦労を強いられているんだ!か、それをちょっと見てもらうことにした。まあ勝手私訳の舞台裏といったところで。

[原文](第1節・第11段落冒頭)
For the philosopher is confronted not by one complex many-dimensional picture, the unity of which, such as it is, he must come to appreciate; but by two pictures of essentially the same order of complexity, each of which purports to be a complete picture of man-in-the-world, and which, after separate scrutiny, he must fuse into one vision.

[訳1] 邦訳書p.7-8
というのは、いまいった哲学者が直面しているのは一個の複雑な多次元画像ではないからである。たしかにこの画像の統一性も、それはそれとして正しく認識されるようにならねばならないけれども、二つの画像だけでも複雑性のレベルは本質的には変らない。いまから述べる二つの画像がそれぞれに、世界の内にある人間の完結した画像であることを目指しているからであり、哲学者は両者を、別々に精査したのち、一個のヴィジョンに融合しなければならないのである。

[訳2] 私訳(逐語訳)
哲学者が直面しているのはひとつの複雑な多次元の描像ではないので、彼はそれらの統一をそのようにあるものとして鑑賞するようにならなければならない。ただし、複雑さの等級が本質的に同じであるようなふたつの描像、各々が世界-内-人間の完備な描像と見まがうそれらによって、そして彼が別個に詳しく見た上で融合してひとつの幻像としなければならない、それらによってである。

[訳3] 訳2にいくらか手を入れてみたもの
哲学者が直面しているのは複雑な多次元の描像ひとつではなく、ふたつである。両者は複雑さの等級が本質的に同じで、各々が人間の完備な描像と見まがうものである。哲学者はふたつを別個に詳しく見た上で融合し、統一された幻像のありのままを鑑賞しなければならないことになる。

邦訳書の訳はかなり「苦しい」訳だと思うわけだが、これが案外流れを見失ってはいないのである。十分役に立っている。そういう意味では、訳1がなければ訳2訳3は存在しえなかった何かなのである。とはいうものの、原文も難儀だし、原文と訳1から訳2を作り出すのも、これは相当難儀な作業なのだということは、眺めてもらえばわかると思う。

最終的な「超約」が出来上がるまでには、上の「訳3」をさらに縮めて行くことになる。そんなことできるのかと言って、あらゆるレベルで前後のとっちらかった原論文の構成を整理しまとめて縮めれば、まだまだたくさん縮められる。実際、それくらいとっちらかっているのである(笑)。

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THN私訳・付録からの挿入(2件)

2012年04月12日 | 私訳メモ
以下の2つの記事に付録からの指示でパラグラフの挿入を行った。
どれがそのパラグラフなのかは挿入した先で指示されている。

  THN1-3-08b
  THN1-3-10f

付録には他にも挿入指示されている内容があるが、それらはすでに挿入済である。
ちなみに今回の挿入は今日うpした分(THN1-Apdx(2))以後、付録の後半の直前までに指示されていた分である。

付録の後半には後半でまた挿入する内容があるわけだが、それはそこで改めて挿入を行い、これと同様のメモ書きを書くことにする。

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THN私訳・今後の予定

2012年04月10日 | 私訳メモ
twitterの方ですでに何度か呟いていることだが、次回(たぶん明日)からは「付録」を何回かに分けて出す予定である(訳出はすでに終わっているので、いっぺんに出してもいいのだが、それではblogの記事として長すぎるだろう)。これは大槻訳では原書第1巻の本文のあと(文庫本の第2巻)に掲載されているが、本来は全3巻の末尾に付されているものである。とはいえ内容的には第1巻の議論についての補足、あるいは第1巻の本文の訂正および挿入だけである。したがって「付録」を読むには第1巻の内容だけがあればよく、また、第1巻の内容を著者ヒュームによって決定されたものとして考えるためには「付録」を込みにしなくてはならない(もっとも、ヒューム自身は最晩年になってこの「人間本性論」そのものを著作リストから抹殺してしまったのであるが)。

なお、「付録」を訳出した後は当分の間「THN私訳」カテゴリは休業ということになる。そのわけはtwitterの方で呟いた。いずれ再開することがあれば(このblogではすこぶるアテにならない話だが)、訳文の再検討と修正、既存の邦訳にある訳註の反映(ただし、どう考えても訳書の著作権的にシャレにならなさそうだと判断される場合は「参照」にとどめる)などの作業を行いたい──と思ってはいる(笑)。

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数日の間「THN私訳」は休み

2012年02月20日 | 私訳メモ
仕事がたてこんでて、昼休みも返上でやっていたりするわけである。これでは訳文など作ってる暇もない。多少あっても眠気と疲労でやる気がしない。

最悪でたぶん今週一杯、できれば水曜くらいまでにケリをつけたいところなわけだが、ちょっとどうなるかわからないので「数日間」休みということにさせていただく。

THN私訳が休みということは、たいてい他の記事を書いてる暇もないということで、このblog自体がほぼ開店休業になってしまうわけだが、twitterでぽつぽつ呟いたりしたものは自動的に転載されてくるはずである。

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THN私訳作業は再開したが・・・

2012年02月08日 | 私訳メモ
かれこれ一週間、やっとインフルエンザの熱が引いて今日から出勤ということになった。THN私訳の作業も今日の昼休みから再開はした・・・が、さすがに一週間も間が空いてしまったことで、すぐには調子が戻らない。また、たまたま再開したところのパラグラフがとんでもなく長い。そういうわけで、今日はうpできるものがない。下手すると明日でもまだ終わらないかもしれない。

私訳の続きを待っている人がいるのかどうか知らないが、いるとすれば、作業それ自体に特段の支障は生じていないので、まあ気長に待っててくれと言う。悪くても今週中には、いまやっているパラグラフの訳が出てくることになるだろう。

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THN1-4-02(01)~(04)の訳文改訂

2012年01月25日 | 私訳メモ
今日、(05)を訳しているうちに(01)~(04)の訳文を一部改訂したくなったので、サクッとやってみた。この報告をうpする時点ですでに訳文は差し替えられており、題名には「(revised Jan.25, 2012)」の文字が付加されているはずである。

何をどう改訂したのかというと、原文で「continu'd existence」とか「independence of their existence」などと表現されている部分の訳である。これは大槻訳でも、あるいは他の訳でもたいてい「連続的存在」とか「存在の独立」とか、だいたいそんな調子で訳されているわけであるが、これらは一読して誰にでもピンと来るような訳だという感じがしないわけである。また「probability」を「半知識」とか「確からしさ」などと訳してきたことと同様に、「連続」とか「独立」という言葉は数学をはじめとして理工学では固有の(しかし相当に厳密な)意味を、現代では非常に強く帯びている。そのあたりでイメージの混乱が生じるのを避けたい気がする。

で、従来もテキトーに補って訳してきたわけであるが、これらの表現はこの第四部第二節で実にひっきりなしに登場するわけで、毎度補っているのがバカバカしくなってきた(笑)次第である。そこで、前者については「(知覚がないところで)引き続き存在するもの」、後者は「(我々自身、もしくは心や知覚から)はなれてあるもの」というように訳すことで統一をはかることにした。下手にいじると訳文として故障しそうなところは完全には直していなかったり、取り違えが生じない程度で微妙な表現の異同が残っていたりはするが、以後も基本的にはこの訳し方で一貫させることにしたい(・・・など言いながら、たぶん時々忘れるはずだが、その節は諦めていただきたい(笑))。

independentを「はなれて」と訳すのは確かにちょっと危ういのであるが、そもそも原文からしておんなじようなことをdistinctと言ってみたりexternalと言ってみたり、あるいはこれらを並置したり、結構ふらついている。これらをまとめて一語でキメるとしたら「はなれて」だろうと思うわけである。漢字で「離れて」とせずにかな書きにするのは、漢字にするとイメージが狭窄しそうなことを恐れたまでで、まあ、感覚的な気まぐれである(笑)。本当だったらひとつひとつ傍点をふりたい感じだが、HTMLではそれができない。

中公抄訳では「continued」が「持続的」と訳されている。これはこれでいい訳だと思う。でもわたしは「持続」と言われるとどうしてもベルクソンの顔が浮かんできて気味が悪い(笑)。それは冗談として、情報通信とか信号処理とかをやってる人間は(それが現在のわたしの本職だ)日本語で「持続」と書かれていると、まず真っ先にdurationの語を思い浮かべるということもあるわけである。

・・・しかしまあ、これをそんな風に訳すんだったら例のあの「恒常的連接(constant conjunction)」だって、「いつもいっしょ」とか「毎度おなじみの」などと訳せばいいじゃないか、と言われるかもしれない(笑)。あれを大槻訳のまま「恒常的連接」としたのは、この5文字こそはまさに因果関係の議論に関する「ヒューム印」の5文字だと思われたからである。それに比べると「目をつぶっても対象は引き続き存在するのか」とか、「対象は我々から、あるいは我々の知覚からはなれて、その外部に存在するのか」といった問題は、それを論じた例はヒュームに限らない、哲学や形而上学ではおなじみの問題だろうと思われるわけである。

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4-02は長いよ

2012年01月18日 | 私訳メモ
原書や大槻訳を所有していて、かつ、THNを通して読んだことのある人ならご存知だろう(笑)が、今日から始まる第四部第二節はすんごく長いのである。少なくとも分量的に、第四部の半分くらいがこの議論のために費やされているのである。

まあ、そういうわけで、この4-02は間違いなく26回以上になるだろうから、毎回の題名のサフィックスは英小文字ではなくカッコつきの番号で表示する。

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歯痛で休業を強いられているんだ!

2012年01月11日 | 私訳メモ
そろそろ旬を外しかけのネタでスマン。

しかし題名のことは事実なので、今日はTHN私訳はお休み。朝から歯が痛む中で出勤はして、昼休みには私訳にも手をつけてはみたのだが、パラグラフの半分も進まなかった上に、昼休み後から猛烈に痛み出して、結局早退してきてしまったのである。

今も激痛と格闘しながらこれを書いている。あとは寝てなだめるくらいのことしかできないので、これにて失礼。

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てなわけで

2011年12月17日 | 私訳メモ
この一週間、blogの更新ができない間に続けていたTHN私訳の続きを一度にうpした。

アクセス数稼ぎの観点から言えばいっぺんにうpしないで小分けにした方がGooglebotさんの仕事はより忙しくなるわけだが(笑)、そんなセコいことする意味はないのでしない。

まあ何にせよ大槻訳の「第一巻」、つまり原書の第一巻第三部までの内容は年内に終えることができそうである。年明けかその前あたりから第四部に入る予定である(実際、準備作業はすでに開始している)。

それはいいのだが問題は第四部の後である。そのまま第二巻三巻とずっと続けるかどうか、迷っている。調べたところでは第三巻については他に日本語訳をうpしている人がいる。ちゃんと読んではいないのだが丁寧に訳されている印象がある。

思えばこのTHN私訳は3月の震災後に日本中が大混乱していた、そのさ中に始めたわけである。前からきちんと読んでみたいと思っていたということもあったし、わたし自身も(それほど自覚してはいなかったが)相当に動揺して不安定な精神状態であったわけで、その気を落ちつけようという意味も、わたし自身が確かに感じていたことである。昔の日本人なら「写経」なんぞを始めるところかもしれないが、そんなのは俺の柄じゃねえし、とか思っているうちに、たまたま大槻訳の全4巻を揃いで手に入れることができたので、素人哲学にはこれくらいが丁度よさそうだと思って始めたのであった。

第四部と付録を全部終えるまでにはたぶんあと半年近くかかるはずだが、大雑把に言ってまる一年、それくらいでいいかなという気もしている。

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「THN私訳」題名規則変更(3-14限定)

2011年11月09日 | 私訳メモ
この私訳シリーズでは記事ごとの題名はTHN0-0-00a,b,c,...といった具合に、各節の分割は末尾に英小文字をつけてアルファベット順に並べているわけだが、この3-14に限ってアルファベットの26文字ではおさまりきらない可能性が出てきた。そこで3-14では題名をTHN1-3-14(nn)とする。ただし、nnは2ケタの通し番号で、下にある通り(01)から始める。

ところで、そもそも何でこんなシリアル番号のような記号列を題名にしているのか、訝る人がひょっとしたらいるかもしれないので、改めてその理由を言っておく。別に毎回「D・ヒューム『人間本性論』私訳・第1巻第3部第14節・・・」などとやったって、コピペするだけだから手間ではないのだが、それをやると、たとえばGoogleで「人間本性論」を検索したりすると、うちの記事ばかりぞろぞろ出現してくる、という大変みっともない事態が生じかねないわけである。

このblogを宣伝すること自体は別に構わないというか、閲覧者やリピータが増えるのは大いに結構なことだと思っているのだが(全然増えないんだけどさ)、そうは言ってもヒュームや「人間本性論」の名に過剰に寄りかかって宣伝しようという気はないのである。

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戯訳 歎異抄(第十三条・抜粋)

2011年08月30日 | 私訳メモ
原文抜粋は3-09gの訳註に書いたので、その部分を現代語に戯訳してみる。

●戯訳
あるとき親鸞のハゲがこんなことを言い出した。

「なあ唯円さ、オメーは俺の言うことを信じるんだよな」
「ええ、まあ」
「俺の言うことは絶対だよな」

しつこく言うからはいはいと頷いていると

「じゃあさあ、ちょっと今から千人ばかり殺してきてくんないかな。極楽往生でおk」

とか言いやがんだ。何言い出すんだこのハゲは。

「カンベンしてくださいよ。んなことできるわけないじゃないスか」

つったら

「てめえ、いまさっき俺の言うことは絶対だつったじゃねえか!」

って怒られちまったんだ。

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あてのない業務連絡

2011年08月16日 | 私訳メモ
今日の分、1-3-08dは昼間に一度途中までやった分をうpし、今さっきかなりの分量(4パラグラフ)を追加した。昼間の間に一度見た人がいたら(いたらだが・・・)追加されていることを確認されたい。

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「THN私訳」は本日休業

2011年08月10日 | 私訳メモ
実はこの2日ほどは体調を崩して休んでいたりするわけである。で、1-3-07の終わりまでは下拵えはしてあったので、昨日までは熱にうなされつつもやっていたのだが、1-3-08以降の下準備ファイルがいま手元にない(実は、やろうとしたらないことに気がついた)のである。

そういうわけで、今日はTHN私訳はお休みである。まあ昨日分は2日分以上の分量になっているはずなので、あの野郎ペース配分の帳尻合わせやがったということでご容赦を。

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receiving some entertainment from THN

2011年08月09日 | 私訳メモ
哲学的な含意はさしあたり脇へ置いて、今日の分(3-07d)の最後のパラグラフの記述は、なんというか、ヒューム先生の読書体験のようなものを背後に伺わせる、興味深いものだということができそうである。つまりこのパラグラフは、現代日本であればさしずめ、同じアニメ番組をオタ嫌いと萌えオタが見た場合の違いを説明したもののように読むことができるわけである。

そうすると、別に、萌えオタの人がアニメ番組の中の出来事を本当のことだとか、登場人物が実在すると信じているというわけではないはずである。にもかかわらず彼らは(いや別に、わたし自身のことだと言ってもいいのだけれど)「登場人物について前者よりも深い関心を寄せ、その行い、性格、友情、敵意などを自らの心に再現し、さらにはその容貌、風姿(air)、人品をさえ思う」のである。容貌は画面に現われているといっても、彼らは(いやわたしでも構わんけどさ)画像だけからは判定できないパンツの不在(はいてない)さえも容易に思うことができるのである。つまりヒューム先生のここの部分の記述は、哲学としてはともかく読書体験としては、どうもあんまり豊かなものではなさそうだということになるわけである。

そしてこのことを逆に、信念ということについて手をかえ品をかえて説明しようと躍起になっているヒュームの哲学の方に代入し直してみれば、どうなるだろうか。これはなかなか、現代哲学として興味深い議論のネタになりうるわけである。つまり「3次元は他者だけど2次元は他者にはなりえないという常識を覆す、というか、それじゃとても説明できないところにキャラクター文化の魅力はあって」とかなんとか言ってる東浩紀センセイの本を読まなくたって、我々はヒュームの古典だけを読んでいてもそれを考えることができるというわけである。

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