惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

あくまでただの感想だが

2011年06月30日 | 報道から
使用率97%でひっ迫警報

政府は、東京電力と東北電力の管内で、ピーク時の供給電力に対する使用電力の割合、「使用率」がおよそ97%以上に上昇する見通しになった場合、「電力需給ひっ迫警報」を出し、一層の節電を呼びかけることにしています。

(中略)一方、家庭や企業の節電の取り組みによって、使用率がおよそ97%を下回る見通しになった場合、需給ひっ迫警報は解除されます。政府は、家庭や企業に対し、需給ひっ迫警報が出た場合は、計画停電を回避するため、できる限りの節電に努めてほしいと話しています。
(NHKニュース・6月30日 19時19分;本文強調は引用者)

わたしにはなんだか「政府」が東日本の人々相手に悪ふざけのようなゲームを仕掛けているような気がしてしょうがない。警報を打って脅せば一国の電力需要のほぼ半分に相当する量を政府が自在に操れるのだ、と言いたがっているかのようである。

これは微妙なところだが、政府が悪ふざけをしているというよりは、このニュースの文面が悪ふざけの心情を隠しているからかもしれない。

八方手を尽くしてもどうしても発電量が不足なのだという事実が背景にあれば、こんな奇妙な感想を持つことはないかもしれない。だが本当のところそうではなく、普通に動かせる発電所をたくさん止めているわけである。その上で「計画停電を回避するため、できる限りの節電に努めてほしい」だなどと言う、この調子に「こいつら一体何様のつもりだ」という感想をまったく持たないでいることは、わたしには困難である。

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暑いよ

2011年06月29日 | situation
もうどうしようもないくらい暑いよ。帰ってきてから2時間あまり、クーラー全開にしているにもかかわらず、まだ部屋に熱気が残っているくらいである。

ニュースとかを眺めていても、今日は日本中のあちらこちらで熱中症で倒れる人が続出したようである。

暑くて大声出す気がしないから普通の声で言うが、この夏に熱中症で死ぬ人──その多くはお年寄りであるだろうが──の半分は、地震と津波という「自然テロ」の余波をくらって殺されるのである。そして残りの半分は「反(脱)原発」という名の左翼テロにかかって殺されるのである。

自然テロの方は今も自衛隊の人達が必死で戦っている最中である。昔風に言えば銃後の我々は、武器らしい武器もないし訓練も受けていないから戦うことはできないが、せめて左翼テロの跳梁に抵抗しおしとどめるくらいのことはすべきである。後者は今や、あろうことか電力会社の株主総会で「自爆決議」すら提案するまでに拡大しているのである。

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THN1-3-01b

2011年06月29日 | THN私訳
3-01 知識(承前)

すでに述べた通り(2-04)、幾何学、つまり図形の割合を確定することの技芸(art)は、感覚や想像の行うゆるい判断に比べれば、普遍性と正確性においてはるかに卓越したものである、とはいえ決して完璧な精度と厳密さを持つわけではない。幾何学の第一原理はあくまでも対象の一般的な現れ(general appearance)から引き出されたものである。そしてこの現れは、自然においてありうる並外れた微小さを吟味しようという場合には(確実性に関して)いささかも安全ではないのである。たとえば我々の持つ観念は、二直線が共通線分を持ちえないことを完璧に保証するかのように思える。けれどもよく考えてみると、そこでは常に二直線の目立った傾きが仮定されている。そして二直線の作る角度が極端に小さい場合には、上述の命題の正しさを保証するに足るほど精密な基準を、我々は持っていないことがわかる。同様のことは数学における基礎的な判定のほとんどにあてはまる。

前にも書いたことがあるような気がするが、18世紀にはヒュームほどの人ですらこんなことを普通に主張していたわけである。以来2世紀で数学は上の記述がまったくの戯言に思えるくらい厳密さの度合いを増したわけだが、おかげで今では数学を学ぼうとする世界中の学生が、たぶんヒュームの時代にはせずに済んだであろう種類の苦労をするはめになっているわけである。特に連続性の定義のあたりで。

まあ何にせよ、THNの中でヒューム先生が数学にイチャモンをつけている箇所の多くは、当時は正当な批判であったとしても、今日では、少なくとも専門分野としての数学について言えば無意味なイチャモンであることは心得た上で読まれるべきである。今日の数学はヒューム的な「知覚」とのかかわりを主張するものではなくなっているからである。

ゆえに、推理の連鎖をどれだけ込み入らせて行ったとしても、なお完璧な正確さと確実さとを保ちうる学問領域としては代数学と算数(arithmetic)があるだけだということになる。これらには数の等しさや割合を判定できる精密な基準(standard)がある。我々はその基準に沿うものであるか否かによって、数の関係を誤りなく決定する。(たとえば)ふたつの数がすべての桁に関して同じである場合、我々はそれらを等しいというわけである。延長にはこうした等しさの基準が欠けている。そのため、幾何学を完璧で誤りのない学問領域と見なすことはできないのである。

そもそもヒューム先生は数学がすっげー苦手だったに違いないことは、どうもこのあたりの記述を読んでいると疑いようがない気がしてくる。数学について哲学者が何か言っているのを読むとしたら、もともと数学屋だったフッサールとかの方が、それはなんぼかましであることは確かである(ラッセルとかはまたちょっと別としてである)。

(つづく)

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THN1-3-01a

2011年06月28日 | THN私訳
第1巻第3部 知識と半知識

3-01 知識

哲学的関係には7つの異なる種類がある(1-05)。すなわち、類似、同一性、時間・空間的関係、数量の割合、質の程度、反対、因果である。これらの関係は大きく2種類に分けられる。すなわち、比較される観念にまったく依存する関係と、観念の方に変化がなくても変化しうる関係の2種類である。たとえば我々は三角形の観念から、その三角形の和は二直角に等しいという関係を見出す。この関係は観念が同じである限り変化しない。これに対してふたつの対象の距離(近さ遠さ)の関係は、対象それ自体に、あるいは対象の観念には変化がなくても、対象の位置が変わることで変化しうる。しかも位置関係は、心の予見しえない様々な偶然に左右される。同一性や因果性の場合も同様である。ふたつの対象が完璧に類似していたとしても、同一の位置に現れたとしても、現われる時間が異なれば数値的に(numerically)異なると言えよう。また、ひとつの対象が他の対象を生み出す力が、対象の観念だけから見出されるということは、ありえない。因果は経験から告げられる関係であって、抽象的な推理や反省から告げられるものでないことは明らかである。現れたままの対象の性質(quality)から説明できる現象、つまり記憶と経験の助けを借りずに予見(foresee)できる現象は、どれほど単純な(simple)現象であろうと、ひとつもないのである。

ゆえに、上述の7つの哲学的関係のうち、観念だけに依存する関係、したがって確実な知識の対象(obj. of knowledge and certainty)となりうる関係は、「類似」「反対」「質の程度」「数量の割合」の4つしかないことは明らかである。このうちの3つはひと目でわかるので、証明すべき何かであるよりは直観の領域に入れるべきものである。どのような対象にせよ、互いに類似していれば、その類似はすぐに目につく、いな、心にひらめくものであろう。またそれを再検討しなければならないことも、めったにないことである。「反対」「質の程度」についても同様である。存在と非存在とが互いに相殺しあう(原文から「destroy each other」である。文字通り「相殺」である)完璧に両立しない反対(の関係)であることは、たれも疑い得ないことである。また、色・味・熱さ・寒さのような質の程度は、違いが非常に小さいときは正確に判定できないが、大きく異なっていれば、あるものが他のものより優れているとか劣っているとか判断することは容易である。我々は通常この判断をひと目で(味はひと口で)下すのであり、わざわざ研究したり考察したりはしないのである。

「味はひと口で」というのは訳者の挿入である。原文では味も含めて「at first sight」で判ると書いてある。

数量の割合を確定する場合も同様に行うことは、不可能ではない。数や図形の大小をひと目で見分けることはたいていできるだろう。特に違いが甚だしければそうである。けれども等しさやその他の何かの正確な割合となると、たった一度考察しただけではただの憶測にしかなりえない。もっとも、きわめて小さな数とか、延長の非常に制限された部分については別である。これらは一瞬で了解されるし、ひどい錯誤に陥ることもないのである※。しかし他のすべての場合には、割合を決める上で多少の誤差が生じることは避けられない。もしくは、単に一瞥をくれるというよりはましな、手の込んだ(artificial)方法を用いなければならない。

このあたりの但し書きの意味はいまひとつはっきりしない。

(つづく)

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LAドジャーズ潰れる

2011年06月28日 | 報道から
ドジャースが連邦破産法申請

大リーグで100年以上の歴史があり、黒田博樹投手が所属するドジャースが、27日、日本の民事再生法に相当する連邦破産法の適用を申請し、今後の球団経営の行方が注目されます。
(NHKニュース・6月28日 16時48分)

クソ暑い中を帰ってきてNHKニュースサイトを見たらこれである。上は抜粋だが、全文読んでも今のところ何が何だか、正直よくわからない。

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ゆでたまごのうた

2011年06月28日 | 年を経た洋楽オタの話
出勤前に何となく
from YouTube

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変形Whitesmithインデント(2)

2011年06月27日 | 不良プログラマの夕べに
考えてみると、「夕べに」というなら最初にこっちの曲を掲げてしかるべきであった。

from YouTube

この曲は邦題も「イン・ジ・イヴニング」で知られているわけで、訳せば「夕べに」であることに今まで気づいていなかった。まあ、ワタシはこの曲にはあんまり思い入れがないのである。



プログラマにとってインデント・スタイルというのは利き手の左右にも等しいもので、違うスタイルで書かれたプログラムは読むのも書くのも難儀をきわめるものである。またまさしく箸の握り方にも等しいものだから、どういうスタイルであろうとそれほど凝ったものにはなるわけもない。箸でシャーペン回ししながらでないとメシが食えないとか、そんな人はいないわけである。

そうは言ってもたぶん、実際に日常的にこんな書き方をしている人は、世界広しといえどもわたしのほかにはあんまりいないだろう、という「変形」Whitesmithの変形たるゆえんのひとつが以下のswitch文の書法である。

switch(p->input_datatype)
        {
case DOUBLE_POWER:
        for(i = 0; i < p->samples; i++)
                { p->s[i].db = line[i]; }
        break;
case FLOAT_POWER:
        fline = (float *)line;
        for(i = 0; i < p->samples; i++)
                { p->s[i].db = (double)fline[i]; }
        break;
case DOUBLE_LINEAR:
        for(i = 0; i < p->samples; i++)
                { p->s[i].db = log10(line[i])*20.0; }
        break;
case FLOAT_LINEAR:
        fline = (float *)line;
        for(i = 0; i < p->samples; i++)
                { p->s[i].db = log10((double)fline[i])*20.0; }
        break;
case COMPLEX:
        cline = (complex *)line;
        for(i = 0; i < p->samples; i++)
                { p->s[i].db = log10(ZSQ(cline[i]))*20.0; }
        break;
        }

caseを中括弧より一段前に書く」という掟破りのインデントである。

わたしはもともと他人にコードを読ませる気がない(そもそも他人の書いたコードを読みたいなんて奴がいるわけがない。そして文章であれプログラムであれ、読みたいと思わない奴に読ませることほど悪い行為はめったにない)のだが、仕方なく読ませなければならないことはたまにあって、そうすると百発百中で相手が面喰らうのがこれである。その顔を眺めて「だから言っただろ?俺のコードなんか見ないで自分で自分のコードを書け」と言うのがわたしである。

どうしてこんな面妖なスタイルが生じたのかというと、C言語を覚えた時からこのswitch文というのが無駄にインデントを食うものであることが気に食わなかったわけである。昔のPCは1行80文字程度しかなかったから、ハードタブでインデントしているとすぐに1行の端まで到達してしまう。通常のスタイルではswitch文が入れ子になったりすると、いったいどんな風に書いても判りにくい代物になってしまう。なんとかなんないものかと考えあぐねているうち、このcaseというのはgotoラベルと同じようなものだということに気がついた。だったらラベルと同じように一段前にしてしまえば、switch文のせいでインデントが爆発することは、なくなりはしないまでも減るのではないかと思って意識的にそう書くようになったのである。果たして見違えるようにスッキリするようになった。以後どんな言語でもこのスタイルで通すようになったのである。

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THN1-2-06b

2011年06月27日 | THN私訳
2-06 存在と外的存在の観念(承前)

先に(1-07)我々は、いかなる実在の相違もないところで観念が区別されることについて論じたが、その論はここではまったく用をなさない。この種の区別(distinction of reason)は、同じ素観念が複数の異なる観念に対して異なる類似をもつことを根拠とする。しかしいかなる対象も、存在するということに関しては、ある対象と類似しているとか、異なっているといったかたちで現れることはできない。なぜならすべての対象は、それが心に現れるものである限り、必然的に存在するものでなければならないからである。

外的存在の観念も同様の推理によって説明される。本当に心に現れるものは、知覚すなわち印象と観念のほかではありえない。外的な対象は、それが引き起こす知覚によって知られるようになるだけである。このことは哲学者達のあまねく認めるところであるし、またそれ自体かなり明らかなことであると言えよう。憎む、愛する、考える、触る、見る、これらはすべて知覚することにほかならないのである。

さて、知覚のほかは何物も決して心に現れないし、またすべての観念はそれ以前に心に現れた何かに由来している。そうすると、観念や印象とは異なる観念を思うこと(そうした観念を作ること)も不可能であることになる。我々の注意をできる限り自分の外へ向けてみよう。想像を天に、宇宙の果てまで伸ばしたとしよう。だが本当のところ我々は一歩たりとも自分自身を出ていない。この(自分の心という)狭い範囲(compass)に出現した知覚のほかに、我々はいかなる種類の存在も思うことはできないのである。これが想像の宇宙である。この中で生み出される観念よりほかに、我々はどんな観念も持たないのである。

仮に外的な対象が知覚とは異なる種類(の存在)であるとした場合でも、外的対象という考えに関して我々にできることは、たかだか外的対象に関連した(related)観念を作ることだけであって、そこに当の対象は含まれないのである。一般的に言って、我々はそれらを(存在の)種類が異なるとは考えず、ただ異なる関係・結合・持続を帰属させるだけである。この点については、あとで(4-02)さらに詳しく述べることにする。

(2-06おわり)

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Mary Long - Deep Purple

2011年06月26日 | 年を経た洋楽オタの話
from NicoNico

なんか気温がランコルゲしているせいか、心身ともども調子がおかしい。

仕方がないから上の動画をYouTubeから密輸、しようとしたらニコのロダが「このフォーマットには対応してない」とかなんとか訳の判らぬダダをこねる。仕方がないからいったん画像と音声を分離して「ニコニコアップローダムービーメーカー」という奴を使って再結合した上でうpした。

色々と仕方のない週末であった。

●追記

アップローダじゃねえ、ムービーメーカーだった。ことほど左様に今日はグダグダである。後で出てくるTHN私訳も実はまだグダグダ状態である。これから少し立て直す作業をする。

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Googleに調査入る

2011年06月26日 | 報道から
グーグル 米連邦取引委が調査
インターネット検索最大手のグーグルは24日、アメリカ連邦取引委員会から調査を受けていることを明らかにし、圧倒的なシェアを利用して、ほかの企業との競争を不当に妨げていないかどうかに焦点が当たっているとみられます。(中略)グーグルは(中略)創業以来13年かけて無料の検索サービスを確立し、インターネットの利便性を高めてきたとして、あくまで企業努力によって今の圧倒的シェアを築き上げたとの考えを強調しています。
(NHKニュース・6月25日 13時14分)

使っている側からしても、検索サービスについてはGoogleの主張しているのはもっとも至極なことだと思える。なんてったって、うちのblogがもうじき10万IPに到達するのは、ほとんどひとえにGooglebotさんのおかげである(笑)。

そうは言いながら、実は先日、長いこと使っていたGoogleデスクトップをアンインストールした。ディジタル時計ガジェットのためだけに使っていて、他の機能(デスクトップ検索とか)は全部切ってあったのだが、にもかかわらず何やら盛んにディスクアクセスが生じていて、それが結構な負担になっていたりするのが不審に思えてきたからである。探してみると「ガジェット風」ディジタル時計表示ソフトが別に見つかったので、これを機会にそちらに切り替え、Googleデスクトップはアンインストールした。

Googleにこんなこと言うのは酷な話だということになるのかもしれないが、わたしはたとえば最近Googleが発売したらしい「クラウド端末」のような製品にしても、そういう発想自体が好きになれないというところがあるわけである。つべこべ言ってもそれは、分散型の「ホストコンピュータ」とアタマのない「端末」という大昔の図式を再現するだけのものではないのかと思っているところがある。

別にGoogleだけが不審なのではない。同じ理由でいわゆる「モバイル端末」的な製品のすべてにわたしは不審の目を向けている。製品やサーヴィスそのものが不審なのではなく、そうした製品やサーヴィスはテクノロジそれ自体を「ユーザ」から引きはがして隠蔽しようという発想に傾きがちなところがあるわけである。わたしはそうした発想は根底から否定されるべきだと思っている。

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Octopus(, an introduction to; 2010 remix) - Syd Barrett

2011年06月25日 | 報道から

W杯占いタコ 後継ぎ選びへ

サッカーワールドカップの試合の勝敗を次々と的中させ、一躍人気者になったタコの「パオル」の後継ぎを選ぼうと、ドイツの水族館がまもなく開幕する女子ワールドカップの試合結果を8匹のタコに予想させ、占いの力を競わせることになりました。
(NHKニュース・6月25日 7時38分)

from YouTube

「An Introduction to Syd Barrett」というコンピレーションが去年出ていたらしい。デイヴ・ギルモアの老後の小遣い稼ぎのような気もするが。まだ売ってるかな。

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変形Whitesmithインデント(1)

2011年06月25日 | 不良プログラマの夕べに
突発的に思いついてカテゴリ題を変えてみた。例によって「~の夕べに」って、いっぺん使ってみたかっただけだということもなくはない。

まあせっかくだから柄にもない動画を貼ってみる。深夜だしー

from YouTube

で、「不良プログラマ」というのはほかでもない、わたしは職業プログラマだが、他人の決めた規則は基本的にも原則的にも実際的にも全部破るというのがポリシーのようになってしまっているところがある。別にそうしようと思ってそうしているというよりも、昔はそんなバカみたいな規則でプログラマの手が縛られるなんてことはなかったのだが、気がつくと規則だらけになっていて、わたしのような古株は黙ってても不良扱いになってしまっているわけである。

せっかくだからその不良の流儀を紹介して行くことにした。まずはインデント・スタイルからで、題名通りのことである。Whitesmithスタイルというのは、たとえばfor文ならこんな風になる。

for(i = 0; i < n; i++)
        {
        printf("%d\n",i);
        }

「ブロックの中括弧は行送りした上でナカミとインデント・レベルを合わせる」のが基本である。この方法の何がいいかというと、C言語はともかくPASCAL/Delphiのようにブロックをbegin/endで括るような言語でも、インデントのつけ間違いをしでかすことはまずないということである。プログラマは、たとえばエディタが「メモ帳」しかないところでプログラムを書かなければならない場合もある。つまり気のきいたインデント・チェッカも何もない環境でも、このスタイルなら耐えられるのである。

そういうところに根拠のあるスタイルなので、タブは当然ハードタブで8文字である。DOS窓でタブを打たせてみればわかる通り、ターミナルのハードタブは普通8文字なのである。設定で変更できる場合もあるができない端末だってあるわけである。

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THN1-2-06a

2011年06月24日 | THN私訳
2-06 存在と外的存在の観念

第二部の議論を終える前に、時間・空間の観念と同様にさまざまな難点を持つ存在(existence)および外的存在(external existence)の観念を解明しておくことは、間違ったことではないであろう。我々の推理にかかわってくるこれらの観念のすべてを完璧に理解すれば、(第三部のテーマとなる)知識と半知識(knowledge and probability)について検討する準備がよりよく整うことになる。

どんな印象にせよ観念にせよ、我々がそれを意識したり記憶したりするものである限り、存在すると思われないということはありえない。存在についての最も完璧な観念と確信(assurance; 大槻訳は「信憑」としている)がこの意識に由来することは明らかである。これによって我々は、想像できる限り最も明瞭で断定的なディレンマを作ることができる。すなわち、いかなる印象も観念も、存在を(その印象なり観念なりに)帰属させずに想起することはできないので、存在の観念はあらゆる知覚(思考の対象)と連結された別個の印象から由来するか、あるいは知覚の観念(対象の観念)とまさしく同一であるのか、いずれかでなければならない、ということである。

この場合の「ディレンマ」は矛盾という意味ではなくて、互いに排他的に真であるようなふたつの命題というほどの意味である。一方が真なら他方は真ではありえないということである。

このディレンマは「すべての観念は相似する印象から生起する」原理の明白な帰結である。だから、このふたつ命題のどちらが真であるのか、その判定もまったく疑問の余地はないものになる。あらゆる印象と観念にはそれとは別の印象が伴ってあるものである限り、ふたつの印象が連結されて絶対に分離できないということはありえないとわたしは思う。時にいくつかの感覚が合わさっているということはありうる。しかし、それらの感覚が分離でき、したがって別々に現れうるものであることも、たちまちわかることである。ゆえに、想起できる印象と観念のすべては存在するものと考えられるのであるが、しかし存在の観念は何ら特別な印象に由来するものではないのである。

そうであれば存在の観念は、存在すると思われるものの観念とまさに同じである。単に何かを反省することと、それを存在するものとして反省することは、互いにまったく同じ(まったく違わない)ことである。存在の観念は、何らかの対象の観念に連結されたものではあるが、後者に何かがつけ加えられているわけではない。思われるもののすべては存在すると思われるものである。我々がそうしようとして作る観念はすべて存在の観念である。そして存在の観念は、我々がそうしようとして作る観念のすべてである。

何にせよこれに異論をもつ人は、本体(entity)の観念がどんな印象に由来するのかをを示さなければならない。そしてその印象が、我々が存在すると信じる知覚のどれからも分離できないことを証明しなければならない。我々はためらうことなく断定できる。それは不可能であると。

(つづく)

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涼しくなりそうな動画

2011年06月24日 | 年を経た洋楽オタの話
首都圏はそろそろ本格的にネッタイヤーの季節である。見ているだけで涼しくなりそうな動画を見つけたので貼ってみる。
from NicoNico


(Jun.27,2011追記)
この動画のコメとかタグとかで「ダンバイン」が「バイストンウェル」がどうこう言われているのが気になる人は、ニコでもYouTubeでもいいから「ダンバイン ED」で検索してみることだ。

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近況

2011年06月23日 | 不良プログラマの夕べに
このぶんだとTHNの私訳はいったいいつまで続けることになるのだろうという気が、我ながらしているところだが、この超気長なプロジェクトを細々やっていることが全然別の方向でいい作用を及ぼしていたりする。

時々書いてることだが、わたしは本来途轍もなく飽きっぽい性質なので、こんな地味なことを何か月も何年も続けてやったことがほとんどないわけである。それがわかっているからMSWの私訳のときは非常に急いだりしたわけである。

いい作用というのはほかでもない、プログラミングの私的プロジェクトの方も、実はTHNの私訳と同じくらい長丁場になりそうだということが、やってるうちに明らかになってきた。今までならそれだけで目を回して放棄してしまうところなのだが、同じように長丁場になるのが判りきったTHN私訳をすでにやっていることで、すでにある長丁場がもうひとつ増えるだけだという程度には気分が楽になっているわけなのである。

今は逆ポーランド言語の方は一時中断して表計算風のユーザ・インターフェースの設計と製造に集中している。これは最終的には「一風変わった表計算ソフトのようなもの」になる予定だが、まずはその部品として「汎用スプレッドシート・コントロール」を作ろうとしているわけである。VisualBasicのGridコントロールとか、最近の.NETについてるDataGridViewとか、それ風のコントロールは有料無料のものがいろいろあるわけだが、ずばり表計算なコントロールというのは案外ないのである。ないこともないが、有料のものはバカみたいに高価だし、無料のものは、なるほどこれは無料だなというクオリティである。

仕事だとだいたいはDataGridViewやPropertyGridを工夫して使うことが多いわけだが、プロにはプロの見切りということがあって、とことん出来栄えにこだわってモノ作りをするということは、ご時世ということもあってまずそんな機会がない。何か提案しても予算が試験が工程表がと言って却下されるか、却下される以前に露骨に嫌な顔されるから言い出す気にもならないということが、日ごとに多くなっているわけである。そういうものは、だから私的に勝手にタダ働きして作ってしまえということに、結局なるわけである。

表計算コントロールというのは、これまでにも何度か作ろうと思って手をつけては放棄してきたネタのひとつである。そんなに複雑なものではないのだが、本気を出せば出すほど無限に複雑になってくるようなところがある。

普通だったら、たとえばスクロールバーのコントロールを自前で作り直すなんてことはしないわけである。だが、これに限ってやりたくなるのだから困る。結局表計算ソフトというのはPCの華だからなのだろう、と思う。Excelを起動してスクロールバーを眺めてみればわかると思うが、ExcelのスクロールバーもWindowsの標準コントロールとは違う、ほとんど独自に新たに設計製造したらしきものなのである。なんでわざわざ、と言って、はっきり言って単に画面構成のデザイン的な統一感のためだけだとしか思えないのだが、それなら色と形が違うだけかというと、実はそうでもない、なんでまあこんなことにと思うくらい細かいところで変に凝った作りにもなっているわけである(詳細に調べてみて初めてわかる、意外な手抜きとか、バグ潰しの跡とかも見つかったりする)。

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