ゆえに、上述の7つの哲学的関係のうち、観念だけに依存する関係、したがって確実な知識の対象(obj. of knowledge and certainty)となりうる関係は、「類似」「反対」「質の程度」「数量の割合」の4つしかないことは明らかである。このうちの3つはひと目でわかるので、証明すべき何かであるよりは直観の領域に入れるべきものである。どのような対象にせよ、互いに類似していれば、その類似はすぐに目につく、いな、心にひらめくものであろう。またそれを再検討しなければならないことも、めったにないことである。「反対」「質の程度」についても同様である。存在と非存在とが互いに相殺しあう(原文から「destroy each other」である。文字通り「相殺」である)完璧に両立しない反対(の関係)であることは、たれも疑い得ないことである。また、色・味・熱さ・寒さのような質の程度は、違いが非常に小さいときは正確に判定できないが、大きく異なっていれば、あるものが他のものより優れているとか劣っているとか判断することは容易である。我々は通常この判断をひと目で(味はひと口で)下すのであり、わざわざ研究したり考察したりはしないのである。
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「味はひと口で」というのは訳者の挿入である。原文では味も含めて「at first sight」で判ると書いてある。
先に(1-07)我々は、いかなる実在の相違もないところで観念が区別されることについて論じたが、その論はここではまったく用をなさない。この種の区別(distinction of reason)は、同じ素観念が複数の異なる観念に対して異なる類似をもつことを根拠とする。しかしいかなる対象も、存在するということに関しては、ある対象と類似しているとか、異なっているといったかたちで現れることはできない。なぜならすべての対象は、それが心に現れるものである限り、必然的に存在するものでなければならないからである。
第二部の議論を終える前に、時間・空間の観念と同様にさまざまな難点を持つ存在(existence)および外的存在(external existence)の観念を解明しておくことは、間違ったことではないであろう。我々の推理にかかわってくるこれらの観念のすべてを完璧に理解すれば、(第三部のテーマとなる)知識と半知識(knowledge and probability)について検討する準備がよりよく整うことになる。