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惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

ワイロはなぜいけないのか(1)

2012年05月19日 | 悪は論じることができない
「実はワイロは悪くないのだ」という話をしたいわけではない。単に題名通りの意味で、わたしは長いことよく判らないでいるわけである。

たとえばそのワイロ(贈収賄の行為)を原因として、本来誰も死ぬはずがなかったものが誰かが死んだということになったりすれば、それはまず間違いなく悪いわけである。そうした帰結を意図しなくても(意図する人は稀であろう)容易に想像できる状況であったにもかかわらず、またそうしないことを妨げる外的な要因は特に何もなかったにもかかわらず、それを避けなかったとすれば、それを悪でないということは困難であろう。貧困国でのワイロは実際にしばしばそうしたものであると言われている、であれば、そういうのを悪だと呼ぶことはわたしもためらうつもりがない。

しかしここで考えたいのはもっと一般的な場合である。というかワイロそれ自体は本当に悪なのか、悪なのだとして、それはどういう理由によるものなのかということである。

つまり上のような場合は人を殺傷することが悪なので、ワイロがその原因になったというのはたまたまのことである。明らかに、すべてのワイロが人を殺傷するわけではない。つまりワイロそれ自体が悪であるかどうかとは関係のないことである。けれども普通ワイロを罪悪視することは、ワイロそれ自体が悪だという観念に基づいて言われたり行われたりしていることであると思う。それは何を根拠としているのか、それとも、これといって根拠のない妄想的な観念なのか。

なんでこんなことをわざわざ考えているのかというと、もちろん、ワイロだけを問題視しているのではなく、我々の社会は大部分が本質的にはワイロと大差のない、不埒な悪行三昧の結果として成り立っているからである。そうでない行いは(少なくとも本来は)見せかけのための飾りにすぎないと言った方が近いはずである。単にその典型としてワイロを取ってきただけである。

その「不埒な悪行三昧」は、たとえそれが悪ではなかったとしても「暗い」行為だったり「醜い」行為だったりはするだろうし、暗さや醜さの気配はたいてい人の気分を損なうものであるから、それを取り繕ったり隠蔽したりするための飾りの要素は必要であるし実際に必要とされているし、それがあることによって社会にもたらされる活気もニセモノではない。誰もがまったく誠実に働いたとしても、街に飾り気がなく暗ければ、JKの集団がナマ足をさらけ出して通りを闊歩しているくらいでなくては、商店の売り上げも伸びなかったりするものである。とはいえ、飾りは飾りである。

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暴に報いるに悪を(3)

2009年05月06日 | 悪は論じることができない
「悪魔にタマシーを売る」とか、こういう比喩はわかりやすいし、そんじょそこらの心理学的説明よりずっと正確ではないかと言いたいくらいなのだが、しかし哲学というからには、こういう比喩に頼って考えを進めるわけには行かないわけである。

比喩でよければ、哲学よりはある種の文学作品や、他のさまざまな種類の作品の方がよほど丁寧に、また正確に「悪」とは何かを描いているはずだ。哲学者や心理学者が「悪」について論じているのを読むたんび、話のプロットから人物造型まで何もかもパタン化されているようなライトノベルの類ですら、「悪」についてこれほど貧弱な理解はしていないだろうと思わずにはいられない。

そうなる理由は単純で、こうした「作品」の世界では、「悪」とは何かを「論じる」ということはしないし、する必要がないからだ。論じるということになったら哲学者だってそうそう負けてはいないはずだが、論じることのできない対象となるととたんに言うことが貧弱になってしまう。こんな程度の低いことしか言えないのだったら言わなきゃいいのにと思わなくもないのだが、そういうことではわたしも他人のことは言えない(笑)。

どうせ哲学では扱えない問題だと諦めてしまってもいいのだが、そう簡単に諦めきれないのは、「悪」そのものもそうだが、「悪」に関する哲学的な理解の貧弱さは、我々の文明社会では科学技術を媒介して現実の「悪」の形態にも間接的な影響を及ぼしてしまうところがあると、わたしが思っているからだ。優れた作品は「悪」のイメージを読者の内側に喚起させる作用を持つという点では、ほとんどどんな作品でも、最も高度な哲学にまさる力を持っている。けれどもこの力は科学技術の利用が「悪」に傾いて行く場合にそれをおしとどめることができるかというと、必ずしも有効には機能しないのである。早い話が不倫小説が流行ろうと廃ろうと、それは現実の男女関係のありかたにはほとんど何の影響も及ぼさないということだ。作品は読者にイメージを喚起させはするが「論じる」ことはしないというのは、そういう意味だ。

科学や技術それ自体は善でも悪でもありえない。善悪の素粒子などというものは存在しないし、素粒子の属性として善悪があるわけでもない。素粒子のレベルでそれがないなら、物質領域のどこにも善悪は存在しないと言っていい。しかし現実的な問題の解決に科学技術を用いるということは、多くの場合、それを正当化するような文脈を随伴させつつ行われる。そのような正当化のありかたの方は善や悪を含みうる。

わかりやすい例で言えば、いま食品添加物として用いられている化学物質のひとつが動物実験の結果、統計的な推定として発ガン性があると認められたとする。ここまでは科学的調査の問題で、得られた事実は事実である。「統計的な推定として」というところがたいてい省かれて報道されてしまうのはあまり愉快でないと言えば言えるが、この場合「こまけえことはいいんだよ」としよう。そうだとしても、その事実によってその化学物質の製造・販売を禁じるという政策が正当化されるのは、当然ながら特定の文脈を随伴させているわけである。

科学的知識それ自体はそのような政策を正当化するわけではない。ある物質に発ガン性があるからと言って、つまり広義の毒と呼びうる何かであるからと言って、その事実が直ちにその製造や販売を禁じることに結びつくかと言えば、必ずしもそうではない。毒だと思うものは誰も食べないのだから、いちいち税金を使ってそれを禁じる法律を作ったり、ケーサツや調査機関を動員して違法行為を取り締まる必要はないという理屈も、現実的かどうかは別として理屈としては可能である。少なくとも科学的知識あるいは事実それ自体は後者を否定しない。

前者の政策が正当化されるのは、あらゆる選択肢のうちで一般的な福祉の向上に関してそれが最もよく寄与するはずだという文脈が大多数の間で明に暗に共有されていることが前提となっている。さらにこの場合の「一般的な福祉の向上」ということの意味内容もまた大多数の間で共有されていることになっている・・・

・・・と、こう、掘り下げて行くと、だんだん怪しい気配が漂い始めるのである(笑)。

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暴に報いるに悪を(2)

2009年05月04日 | 悪は論じることができない
苦し紛れにシリーズを変えてみたのはいいが、ホントに苦し紛れなので何をどう書いたらいいのか自分でも困ってしまう。

以下、当分はただ思いついたことだけをアトランダムに書くので、どうかするととんだデタラメを書いてしまっているかもしれない。そんなことはありえないと思ってはいるが、閲覧者はくれぐれも真に受けないように願う。

虐待親の「しつけのつもりだった」はわたしには理解できない、理解できないということはそれは「悪」から出たものではない、ということはそれは「善」から出ているのだろうか、というより(経験を超越した)「善」ということの本質がそうだと考えるべきなのか。

そもそもわたしは「しつけ」という言葉自体が大嫌いである。虐待親ではない普通の人が言っているのを聞いても、心を一瞬暗いものが過ぎるほどである。それでも親という人が自分のコドモについて、あるいはペットの飼い主がペットについて言っているうちはまだいい、過ぎったものの方を握りつぶしておこうということになるのだが、そういうのと全然関係ないところで言われているのを聞くと、場合によっては本気でムカッ腹が立つことがある。それはたかだか親子とかそれに相当する関係のあるところでは必然だと言えるだけで、倫理にはなりようがないものだという気がする。「全然関係ないところで」言っているということは個別の関係の必然性から切り離された倫理として言われているということだからムカつくわけだ。

何がそんなにムカつくのかと言えば、それを普遍的な倫理のように言われてしまったら最後、コドモの方はなすすべもないということになってしまうからである。その親が言うことを聞かないコドモの頭を殴りつけるのと、赤の他人が「言うこと聞かないガキは殴ってでも」云々などと言うのは全然別のことだ。

とはいえ、これは「親ならコドモを殴ってもいい、それは愛情だから」という意味でもないことは言うまでもない。なぜならそんな風に言うということは、今度は「それは愛情だから」の方を倫理にしてしまうだけだからだ。その名のもとにどんな暴虐でも正当化されてしまうという意味では一層たちの悪い考え方だ。

そうは言っても、ただ単に気に食わないガキだという理由でその親がコドモを虐待して殺してしまうようなことがあっていいのか。誰もいいとは言わないだろう。

「悪」の考えからすると、虐待されているコドモの方が自分の意志で「社会という暴虐」を呼び込んで対抗することは是としなければならない。それは悪魔にタマシーを売るのと同じで、敵をやっつけた後は自分の方が(しばしば一層惨たらしく)貪り食われることになるのだ、などと言ったところでどうしようもない。わが身が深刻な危機に晒された時は誰だって手元に転がっている武器になりそうなものは何であれそれを手にして応戦しようとする。どういうものかそんな時に限って、たまたま手にしたものは妖刀村正のたぐいだったりするだけである。

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暴に報いるに悪を(1) 「しつけのつもりだった」

2009年05月03日 | 悪は論じることができない
どうも話が前後してしまう感じで、こっちを先に書いておくべきだった。虐待親のニュースで決まり文句のように出てくるこのセリフが、以前からわたしにはまったく理解できないわけなのである。専門家でも何でもいいから、誰か俺にあれはいったい何なのかを説明してもらいたいものだと、以前からずっと思っていて、しかし当然ながら一向にそんな説明はなされたことがない。そういう中で専門家まではぐらかすようなことを言っているのを見かけると、ちょっと文句を言ってみたくもなるというわけである。

このカテゴリで時々言っているように、わたしは他人の中なる悪についてなら、そこにだけ自分を見出すという形で相応に共感することが(そうと望んでいなくてさえ)できてしまう。だから、たとえば虐待親がケーサツとかでとっちめられた挙げ句「うるせえ、殴ったらスッとするから殴ったんだよ」とか、開き直って言ったりしたのなら、その料簡を肯定はできなくても(できるわけないだろw)了解することだけは容易にできる。なるほど、それはさぞかしキモチがよかったのだろうな、と。

そういうわたしにとってさえ「しつけのつもりだった」というのは、まったく了解不能な言い分なのである。言いかえればそのセリフは、その虐待親の「悪」からは出てきていないのである。

「悪」ということのディテールに少し踏み込んで言えば、我が子を虐待して殺してしまったことの言い訳にしては、言い訳にすらなっていないではないか、ということである。いくら虐待親に知恵が足りなくたって、言い訳するならもうちょっとはましな言い分がいくらでもあるわけだ。コドモが粗相をしてそれが度重なることに我慢がならなかったのだとか、そんなこと言ったからって世間が許してくれるわけではないが、だいたい何があったのかは了解できてしまうという意味で、言い訳にはなるわけだ。幼いコドモは粗相するものであるし、そうあってほしくない時に限ってそれは度重なる(マーフィーの法則!)はずだ。そういうことなら、たいていの大人は親として、あるいはかつてのコドモとして、大なり小なり身に覚えがあるはずのことだからである。

だいたい「しつけのつもりだった」と言って、ご本人はどうしてそれが「しつけ」だなどと思えたのか。仮にそれが「しつけ」だったら、虐待親自身がその親から殴り殺されたり餓死させられたりしているのでなければ理屈に合わない。自分もされたことがない(されていたら死んでいる。死んでいないのがその証拠だ)はずの暴虐を我が子に対してはやってのけ、それも「しつけ」なのだというお墨付きを、彼らはいったいどこから手に入れたつもりでいたのだろう?

いくらこの社会が暴虐的だからと言って、我が子を殴り殺すようなことがしつけなのだと集合的に仄めかす(単独で仄めかすバカはいない)ところがあるほど暴虐的だろうか。いくらなんでも、そんなことはないはずだ。暴虐的な社会としては、コドモは親に殴り殺されるよりは、ちゃんと育ってくれた方がいいに決まっているわけである。社会に出る前に親に殴り殺されてしまったりしたら、あとで社会の方がその生き血をしこたま啜りあげることも、できなくなってしまう。社会の出先機関である政府なんかにしてみたら、年金税金健康保険も払ってもらわないとコマル。

そう考えると、ひょっとしたら虐待親の、自身でさえ意識していない本音とは「我が子を殺していいのは俺達だけだ。お前らなんかにこの子の(ある意味では俺達自身の)生き血を啜らさせてなるものか」ということであったかもしれな──いやいやいやいや、さすがにこれは無茶すぎる(笑)。こういうことは妻子ある人が言う前に独身者が勝手に口にすべきことではないという意味で無茶である。だが、このくらい無茶なことを考えてみない限り「しつけのつもりだった」とは、わたしにとっては理解したつもりにもなれないような、そのくらいわけの判らない言葉なのだということである。

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intermission: これはいかん

2009年05月03日 | 悪は論じることができない
土曜日の本はアレだったが、実は昨日はネット通販で注文していた本がたくさん届いていた。以前もちょろっとだけ言及した、DV(家庭内暴力)の加害者臨床をテーマとした本のいくつかである。「悪」の考察をやってるうちに、悪に言及して「暴力」に言及しないというのもおかしなことだと思ったから、参考になりそうなテーマと本を探して、まずはいろいろ読んでみようというわけだ。

で、まだ届いたものの半分くらいしか読んでいない(都合4~5冊見つくろって買ってみた)のだが、すでに「これはいかん」という感じが募ってきている。ある程度予想はしていたことだったが、やはり全然実感が湧かないのである。一例を挙げてみる。

幼児が頭蓋骨陥没の重傷を負ったというテレビのニュースを見ながら、多くの人たちは、「あの親は子どもの頭を殴りつけるときに虐待だと思っていないのだろうか」といぶかしむだろう。「はい、思っていません」、これが答えである。ではどう思っているのだろう。「なんとも思っていません」がその答えだ。殴りつけるその行為に、名前など付けてはいない。ごはんを食べながら私たちは、おいしいかまずいかと判断したり、よく噛まないと消化に悪いと思うことはあっても、「自分は今食事を摂っている」と自覚をしているだろうか。

信田さよ子「加害者は変われるか?」筑摩書房、p.48

念のため断っておくと、わたしはこの本やこの著者のカウンセラーとしての業績にケチをつける気はまったくない。この著者は現に多くのDV加害者/被害者と向き合ってカウンセリングをやっている人物である。そういう世界とは関係ないわたしがそれにケチをつける資格などあろうはずがない。そういうことでは凄まじいことをやっているなと感嘆させられるばかりだ。ただ、わたしが上記引用のようなくだりを読んでいて「これはいかん」と感じた、というこの感じを閲覧者に共有してもらえるなら幸いだというばかりである。

これは「書評」ではないので単刀直入に言ってしまう。こんなことこんな風に言われても、現にDVにかかわっていないわたしには、この記述は、それがいったい何なのかを理解しようにもできないのである。たとえば「『なんとも思っていません』がその答えだ」といったこの著者の記述が、実際にそう判断できそうな(虐待親の)振る舞いの観察があってのことなのか、それとも単にこの著者がそう解釈しているだけなのか、それからしてわからない。

後者であっていけないわけではない。「そのときどう思っているのか」ということは文字通り内面的なことだから、当の加害者がよほど優れた表現の持ち主でもない限り、このあたりのことを外的な振る舞いの観察からはっきり証拠立てて言うことはできないだということは当然ありうる。わたし自身、事象の機能的と現象的の区別もなしに二言目には「エビデンスを」などと回りもしない口で言い出すがごとき愚かな実証主義を主張したいのだったら、こんなblogはやっていない。

ただ、そんならそれで、この解釈に説得力があるかというと、ないと言わざるを得ないのである。専門家である著者にとってもこれが精一杯の解釈なのだとすれば、わたしはないものねだりを言っていることになるのだが、仕方がない。

誰が読んだってないだろうと思う。なるほど我々は食事している間に「自分は今食事をしている」と自覚することは──ずっと飢餓状態に晒されて、ありつけると思っていなかった食事に偶然ありつけたというような、劇的に例外的な場合を別にすれば──おそらくほとんどないであろう。しかし食べ終わってから「あなたは食事をしていましたか」と問われて「いいえ、食事とはいったい何のことですか」とか「しつけのつもりだった」などとは、錯乱しているのでなければ言わないはずである。

わたしなりにこの箇所に精一杯の理解を与えてみるとすれば、「殴りつけるその行為に、名前など付けてはいない」というのが本当のことだとして、名前をつけていないということは何とも思っていないということを直ちに意味するわけではない、ということを指摘すべきだろうか。心的内容というほどのものは大部分──心においてはその部分とか全体という概念すら成り立つのか怪しいものだが、この場合は「こまけえことはいいんだよ」と言おう──名付けようのない何かで構成されているものである。

悪は論じることができない。同様に我々は暴力もまた論じることができない、と言わなければならないのだろうか。我々はいったい何であれば論じることができるのだろうか。

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悪は論じることができない(8)

2009年05月02日 | 悪は論じることができない
男女平等で結構だとは言え、職場からヌードグラビアが消えたかわりに別の何かが改めて加わったというわけではなかったことも確かである。

こういうのって人によってはさぞかし愉快じゃないんだろうなと思っていたら、それどころじゃない、職場の女性の髪形をホメたりしてもセクハラだと言われるようになった。わたし自身は身近な女性の髪形なんかをホメたり貶したりする習慣がそもそもないので、それでも実害はなかったのだが、そうなってくるとさすがに不愉快を感じたのを覚えている。全部この手でやられたら、というか、これが通るなら通らないものを考える方が難しいくらいのことではないか。そのうち男は仕事なんかできなくなるんじゃないだろうか。

・・・まあ、別にいいか。それだけ人生に占める仕事の位置が低下して、そのぶんだけ遊ぶ余裕がある世の中になったというか、これからなるというのなら、それはそれで結構な話ではなかろうかと思わないでもなかった。バブルが崩壊するかしないかの頃である。

それから20年経って何がどうなっているかと言えば、これはもう誰しもご存知の通りメチャクチャのことになってしまったわけである。仕事の位置は低下するどころか、ある意味では以前にも増して個々人にとって重大なことになってしまっているわけだ。わたし個人のことばかりではない。少なくともこの20年の間に、以前よりは非生産的な領域がこの社会の中で増大したのかと考えてみると、そんな印象はちっともないわけだ。

計算機屋の間でさえ、以前だったら「テクノロジ」について話をすることが専らであったものが、今ではどいつもこいつも二言目には「スキル」の話ばかりするようになっているわけだ。そんな目先のことばっか気にしていてこいつらは楽しいんだろうかと思わずにいられない、が、まあ衆寡は与しないというべきところだろうか。今や専門の計算機屋にとってさえ計算機は単なるメシのタネにすぎなくなって、エンジニアが夢を描いたり語ったりすべき対象ではなくなったのだろう。いかにも、こんなものはもとよりただの道具である。そんならそれでよろしい。で、そうだとすると、彼らの夢は計算機以外のいったいどこへ移転して行ったのであるか。

それは端的に行方を断ってしまった、つまり事実上死んでしまったのではないだろうか。わたしにはどうも、実感としてはそうとしか思えないのである。

数年前、それは日曜だったか、風邪ひいて会社を休んだ日のことだったか忘れたが、昼間からぼんやりしたアタマでテレビを見ていたら、ドイツの街の路面電車か何かを紹介する番組をやっていた。わたしは鉄オタじゃないから、電車の方はまあ結構な電車だと言うだけで何ということもなかったのだが、その番組はある家族の日常風景と路面電車という設定で構成されていて、むしろその家族の日常の方に興味を引かれた。昭和の人間だから、ガイジンさんのすることには好き嫌いを超えた興味があるわけなのだ。

そうすると、その家族はたとえばある休日にはその路面電車に乗って終点の街にある評判の店までアイスクリームを食べに行ったりするのである。わたしは呆然として、しばらく開いた口が塞がらなかった。この家族は休日に家族が揃ったからというとアイスクリームを食べに行くことしかできないのだろうか。それがたまたま、この家族にとっては何か特別な意味を持つアイスクリーム屋だとか、実はこれがこの家族か地域社会にとって象徴的な何かが込められている習慣なのだというならともかく、そんなんも何もない、ほかにすることが何もないから仕方なくアイスクリームを食べに行ったのだとしか思えないわけである。

本当はそうじゃなく、あの番組全体がそう作っただけの全編ヤラセであったのかもしれない。なんたってNHKだし、油断も隙もありゃしないというやつだ。しかしそうなら、いやむしろそうであった方がなおさら、脚本家はいったい何を思ってこんな空虚そのものの話を書いたのであるかが判らない。

この家族ばかりではなく脚本家の方も、本当は何も書くことがないので仕方なく、路面電車と任意の家族と、あとはその取材の過程で聞き込んできた、沿線で評判のアイスクリーム屋をくっつけ、何の中身もない空虚な話をでっち上げたということにならないか。そしてこんな無内容な脚本にOKを出したスタッフは、これまたどういう料簡であったのだろうか。脚本がヘタだとか演出がボンクラだとかいうのとはまるで別の意味で、これはちょっとどうしようもない番組になってしまっているではないか。

書いてるうちにもはや「悪」の話でも何でもなくなってしまったわけだが(笑)、強引に言ってしまえばつまり、もともと職場にあるべからざる何かであった、その意味では微小な悪徳ではあったヌードグラビアが事実としても消失したのは、ある意味自然の成り行きだったと言ってもいいわけだが、本当はそこにはただ自然の成り行きに任して、消えるがままにすべきではなかったことが含まれていたのではないか。

我々はそれを何気なく、あるいは別段問題などなさそうな穏当な社会理念に基づきながら壊したことで、休日にせっかく家族が揃っても、ただ意味もなくアイスクリームを食べに行くというような、わけのわからないテレビ番組を作ったり、それをただ呆然と眺めたりしているようなことしかできなくなってしまったのではないだろうか、ということである。

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悪は論じることができない(番外)

2009年05月01日 | 悪は論じることができない
とりあえずこっちを続けるか。しかしそろそろシリーズの題名は変えたいな・・・ただの雑談カテゴリになってるし。

GWだというのにどこへも行かず、メシ食う時以外は部屋に閉じこもって、せっせとblogの更新に励むほかはニコ動ツマミに酒飲んでるだけだとは、ずいぶん寂しい中高年だなwwとか嘲笑われているような気がする。まあワカモノから見ればそんなところだろう。

でもこういう世の中だったら、金に困ることさえなければ、本当はヒキコモリが一番楽しくて、日々も充実して過ごせるはずだと思う。まあ現実には、たいていのヒキコモリは十代や二十代か、そうでなくても無職のニートを兼ねている場合が多いから、心はいずれ来るハメツの日の予感におののくばかりで、ちっとも楽しくはないということになるわけだ。

・・・などと書いていたら突然、前回の続きは一時中断してでも以下のようなことを書いてみたくなった:
(ということで以下は番外篇である)

これはヒキコモリの人で「働くのが嫌だ」というタイプの人に限った話だが、ごく単純に考え方を変えてみることも、一度はやってみるべきだと思う。「生きて行くためには働かなければならない」という当為として考えるから嫌になってしまうのだ。そんな風に考えたりしたら、普通の大人だって明日っから会社なんぞは無期限無断欠勤である。誰があんなアホらしいことにつきあっていられるかと思えてきてしまう。

そうじゃなくて、言うなれば、俺は敢然と月給ドロボーに行くのだと考えるべきなのである。ドロボーというのがあれだったら売掛金の集金だと思えばいい。これは、ツボにはまれば結構行けるはずである。どんなヒキコモリの人だって「金は欲しい」というのが普通だろう。動機づけはそれだけだ。その①「金くれ!金!」という明晰かつ判明なる(笑)動機、②動機に沿って合理的な手練手管を編み出し実行すること、そして③そうと意図した通りに金が入って来ること、この3ステップが思い通りに運ぶこと、これこそは最もキモチのいいことなのである。してやったり、人生冥利に尽きる瞬間だと言ったら、いささか大袈裟か。

「働きだしたら一生損」なんて嘯(うそぶ)いては日がないちんち寝て過ごしているのも悪くはない。心得違いしなければ結構楽しい毎日だとは、最初の方で書いた通りである。しかし自分の才覚ひとつで世間様からカネをひっぺがしてくることの面白さを知りもしないでそう嘯いているだけだったら、それはやっぱり自己欺瞞でしかない。ただの負け犬、すっぱいブドウの論理である。やるだけやって、それでも飽き飽きしたということになったら、その時こそは晴れて寝たきり後半生の道を往け、である。

もちろん蛇口をひねるように簡単にできることではない。難しいのは②→③が必然的と言えるような①→②を実行することである。そこが一番知恵を絞らなければならないところで、また、とことん絞ればいいことだ。つべこべ言っても世間というのは、経験不足のワカモノを食い物にしてやろうと手薬煉引いて待ち構えている何かだ。ワカモノの生き血を啜り上げるために種々の社会装置が存在するのだと言って過言ではない。これは不況とも格差とも関係のない、社会の本質に近いことである。要は別の生き物なのだと思っていれば間違いない。断じてそれらのいちいちの強力さ周到さをナメてはいけない。必ずやその上を行くというところまでは自力で考え込まなければならない。ただ①→②の間でいくら知恵を絞っても、その利益が他人に奪われることは決してない。最初から最後まで自分のアタマの中にしかないことだからである。

どうだろうか。こんなことは親も教師も、職安や就職相談所の小役人達も、決して教えてくれはしないはずである。この手はどうかと尋ねたところで、言下に却下されるのがオチだろう。なんというか、どこか不謹慎な料簡の印象があるからである(笑)。べつに、違法なことでもなければ不道徳なことでもないのだが、世間の大人と一般常識は決してこの種の不謹慎を口にしないし、肯定もしない。番外編とはいいながら、実はこれも、このカテゴリで扱おうとしている(そしてやっぱり扱いかねている)悪の一端にかかっている一例なのである。

ちなみにこの料簡でいると一番いいことは、月給ドロボーに飽きたらすぐやめて、もとのニートに戻れることだ。別に辞表を出さなくたって、実は普通に有給取って数日休めばいいのだということも、次第に単独で合理的に判断できるようになる。周囲の事情なんか知ったこっちゃない、すべては俺様に金が必要だからやってるわけだ、と言っていて嘘にならないからである。

そして一番よくないことは、こういう不謹慎な料簡の男と結婚してくれる女性は、よほど経済的に成功しない限りは、まず絶対にいないということである(笑)。何にしろ絶対の方法というものは、ないのである。

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悪は論じることができない(7)

2009年05月01日 | 悪は論じることができない
・・・(ネタ帳を眺めながら)これって本来このカテゴリじゃないような気がするんだが、なぜだかメモにはここに分類されているので、ここに書いてしまう。書いてるうちに思い出すんだろ。

昔は男の職場と言ったらたいてい、ヌードグラビアの一枚や二枚、あるいはそれをカレンダにしたものが必ずあったものだという記憶がある。もちろんAVの制作オフィスじゃあるまいし、仕事場でそんな大々的に貼り巡らされたりはしていないのだが、誰かのデスクの片隅に何気なく貼ってあったり掲げてあったりしたわけである。

そんなに古い話でもないわけだが、しかし奇妙なことに一番古い記憶は小学生くらいの頃のものである。わたしは父親の職場に足を運んだことがなかった(これは間違いない)し、第一小学生のガキがそんな大人の職場に足を踏み入れることなど普通はありえなかった。実際、女子供の入ってくるような場所ではないからこそ、その手の職場にはヌードグラビアがあったりしたわけなので、いったいどこでそんなものを見たのやら、どうもそこらへんは記憶がすこぶる曖昧だ。

ともあれ、コドモやワカモノだったころのわたしはそういうのを好ましいと感じていた。自分の部屋でAVとか見ていてもあんまり愉しいとは思わない、そこらへんは今時の二次オタのワカモノの人と大差がない、見ていてうんざりすることが多かったのだが、本来仕事場にあるべからざるものが何気なく置かれているような場合は、アニメ絵なぞより断然そういうものの方がいいわけなのだ。べつだん隠してあるわけでもない、周囲もマァこのくらいはいちいち構うまいと黙認していたのであろう、親和的な気配の感じられることが、ワカモノのわたしには好ましく感じられたのであったに違いない。

しかし最後にそうしたものを見かけたのは、最初に大学生をやっていたころ、プログラマのアルバイトをやっていたデザイン事務所であった──なんでデザイン事務所にプログラマのアルバイトの口があるんだと思うだろうが、そういう時代だったのだと思ってもらうよりほかにない。で、それ以後は、つまり自分が働くようになってみると、どこへ行ってもそんなものはとんと見かけなくなってしまったのである。要するにちょうどそのあたりから女性の社会進出ということが建前だけのかけ声ではなくなって、次第にどこの職場でも女性の姿を見かけることが当たり前になって行く時期に重なっていたのである。そうすると真っ先に姿を消す運命にあったのが、そういう「本来職場にあるべからざるもの」達であったということなのだろう。

今のうちに言っておくが、わたしは別に「だから女性の社会進出などというのは面白くないのだ」というようなことは、まったく言うつもりがない。そういうことではむしろ、コドモのころから男女は平等であれかしと思っている方である。別にキレイ事の話ではなくて、男女サベツの残っている世界では、女性は大なり小なり得体の知れない怨念のオーラを纏っているもので、わたしはコドモのころからそれがひどく苦手だったのである。今でもたまたま用事で出向いた先のオフィスで、古典的なOLのおねいちゃんのような人からお茶を出されたりすると、このお茶ほんとに飲んで大丈夫なんだろうか、毒とか入っていたりするんじゃあるまいかと、内心では一瞬疑ってしまうくらいなのである。

「バカだなァ、そういう怨念の毒がちょっぴり混じっていそうなところがいいんじゃないか」と、これまた古典的な管理職オヤジの人から嗤われたことがあって、ははあ、それはそれでもっともだ(笑)というか、お茶にときどき雑巾の絞り汁が混じっていても知らん顔して飲み干してしまいそうな気配がその管理職オヤジの人にはあって、本当にそうなら見上げたものだと思ったわけだが、そうは言っても個人的に苦手なものは仕方がない、真似できるようなことではないのである。

逆の例を挙げると、これは今でも、ほとんど憤懣やるかたないといった調子で、十代の女の子達が友達どうしで交わしている言葉の口汚さに怒っている人がいるものだ。携帯電話の話と同じ理屈だが、わたしにはあれはちっとも腹立たしくない。そこで罵られているのが自分のことだったら血相変えてオコルだろうが(笑)、たいていは親か教師か、クラスや部活でムカついた誰それの話である。要は古典的なサラリーマンが飲み屋でクダ巻いてる時の口汚さと大差はない、それで鬱憤を晴らしているわけである。そんなことで他人のことが言える奴が、そんなにたくさんいるとは思わない。第一「美しい日本語」がどうとか言う奴に限って、ご本人の使っている日本語たるや、ただ古臭いだけで美しくも何ともないことが多い。人に文句を言う前にまず自分の言葉を美しくするがいい。

美しい言葉と言えば、わたしはまたキレイな字を書く人も頗る苦手である。こんなキレイな字で書かれているのだから、どうせ中身は嘘に決まっている(笑)と思うわけである。また実際読んでみればたいてい大嘘である(笑)。これは真面目な話、人が手で書いた文字には、上手下手にかかわらず途轍もない怨念がこもっている。キレイな字を書く人は、表層的にはそれを抑圧しているだけに、文面からは深層のドス黒さがいっそう際立って感じられる。その日一日立ち直れないくらいのダメージを食うことがある。だから若いころ自分でラブレターを書いたときは、迷うことなくワープロで打って相手に送りつけたものだった。相手はかえって肝を潰してフラれてしまったのだけれども。

・・・ちょっと無駄話が長くなりすぎているので、いったんここで切る。

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悪は論じることができない(6)

2009年04月30日 | 悪は論じることができない
このblogに貼りついて、あるいはRSSとか何とか(正直よく知らん、どうでもいい)の設定で更新されるのを待ってる奴がいるとは思わないのだが、万が一にもそんな人がGooglebotさん(笑)の他にもいたとしたら「いったい何時間メシ食ってんだYO!」とか思っていたに違いない。

もちろんメシ食った後にネット書店を巡回したり、ニコニコ動画でお気に入りの××動画を眺めたり、眺めながら酒飲んでて、そのまま眠りこけたりしていたわけである。そんなことしながらでもアタマの中では素人哲学がちゃんと続いていて、次に何書こうかと律儀に、というか健気に考えていたりするわけだ。

ネット書店で探していたのは主としてDVの加害者臨床とか、そういう話である。それについて何か書くことがあるかどうかは、まだ読んでもいないことでわからない。少なくとも今のわたしはDVの当事者にはなりたくてもなれない(いや、なりたくはないよ、当然)独り者で、まるっきり無縁の世界だが、この手のネタがここで扱おうとしている悪にかかわりを持っていることは確かである。

以前にもちょろっと書いたような気がするが、こういうネタでは加害者が一方的に悪人だということにされてしまう、のは仕方がないとしても、加害者は端的に悪人だという以上のことは何も言われない場合が多いわけである。それが結果として、心理療法とかそっち方面の文献のすべてに不吉な影を落としているのを、わたしは指摘しないではいられないのである。たとえば、昨日もいろいろ検索している途中でこんなページがあるのを見かけた。その中にいわく

・・・加害者の心理療法には、通常の臨床とは異なる方針が必要なことが分かっています。この研修会では、加害者の行動と認知の変化を、あらゆる加害行為に対し徹底して責任をとることに収束する、新しい心理療法の体系を提供します。(中略)加害者の心理機制を理解し、彼らの自己防衛を巧みに揺さぶり、丹念に解体していく多様な技法を学びます。・・・

わたしはこの団体の活動や何かについて何も知らない。だから上引用に書かれていることの意味内容についてつべこべ言うつもりは、まったくない。ただ、こういうところに「不吉な影」が字面上で顕在化しているとは思わないという人と、わたしは話をしたくはない。



わざわざ別の記事を立てるのも何なのでここに書いてしまう。ちかごろ辺見庸の本で検索して来る人が多いなと思っていたら、googleだとわが感想文(4/4)がやたら上位に来てしまうようだ。「悪口しか書かない」ってわざわざ断ってる感想文を上位にしないでもらいたいものだが、googleなんぞにそんな知恵があるわけもない。まあ、こっちはこっちで逆に、辺見庸氏の人気ぶりを改めて知ることになって驚いている。

辺見氏の間違いは(ってまた悪口かよ)911の後に出した著書で「米大統領ブッシュは私の敵である」みたいなことを言い出したことだとわたしは思っている。ジャーナリストってのはこれだからいけない。なんでブッシュなんだ。それを言うなら、そのブッシュに日本を売っ払いやがった「宰相小泉は私の敵である」と言うべきだ。そう思っていささか幻滅したのを覚えている。二言目には身体々々言うくせに、観念でしか観えるはずのない米大統領に宣戦布告して何する気よ?

第一、ブッシュがほんとの敵なんかであるわけがない。ほんとの敵はたとえば、この辺見氏が地下鉄サリン事件の現場にたまたま居合わせて倒れた人を介抱しているさなか、その手にタバコがあったのを見咎めて難癖つけてきたというオバハンの、そのはるか延長線上の彼方にいるわけだ。その彼岸で状況を操っているのが「米大統領ブッシュ」のごとき人物だとは、わたしは思わない。辺見氏とても思わないだろう。変な国際政治学のようなものを夢寐にも忘れることができない団塊ジャーナリストの宿痾だわな。

そういうドジなことばっかりやってる辺見氏が、しかしどうもわたしは憎めない。こういうのもドジっ娘萌えというのだろうか。まあ、ドジっ娘を演じさせたらもっちー(望月久代)に敵うものなどいないけどな!

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悪は論じることができない(5)

2009年04月29日 | 悪は論じることができない
もともとは単純な話なのである。仕事で忙しくしているとこんな単純なことも、いざ書こうとすると言葉が出て来なかったりする。それがGWになったとたん、何でもなく書けてしまったりするのだから、やっぱり人間にとって仕事というものは(賃労働とか家事労働とかは)心身の双方にとって悪いのである。

要は悪を論じようとしても、論じる中身も、また論じる姿勢も、すべてがごくごくつまらないインチキだということが、すぐに自分でわかってしまうということだ。アタマの中でこんな声がする──

「悪とはなにか」だって? そんなもん簡単じゃねえか・・・今すぐそこらの店に行って万引きでもしてくればいいんだ・・・たったそれだけのことで、悪が何なのかはすぐわかるってものだ・・・おやおや、できないのか? はっは、さすがは博士中退様だ・・・だったら言葉で何言ったって、みんな嘘でしかないのは明らかだ・・・言ってみればそれは、泳ぎ方とか自転車の乗り方とかを言葉で説明するようなものだ。そんなんで泳げるようになったり、自転車に乗れるようになった奴はいない。そんなものは字面だけ、読めばもっともらしいと感じるだけの大嘘だ・・・こんなことは、俺の方からは全部お見通しの丸見えなのさ・・・クソ野郎が、地獄に落ちろ!

ま、そういうことだ。たったこれだけのことを書くのに、なぜか言葉が思い浮かんで来なくて、都合4回分も関係ない話を書いてお茶を濁し続けてきたというわけだ。

さて、言葉で上記の「アタマの中の声」に反論するのは簡単なことだ。なるほどこの声の言う通りなのだが、当然ながらこの声もまた喋っているのはわたしなのだ。つまりわたしは「今すぐそこらの店に行って万引きでもしてくれば、悪が何なのかはすぐわかる」ということを、なぜか実際にやらなくても知っているのである。しかもこれが全然疑わしくない、デカルト的な明晰さとまでは言わないまでも、それに勝るとも劣らないほど明晰かつ判明なことなのである。

もちろんわたしは、生まれてこのかた万引きなんかしたことはない。わたしのことだから、べつに万引きが悪だからしなかったのではなく、手先があんまり不器用で、やればたちまち捕まってしまい、ひどい目に会わされるのがわかりきっているからしなかったのである。

まあともかく、素人哲学としてはまず、なんでそんなことを、それこそ一度もやったことがないのに自分が知っていて、しかもほとんど疑う余地がないと思えるのか、そこから考えて行くことになるわけである。

トーダイの准教授のセンセイも告白していた通り、たとえば受験優等生のような存在にとって、受験ゲームを勝ち抜いて世間様からエリートと呼ばれるようになる、そう呼ばれるところの「エリート・コース」──まったく、あんなものは、ただそう呼ばれているだけのものだ──から外れることは、それを考えてみるだけでも背筋が寒くなるような恐怖感のすることである。わたしも過去にはそうした恐怖を味わった。そしてついでに、実際にそこから外れてしまった後の、拍子抜けするような何でもなさも経験してきているわけである。

実は「万引きでもしてみりゃすぐわかる」というのも、ある意味ではこれと同じ種類の嘘なのである。そんなものやったところで何かがわかるわけでは、おそらくないであろう。せいぜい、世の中の人々のほとんど──もちろんこのわたし自身も例外ではないはずだ──は、相手が悪だとわかったとたん、驚くほど明瞭な形で手の裏を返すようになるということが、手の裏を返される側の実感を籠めてわかるだけである。

ただ、この実感に含まれているところの「理不尽さ」の感じが、おそらく悪ということと強い関連性を持っているに違いないこということを、わたしは直観的に理解しているようなのである。

わたしは万引きのようなはっきりした行為に手を染めたことはないが、それとよく似た形で周囲の全員から手の裏を返されるような仕打ちを受けたことなら、数え切れないほどたくさんある。別にものものしい話でも何でもない、それはたとえば、何かつまらない冗談を言ったとたん、周囲の顔色がさっと変わったというような経験のことだ。いわゆる「空気の読めない」性質というやつで、本当は不安をおし隠していて、ただそれを口にしていないだけの、そういう周囲の心情を気遣うこともしないまま、えげつない冗談を飛ばす癖がわたしにはあるので、そういうことはコドモの頃からしょっちゅう経験してきたわけである。

そういうことを何度か経験すると、経験するたびに思うことは、日常性とは連続性や可換性(可逆性)のことだということである。「言っていいことと悪いことがある」という。あれはそもそも何がよくて何が悪いのかと言ったら、心情の連続性や可換性(可逆性)を保てなくなるような段差(不連続性とか不可逆性とか)をそこに導入してしまうということが「悪い」のである。まさしく、それは文字通り「とり返しのつかない」ことだというわけだ。

逆に言えば、字面上はどんなに悪いことであっても、たまたまそれが心情の連続性や可換性を断つようなことでなかったとすれば、世間はそれを気にしないのである。

「悪は論じることができない」とは、仮に悪ということの本質がこのような不連続性や不可逆性ということであったとすれば、何かを論じるということもまた思考や論理の連続性や可逆性を保ちながらそれをするということが本質なのであってみれば、そこに不連続面や不可帰還点(point of no return)を持ち込んだとたん、それは論ではなくなってしまう、つまり悪についての論考は論考として本質的に実行不可能である、ということを意味しているわけである。

・・・あー腹減った。続きは飯を食ってからだ。

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悪は論じることができない(4)

2009年04月28日 | 悪は論じることができない
休日出勤に徹夜まで重ねた割には成果がはかばかしくなくて、今夜のわたしはいささか機嫌が悪いのである。

盛大に悪口書くつもりだった本も、まあなんかこれで許しちゃえという感じになってしまったし・・・まあ、明日(あ、もう今日か)一日行って帰ってくればGWである。こういうとき携帯電話を持っていないのはホントに結構なことである。どう転んだって休日中は誰もわたしに連絡は取れない。小人閑居して不善をなすというが、要は不善は愉しいことなのである。

ネカフェ通いのことを書いたとき、ネカフェの店内の雰囲気を「世界最低級のだらしない女の部屋に迷い込んだような」と形容したのが、実は自分でもいたく気に入っていたりする(笑)。小学生のころ、テレビに出てくる女優さんで一番好きだったのが、当時売り出し中の桃井かおりだったと言えば、わたしの好みはだいたい判られてしまいそうな気がすることだ。

べつに、だらしない(雰囲気の)女性が好きだというわけではない。あれは誰の詩だったか忘れたが、男にとって理想の女性というのは、たいがい「馬鹿さ加減が/丁度僕と同じ位で」(いま思い出した、黒田三郎の「賭け」だ)という女性であるわけなのだ。わたしの場合は、だから単にわたし自身が途方もなくだらしないので、異性もそれに見合った感じが漂っている方が好ましいというだけである。

何をつべこべ言っても男の方は必ずやそうなのだが、しかし言ってみればそれは、女性をバカさ加減の程度でしか見ていないということでもあるわけだ。そして、これはこれで不思議で仕方がないことだが、そういう態度を素振りでも見せたりすると、女性というのは必ずオコルのである。顔色を変えるというか、ほとんど額に青筋立ててオコル。アタシはあんたみたいなバカじゃない、というのである。・・・それはまあ、その通りだ。確かに、そういう女性はわたしほど、またたいていの男ほどバカではない場合がほとんどである。

しかく女性一般の価値観からすると、男はバカであるよりはバカでない方がいいということになっているようなのである。いいかえると、ほとんどすべての女性は、自身がバカであるか否かにかかわらず、一様に教育ママの因子を、その遺伝子セットの中に内蔵させているとしか思えないのである。あれはいったい何なのだろう。

京大卒の東大准教授の人ほどではないが、わたしはわたしで、十代のころはそれに随分苦しめられたものであった。もちろん自分の母親だけではない、クラスの中の女子生徒がひとり残らずその因子を持っていることに、小学生のある日否応もなく気づかされたということがあった。そういうことは、なぜだかいつも唐突に、わたしにはわかってしまう。むろん喜ばしいことなんかであるはずがない、コドモのわたしは目の前が真っ暗になった。

本当はそれこそがこの世の諸悪の根源なのだと言いたい気さえ、わたしはするのだが、言うと世界中の女が烈火のごとくオコルに決まっているから、めったなことでは言えないのである。

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悪は論じることができない(3)

2009年04月25日 | 悪は論じることができない
この題名の意味するところくらいは説明しておくべきだろうか。説明できるくらいなら、それは論じることができると言うようなもので、だからたぶん説明にならないわけだが、無理してやってみる。

悪は論じることができないと言って、個別の悪なら誰でも何とでも論じることはできる。クサナギ君は酒に酔っていたのだろうが、公園かどこかで全裸で駆けずり回ってうっひょいひょい♪とかやっていたら、そらケーサツに通報されて現行犯タイホされても仕方がない、だがべつだん悪ではないだろう、とか、酒に酔っていてもいなくても、発言を訂正してもしなくてもハトヤマはチルノに算数教わった方がいいようなレベルのバカだとしか言いようがないが、バカがバカなことを発言したからといって、それが悪かどうかはにわかに定めがたい、とか、ただこんなバカを大臣にしている政権、バカを御輿に担いでいる行政、その背後にいる党派やマスコミ、各種の利権団体は絶対的に悪であろう、ただ悪だからと言ってケーサツにタイホされたり死刑になったりするわけではない、それは関係がないのだ、などと言うのは簡単なことである。個別のことに個別的な感想を言うだけだからである。

しかしこのblogは素人哲学をやろうとしているわけだ。そういう個別の悪ではない、一般的な意味で「悪とはなにか」を論じる、あるいはそれを論じることが、そもそも実行可能であるかどうかを考えることが素人哲学なのである。プロの哲学もこのあたりではだいたい同じことになるはずである。そうするとそれは、どうも今のところわたしにはできない気がするのである。

さらに、不思議なことに我々はたとえば、一般的な意味での「悪とはなにか」を知らないし、論じることもできないのに、個別の悪については好き勝手に論じて、少なくとも自分では納得了解することができてしまう。これはこれで人間理性(そう、理性だ)の非常に不思議なところである。計算機や計算機を搭載したロボットには、そんなことはできないからだ。ロボットが目の前の光景を悪だと認めることができるためには、一般的な意味で悪とは何であるかの定義がその内蔵された計算機プログラムの中に、完結した記述として存在していなければならない。一般的な定義とその記述がなければロボットは個別的にも判断することができないということだ。

現実のロボットは図形や人の顔を三角形だ四角形だ、怒っている怒っていないなどと判断することができるが、その判断が成り立つ根拠は内蔵されたプログラムにちゃんと書かれているわけなので、そう判断した根拠を知りたければ、そのプログラムを引きずり出して調べさえすれば、手間暇の問題で誰でもそれを了解できることになっている。定義が間違っていれば、間違った定義のもとで間違った判断を下したのだということも了解できる。そして人間の理性や理性的判断とは、これに似てはいるとしても──実際、ロボットのそれは人間のそれに似せて作っているつもりのものなのだから──実は全然違った何かなのである。

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悪は論じることができない(2)

2009年04月23日 | 悪は論じることができない
それらしい切り口が見つかるまでは無駄話を続けるしかない。

「見つかるまでは」なんて言って、ひょっとするとそんなものは絶対的にありえないかもしれないのだ。このテーマはまだ出戻り学生をやっていたころ、十年以上前から折に触れてしつこく考え続けているのに、いまだに何ひとつアイデアも出ないし、手がかりも得られないのである。

実際、このテーマでgoogleでもamazonでも検索をかけてみればわかるわけだが、この手のテーマらしきものを扱った本としては、E・フロムの「悪について」あたりが今でも古典的著作として筆頭に挙がってきてしまう。しかしこれは主としてファシズムの悪について考察したものであって、わたしの関心とはだいぶ違っている。ひょっとするとフロム先生にしたところが書こうとしても書けなくて、書けそうな題材を絞って書いてみたということであったかもしれない。

もう随分前に出てベストセラーになった「平気でうそをつく人たち」など、副題に「虚偽と邪悪の心理学」とあるのに惹かれて読んでみたのはいいが、完全な題名負けのひどい本であった。率直に言うとこの本を読んで得るところがあったなどという人とは、わたしは、可能な限りお近づきにはなりたくないものだと思っている。そんなこと言ってる本人が自分のことを棚に上げた虚偽と邪悪のカタマリであることは、ほとんど間違いないと思えるからだ。要はそういう人達の歓心を裏側から、しかしあからさまにくすぐるように書かれた本で、そんな本がベストセラーになるのだから、なるほどこれは「世もまつだな」と当時感じたものであった。

割合最近の本でよく売れているらしいのは「影響力の武器」だろうか。こちらは面白い本で、でかい厚い本なのによく売れているのも納得できる、ただ、この本は悪というよりは詐欺の手口の心理学である。詐欺は犯罪ではあるとしてもその心理が悪であるとは限らない。他に悪を論じた本というと先年亡くなった河合隼雄の本が何冊かあるが、この人の場合は書かれた本を読むよりも、ご本人の顔をテレビで眺めていた方がよほど悪について考えさせられてしまうわけだ。

それについて論ずるに相応しい大家でもたいして論じることができていないのだから、素人哲学が取り組んだってそうそううまく題材に切れ込めるはずがない、第一慌てたって仕方がない、とはいうものの、微妙に先を急ぎたい理由はあるのだ。いま世の中の表面から急速に、強いて名づけるなら「微小な悪」の痕跡が消失しつつあるからである。おそらくこう書けば「どこにそんな証拠があるのだ」などと言われてしまいかねないくらいに、である。自殺者の統計ならあるが、駅のプラットフォームに撒き散らされたゲロの数まで勘定しているバカはいない。もちろんわたしだって勘定はしていない。ただ近年非常に減っているような気がするというだけだ。

この場合の微小な悪というのは、要するにその程度のことで、人間が普通に日々を過ごしていたらそんなつもりがなくてもある程度は出てきてしまう行為の不規則性、ランダムノイズのようなものである。それが減っているように感じるというのはだから、それが事実であるとすれば、この社会の背景輻射が低下している、つまり社会がそれだけ冷えてきているということを意味している。目下の状況は大変な不景気だから、あたかも社会全般に冷気が漂っているような雰囲気を感じても仕方がないところがあるが、重要なことはこの傾向が昨年来の世界不況の以前から生じていたということなのだ。

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悪は論じることができない(1)

2009年04月22日 | 悪は論じることができない
題名はその通りのことなのだが、たぶん以下の文章は題名とはあまり関係がないはずである。

わたしは自分のことを善人だとは思っていない。思うことができない。コドモのころ優等生をやっていて、周囲の誰からも嫌われていた時期があったからである。わたしは周囲みんなの悪役で、したがって悪役らしく振る舞うことが生きることだと、わたし自身が自分のことをそう考えていた。それが結構長く続いた後には、わたしは善が何であるのかまったく判らない人になっていた。今でも全然判らない。

もちろん、たとえば他人のものを盗めば悪だというのは判る。それが判らなかったらケーサツに捕まって死刑にされてしまうわけだから、要するに生きても行けないわけである。ただ、わたしにとって他人の所有物は、「それを盗むか盗まないかのどちらかであるもの」という風にしか考えることのできないものであることも確かである。つまりこの世界の残余は悪か悪でないかのどちらかだという風には理解できても、善はどこにもないのである。

この性質が、わたしのものの考え方をいくつかの点で普通ではないものにしている。

ひとつは、わたしにとって悪とは素朴に自分自身のことであって、つまり自明のことに属しているということである。それ自体は自明だが、わたしがそれに沿って何か言うとえらいことになってしまう。悪が素朴に自分自身のことだというのは、ほとんどすべての悪の中に自分が住んでいることを、わたしは容易に認めることができるし、少なくとも内心では認めざるを得ないということを、具体的には意味しているからである。わたしが「責任という言葉はただの吊るし上げだ」と言って嫌うのは、屁理屈でも何でもない、まったく理屈以前の反応なのである。責任を問われている人を見かけると、それが誰であれ、わたしは自分の首が絞め上げられているかのような苦痛を感じるのである。

極端に言えば、たとえばわたしが仮にサイバンショのサイバンチョであったとして、わたしは殺人犯に死刑宣告を下すことはできたとしても、その判決文を読み上げることができないのである。

彼はなぜ死刑にならなければならないのか。こいつが死刑になったら、俺はとっても嬉しいからだ(笑)とは言える。実際、それが本当に嬉しいことだったら、わたしは法律とか立場とか関係なしに言ってしまう(わたしは立場という概念が、少なくともその場その場の現実性の水準では、どうも全然わかっていないのである)。あるいは、別に嬉しくない場合でも、ただ機械的に口をパクパクさせてそういう意味の言葉を並べることは、そうと教わって覚え込めば一応できるはずである。

だが、おそらくは判決文にそういう意味のことが書かれているだろう、これこれの理由で彼には責任があるから死刑だとは、わたしは口が裂けても言うことができない。もしもそうなら刑場で殺されるのは、ほかならぬこのわたしだということになってしまうからである。冗談じゃない。殺人犯を法律が殺すのは、もともと国会で青島幸男が決めたようなことで、要するに他人と残余の勝手だが、その罪状のそのまた先にあったはずの悪の中にはわたしが生きて住んでいる。生きてるわたしをわたしが殺すなどということは絶対に認められない。嫌でもいいから言えと強要されたら、そうと強要してきた奴にこそ、サイバンチョたるわたしは死刑を宣告することになるだろう──判決文なし、問答は無用である。

ふたつ目は、だからわたしが何かを考えるとすれば、それはたいてい「悪ではないもの」というような、形を持たない何かになってしまうということである。「Aであるもの」はそれ自体のことで、つまり自明なものだから、いちいち考えるには及ばない。だから、わざわざ何かを考えるとすれば、「Aでないもの」のことを考えていることに、どうしたってなるのだが、一般に「Aでないもの」については、それを考えることはできたとしても、はっきりした輪郭を持った言葉にすることができないのである。これは、実際にやってみれば誰でもわかる。たとえば「山でないもの」という字句を、それと等価な意味をもつように「Xであるもの」の形に直してみてもらいたい。できないはずである。その「X」は求解不能なのである。

お前の話は指示代名詞だらけでしばしばまったく理解できないと、昔友人から指摘されたことがある。

言われなくても判っているのだ。「あれ」とか「それ」とか指示代名詞で仮止めでもしない限り、それについて喋ることがまったくできないようなもののことを、そういう場面では言おうとしているからである。

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