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惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

twitter大喜利(4) 左翼中二病とネトウヨの脊髄反射合戦

2011年10月24日 | miscellaneous 2
四万人近いファンが葬儀に参列したカリスマの死から、もう十九年になる。若者の孤独と怒りを歌い、人気絶頂の中、二十六歳で急死した歌手尾崎豊さんを追悼する「尾崎ハウス」(東京都足立区)が、取り壊されたという記事を感慨深く読んだ

▼十代の「代弁者」といわれた尾崎さんだが、最近の若い世代には通じないらしい。ゼミで尾崎さんの歌詞を一緒に読んだ私大の教授は、失笑する学生ばかりだったことに驚いていた

▼十年近く前、精神科医の香山リカさんが学生に調査した内容を思い出す。「何を怒っているのか分からない」「ひとりよがりで不愉快」などと否定的な意見が多く、尾崎さんの歌詞に共感できるという学生は百人のうち二人だけだったという(『ぷちナショナリズム症候群』)

▼中東のリビアではカダフィ大佐の死亡が確認され、四十二年に及ぶ独裁体制は完全に消滅したが、チュニジア、エジプトと続いた民衆革命の原動力は、ツイッターなど新しいメディアを使いこなす若者だった

▼日本でも、震災ボランティアや脱原発デモの中心に若者がいた。ストレートに感情を込める歌を暑苦しく感じても、政治や社会への関心が薄れたわけではないはずだ

▼尾崎さんが叫んだ時代より、格差社会化は進み閉塞(へいそく)感が強まっている。それを打ち破る主役は青年以外にはない。格好のお手本は海外にある。

(中日春秋)

朝っぱらからtwitterに尾崎豊の悪口がさんざん流れているので何事だと思ったら火元はこれらしい。

何か書こうと思ったら題名で全部尽きてしまった。

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twitter大喜利(3) #アニメのタイトルに筋肉って入れてみよう

2011年10月16日 | miscellaneous 2
筋肉少女革命ウテナ(atusui)

人がせっかくカテゴリまで新設したというのに、どうも低調だww
世界を高木ブーする力を!

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twitter大喜利(2) 「バカ正直に計算して合ってたのはお前だけだ」

2011年10月12日 | miscellaneous 2
思いがけないところに(1)の続きのネタが転がっていた。

【話題のツイート】数学教師「バカ正直に計算して合ってたのはお前だけだ」... http://twme.jp/tnav/014S
(twinavi)

何事であるのかはリンク先の画像を見てもらえばわかるのだが、字で説明すると、3の33乗が(1)何桁になるのか、(2)最高位の数字が何であるかを求める問題で、まさにバカ正直に3の33乗を計算して答を求めてしまったという答案の画像なのである。計算のためにわざわざlog2=0.3010,log3=0.4771という値まで問題文に示されているのに、それを使わずに解いたということである。

わたしが数学教師でも呆れ返って生徒をホメたと思う。

本来はもちろん0.4771×33=15.7443から(1)の答は16、小数点以下の0.7443はlog5=1-log2=0.699より明らかに大きく、log6=log2+log3=0.778より明らかに小さい、ということで(2)の答は5だ、となるわけである。常用対数の何たるかを理解していれば当然これで解くわけで、そうしないのは「全然わかってねえ」ということの証拠みたいなものなのだが、とにもかくにもバカ正直に計算して正解したのなら立派である。

悲しむべきは「合ってたのはお前だけだ」ということは、全然わかってないやつ他に多数、であったわけで、おまけに残り全員が計算間違いをしでかしたということである。対数どころではない、この数学教師の人は生徒に掛け算の筆算から復習させなければならないようである。

●(追記)

上をうpした後に検索結果を眺めていたら「俺もこうする」「これで何が悪い」とか開き直ってるのが結構いる。それはいけない。これ33乗だからまだできるんで、たとえば3300乗だったとしたら、筆算で時間内に解くのは(不要な細部を省略したとしても)困難かもしれない。そもそもこの試験自体が常用対数を用いた概算法の理解を試験しているのだろうから、その線から外れている時点で本当は駄目なのである。とはいえ、

数学教師「バカ正直に計算して合ってたのはお前だけだ」 http://twitpic.com/6ym4e6 via @twitpic これ,オレなら"あえて"罰だわ.褒められないもん.数学ってこういう学問じゃねぇし,算数なら良いけど.褒めてる人は理由を教えて欲しい.バカだから好きなの?
(takarasky)

こんなこと言ってるのもバカである。この生徒を「ホメてやる」というのはあくまで「ユーモアに報いるにユーモアを以てする」ということで、これが正しいからではない。図に乗るような生徒だと判っていたら「入試本番ではこの手は通用しないぞ」とクギを刺しておけばいいことである。

ちなみにこの主は数学が判ったような口ぶりだが怪しいものだ。常用対数を使った概算法はどちらかと言えば「算数」である。算数だから電気工作少年の小学生でも覚えられるし使えるわけである。数学的な厳密さでこの問題を解くとしたら、対数を使う方がかえってややこしくなる可能性がある。提示されている値は近似値にすぎないのだから、厳密な証明にはならない。それでも対数に固執するなら対数(と指数関数)の定義にまで戻って証明しなければならない。

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twitter大喜利(1)  #教師に言われた衝撃的な言葉

2011年10月11日 | miscellaneous 2
タグに日本語が使えるようになって以来、twitterはすっかり大喜利会場のようになってしまっているわけである。面白かったのを拾ってみる。

「ログとはねずみ算の考え方です」 大学に入ってから聞いた。たいしたことじゃないけど、それまでの人生の疑問が氷解した瞬間。ぶっちゃけ、中高時代に教えてほしかった…
(asterte)

ログがねずみ算・・・?この「ログ」とは日録(log)のことじゃなくて対数(logarithm)のことだと気づくまでしばらく考え込んでしまった。気づいたら気づいたで、この主の通っていた高校はいったい何だと教えていたのだろうということが疑問に思えてきた。

正確に言えばねずみ算というよりはねずみ算の逆なわけである。世代ごとに個体数が指数関数的(幾何級数的)に増えて行くさまを「ねずみ算」式というわけだから、対数というのはその逆関数である。まあ上の呟きはそこまで汲んだ上で「氷解した」ということなのだろうけれども。

ついでに、自分が高校生の時はどうだったっけと思いだそうとしたら、これが思い出せない。わたしは小学生のとき関数電卓で遊んで(ちょうどゲームボーイくらいの大きさだった)いるうちに覚えてしまったのと、電気工作少年だったからデシベル計算のために簡単な対数表はアタマに入っていた(電子回路をいじるならそのくらい覚えておけ、と「ラジオの製作」の記事に書いてあった)。電卓がないときはそのへんの紙や板に対数目盛を書いて即席の計算尺を作ったりもした。そんなものたいした役には立たないが、それも遊びというかイタズラのうちだった。「こんなんで掛け算ができるんだぜ?」「おー便利だな」なんて。

中学生になって計算機屋になればなったで、二分探索や高速ソートといったアルゴリズムの計算量にはlogが出てくる。なぜlogなのか。プログラムを書くことを知っていれば説明されなくてもわかるわけである。きわめつけは半導体の容量あたり価格の「ムーアの法則」のグラフであった(これは確か「トランジスタ技術」に載っていた)。対数グラフの意味と威力を理解するのにあれほど印象的なものは他になかった。

昔の理科系少年というのはだいたいこんなものであったわけなのである。学校で習うことはたいてい、すでに知っていることだった。その時までに知らなくて学校で初めて習ったようなことというのはたいてい、後々までめったに使うことのない受験テクニックの類ばかりだった。中高だろうと大学だろうと、いまのワカモノがこの手のことを「学校教育」から教わるよりほかになくなってしまったのだとしたら、それはさぞかしつまらない経験であろうことで、気の毒というか何というか、どうしたものなんだろうか。

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人間にとって「機械」とはなにか(2)

2010年03月06日 | miscellaneous 2
(以下の内容はどちらかというと「わけの判らぬことを云う」カテゴリに属する代物になってしまったので、公開しないでいたのだが、もう面倒だから公開する)

ここでいう「機械」はニーチェの言うニヒリズムに近いものである。そうでなかったとすれば(笑)、わたしが勝手にそう理解しているニヒリズムがそういう定義なのだと思ってもらっていいわけだ。人間存在から言葉の俗な意味で主体性とか自律性とか、そういうものが広範囲に失われることを、その気配を含めておおよそニヒリズムだと呼ぶのだとすれば、それをまったく失ったものは機械に相違ないということである。

長い目で見た場合はともかく、局所における「機械」の強さというのは、図式的には簡単なことで、したがってまた疑いようのないものである。安定してcoherentな機能体やその結合系は、そうでないものに対して局所的には本質的な優位性を持つように思える。つまり機能の実現において有限の(とはこの場合、数学でいう有限ではなく、コンパクト性の概念にほぼ相当する)自由度しか持たない機械は、無限の自由度を持つもの、典型的には人間存在に対して常に、少なくとも潜在的な優位性を持っている。それがcoherentに結合してゆくに連れて優位性は顕在化し、次第に揺るぎのないものになって行く。

ざっとこんな風に考えているということは、ここで言ってる「機械」は物理的・工学的な意味のそれとは必ずしも関係がない、題名の通り「人間にとっての機械」を考えているのだ。



わたしがコドモの頃にはたくさんあったSF小説や映画では、発達した機械が(どういう経緯でか)それ自身の意志を持つようになって人間社会に挑戦する、あるいは滅ぼしてしまうという筋書きを持つものが少なくなかった。確か、その言葉の語源になった「ロボット」というSF小説も大体そんな筋書きだったはずだし、おそらくは最後の傑作が映画の「ターミネーター」シリーズだということになるだろう。「コドモの頃に」というのは、昔はそういうハメツ的な未来を真剣に考える人が結構いたということと、今ではそうした筋書きは廃れたし、真剣に考える人もいなくなった、ということのふたつを言いたいからだ。ワカモノにとっては、そういうことが本気で心配だった昔が驚きだろうし、年寄りの方はそんなことが驚きであるようなワカモノの世代が驚きなのだ。

機械がどんなに発達してもそれ自体が意志を持つということはありえない。それは、専門家にとっては昔から経験的な常識に近いことであったが、今はそうした専門知識を持つ人が増えたし、専門家でない人もたいがい知るようになっているということだ。昔と違って文明生活の現代は計算機が生活の隅々まで入り込んでいる(わたしは持っていないが、いま閲覧者の手にある携帯電話も「無線通信機能つき計算機」だ)。だから機械がそれ自体の意志を持つことはないし、ありえないという程度のことまでは、誰にとっても日常の経験的な真となっている。少なくともそう信じられている。

実際、仮にそういうことが信じられていないとしたら、世の中の男女はひとり残らず血相を変えていなければならないはずだ。計算機が意志を持つ時代が近々来るとすれば、それは真っ先に性的な機能体としての人類の滅亡を意味するはずだからだ。幸いそうはならないと誰もが判っているから、オタクの人達のよく言う「二次嫁」がどうしたこうしたという話も笑って済ませていられるわけだ。人畜無害という言葉は、今や彼らのためにあるようなものである。



それにしては「二次嫁」みたいな話は妙に深刻に受け止められてはいないだろうか、という感じを抱いている人が、閲覧者の中にもいるかもしれない。何がどう転んだってこの社会のごくごく少数派でしかありえないはずの価値観を、どうしてかそこはかとない、いや、しばしば重大な脅威であるかのように思い込みたがっている層が存在するような気が、わたしもしている。

わたしの考えを言えば、そうした層が層として実在するとすれば、それは脳科学の信奉者の集団に重なるはずだ、ということになろう。脳科学はここでいう人間と機械を区別する根拠を、実はまったく持っていないし、持つことができない。だから計算機のモニタ上に魅力的な、肌どころか内臓まで露わな異性のイメージが映し出されるようになると、彼らはそれを現実世界に対する重大な脅威と見なさなくてはならなくなるのだ。「ただの絵じゃねえかこんなもん」という常識は、脳科学の消去主義的な思い込みの中には占める位置がないのである。

だからそれは全然脅威ではないのだが、脅威はまったく別のところに存在する。目下の脅威は、脳科学がそうした非常識で、まるで見当違いなものの見方しかできない疑似科学であるのは明らかなのに、どうしてあれほど信奉者がいるのか、ということの方にある。人間と機械の区別をつけられないのは脳科学ばかりではなく、今や現代の文明世界のほとんど全体が患っている深刻な病の一端とみるべきなのかもしれない。脳科学はたまたま病態として典型的なところがあるから、その象徴としてもてはやされているのだ。その病のイメージは、わたしの内側では、ニーチェのいうニヒリズムのイメージに重なっている。

(ハジメニモドル)

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人間にとって「機械」とはなにか(1)

2010年02月26日 | miscellaneous 2
ここでいう「機械」は、普通は「システム」と呼ばれることが多い何かのことだ。常識的には「機械」というと今でも自動車のような、その機能の本質が物理的作用の直接的な組み合わせであるものを想像する人が多い。必ずしもそうではない、計算機のように機能の本質においては記号的作用が主役で、物理的作用が直接の構成要素になっていないもの、あるいは「社会システム」という場合のように、物理的作用とはひとまず区別される人間作用(?)あるいは精神作用が直接の構成要素になっているようなものを含めた拡大概念のことを、常識的にはシステムと呼んでいるような気がする。ひらたく言えば「ブツ」としてできている機能体を機械と呼び、ブツではないが同じく機械と見なせるものを含めてシステムと呼んでいるわけだ。

ややこしく書いているが、わたしのような計算機屋にとってナリがブツであるかそうでないかというのは本質的な違いではない。閉じた、あるいはコンパクトな機能体と見なせるものは全部まとめて「機械」でいいのだ。特にここでは題名の通り、人間の反対概念ではないが対立する概念には違いないところの機械を考えるわけなので、必ずしも対立的ではない「システム」の語は避ける理由があるのである。その表現が何を意味するのかはさておいて「開いた(開かれた)システム」という言い方は存在するが、「開いた機械」というのは言葉としても現実としても存在しない、ということだ。

忘れないうちに題名の意味するところを書いておく。ストレートに、単純に言えば「人間は機械に勝てないのか」ということである。長い目で見ればそんなことはない、という話は別の問題である。ここで考えるのは、否応もなく機械に殺される人間がたくさんいるではないか、ということの方なのである。

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地域社会

2009年05月12日 | miscellaneous 2
地域社会と聞くとわたしが真っ先にイメージするのは暴走族である(笑)。別におかしな意味ではなくて、暴走族というのは地域社会の中に埋め込まれて存在する集団のひとつとして典型的なものだ、というだけのことである。広域暴力団というものがあっても広域暴走族などというものはない。仮にそういう組織を作ろうとするものがあったとしても、そんなものは本宮ひろ志のマンガの中でしか成り立たないだろうと思う。逆にまた、そうだからこそ、本宮ひろ志の昔の作品、「男一匹ガキ大将」とか「大ぼら一代」とかは人気があったのではないだろうか。

片田舎のチンピラ小僧が片田舎のチンピラ小僧のメンタリティのまま、その志だけを際限なく拡大して行く、というのは現実には決してありえない荒唐無稽のシナリオでしかない。仮に本当にそういうことを志すものがあったとしたら、彼はどこかで片田舎のチンピラ小僧のメンタリティを諦めるか、その志を際限なく膨らませ続けることを諦めるか、どちらかを選択しなければならなくなるはずである。

こういう、はっきり語られることはないが確実に存在している「世の中のしくみ」は、割合普遍性があるものだ。

小学校のころは優等生だったのに、同窓会やなんかで再会してみるとただの田舎のオッサンになってる友達がいたりする。もちろんそれは、つまらないバカらしい碌でもない受験優等生の世界には早々に見切りをつけて普通の人の道を行くようになったということで、そういう風にはできなかった人間から見ると羨ましいくらいの姿であったりもする。

わたしなどは後者の典型だった。そのうえ碌でもないことに、十代のわたしはこのしくみを自覚的に利用さえしていた。

このblogは受験生のための成績アップ講座の類ではないのだが、そう読まれても構わないことを書くと、たくさん勉強している割にはいまひとつ成績が伸びないという人は、自分の心がその奥底では本当はどちらを向いているのか、一度は自分に問い質してみるのがいいと思う。その心が地域社会──つまり「友達」「仲間」「幼馴染み」「生まれ育った街」といった言葉で象徴されるもの──の方を向いているのだったら、受験勉強などするだけ無駄だからさっさとやめて青春をエンジョイする(笑)ことに集中した方がいい。逆に地域社会の外を向いているのだったら、いつも一緒にいる友達は、たまたまクラスで隣の席に座っていただけの他人にすぎないことを、意識的に心得て振る舞うことを覚えるのがいい。その先では一生、他人はいつもそんな風な赤の他人としてしか現れることはないからだ。勉強している割に成績が伸び悩むというのは、要するに無意識ではその選択を迫られているのに気づいていながら、踏ん切りがつかずに迷っているからである。

もっと嫌な言い方をすれば、ざっとあたりを見回して「俺はこれから先も一生、こんな奴らと一緒にこんなあたりをうろうろして過ごしていいのか」と考えたとき、心の底から「別にいいや」と思えたら、そこで若い碌でなしどもの競争はゲーム・セットだということだ。逆に言えば、その存在がどんなに碌でもないものであったとしても、世の中で優等生(エリート)と呼ばれるような人達はそういう選択を迫られた時に「別にいいや」と思うことができなかったか、あるいは、そんな分かれ道があることにも気づかないくらい、最初から(地域社会の中で)どうしようもなく遊離した存在であったかのどちらかなのである。

親が金持ちだからコドモが「いい大学」へ行くわけでは必ずしもない。世間で勝手にそう思っているほど、「オツムの出来」なるものは、金では買えないものである。だからそうではなくて、親が金持ちだとかインテリだとかいうことは、わが国では、特に田舎の場合は、それ自体が地域社会から疎外されていることの印なのだ。そのときはだいたいコドモも一緒に疎外されているから、黙ってても成績は上がってしまう傾向に置かれてしまうのだと言っていい。アタマのよしあしとか才能の有無とかいうのは、だから本当はそれほど重要なことではない。そういう言い方をすれば、ほとんどのことは努力次第で補いのつくことばかりだと言っていい。問題はその「努力」なるものがそもそもどこからやってくるのかということだけなのである。

十代のわたしがやったことは、自分の心を徹底して地域社会の外へ向けることだった。嘘でも冗談でもないし、シャレにもならない。たったそれだけで、ろくに勉強もしない割に面白いほど成績が上がったものである。「これはまったく、人でなしの法則だな」と我ながら苦笑いしたものだった。この「人でなしの法則」をいつの日か根こそぎ解体してやるというのが、その時自分で自分に誓ったことのひとつであった。この法則を解体しないで、大切なものは愛だとか平和だとか、あるいは義理だとか人情だとか、エコロジーだとかスモール・イズ・ビューティフルだとか言ってみせたところで、そんなもの全部嘘にしかならないことは、十代のわたしにとって明らかなことであった。

Since I was very young I realised
I never wanted to be human size
So I avoid the crowds and traffic jams
They just remind me of how small I am
Because of this longing in my heart
I'm going to start the growing up
I'm going to grow now and never stop
Think like a mountain, grow to the top ...


Empire State Human / The Human League

つまんないっちゃつまんない曲だからアフィリンクはしない。

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いわゆる制度のひとつの起源

2009年03月21日 | miscellaneous 2
2日ほど前に曾祖母の思い出話を書いた。一応はただの思い出話なのだが、このblogの考察にも少しは関係があることなのだ。幼児のわたしは交通ルールというのは、それまでは物理法則と同じようなものだと思っていたのである。実はそうではなく、道路というのは信号を無視して渡ることもできるのだということ自体が幼稚園児の世界観にとって衝撃だったのである。

そんなこと当たり前じゃないか、というのは、たとえばわが曾祖母のように、交通信号などなかった(そもそも自動車などめったに走っていなかった)時代を知っていれば、あるいはそのように昔のことを教わっていればこその当たり前で、そうでなければ気づかないことであったりするのである。

いつだったか、青年海外協力隊のようなものに志願して参加したまではよかったが、いざ現地のハッテン途上国に到着したとたん「この国にはコンビニがないのか」などと言って騒いで日本中の失笑を買ったワカモノ達がいたが、わたしは彼らを嗤う気になれない。コンビニなどなかった昔を知らなければ、当然あるべきことではないか。予めそんなことも教えてやらない、自分自身見聞きしたわけでもない南京事件のことなら口角泡を飛ばして議論したりするくせに、どの街にもあるコンビニがいつからどうしてそこにあるのか、その歴史を教えられない大人達の方が、またそのような大人たちが支えているつもりでいる社会と制度の方が、本当はどうしようもなくバカで、世間の失笑に値するほど存在理由を喪失しているのだ。

制度の起源というのはいろいろに言うことができるけれど、たとえばそうしたことも制度の起源のひとつになるのである。これは仮説ではなく実際にそうだということを、わたしは古株のパソコン屋だから自信を持って言うことができる。たとえば今の若いプログラマは、たとえばC/C++言語のプログラムではgoto文を使わない、使うべきでないということを、さながら物理法則のように、つまり幼稚園児のわたしが交通ルールをそのように理解していたのと同じように理解している。ほんとは(妥当なのは例外的なことでしかないが)いくらでも使っていいんだぜ、などとわたしが言うと、まず驚愕の目で見られる。このオヤジはなんという常識外れのことを言い出すのだ、それでもプロか、という目である。

もちろん実際のプログラムでgoto文を使うことは、わたしにしてもほとんどない。年に一度あるかないかのことである。けれどもそれは中学生の頃からいろいろなプログラミング言語を使って、いろいろなプログラムを書いて失敗したり何したりを積み重ねてきた、その経験的な根拠があってそうしているわけだ。だからもし、ごく例外的に、それらの根拠を一切考慮しなくていい、それどころか逆目であるような状況が目の前で生じたら、わたしは躊躇せずにgoto文を使うのである。goto文を使うとソースコードの可読性が損なわれるとか、厄介なバグの温床になりやすいとかいったことは、もちろん原則として正しい理解なのだが、あくまで経験的な原則であって絶対の法則などではない。プロの計算機屋ならむしろ、経験的な原則には必ず例外が存在して、かつ無限に存在する、したがってありうることは必ず起こることだ、という認識の方が大事だと言いたいくらいだ。本音を言えばだ。

だがわたしはもとより親切な人ではない。だから、こんなこといちいちワカモノには教えてはやらない(笑)。今のワカモノは計算機や、そこで対象となっている応用分野のことが好きでプログラマをやってるなんてことは、それこそ「原則として」ありえない、とわかっているからである。彼らの方には聞く耳を持つ理由がないのに、どうしてわたしの方には親切心を抱く理由が生じようか。彼らは専ら制度に沿ってプログラミングを学び、制度に沿って働き、制度に沿って報酬を貰うためにプログラマに、エンジニアになった人達なのである。

制度どころか計算機そのものが日常のどこにも影も形もなかった時代のことを覚えている、トランジスタ回路で加算器の回路図を書くところから積み上げてきたわたしの経験的な理解など、彼らにとっては何の意味も持たないし、持つはずがない。わたしのそれはどうしたって、また一見どんなに些細で他愛ない枝葉の知識であれ、三度のメシより計算機が好きだった少年時代の情熱と無関係のことはひとつもないのである。どうして彼らにそれを再現するところからやれと言えるだろう?しかも、彼らとてそれなりに時間と労苦を重ねて馴染んできたことであろう制度的理解のすべてを反故にした上で?誰がそんなことを真顔で言うのか。俺が?バカもやすみやすみ言ってくれ。

「技術技能の継承」なんて簡単に言うけどさ。二言目にはそんなこと言う奴に限って、こうしたことにはまったく理解が及んでいないのである。本気でそれをするとしたら必要になるはずの哲学は、わたしが今ここで考えようとしている以外では、まだ世界のどこにも存在していないはずである。

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意識と制度のあいだ(3)

2009年03月10日 | miscellaneous 2
このシリーズは最初に「意識と制度のあいだ」などという題を立てたのがいけなかった。題名と関係ないことばかり、またいつにもまして意味不明な(と、読んだ者には思われそうな)ことを書いているような気がする。

少しは題名に沿ったことを書いてみる。

「意識と制度のあいだ」とは、要するに制度一般の起源をどう考えるべきかということである。意識というのは個々人の意識のことで、これが制度の起源とどのようにかかわっているか、ということだ。もっと簡単に言えば「意識が先か、制度が先か」ということである。大きく分けて次の3通りの場合が考えられる。

(a)意識が先制度は(意識における)伝達の自己組織体として成立した秩序である。
(b)制度が先意識はむしろ制度の拘束によって発生したものである。
(c)同時的意識と制度は異なるスケールの、異なる秩序である。

さしあたってこれらのどれでもありうるとしなければならない。実際、ある制度は明らかに伝達の組織化であり、別のある制度は伝達の根拠として意識に先行するように見える。前者は民主主義の社会制度、後者は(non-verbalなそれを含む)汎言語である。



ヒトが際立った生物種であることは、意識それ自体よりも制度において顕著である。他の生物種との違いは、客観的で公平な評価ということをどのように考えたとしても、桁違いのものである。類人猿の集団規模はたかだか数十ないし数百であるが、ヒトのそれは億を上回ることがある。地理的にも優に一大陸の端から端にわたる場合がある。大型動物の中で、これほどの大規模な集団が、はっきりと統制された振る舞いをもつ生物種はヒトをおいて他にはない。実際、二次的な達成においてもヒトにおける制度のそれは否応なく顕著である。解明されるべきは本来、意識よりもこうした制度的達成の方だと言うべきかもしれない。ただ、普通に考えればヒトにおける制度は、直接に物質的な描像をもつというよりは、明らかに個々の意識と結びついた描像として描かれるものである。

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意識と制度のあいだ(2)

2009年03月08日 | miscellaneous 2
このカテゴリの題名(制度のメタフィジクス)はとりあえずつけた仮のものである。我ながらこの題はよろしくない。いずれつけかえたいが、それをするにもまず考察をいくらか進めなければならない、というのも、ここで言ってる「制度」は普通に言う意味での「社会」のことで、これも実は気に入っていない。素直に「社会」と呼ばないのは、日本語の「制度」という言葉が否応なしに帯びている「うさんくささ」に注意を向けたいからだが、いかんせん直観的にピンと来ない。

どこの国や社会でもだいたいそんなものではないかという気はするが、わが国における「制度」というのは特に天下り式のものであることが多いわけである。個々人の方に根拠があって下から作り出されたという感じを少しも伴わない、いつもどこかから勝手に降ってわいてきて、ときどき勝手に変わって、最後も勝手に消滅するような何かである。そうでない制度を探すことの方が難しい気がする。

だからいけない、というわけでは必ずしもない。ただ、それはクルマや家電製品とどう違うのだと言ったら、何も違わないではないかということだ。クルマや家電製品もメーカの都合で勝手に発売され、ときどき勝手にモデルチェンジが行われ、そのうち勝手に生産中止になったり、サポートが打ち切られたりする何かである。だからと言って商品のモノが悪いというわけでは必ずしもないわけだ。だが近年のように製品のライフサイクルが極端に短くなってくると、自分の都合に沿って買うべきモノを選択し購入し使っているというよりは、これはただメーカの都合に振り回されているだけではないかという感じが募ってくるのである。

そういうのが非常に面白くないから、わたしはときどき無意味な抵抗をすることがある。たとえばファスト・フードの店では、あからさまにオーソドックスな商品しか注文しない、ハンバーガの店なら「ハンバーガとコーヒー」しか注文しない、というようなことだ。別にそんなに保守的な趣味だというわけではない。たかが食い物に保守的もへちまもない。だが、季節ごとに何やら妙な名前の新商品を鳴り物入りで売り出しては、客にはとことん余分な金を払わせてくれよう、といった意図が露骨に透けて見える感じのすることが、わたしにはしゃらくさくてかなわない。

いや余分な金を払わされるのはまだいい。どうせ小銭ではないか。そうではなく「ハンバーガを食べる」という自分の行為が、自分自身の明晰判明な食欲(笑)に基づかないで、ハンバーガ・チェーンの商品企画会議だか宣伝部隊だか何だか、そんなわけのわからぬ他人なり組織なりその理念なりの意図に振り回されている感じになることが、この場合は一番嫌なことなわけだ。企業が儲けようとして儲けるのは勝手だが、このオレ様の食欲まで巻き込むなということだ。

しかしこの種の無意味な抵抗の背景にあるものを延長して、何か倫理的な主張を構成できるものかというと、それはそれで怪しいというところもあるわけである。

数年前にHDDレコーダを買ったら、それに付属してきたリモコンがおそろしくいい加減な操作系の設計で、不便きわまりない、ということがあった。「ユーザ・インターフェース」などと言うのもふざけた代物で、呆れたものだが、よく考えると、このリモコンが不便なのは、メーカの側にユーザの利便性を考慮する知恵がないからというよりは、ユーザの方が操作系のよしあしで製品を選ぶことをしない、少なくともその優先順位がひどく低いからだということに気づいた。そんなことよりHDDの容量はいくらだとか、W録再機能はあるのかとか、あるいはもっと単刀直入に価格とか、そんなところでばっかり選択しているうちに、メーカの方もリモコンの設計を工夫して操作性を向上させるよりは、もっと簡単にユーザの気を引けるようなことに資源を集中(笑)すべきだと考えるようになって、その帰結がこのどうしようもなく出来悪なリモコンだ、ということなのだ。

何が言いたいかというと、パソコン屋のわたしは長いこと「ユーザ・インタフェース」ということを非常に重要に考えてきたし、またそれが重要だと考えること自体は今も少しも変わらないのだが、本当はこうした問題はもっと広い枠組みの上に置き直して考えなければ、本当は意味がないのではないかと、その時思ったということだ。操作性のよい機械とそうでない機械のどちらがいいかと言ったら、よほど偏屈者でない限りは誰だって前者がいいと言うのに決まっている。けれども単純にそう言うだけでは実は「ユーザ・インタフェース」ということが無意味な、それどころか建前だけの虚偽を言う格好になってしまうことがありうる、というよりもほとんどの場合そうなってしまうということだ。わたしも本職はエンジニアだから、虚偽に奉仕するなど真っ平御免だ。だがこの虚偽は、いったいどのようにしたら回避できるのか?

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意識と制度のあいだ(1)

2009年03月07日 | miscellaneous 2
口上の(3)は、そういう問題意識を前から持ってはいる、というより、哲学的考察に首を突っ込むことになったそもそものきっかけというのが、複雑性の経済モデルを社会制度を織り込んだ形で作ってみようと考えているうちに、そもそも人間が行為を選択するということをどうモデル化していいかわからなくなったからだった。

「複雑性」でなければ、そうしたことは統計的に粗視化して、ミクロな要素、つまり個々人の自由意志とか行為の選択といったことはモデルの上からは消去するということを、当たり前にやるわけだが、たまたま複雑性の方から、しかも社会制度という、個人の選択ということを無視できない要素を絡めて考えていたので「ちょっと待て。そもそも自由意志を含めた微分方程式なんて立つわけないじゃないか」ということに、いまさらながらに気づいたのであった。仮にそういうモデルを作ったとしたら、自由意志のようなものは全部、相空間上では特異点になってしまうわけである。そういう特異点が相空間上のいたるところにあるようなモデルの解析なんてできるわけがないぞ(笑)。

これは自由意志ということを真面目に考え直してみなければなるまい、ということでそれを考えるようになったというわけだが、しかし、どう展開するのがいいのかずっと考えあぐねている。

割合最近文庫化されたドゥルーズの「ニーチェと哲学」というのを読むと、実のところニーチェが言っていた「意志」というのも、だいたい上のようなことを逆から(ある意味では真正面から)言おうとしていたのだということがよくわかる。ニーチェの言う(そう訳されている)「反動的」は、政治的反動という場合の反動ではなく、reactiveということであって、つまり意志を持たないビリヤード球のように外力から突つかれて動くだけの、生なきありさまのことを指しているのである。

ニーチェと哲学 (河出文庫)
ジル ドゥルーズ
河出書房新社
Amazon / 7&Yicon

ニーチェが退けようとしたヘーゲルの哲学というのは、言ってみれば(ヘーゲルの嫌った)ニュートン力学の観念論的なdual(双対)とでもいうべきものだ。ヘーゲルもニュートン力学の示唆する世界像が、これでは世界がただのビリヤード台の上の情景みたいになってしまうではないか、ということに反発して、それを強引に観念論的にひっくり返し、表のタテヨコを入れ替えたような体系を作ったわけだ。でも実はひっくり返しただけでビリヤード台の図式そのものが否定されたわけではなかった、とみることもできる。ニーチェは(たぶんキルケゴールもだが)そこに噛みついたのだ。

わたしの見るところでは、ヘーゲル哲学の全体像は、本当はそこまで単純なものではなくて、ヘーゲルは量子力学やその数学のまだなかった(数学の萌芽はあったかもしれないが、隠れた勉強家ヘーゲルといえども、そこまで知っていたとは思われない)19世紀において、何とかそれらしいことを言おうとして──それがあのフシギな「弁証法的論理」だ──言いあぐねたものだというところがあるような気がしている。だから後続の哲学者達が罵るほどひどいものではない、むしろその観点から読み直されるべきではないかと思っていたりするのだが、それはそれ、これはこれだ。

「制度と達成」というのは、仮にすべてを自然主義的に眺めたとしたら、たとえば東京のいたるところに生えている超高層ビルのごときものは、こんなものがいったいどのような自然過程として生じたということになるのか、とても不思議に思えるというようなことである。もちろん常識的には、それらは人工物以外の何物でもないわけだが、すべてを自然主義的に眺めるというのは「人工物など存在しない」、つまり人間の意志とか、あるいは制度とその達成といったものはすべて通俗心理学(folk psychology)の戯言として消去可能だという、そういう態度のことを指している。

なるほど、すべては物理だと言えば、高層ビルが立つことだって確かに物理過程であるには違いない。だがそれはいったいどんな物理なのか?既存の、確立された物理学のうちに、高層ビルが立つことを普通に自然過程として理解できるような枠組みがあるのかというと、いくらなんでもそれはない。それはいまだ未知に属していると言うべきなのだ。消去主義や自然主義的還元論は、こうしたことのすべてを脳神経生理の神秘の側に追いやって見えなくさせてしまうという意味では、物理学よりもずっとオカルトに近いものなのである。

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わが1977年の人工知能批判(2)

2009年03月02日 | miscellaneous 2
※長々と書いているのでもう一度断っておくと、この文章は1977年の中学2年生が人工知能(機械翻訳)について何をどう考えていたかを、30年後の本人が自分で説明し直してみる、というものである。もちろん、あくまでも現在から振り返って再構成された記憶であって、実際の中学2年生がそんなにスラスラと、整った考え方をしていたはずはない。現実の中学2年生のアタマの中は99%以上テレビとマンガと、あとは何だかよくわからない妄想で占められていたのであって、残りの1%未満で切れ切れに考えていたのである。

普通に単純に考えれば、人工知能のようなものが作れないわけがない、と思うわけである。

人工知能でなくても、たいていの計算機アプリケーションは、人間がやってることを機械的なモデルのもとで再構成したもの、つまり人間のマネをさせているだけである。人工知能だって同じことで、人間がものを考え、それに沿って合理的に判断し行為して問題を解決する、要はそういったことをおおよそマネすることができれば、それでいいわけなのである。モデルが雑ならマネの程度も低くなるだろうが、逆に言えばモデルを精緻化すればするほどマネの程度も高くなって、究極的には人間と同等の知的な問題解決能力を持つことになるだろう。

それしきのことがなぜできないのか。上の考え方にはどこかおかしなところがあるのだろうか。ひとつ考えられることは、上記のような「マネ」ができるということは、もともと人間がやっていることではあっても、それ自体は機械的なモデルで記述可能な、つまり機械的な動作にすぎないということを意味している。人工知能がうまく行かないのは、どういう理由でそうなのかはともかくとして、人間の知的な行為というのは一般的な機械的モデルの内側に属さない、本質的に非機械的な行いだからではないのか。

しかし…そんなことってあるのかネ、と計算機屋は(中学生の生意気盛りに)首を傾げる。何も知らない素人ならともかくも、計算機屋は計算機が、資源の制約を除けば万能機械であることを知っている。計算機アプリケーションの多くは人間のマネをするが、それだけではない、計算機を使ってこの宇宙の森羅万象をマネさせることもできる。それどころか、物理定数や法則のまったく異なる別の宇宙の森羅万象をマネさせることさえできてしまう。あまりに万能なので、計算機自身が計算機の限界を見定めることができない、それほど途方もなく万能なのである(理屈はわからないが、そういう意味のことが、当時別に読んでいた本には書いてあった)。

そう。軽々しく「非機械的」などと言うなかれだ。それはほとんど「非物理的」ということと同義ではないか。そんなものがあるはずがない。

そこで目先を変えてみる。疑問の余地なく物理的であるにもかかわらず、機械的にそれを「再現」できないということは、ありうるのではないだろうか。究極的にもできないかどうかはともかくとして、それがひどく困難な場合があるのは確かである。

計算機は「Time flies like an arrow.」を正しく訳せない(正確に言えば、正しく訳せる保証がない)。逆にどうしたら正しく訳せるのかを考えてみると、それは明らかに、我々が「time」「fly」「arrow」について予め持っているイメージ(信念の総体)が必要だという風に考えられる。そのイメージがあれば、左のように単語を並べられたら──仮にそれが文法的にはまるっきり間違った語順であったとしてさえ──我々はめったなことで文意を掴み損ねることはないだろうと思える。

要は、計算機の辞書にはそのような信念の膨大な束が書き込まれていないのである。

しかしそうすると、また奇妙なことは、人間の場合は、つまり我々のそれは、いつどこで書き込まれたのだろうか。おそらく「time」の一語だけを取り上げても、我々がそれについて言明することができる信念の個数は、つまり知識の量は、物心ついて以来教わってきた、あるいは自分自身の経験から取得した数をはるかに上回っている。たぶん数えきれない(これは数学でいう非可算という意味ではなく、単に多すぎて数えきれないというだけである)のである。

そんな膨大な知識がいったいどこに埋まっているというのか。中学生のわたしの考えでは、それは要するに体の組織全体に、生物進化の全過程を経てきた結果として、つまり大部分、我々のDNAの上に圧縮重畳された形で書き込まれているに違いなかった。その一部はもちろん脳の神経回路として発現しているはずだが、DNAは脳だけを記述しているわけではないし、脳だけを記述するDNAがあるわけでもない。神経回路も含めた全身の生理学的過程のすべてが、実際にはかかわっているに違いない。当時は知らなかった言葉を使って(その方が簡単だから)言えば、個々人がもつ知識(意識)に対応する物理の閉包(closure)を取れば、それは我々の生理学的な身体に一致するはずだ、ということである。

もちろん現在のわたしの考えはこれとは違って、「身体」が生理学的な身体に一致しなくなったことが我々の意識の起源だと考えるようになっている。1977年のわたしは「機械は意識経験を持たない(持つ必然性がない)」ということに、まったく気づいていなかったのだ。

これは余談というか、先々で書くことの先取りだが、わたしがそのことにようやく気づいたのは、実に三十歳を過ぎてからのことだった。理科系の世界では四十五十の専門研究者ですら、このことにさっぱり気づいていなくて、人型ロボットの頭部に光センサやCCD素子を埋め込んで計算機モジュールに接続すれば、ロボットは外界を「見ている」のだと思い込んでいる人が、呆れるほど多いのだ。そういう中では気づいただけでもマシな方だと自分では思う。しかし、こういうことは本来、自分で気づくのを待つようなことではないのではないだろうか。気づく経験を持つことが大切な場合もあろうが、このことに限って言えば、専門研究者ですら気づかないことが多いというのでは、いろんな意味でマズイではないか。もっと早いうちから教われば、それで済むことなのではないかと思う。

ただ、我ながら興味深いと言えば興味深いのは、1977年の当時ですらわたしは「心=脳」だとは、全然思っていなかったということだ。今のわたしに言わせれば脳は「身体生理機械の制御器」だということになるが、中学生のわたしは制御理論をまったく知らなかった(電気工作少年だから「フィードバック」はよく知っていたが、その理論=算数は知らなかったということだ)から、端的に「脳はひどく性能の悪い計算機だ」と思っていた(どれほど性能が悪いかは、試験の答案についてくる点数がいやというほど証明してくれている)。そうすると、大型計算機でさえ簡単な英文翻訳ができないのに、脳にできるはずがないではないか。そう考えるのが計算機屋というものだ。原理的には脳よりも計算機の方が圧倒的に賢いと信じていればこそ、それに熱中することもできるのである。

どうもここらへんが中学2年生のわたしの限界だったということになる。本当はそこから一歩進めば「脳だけではない、身体生理だって、結局は機械=計算機ではないか」ということに気づいてもおかしくなかったはずである。あるいは妄想の中では、微妙にそれに気づいていたかもしれない。けれどもそのことを深く考えてみなかった、というのは、上のようなことを考えていても、わたしは心のどこかで「生命の神秘」には計算機の構成を超えた、何か非常に特別なところがあるのだと、強く思いたがっていたようなのである。

肝心なところで「生命の神秘」にゲタを預けてしまっていたというところが、我ながらいかにも中学生だ。でも自分で自分を弁護するなら、要は当時も今も未知なのだということだ。大人の科学者なら、未知はただ未知だと言えばいいのだということを心得ているものだが、中学生はそんなこと知らないというか、たぶんそのような言葉の使い方が、自分にできそうな気がしないのだ。そこで「未知が未知である」ことを神秘の側へ預けておこうとするわけである。このくらいの年齢のコドモがしばしばオカルト的なことに興味を持ったりするのは、曲がりなりにもカタチのあるオカルトに言及することが、カタチのない(抽象)論理「未知が未知である」の代用表現になっているのである。

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わが1977年の人工知能批判(1)

2009年03月01日 | miscellaneous 2
我ながらちょっと仰々しすぎて、よくない題名だが、わたしの1977年は中学2年である。近頃の流行語に言う「中二病」というやつで、当時のわたしは今以上に仰々しいことばかり考えていたような気がする(…今の方がひどいかな?)。そう言えばエントロピー、熱力学の第二法則というのを知って真っ青になったのも、確かこの年のことだった。

それはともかく人工知能の話である。わたしが人工知能について、とにもかくにも具体的な研究がどんなものであるかを初めて知ったのは、実はもっと前、小学生のころ、NHK教育でやっていた白黒番組(!)の「コンピュータ講座」を見ていた時だった。おそらく何度もシリーズ再放送されたうちの1回を見ていたのだと思う。いま調べてみると第24回に「機械翻訳」と題された回があるので、たぶんそれだ。

わたしの計算機屋としての経歴を説明するなら、どうしてもこの番組を見ていたところから始めなくてはならない。だが今は人工知能限定の話だ。正直言ってその回のことは、確かに番組を見たということくらいしか覚えていない。全体として「これがなかなか、うまく行かないんですよ」といった雰囲気だったことが、うっすら記憶に残っただけだった。

実際には中学校に入ってから、その中学校の図書室でたまたま、コンピュータ講座の司会として名前を覚えていた森口繁一大先生の「電子頭脳」と題された一冊を見つけて読んで、それで改めて具体的な内容を、今度はちゃんと理解したのである。ちなみにこの「電子頭脳」という本、いま調べてみると初版はなんと1964年だ。しかし、おそらく途中で何度か増補改訂されたのであろう、わたしが読んだものには件の「機械翻訳」の回で紹介されていた翻訳アルゴリズムが、啓蒙書に似つかわしくないほど丁寧に説明されていたのだった。

本が手元にないので引用もできないが、やってることはいたって単純なことで、英単語→日本語の辞書に加えて、翻訳ルールとして構文規則も一緒にデータベース化されていて、その規則を再帰的に(その再帰もあまりちゃんとしていなかったような記憶があるのだが、一応はそういう風になっていたはずである)適用しながら翻訳して行くというものである。単純と言えばホントに単純だが、しかし、今でも売られている機械翻訳ソフトというのも、大方はこれと大差ないアルゴリズムで動いているはずである。

正直言うと、最初はちょっと感動した。こんな簡単な仕掛けで英文を日本語文に、まあまあの精度で翻訳できるのだったら、研究が進んで、あと辞書が充実すれば、実用的な機械翻訳などはすぐにも実現しそうに思えたものだ。しかしその本の中でもある程度言及されていたことだが、よく考えていくと、この方法には容易に解決できそうもない難題が控えていることが、次第にわたしにも理解されてきたのである。

その本に書かれていたかどうかは記憶が定かでないが、要はいわゆる「時蠅は矢を好む」問題である。「Time flies like an arrow.(光陰矢のごとし)」という一文を翻訳機にかけたら「時蠅は矢を好む」などという突拍子もない訳文があらわれた、というアレである。しかし、そうと計算機に言われてみれば、なるほど、この英文は確かにそう訳すことも可能だったということに、初期の機械翻訳の研究は、そこで初めて気づかされたのである。英語の苦手な中学生が誤訳するのとはわけが違う。この一見デタラメ訳は、論理的にはまったく正しい訳文のひとつであって、つまり、任意の英文に対してこのような妙な訳文が出力されてしまう可能性を、計算機は原理的に排除することができないのである。たとえCPUがどんなに速くなっても、記憶容量がどんなに増大しても、尋常な手続き型プログラムのかわりにニューラル・ネットワークやファジイ論理を使うような工夫をしようと何をしようと、計算機には「時蠅は矢を好む」のたぐいが突拍子もない「迷訳」であるゆえんを、体系的な論理として理解させることができないのである。

ちなみにいまパソコンの機械翻訳ソフトに「Time flies like an arrow.」を訳させると、モノにもよるが(!)、たいていは正しい訳を出力してくる。これは、しかし何のことはない、翻訳辞書ファイルの中に「Time flies like an arrow.→光陰矢のごとし」という規則が書き込んであるだけなのだ。まさしく、ゲーマー諸君が言うところの「チート」である。「時蠅」の例はあまりに有名だし、翻訳ソフトのメーカーとしては、高価なソフトが早々にボロを出さないように、その種のチートを山ほど辞書に放り込んでいるというわけである。当然ながら、それが問題の解決にも何もなっていない、ただのごまかし、チートにすぎないことは、翻訳ソフトのマニュアルで指示されているような例文ではない、Webや英語論文から拾ってきた任意の1パラグラフを翻訳させてみれば、それがまるで使い物にならない代物であることは「誰にでも」すぐにわかってしまうのである。

1977年のわたしの手元にパソコンはまだなかったから、系統的な実験はできなかったが、そんなことしなくたってこの方法がダメだということは、紙の上でいくつか試しているうちに、おおよその事情は掴めてきたのであった。中学校の英語教科書からネタの例文を拾ってきて試してみるだけでも、それをアルゴリズムだけで(単語レベルの辞書データは揃っていると仮定して)まったく機械的に、正確に訳すことが、本当はどんなに困難であることかは明らかであった。

しかしまあ、どうしたことだろうか。計算機にはこれができないというのは理解できたが、だったらなぜ人間にはできるのだろうか?それも、かくべつ何も考えることもいらないくらい、いともアッサリ、しかもハッキリとわかるわけである。中学2年生で、しかも英語は大の苦手なわたしの英語力なんぞは、ほとんど無に等しいわけである。けれど、それでも「時蠅は矢を好む」なんて訳文はないだろ、ということは、英語について何ひとつ知らなくても明らかなのである。なぜわかるのだろう?この方がよほど不思議なことではないか。それは、中学生の頭で考えてみるに値することだった。

(つづく)

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心の再発見まで(まえがき)

2009年02月28日 | miscellaneous 2
カテゴリの題名はJ.R.サールの「心の再発見(rediscovery of mind)」が元ネタである。邦訳者がボンクラなせいで、訳書の題名から「再(re-)」が抜けてしまったのは、かえすがえす遺憾なことだ。我々は誰もが、少なくとも自分には心(mind)があることを素朴に、だが疑いようのない確からしさで知っているし、自分自身の存在に等しい切実さが伴う何かであることも知っている。だが奇妙なことに、自然科学も哲学もこれらをどこかに紛失してしまって久しいのだ。サールの本は、だから、それらを「再発見」しようという哲学の試みなのだ。素朴な直観をないがしろにはしない英米哲学の美点が「再」の1文字によく現れているのに、それを抜かしてしまうのはひどい無理解ではないだろうか。

まあ、それはそれとして、以下の話はサールの哲学とはほとんど関係がない、わたし自身の話である。わたしが心の再発見にたどりつくまでの考え方の変遷を、自らたどり直してみようというのが、このカテゴリの趣旨だ。現在のわたしの考えは我ながら嫌になってくるくらい広い範囲に及んでいて、そもそも自分が何をしようとしているのか、時々は自分でもわからなくなったりするほどのことになってしまっている。自分の考え方の流れをたどり直すことで全体の見通しを再確認できるようにしておこうというのが、これを書く第一の目的である。

このblogで哲学めいたことを考察したりしていても、本来のわたしはミもフタもない理科系の人間で、ゴリゴリの「唯物論者」である。確立された物理学と進化生物学の知見に仇なすような種類の観念哲学などは一語たりとも認める気がない、そういう意味では、現在のわが国では最も平凡で穏当な見解の持ち主のひとりであるはずだ。そういうわたしが、しかしこのblogでは限りなくデンパの領域に近い考察をやっていたりすることは、事情を知らない人からはひどく異様で矛盾した態度だと見えるに違いない。だが本当はそうではない、これはこれで自分にとっては必然的にたどりついたつもりの場所なのである。どうすればそれを示せるかということに関連して、バカさ加減がおおよそわたしと同じ程度の人であれば、わたしと同じような考えの道筋の必然性をたどって「誰でも簡単に心を再発見することができます(笑)」といったテクニカル・ライティングのたぐいを試みることが、もうひとつの目的である。

まえがきを書いているうちに今日は休日出勤しなければならなくなった。本題は次からになる。次回「わが1977年の人工知能批判(仮題)」。

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