惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

断片

2014年05月20日 | チラシの裏
以下はあるテーマについて論じている中の余談として書いた、小学生のころの思い出話のようなものである。思い出話の部分だけ抜き出したので、本当のところ何を言わんとしたものかは、たぶん読んでも判らないはずであるが、許してもらうことにする。



(前略)当時の日本は高度経済成長のまっただ中で、科学技術の進歩が人類全体にバラ色の未来を開くであろうというようなことが、今日からはおそらく想像することもできないくらいの水準で(少なくともわが国では)強く確信されていた時代であった。それはそれで、小学生のわたしにとって少しも悪い話だとは思われていなかった(実際、今だって少しも悪い話だとは思わない)のであるが、それでもある日、いやある晩、ふと嫌なことに気がついた。

そうやって無限に(とはこの場合、「際限なく」という意味である)進歩して行った先の世界に何があるのだろう、ということである。

それが、思い煩うことの何もない世界だというのは、確かなことであろう。進歩とは何かと言ったら、そういう悩みの種をひとつずつ潰して行くこと、それも、ふたたび同じ悩みが生じない形でそれを潰すことである、そう言っていいであろう。そうすると、いつかはその悩みのネタも尽きることになるであろう。完全に尽きなくても、たとえば99%尽きたら、事実上は尽きたも同然だと見なせるようにはなるであろう。

で、実際に未来がそういう世界になったとしよう。そしたら俺は、もしもその時まだ生きていたとすれば、はて、俺はそんな世界でいったい何をすることになるのだろうか(笑)。まったく何もすることがないのではないだろうか──だろうかではない。以上の前提が正しければ、実際まったく何もすることがないのである。

もちろんそういう世界では、何よりまずコドモは勉強しなくていい(笑)、学校に行かなくていい、大人も働かなくていい、仕事に行かなくていい、毎日美味しいものを食べ、食べてすぐ寝てしまっても叱られない(笑)、人間どうしが憎みあい、殺しあうこともなければ、そのような争いが生じる可能性について考える必要もない、とにかく思い煩うことが何もない世界である。どこまでも結構づくめな、そういう世界で、実は「わたし」は何もすることがないのである。

寝たり食べたりはするとしても、それらの欲求が生じたと同時に満たされる、少しの遅延も抵抗もなく正確に満たされる、つまり自分の意志では指一本動かす必要がない。そういう意味では意志を持たないロボットと同じである。苦痛らしい苦痛は何もない、今ある世界(1970年前後の世界だ)を思えば天国にも等しい世界である、にもかかわらず、言いかえればそれは、そうした世界では、人間は事実上ひとり残らず死んでしまっている。動き回ってはいてもゾンビであり、ロボットである。そうとしか言いようがないのである。

そんなことをひとしきり空想して嫌な気分になった。なったけれども、まあ、自分が生きてるうちにそんな世界がやってくるはずもない、そうなることがあったとしても何千年何万年と先の遠い未来であろうし、そんな遠い先の未来について自分がいかなる義務も責任も負わされているはずがないことも明らかであったから、このことが小学生の日々に深刻な影を落とすということは、基本的にはなかった。

なかったけれども、今もこうして時々それを思い出して書くことができるということは、忘れたこともなかったということである。

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オズボーンのチェックリスト・私訳

2014年05月17日 | チラシの裏
「オズボーンのチェックリスト(Osborn's checklist)」とは、ブレーンストーミング技法の考案者アレックス・オズボーン(Alex Faickney Osborn)の著書『想像力活用法(Applied Imagination)』(未邦訳、1953)の内容にもとづいてMIT創造性工学研究室(MIT Creative Engineering Laboratory)が列挙した9項目とされているものである。※

このリストには微妙に異なる版がやたらと多く存在していて、現時点ではどれがオリジナルなのか確定できていないことをお断わりしておく。実のところこのリストのオリジナルが文書化されたものとして存在するのかどうかもはっきりしない。1950年代のMIT(マサチューセッツ工科大学)に創造工学研究室なるものが存在したことは確からしいのであるが、なにぶん半世紀以上も前の話である。なお、以下の参照は原書初版(1953)のものである(1963年に3版が出ていることが確認される)。これを書いている時点ではKindle版が1000円未満で買える。

Osborn, Alex F., Applied Imagination: Principles and Procedures of Creative Thinking, Scribner, New York, 1953

この私訳を作ることにしたのは、もともとWebでこのチェックリストについて調べていて、和訳して紹介しているページのどれを見ても要領を得ないと感じたことがきっかけである。仕方がないから英語の原文を探して(上記の註の通り、これも原文を確定できなかったのであるが、それでもまあだいたい原文はこうなのだろうというところで)読んでみると、これは私的に改訳してみなくてはならぬという判断に達したものである。



1. 他の用途を探す(転用)
ものは現状のまま、使い方を新しくできないか。(現状のままは無理でも)修正を加えればできないか。
2. 間に合わせる(利用)
これと似たものはないか。禍を転じて福となせないか。過去に事例がないか。何かの模倣で済ませられないか。誰かの真似で済ませられないか。
3. 変更する(修飾)
捻りを加える。意味を変える。色を変える。動きを変える。音を変える。臭いを変える。様式を変える。形を変える。他にもないか?
4. 大きくする(拡大)
つけ加える余地はないか。もっと時間を。もっと頻度を。もっと強く。もっと高く。もっと長く。もっと厚く。もっと余分に。もっと材料を。複製する。反復する。誇張する。
5. 小さくする(縮小)
切り詰める余地はないか。小さくする。狭める。ミニチュア化する。低くする。短くする。軽くする。省略する。無駄を省く。分割する。控えめにする。
6. 他のにする(代替)
他の人物。他のモノ。他の材料。他の素材。他の製法。他の動力。他の場所。他の方法。他の声色。
7. 組み替える(再編)
部品のあれとこれを逆につける。構成を変える。配置を変える。順序を変える。因果を逆にする。進行を遅く/速くする。完了を遅らす/前倒す。
8. あべこべにする(逆転)
正負を反転する。反対側につく。後退(逆回し)する。天地を逆さにする。役割を逆転する。靴の左右を逆にはく。攻守交替する。押して駄目なら引いてみる。
9. 組み合わせる(結合)
混合する。融合する。詰合わせる。合奏させる。部品を組み合わせる。目的を組み合わせる。利点を組み合わせる。着想を組み合わせる。

せっかくだから原文もコピペしておく。

1. Put to other uses?
New ways to use as is? Other uses if modified?
2. Adapt?
What else is like this? What other idea does this suggest? Does past offer parallel? What could I copy? Whom could I emulate?
3. Modify?
New twist? Change meaning, colour, motion, sound, odour, form, shape? Other changes?
4. Magnify?
What to add? More time? Greater frequency? Stronger? Higher? Longer? Thicker? Extra value? Plus ingredient? Duplicate? Multiply? Exaggerate?
5. Minify?
What to subtract? Smaller? Condensed? Miniature? Lower? Shorter? Lighter? Omit? Streamline? Split up? Understate?
6. Substitute?
Who else instead? What else instead? Other ingredient? Other Material? Other process? Other power? Other place? Other approach? Other tone of voice?
7. Rearrange?
Interchange components? Other pattern? Other layout? Other sequence? Transpose cause and effect? Change pace? Change schedule?
8. Reverse?
Transpose positive and negative? How about opposites? Turn it backward? Turn it upside down? Reverse role? Change shoes? Turn tables? Turn other cheek?
9. Combine?
How about a blend, an alloy, an assortment, an ensemble? Combine units? Combine purposes? Combine appeals? Combine ideas?

出典:J.M. Higgins, Innovate or evaporate: creative techniques for strategists, Long Range Planning, Vol. 29, No 3, pp. 370-380, 1996 (reprinted from Alex Osborn, Applied Imagination, Charles Scribner’s & Sons, Inc., New York)

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(「臨在論」用資料)臨在を「liveness」として考察したことのまとめ

2014年05月05日 | チラシの裏
以下は半年ほど前にtwitter上で、いま「臨在」と訳してみようとしていることを「liveness」として考えようとした(考えた、とまでは言えない)時の、一連の呟きを抽出して並べたものである。いま考えようとしていることに関連している部分もあれば、全然関係ない部分もある。なお、他人の呟きが引用されているのは、もともとこのblogでもtwitterでも、こんな風に他人の呟きをとっかかりにして勝手に自分の考えを進めるというのが、わたしのやり方になっているというだけで、とっかかりが何だったか示しておかないとそこから先も不明になってしまうから引用するまでである。もとより一面識もない他人の呟きにケチをつけたい意図は(そう読もうと思えば読める場合があるとしても)まったくない。そもそもこの記事自体が、以後「臨在論」を書くのに自分で参照するために作ったもので、他人が参照することは(してもさしつかえないから公開するのであるが)想定されていない。

2013年10月11日

3)無反応の存在とは、唯一無比な身体(私のいま・ここ)のこと
(2013年10月11日 0:32 芦田宏直@jai_an)

べつにおかしなことが言われているのではなく、わたし自身がどうにもこのような形での「身体」という2文字の使い方に馴染まない。どうも身体というとわたしは生理学的な身体、つまり普通に肉体と呼ぶものしかイメージしないことになっているようだ(01:29:16)

そうではなくてこのRTの場合の身体とは、カッコ書きの中にあるように「いまここ」ということ、わたし自身のために(笑)わかりやすく言えば「ライブ」ということだ。liveは動詞なので名詞形にすればlivenessということになる(これは実際、分散型計算で用いられる術語でもある)(01:34:22)

とりあえずややこしく考えなければ、このlivenessはある/なしの2状態をもち、伝達言語に付随させられる属性のひとつである。liveness属性はただ付随するだけではなく、その状態によって伝達言語に意味の差異を与えることができるという意味でそれ自身が意味をもつものでありうる(01:44:29)

・・・かどうかは、そう簡単には言えない。メールのやりとりやtwitter上での対話のような場合には空の伝達言語すなわち沈黙が意味を持つから、それがlivenessの固有の意味なのだと考えることもできるが、それはややナイーブな見方である(01:54:24)

つまり沈黙とは伝達言語がないというよりは空の伝達言語∅としてあるのであって、いまliveness属性を演算子Lとかけば、沈黙の意味とはLそれ自体ではなくL∅に対応して与えられるものと考える、この方が形式的には自然である(自然だから真だと言いたいわけではない)(02:00:16)

べつに形式的に厳密な議論をしたくてこんな珍妙なことをやっているのではなくて、liveness属性が固有の意味をもつと言えるかどうかは不定だといいたいだけだ。確かなことはliveness属性の状態が伝達言語に意味の差異を作り出すということである(02:05:43)

話を変える(引き続き「ただのメモ」である)。livenessがある、つまりライブであるということは実際何が違うのか。我々はライブで会話するときはそうでない場合にはない、ある独特の緊張を強いられる。それが快であるか不快であるかは別として、緊張させられることは確からしく思える(02:25:47)

なぜ緊張するのか、というより、そもそも緊張するとはどんな場合なのか。間違うことが許されない、間違えたら「取り返しのつかない」ことをやっている、つまりコミットしている、あるいはコミットメントをもつ場合である(02:29:27)

コミットすることは死ぬことではないが、死の暗闇に向かって一歩踏み出すことではある(02:40:52)

(最初の話とは全然関係なくなってきたので、セルフリプライをいったんここで切る)(02:53:13)

コミットすることは死の暗闇に向かって一歩踏み出すことである、にもかかわらず我々はしばしば恐れもなしに踏み出したり、恐れはあっても、それとは別に望んで踏み出していることがある(02:59:52)

それはなぜか、ということを考えようとしているわけだが、答えの枠組みだけは最初からはっきりしている。人間が根源的に欲しうることはたったふたつ「生きたい」と「死にたい」であって、個人に帰着されるいかなる行為もこのふたつとその内的な葛藤の帰結である(03:07:09)

・・・と、書いてみたがこれは全然おかしい(笑)。行為はすべて個人の行為であって、ふたつの欲求も個人の欲求だが、葛藤だけはそうではないからだ。内的に解決できない競合のことを葛藤と言うのであって、だから個人は葛藤とその解決(とは限らないが)においてどうしても閉じることができない(03:14:11)

昨晩から述べている通りこの葛藤の上に作用するのが権力である。権力がしばしばネガティブなものと考えられるのは、葛藤を通じて個人の内的過程に踏み込み、外側から勝手に行為をせき止めたり、逆に促したりする、要するに「振り回す」からだ(03:20:57)

一方でそれが全面的にネガティブであるとは言えないのは、実際、そのような力が外側から作用しなければ、行為の流れはひどく些細なことでそれ以上進むことも戻ることもできない暗礁に乗り上げてしまうからである(03:24:43)

自力でその状態から脱出する方法は、理論的には3つ、実質的にはふたつしかない。つまり「生きたい」と「死にたい」のどちらか一方を廃棄することである(理論的なもうひとつの可能性は両方を廃棄することだが、そんなことが可能だろうか)前者の廃棄は自殺、後者の廃棄は人間をやめることである(03:33:39)

おそらく、だから、人間に固有な死の欲動と、その葛藤を外側から解決(とは限らないが)する権力の発達は同時的に進行してきたのであろうと考えられる。死の欲動がなければ葛藤もないから権力に意味はないし、権力がなければ人間は内的な葛藤に圧し潰されて死ぬか、畜生に戻ってしまうからである(03:47:36)

死の欲動はそれ自体は個体にとって文字通り不吉なものでしかないが、人間存在を宇宙の暗闇に向かって押し広げて行くものでもあって、それによって人類は自らの生存する範囲を拡大し、天然自然の暴威を少しずつ克服してきたわけである。つまりそれが文明である(03:58:06)

・・・と、いう、このシナリオは、生物種としての人類がこのように生き延びてきたし、そうしようと思えば他の(人類に仇なすような)生物種を意図的に絶滅に追い込むこともできるほど現に優勢であることの事実と整合するように、とりあえず描いてみているだけのフィクションである(笑)(04:05:36)

フィクションではあるが、事実に関して過不足がなくなれば、これをひとつの理論と見なすことも可能になるのではないかと思っているわけである。過不足がないというのは詰め将棋とおんなじことで、手持ちの駒を残らず使って、過剰も不足もなくぴったり詰め切ることができれば、というようなことである(04:12:06)

2013年10月16日

非公開リストの登録件数がやっと400。もう何でもかんでも放り込んでるわけだが、少しずつバラけた印象になってきた(23:45:54)

ちなみに有名人のアカウントはあまり入れていない。全部がそうだとは言えないが、有名人のtwはどっかでmoderate(穏健化)されてるなと感じる。炎上防止ということなのだろうが、そのぶんだけlivenessは希薄化するように思える(23:50:49)

livenessについてはまだよい訳語を思いつかない。ジャイアンの人は身体と呼んでいるが、それだと肉体のことのようで違和感が残るというのは前に書いた(23:54:54)

2013年10月20日

身体というのは、自由平等の原理。自分以外は赤だといっていても、「でも自分は黒だと思う」と言える。これが自由の原点。
(2013年10月20日 16:27 中西大輔@daihiko)

自由平等の原点と言いたいのなら、なぜそれを「身体」と呼ぶのかが理解しがたい。身体というのはむしろ(も何も明らかに)不自由とサベツの原点であろう(17:16:50)

・・・これだと初見の人が勘違いするな。実際には「いまここ」のlivenessということが自由平等の原理だと言われているわけだが、ジャイアンの人はなにゆえかそれを「身体」などと呼ぶわけである(17:23:48)

強いて意味のありそうな方向に解釈してみれば、「いまここ」ということに束縛されることはかえって歴史性からの解放をもたらすので、後者は自由平等の原理のように思われるということなのかもしれない(17:29:50)

前者の束縛が何によって生じているか、もとをただせば身体だろう、ということなのだろうが、しかしこれはあまりよくない唯物論の語法だと思える。動物は身体を持ち生きていると言えるが、束縛ということはない。livenessが束縛であるのは(そして歴史性からの解放であるのは)人間だけである(17:35:32)

訂正:×livenessが束縛であるのは(そして歴史性からの解放であるのは)→束縛としてのlivenessをもつのは(そしてそれが歴史性からの解放であるのは)(17:38:02)

それでも「身体」の2文字を用いることに固執する理由があるとすれば、livenessという語はそれ自体には束縛を示唆するものが何もないように思われるから、ということなのかもしれない。一方、「身体」の2文字は束縛ということのほとんど直接的な比喩である(17:42:50)

でもそうだとすれば「livenessへの束縛」と言えばいいだけだ(笑)(17:46:48)

2013年10月28日

「お前が言うな」がなければ、ソーシャルとは言わない。
(2013年10月28日 13:05 芦田宏直@jai_an)

何言ってんのかよくわからないのだが、解釈してみるとつまり、「お前が言うな」とは「自分のことを棚に上げてものを言う」ということだから、ソーシャルとは「自分のことを棚に上げてものを言う(ことができる)場所」ということになる(16:58:15)

さらに「ソーシャル」というクソ嫌ったらしいカタカナ語の意味を斟酌すれば、「自分のことを棚に上げた発言を晒せる(晒しものにして平然としていられる)場所」だということになる。つまりジャイアンの人の考えでは、twitterは「話しあい」の場所ではなく「晒しあい」の場所だということである(17:02:54)

なんだ、「だいたいあってる」じゃないか(笑)ツッコミどころがなくてつまらんな(笑)(17:04:59)

嘆いたってないものはないので、解釈を続けてみる。twitterは「晒しあい」の場所だということは、twitterの内外でtwitterが「バカ発見装置」だと言われているのとほとんど同じことを指している(17:21:18)

ただ、後者の言い草はたいてい否定的な文脈で用いられるが、ジャイアンの人はこうしたことを必ずしも否定的には考えていない。ご本人は「両義的」だと言っている(17:23:12)

何が、なぜ「両義的」なのかと言えば、twitter上の呟きは(botでなければ)すべて「(バカを平然と)晒したもの」には違いないわけだが、一方でそれはliveness(「いまここ」ということ)に束縛されている(17:27:30)

普通の言葉でわかりやすく言えばtwitter上の呟きというのは誰がいつ呟いた場合でも「究極の本音」であるか、究極の本音に触れたところをもっていて、なおかつ、それに触れたところを持たずに呟くことができないということである(17:32:32)

この性質は言語の媒体(medium)とされるものがかつてもつことのなかった性質だとジャイアンの人は主張している。実際、通常の媒体における言語(発言)は、誰が何をどんな風に言った場合でも「心にもない嘘っ八」である可能性を排除できないものとしてしかあることができない(17:36:40)

ところがtwitter上の呟きはlivenessに束縛されている、つまり究極の本音に触れて呟かれているので、つまりその接触点において「嘘っ八ではありえない」何かなのである(17:45:42)

「嘘っ八ではありえない」を「真実」の2文字で置き直すならば、したがってこういうことになる ── 「ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだらうといふ妄想によつて ぼくは廃人であるさうだ」(吉本隆明『廃人の歌』) ── そう、この詩は実は「ツイ廃の歌」だったのだと(笑)(17:50:20)

(ちなみに上の引用はジャイアンの人のblogから孫コピペした。旧カナで検索したら、たまたまこれが出てきたのだ)
増補版(Version 17.0)追悼・吉本隆明(芦田の毎日)http://www.ashida.info/blog/2012/03/pst_414.html (17:54:57)

しかしここはもうひとつ別の詩を引用してみたいところだ。twitterは上述の意味で究極の反権力とか不服従とかの装置でありうることになるわけだが ──

不服従こそは少年の日の記憶を解放する
と語りかけるとき
ぼくは掟てにしたがって追放されるのである
(吉本隆明『少年期』最終3行)(18:07:31)

今年の夏はtwitter上でその「少年の日の記憶」をうっかり解放してしまい、「掟にしたがって追放」されてしまったワカモノがずいぶんたくさんいたことである(18:10:30)

twitterにどんな肯定的な面があり、それを認めるとしても、それは「世界は異常な掟てがあり 私刑があり」(同上)というこの世の条件を何も少しも変えるものではないということである(もちろん、他にそれを変えるものがあるのかと言えば、これまでのところは絶無である)(18:25:20)

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人が何かに注目すること(6) ── 臨在論(1)

2014年05月05日 | チラシの裏
「物語論」を書いていたときからどこかで関連づけて考察したいと思いながら、なかなかできないでいる概念のひとつはプレゼンス(presence)である。

カタカナ語はなるべく使わないようにしているのだが、これがなかなか、いい訳語がないわけである。原語もそんなにいい語ではない。通常の意味は存在ということだが、ここで考えようとしていることは、説明的に言えば「いまここの現実に束縛されている(コミットしている)こと」ということであって、プレゼンスという語で表したいのはその「いまここの現実」ということなのである。いちいちそう書いてもいいのだが、7文字は少々多い(笑)。またくどい。

思えばコミットメントも半ば無理矢理「束縛」と訳してみているわけで、その無理矢理をやめてしまうと「プレゼンスにコミットしていること」となって、こうなるともう書いてる方も、いったい何を書いているんだか自分で判らなくなってくる(笑)。読む方はなおさらであろう。

専門の哲学の知識がある人は「それは『現前』だろう」と言うかもしれない。確かにそうなのだが(笑)、どうもこの訳語には悪い意味での形而上学的な手垢がつきすぎている。実際、「現前」を辞書で引くと、たとえばこんなグワイである。

現にここにあること。感官・意識に現れていること。西欧形而上学では恒常的実体と結びつけてとらえられたが、ハイデガーはそれを出来事として考え、デリダも脱構築の対象としている。
三省堂 大辞林より)

この説明の字面がいったい何を言ってるのか、おぼろげにでも判るのは専門の哲学者とその学生くらいなものであろう。だいたい、ハイデガーとかデリダとかのチンプンカンプンはできるだけ相手にしたくない(笑)と思うわけである。※

まあ、ハイデガーの方はデリダみたいに頭からしまいまで何言ってるのかマジで一切理解できないチンプンカンプンではないが、それでもやっぱり、かなりチンプンカンプンである。ハイデガーの哲学は古代ギリシャ語やドイツ語の、言語それ自体の成り立ちに強く依存した──悪く言えば駄洒落じみた──書き方がなされている。それは、どちらも我々にとっては、もともと判りにくいことがわざわざ謎の宇宙人の言語や習俗に沿って書かれているようなものなのである。

割と通りのいい訳のひとつに「存在感」というのがある。言葉としてはこれが一番判りやすい。ただこちらの方は「現前」とは逆の方向から、つまり通俗的な紋切型の手垢がついているわけである。昔ビートたけしの本を読んだらこの語を槍玉に上げて「何が『存在感』だ。ただ目立ってるってだけじゃねえか」と書いてあった。まったくその通りである。実際、この語はそういう意味なので(笑)、使い方が間違っているわけではないのだが、映画やドラマの中の役者とかその演技とかが「目立ってる」という、ほんとはただそれだけのことを、わざと知識ぶって「存在感」が云々と書く、この語はそういうお座敷評論の語法に属しているわけなのである。

あれこれ悩んだ結果として、これもコミットメントの場合と同じように、試しに「臨在」と訳してみることにする。これは辞書にある言葉で、英語に訳せばpresenceだと出てもいる。

ただしこの語の本来の意味においては、「臨在する」のは(キリスト教の)神様である。つまりこの論考の文脈に沿って言えば、注目によって対象が創出されるというのも、創出するのは神様つまり造物主であろうという風に、オーベー人は(その形而上学において)伝統的にそう考えてきたらしいのである。我々の目にものが見えるのは神を介して見ているからである(マルブランシュ)というように。

キリスト教徒でもなければオーベー人でもない我々はその神様のような存在を知らない。ゆえに、以下で「臨在」という場合も、その主が誰なのか、それは単にどうでもいいことだと見なされている(笑)。

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人が何かに注目すること(5)

2014年05月04日 | チラシの裏
以下はランダムな考察の断片である。考察というよりは妄想に近い。もう少し突っ込んで考えないと本当らしい話にはならない。



前回書いたように、注目ということはその深さによってパラメタ化される。そしてこの深さということは同じ種類の注目のしかたを共有しうる範囲の広がりに逆比例するように対応している。テキストをミミズののたくりとして経験することはほとんど客観的な現実に近い、ほぼすべての人間の共有する経験である一方、注目の深さは浅い。それを特定の言語の文章として意味を(内的な経験として)読み取れるくらいになると、おなじ言語を母語とする人間の範囲に、さらに「言外の含み」のような暗示的な意味になると、その範囲はもっと狭くなる。

さらに狭めて行ったら、つまり注目の度合いが深さを増せば、それは言語の内側、内奥の沈黙から出てくることがなくなるであろう。

そうすると(前回述べたのとは)逆の極限、つまり深さ無限大の注目とは何だろうか?実在(性)は保証されない極限であることを前提とした上で、無限大の注目とはいかなる対象の創出であり、また拘束であるのか?



ある注目は特定の深さだけをもつというのは正しい見方ではないであろう。自国語のテキストを読む場合のように、我々は通常さまざまな深さの注目を重ね合わせてひとつの注目としている。つまり注目はその深さに関するスペクトラムとして表示される何かである。

この「注目の深さ領域」のスペクトラム表示に対応する「時間領域」的な表示を考えることができるであろうか。たとえばそれは意識状態の時間発展だと見なしてよいであろうか。

そこまで単純な話はできないように思われる。意識それ自体を力学系(dynamical system)に見立ててその状態の時間発展ということを考えたとしても、それは連続的なものではなく、まさに注目によっていたるところ不連続になっているからである。注目によって対象が創出されると「なかった昔には戻れない」、いいかえれば創出は、それが起きる前には我々はそれを知らない、つまり「意識は未来を知らないし、知るべくもない」。対象の創出は未来の創出であるとともに過去の破壊である。いたるところ不連続な過程はもはや過程とは呼べないであろう。

ネッカーの立方体を眺める場合のように、互いに排他的な複数の対象の創出と破壊が交互に生じる特殊な場合を除けば、対象は創出されるだけである。

破壊と忘却は異なる。過去は破壊されても忘却されるとは限らない。この意味で対象は記憶や像ではない。



読むのも書くのも忌まわしい、目にすることも口に出すこともしたくない言葉がある。時としてそれは固有名詞である。

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人が何かに注目すること(4) ── 前回の補足

2014年05月03日 | チラシの裏
前回触れた現実吟味(reality testing)ということ、つまり「じぶんの内的な経験と、その外の現実を区別する能力」について、もう少し突っ込んで考察してみる。

前回の考察でいくらか明らかになったことのひとつはつまり、現実吟味という場合の現実は注目の度合い(深さ)に関して相対的なものである、ということであった。外国語のテキストを読むことになぞらえれば、その意味がまるっきり判らない我々も、意味が判る(むしろ判らないということができない)外人も、紙の上に書かれている、印刷されている、あるいは液晶モニタか何かに表示されている、ミミズののたくりを眺める経験までは共通している。この意味で、ミミズののたくりを眺めることの経験は、それはそれでやはり内的な経験に違いないのであるが、それを文字として、あるいは文を構成する部分として注目することの経験に比べれば、相対的に、客観的な現実(objective reality)により近い経験である、もしくは、注目の度合いのより浅い内的な経験である。

前回ちょろっと名前を出したカントの場合はだから、注目の度合い(深さ)がゼロであるような内的な経験、つまり完全に客観的な現実、モノそれ自体(ding an sich)ということは経験としては成り立たない、それは経験しないということにほかならないと(いう意味のことを)言ったわけである。経験はすべて内的な経験であり、我々が何かを知ることは大なり小なりそれを経験するということなのであって、もはや経験として成り立たないモノそれ自体を我々は知ることができない、つまり、客観的な現実なるものは人間に可能な経験としては存在しないと(いう意味のことを)言ったわけである。

こうしたカントの洞察はまったく正しいと言ってよいであろう。我々が無条件に真理とみなしていいのは「我あり」ということだけであって、それ以外のいかなる経験的事実も「夢を見ているだけかもしれない」「悪魔に騙されているだけかもしれない」と疑ってみれば、いつでも、いくらでも疑うことができるわけである。これがデカルトの方法的懐疑(de omnibus dubitandum = doubt everything = スベテヲ疑エ)と呼ばれる論法であって、カントもこれを継承しているのである。

ただ、我々が考察してきたように、内的な経験はさまざまに異なる注目の度合い(深さ)をもつということは、これもどうやら確かなことである。したがって、いま、可能な経験すべてについてそれを注目の深さの順に並べた線形順序集合を考えるなら、その極限(limit)として注目の深さゼロの経験、つまり客観的な現実ということを想定することは可能である。我々が自然科学と呼ぶ種類の探究は、だから、この極限として客観的な現実を想定することの前提に基づいて営まれる経験的な探究であると言えよう。

そして、ついでに言っておけば、デカルトがそう呼んだ理性(reason)というのも、その(極限として想定される)客観的な現実についての経験をもたらすと想定される、つまりこれも人間の意識のはたらきの極限として(客観的な現実とパラレルに)想定されるものなのである。

デカルトの『方法序説』、その冒頭の第一文にいわく「良識(理性)はこの世でもっとも公平に配分されているものである」。それを意味のあるテキストとして読むことができようとできまいと、ミミズののたくりを経験することまでは我々日本人も外人も違いはしない。これを延長すればつまり、この世の誰であってもまったく同じように経験する経験の水準がありうる(極限として想定できる)、つまりそれが理性のはたらきであって、この世の誰もが同じように経験して少しも違いがない、ということはつまりそれは「この世でもっとも公平に配分されている」人間の意識のはたらき、その能力ということにほかならないわけである。

よく知られているように(笑)デカルトは数学者でもあったけれど、ここで用いたような極限の考え方を作り出したのはデカルトよりずっと後の時代の人々であるし(ここでは高校の数学で誰もが習う水準の考え方しか使っていないが、これとても論証として正当であると完全に決着したのは実に19世紀も後半のこと、ワイエルシュトラスの議論を待たねばならなかったのである)、何よりデカルトの『方法序説』は平談俗語を旨として書かれた本であったから、そのように、とはいえ冒頭の第一文からそれが書かれているのである。

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人が何かに注目すること(3)

2014年05月03日 | チラシの裏
注目することによって対象が創出されるという場合、目をそちらに向けること自体は意志による行為であると言えようが、対象が浮かび上がることの方は随意的ではない。随意的でないから打ち消せないのだとも言える。

現実感の喪失を伴うと言われる離人症(離人症性障害; depersonalization disorder)は「注目することの拒否」であるように思える。注目が不随意なので、その拒否も不随意に生じているということなのかもしれない。

離人症候群が、重大な心的外傷を体験した人にしばしば生じると言う確実な証拠があります。例えば、強制収容所への収容監禁のような持続的な生命脅威的体験後の生存者には高率に離人症候群が生じます。離人症候群と心的外傷体験を結ぶ証拠となる第二の例は、生命脅威的な危険に対する急性の心理反応です。
離人症性障害

ただし、いわゆる離人症の人でも「現実吟味は正常に保たれている(reality testing remains intact)」(DSM-IV-TR 300.6)とされている。

ちなみにこの現実吟味(reality testing)とは、じぶんの内的な経験と、その外の現実(reality)を区別する能力のことである。※

こう簡単に書いてある説明は、Webを検索して得られる説明からは得られなかった。この説明はわたしがWebでいろいろ調べた結果を自分なりに整理した結果である。

カントあたりが聞いたら青筋を立てて怒り出しそうな定義であるが、このrealityは何もモノそれ自体(ding an sich)のことを言っているわけではないと思われる。そうではなくて、人間の通常の(現実吟味能力を喪失していない)意識は、物事のすべてが内的な経験ではないこと、すなわち、ある物事についてそれが内的な経験に属さないことが判る、そのような部分述語(partial predicate)を持っているということを言っているにすぎないと思われる。

もう少し具体的に言ってみればこんなことになろうか。たとえば我々日本人が外国語のテキストを眺めたとき、その意味はまったく判らない(笑)が、そこにミミズののたくりみたいなものが並んでいることは判るし、ミミズののたくりが内的な経験に属さないことも判るわけである。

その意味が判る外人もミミズののたくりを眺めていることまでは(たぶん)同じであって、ただ外人はそれに加えて、ミミズののたくりを文字として、またその並びを語・句・文などとして注目し、その意味を内的に経験することが(我々が日本語のテキストについてならそれができるように)できているというだけである。

してみると、離人症というのはつまり、日常経験の多くが外国語のテキストみたいに感じられるというような症状のことなのではないだろうか。だとすれば、それはいったいなんという恐るべき苦痛であることか(笑)!

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人が何かに注目すること(2)

2014年05月02日 | チラシの裏
前回の文章は、最初は本当に「カリスマ」と題して書き出したものだったのである。

「物語論」の続きを書くのに詐欺とか洗脳とかの手口について調べ直していて(笑)、その中にはカリスマ的資質の持ち主が人々を幻惑し、支配するに至るといった場合なんかも含まれていたから、そもそもカリスマとは何だろうなとふと考えてみたら、要は「注目される人物」ということだと、なぜかあっさり気づいた(笑)。

この定義が既存のものよりよい定義だと主張するつもりはない。この定義に取り柄があるとすれば、カリスマということの本質を資質の神秘性みたいなところに置かないということである。

そうした資質の由来するところは、実際、究極的には神秘としか言いようがないかもしれない(笑)──神秘ということをわたしなりに定義するなら、それは「わたしの与り知らないこと」、知りうることの外ということである──だがそう言ってしまうと哲学にならない(笑)というか、それ以上踏み込んで考察することができないわけである。わたしの与り知らない、知りうることの外にあることは考えることもできない道理である。

そこで内奥の神秘ではなく、そのひとつ外側、誰もが日常経験すると言えそうな事柄の次元で定義し直してみたということである。そして「注目すること」は日常経験には違いないが、本質的に内的な意識の経験である。注目される対象が何であれ、注目するのはわたしの感覚器官でもなければわたしの脳神経でもなく「わたし」だということである。ゆえに科学の対象ではないわけである。

科学にならない対象はつまらない対象かというと、そんなことはない。それは前回引き合いに出した例からも理解されることではないかと思う。何であれ、我々がある対象に注目する、つまりそれを対象とすることには、かなり強い不可逆性があって、いったん創出された対象は創出した当人ですら容易に意識から追い払えなくなってしまう、つまり創出した当人を逆に拘束するものになってしまうわけである。この図式はたとえば、洗脳(マインド・コントロール)された状態の解除がたいてい異常に困難である(とされている)ことと似ていないだろうか。※

もっとも、多少丁寧に調べて行くと、そもそも洗脳とかマインド・コントロールといった概念は(いかなる学術的な基礎を想定したとしても)確立された概念とは到底言い難いもののようである。

急いで註をつけるが、もちろん、だからといって、通常これらの語に絡めて語られる技法や、結果として生じる心身の状態の報告が一般に虚偽であるとか、そんなことを言いたいわけではない。ハゲは概念として確立しがたいからと言って、ハゲは存在しないというものはあるまい。もしもそうなら、どうしてヅラが存在するのであるか!これが(素人)哲学の方法である。感嘆符まではいらないけど(笑)。

「注目すること」のこの性質は、そもそも我々がもつ現実感の根拠にもなっているはずである。現実はテレビ映像を消すように消すことはできない何かである。我々はまさにこの意味で現実に束縛されている、抜き差しならない、後戻りのきかない形で関与し、あるいは巻き込まれている、つまり、現実にコミットしているわけである。



言挙げ(ことあげ)という言葉がある。揚言(ようげん)ともいう。後者で和英辞書を引くとdeclarationとかproclamationとかと出てくる。つまり「宣言」である。

しかし日本語の「言挙げ」は「言わんでもいい、いらんことをわざわざ言う」というような、たいていは否定的なニュアンスで使われる言葉である。これは、そもそも言挙げという言葉の語源がそもそも『古事記』の次のエピソードにあるからである。

ここに詔りたまひけらく「枴(こ)の山の神は徒手に直に取りてむ」とのりたまひて、其の山に騰ります時に、白き猪に、山の辺に逢ひたまへり。其の大きさ、牛の如くなりき。爾、言挙げ為て詔りたまひけらく「是の白き猪に化れる者は其の神の使者にこそあらめ。今殺さずとも還らむ時に殺してむ」とのりたまひて騰り坐しき。ここに、大氷雨を零らして倭建命を打ち惑はしまつりき。
(中略)
此の時御病甚急になりぬ。爾に御歌よみして曰りたまひけらく

    少女の 床の辺に 我が置きし 剣の刀 その刀はや

歌ひ竟へたまひて、即て崩りましぬ。

「今殺さずとも還らむ時に殺してむ」などと、いらんことを「言挙げ」したために、ヤマトタケルは白猪に化けていた山の神の怒りに触れて死ぬことになったと、だいたいそう考えられてきたわけである。

逆に言えば、言挙げは実は「いらんこと」ではなく、宣言型言語行為であって、つまり社会的事実や制度といったものは、そもそもここから生み出される当のものである。つまり言挙げすることは、そのつもりがなくても、既存の体制・秩序・権威に対する反定立(アンチテーゼ)の意味を持ってしまうことがある。場合によってそれは天とか神とかの権威であったりしかねないわけで、そうなると戒められるべき罪だということになってしまうわけである。

一方でまた、それを「いらんこと」だというのは、宣言型言語行為の奇妙な性質をよく表している。宣言型言語行為は社会的事実を創出(create)するので、創出された後では「言わでもがな」の、つまり「いらんこと」に思えるということである。誰かが目の前にあるものを指さして「これはペンです」と言えば、なんでわざわざそんなことを口に出して言うのか、と思われたりするが、実は誰かがそう言い出す前にはそのペンは社会的事実としては存在していなかったのである。そして「言われてみれば」つまり言われてしまった後では、そのペンがそこに存在するという事実はその場に居合わせた誰にとっても消しようがなくなっている。人はそのことに驚くよりは、「いらんことをわざわざ言っている」かのように、むしろ感じる。コロンブスの卵のようなものである。

「言挙げ」ということは、わが国においてはまた、しばしば「言霊」という考えと結びつけて言われることが多いものである。言霊というのは簡単に言えば言葉それ自体に生命やタマシーが宿っているという考え方で、つまり一種の神秘主義であるが、どうして、どこからそんな考えが生じるのかということは、宣言型言語行為の性質を考えてみれば割合簡単に理解できる。

宣言型言語行為によって創出された社会的事実は、創出されると同時に、その言葉を了解した全員を拘束することになる。その言語行為をなした当人を(仮に)消去したとしてもその拘束は消えない。その拘束が拘束として意識されれば(拘束なんだからそれはありうるだろう)、その拘束の拘束力は言語行為の主よりは言葉そのものから発しているかのように感じられても、べつに不思議ではないということになるわけである。むろん、じじつは言語行為によって居合わせた個々人がその事物に「注目する」、つまり対象を対象として創出する一方でそこから拘束されているので、つまり個々人の内的な意識において拘束が生じているだけである。

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人が何かに注目すること

2014年04月30日 | チラシの裏
カリスマとは、他人から注目されるような人物の個性(特徴)、またそのような個性(特徴)をもつ人物のことである。※

そんな定義は聞いたことがない、と思う人がいたら、それは当然である。上はいまわたしが新たに作ったのである(笑)。他に定義があるのを知らないで作っているわけでもない、Wikipediaの解説などは真っ先に参照している(「カリスマ」)。

人が何かに注目する(注目させられる)とき、その理由が「特定の人物に結びついている」ということがカリスマの本質である。たとえば、何か珍しい(人の注目を集めそうな)品物を持ち歩いている人は、そのことだけでカリスマ視はされないが、その人が「いつ見ても珍しい品物を持ち歩いている人だ」という評判が立つようになれば、それは(ごく弱いものであっても)カリスマであるということになろう。前者で注目されているのは専らその品物の珍しさであるのに対し、後者は人物とその個性(特徴)が注目されているわけである。

それにしても、人が何かに注目する(注目させられる)というのは、それによって何をしていることになるのであろうか。

機械は注目しない。この場合「注目する」とは「主体(subject)が注目する」、つまり主体あっての行為であって、機械には主体はもちろん自我もないからである。機械が注目するように見えるとしたら、それはそのようにプログラムされているからであるし、そのプログラムを書くのは人間である。つまり機械の注目(のように見えるもの)はあくまで人間がする注目の道具として、つまり人間の目のかわりになっているだけである。たとえば戦場の無人兵器が敵兵に注目する(ように見える)とき、それは遠方から無人兵器を操縦している人間の、電子回路と無線通信網あるいは軍組織の作戦計画や指令統制体系によって再構成された目になっているわけである。こうした意味で、注目するという行為は人間に固有のものである。当人の意識、あるいは無意識を含めた当人の心の何かにかかわることで、それ以外のことではない。

人が何かに注目するとき、注目する対象はそこではじめて視野にうつる光景の全体から抜き出た対象になる。つまり注目は「それを対象とする(make it the object)」ような宣言的(declarative)行為である。

たとえば「間違い探し」の絵を眺めているとき、間違いが見つかる前と後ではその絵の見え方が変化している。見つかった後では間違いの個所が対象として見えている。興味深いことに、この見え方の変化は多くの場合不可逆的であって、一度間違いの個所に気づいてしまうと、気づく以前と同じようにその絵を眺めようとしてもできなくなっているものである(笑)。対象を対象として創出したのはそれを見ている主体であるのに、創出した後では主体は対象から拘束されている。あるいは、ことはまったく同時的であって、対象を対象として創出することは同時にその対象から拘束されることであると言うべきかもしれない。

この短い文章をカリスマの定義から始めたのは、これを言いたいためであった。マックス・ウェーバーの有名な議論のとおり、カリスマの持ち主は人や集団を支配する存在になりうるが、その究極的な根拠はこの「人が何かに注目すること」の本性にあるのではないかということである。ウェーバー自身の議論においてはカリスマ性を「預言者、呪術師、英雄などの個人に宿る非日常的な資質」(上掲のWikipedia項目より)としているわけであるが、別にそんな大それた資質でなくてもカリスマとカリスマ的支配は生じうるのではないだろうか、ということである。

人が何かに注目するということの意味はこれに尽きるわけではないが、実は、たったこれだけ書くのにまる一日費やしてしまった(笑)。続きがあればいずれまた書いてみることにする。

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やめてしまう、とまってしまう(書かない読まない人の物語論・番外)

2014年04月28日 | チラシの裏
題名はつまり「やめられない、とまらない」の反対、ということである。題名はつけたけれど、書き終えてみたらいったい何の話かわからなくなってしまった(笑)ので、今回は「番外」扱いすることにした。しばらくこんなのが続くかもしれない。



人の習慣行動は大なり小なり、もともとその習慣を持たないか、あるいは意図してやろうとしてもできない方から見れば、ひどく異様だったり、病的だったりするものである。

生きること自体が、ある意味ではそうである。生きているのはたいがい辛いこと、嫌なこと、悲しいことばかりである。たまには嬉しいこともある、とはいえ、総計としては焼け石に水もいいところで、損益が均衡していると思えることは、いったいどのような(ルベグ積分の意味で有限な)窓をかけて積算しても、決してないものだと言っていい。にもかかわらず、たいていの人はまるでなんでもなさそうに、さして変わり映えもない日々を楽々と過ごしているように見える。どうしてそんな風であって平然としていられるのか、それが何よりもわからない──と、だいたいそんな具合に落ち込んだ心の状態に陥ることは、確かにあるわけである。

むろん、やっている方からすれば、そうした落ち込みようの方がよほどわからないということになる。生きていることは喫煙の習慣とおなじ嗜癖(中毒)にすぎない。言われてみればその通りである。けれども、これといって大きな害があるわけでもない。麻薬のようにとめどもなく用量増大するわけでもない、その意味では驚異的に安定した、ロバスト(頑健)な習慣であるという点でも喫煙とおなじである。確かに総計はどう計算しても負の側にしか落ちてはくれないが、だからといって、べつにわざわざやめてしまうには及ばないし、そのいわれもないことである。

要するにこれらふたつの状態は分岐してしまっていて、どちらか一方に入ったら、意志して反対側には移ることはまずできないような関係にあると言っていい。とはいえ、それでも、ごくたまに跳躍は起こるように思われる。またその頻度がはっきりと高い人もいるし、特異的に跳躍が起きやすい状況もあるような気がする。

いずれにせよ頻度は低いし、起きてもほぼ一瞬のことなので、跳躍の過渡現象それ自体を解析するのはきわめて困難である。事実上不可能であり、不毛であると言っていいであろう。相転移現象の理解は、一般に、その相転移が生じるその瞬間の過渡現象の解析からは得られない。直接の原因をつきとめてみたら地球の裏側で一匹の蝶が羽ばたいたことであったというのでは、いったい何を理解したことにもならないであろう。

もし望みがあるとすれば、ふたつの状態をどちらも説明できるような模型を考えることであろうと思われる。実際、よく考えてみれば、上のふたつの状態の記述は、互いに水が水であること、氷が氷であることを喋っているだけで、他方をも説明できる模型を置いて喋っているわけではないことは明らかである。



おおよそ時間に比例して線形な動きをする対象に追従するような負帰還制御を行う場合、制御系は2次遅れ系として構成しなければならない。1次遅れ系では定常偏差が残るからである。電子回路なら位相ロックループ(PLL)回路などが典型的な2次遅れ制御である。

積分項、電子回路で言うならコンデンサがなければならない。積分項は要するに定常偏差をこれで検出するので、検出された定常偏差を一緒に負帰還すれば、安定状態において偏差はゼロになる理屈である。これがピタリとはまったときの挙動ほど見ていて心地のよいものは他になかなかない。

制御の場合はそうなのだが、物語を読む場合はひょっとするとこの積分項がアダになるということは、あるのかもしれない。読者の主人公に対する感情移入が深すぎて完全に同相になってしまうと、物語を読み進める手はかえって止まってしまうからである。

あるいは逆に、積分項のあるのがよくないのではなくて、同期はかけた上で90度の定常位相偏差を人為的に入れるような仕掛けが欠落していることが問題なのかもしれない。

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書かない読まない人の物語論(25) ── 休憩(さまざまな問題)

2014年04月27日 | チラシの裏
前回で物語を読む側の機制について概略を示してみたわけが、当然ながら未解明・未解決の問題は山ほど残されている。たとえば、

・なぜ物語はたくさんあるのか

これは、ある程度までは「書く人がたくさんいるからだ」という事情が関係しているに違いない(笑)が、そうは言っても専ら書く側の事情だという風にも言えない気がする。

物語を構成する他の要素と同様、主題が何であるかは、読者にとっては(多くの場合)偶然的な事柄である、つまり、その主題でなければならない必然性は読者の側には(多くの場合)ないけれども、個々の物語が個々別々に主題をもつこと、それ自体は物語が物語であることの本質的な要件のひとつであるように思われる。

・物語にとってキャラクタ(特徴ある登場人物、またその特徴)とはなにか

「物語の書き方」について述べている本がたいてい最も強調していることのひとつはこれである。登場人物は何と言っても読者にとって何かしら魅力的な存在でなければならない。ダース・ヴェーダーのような悪党であっても、悪党は悪党なりに魅力がなければならない。

これは物語論に限らない。人間が生きる上でどうしても避けて通れない事柄のひとつであるように思える。つまり、任意の人物は他人(対象化された自己を含む)から見て魅力があったりなかったりする存在で、その魅力は否応なく意味を帯びているということである。物語はさておき現実の世界では、魅力がある方が常によいとは限らないし、誰が見ても同じように魅力がある(ない)という人物も、まずいないものである、けれども、魅力があるならある、ないならないで、そのことが意味を持ってしまう、我々が生きる社会の現実は個々人が他の個々人に対して抱く魅力ということを抜きにしては成り立たない。このことは避けがたいことのように思える。

・なぜ物語は求められるのか

これは物語論の問題ではなく、本来はもうひとつ外側の問題である。けれども前回までに示した模型がそれなりに正当な模型になっているかどうかを検証する上では重要な問いである。

物語は読者に退行することを許し、それはそのまま読者にとって快楽の経験だからだと言うのは、ある意味でたやすいことであるが、そもそもなぜ人は退行と快楽を求めるのか、それもこれほど大規模に、古今東西変わりなく求めることが繰り返されている(としか思えない)のか、天下り式の倫理ではなく(特にこの場合、それはあからさまな虚偽である)正確な答を与えることは、それほどたやすくないことである。

・なぜ物語が機能しないことがあるのか

なぜかについてはこれまで延々述べてきたのであって(笑)、本当はこの見出しは「どのようにして」を問う形であるべきなのである。しかし日本語でそう書こうとするとなぜか奇妙な文章になってしまう。「どのようにして物語が機能しないことがあるのか」これは何ゆえか日本語文としては奇妙である。意味は取り違えようがなく明瞭なのに文法的にはおかしいと感じるのだから一層奇妙である。「物語が機能しないとき、それはどのようにして機能しないのか」と書かなければならない。しかしこれは長くなって煩わしい。

ま、そんなことはさておき(笑)、物語は仕掛けである。つまり機械である。機械が機能しないのはそれが壊れているということである。何がどのように壊れているのか。要するに他の人が読めばたいてい機能する物語が、これを書いているわたしに限って特異的に機能しないことがあるのはなぜか。それはつまり、わたしの中の何かが壊れている(笑)ということである。だからこれは物語論ではなく自己分析の課題であって、それゆえに気が重い、やるのに二の足を踏んでしまうことである(笑)。やったとしても恥ずかしいから書かないかもしれない(笑)。

・言語にとって物語とはなにか

人間の言語活動のすべてが物語であるわけではない。たとえば縷々やっているこの考察の文章は物語としての性格をまったく持っていないし、書いている方も持たせているつもりがない。とはいえ、物語というものが人間の言語活動の中で抜きん出て大きな領域を占めていることも否定できない。

物語でないものをついつい物語として読んでしまうということは、誰しもやっていることである。そもそも、判るはずのない他人の内的な意識の経験を判ったように思ってしまうことなども、そのミクロな表れであるかもしれない。世論調査の調査票で「現政権を支持する」にマルをつけることは、その人が実際に現政権を支持しているかどうかということとは本当はまったく何の関係もないということを、我々はあまりにたやすく忘れてしまう。

こうしたことはかつて論じられたことがまったくないわけではない、むしろ過剰なほどたくさん論じられてきたと言った方がいい(笑)ことであるが、それにしても我々が言語というとき、その「言語」の像が物語ということを含んでいることは、あまりにも少ないのではないだろうか。

つまり本当のことを言って、苦手だから書かないというのではなく、物語が書けないということは、本当は文章が書けないということにほかならぬのではないか。書いていると思っているものは、実は厳密な意味では文章ではない(笑)のであって、つまり言語というものが本当は何だか知らないし判らないということなのではないだろうか。わたしは文章を書いているのではなく、「日本語の部屋」の中でそれを模擬(シミュレーション)しているだけではないのか。J・R・サールいわく「爆発の模擬は爆発ではない」。書くことの模擬もまた書くことではありえないのである。

(つづく)

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書かない読まない人の物語論(24) ── 暑かはしき五月雨の髪の乱るるも知らで書きたまふ

2014年04月27日 | チラシの裏
予告を初っ端から裏切るようだが、快楽とは何だろうか(笑)。

快楽は本質的(irreducible)な経験なので、これを他の言葉で書き直(reduce)しても仕方がないと言えば仕方がない。そこで問いをこう変えてみる。

  なぜ人間はほとんど場合、快楽に向かって直進しないのか?

快楽が目標であるならば、どうすればそれが得られるかが判っている限り、人はまっすぐにそれを追い求めてもいいはずである。つまり、もちろん、それはたとえば麻薬を使用することかもしれないわけである(笑)が、そういって直ちに麻薬に向かう人も、それを肯定する人もあまりいない。これを書いているわたしも肯定しないし、読んでいる人も(今まさに麻薬中毒者でない限りは)肯定しないであろう。

それは麻薬には強烈な副作用があるとか、そういうこともあるわけであるが、いまそれらの条件が仮にないものとしたら、つまり副作用の一切ない麻薬が存在したらどうであろうか。そんなものがあったら、おそらくたくさんの人がそれで身を滅ぼすことにはなるであろう(笑)が、それでも人類全員がそうなるとは限らないような気がわたしはする。

麻薬が快楽であるのは、それが脳の快楽中枢に作用するからとか、そういう理由ではなく(第一これはただの循環論法である)、精神を強制的に退行させる作用があるからである。いいかえれば死の脅威(の認知)と死の欲望をふたつながら吹き飛ばし、人間をして生の欲望だけしかもたない「幸福な赤ん坊」に引き戻してしまうわけである。

確かにそれは快楽ではあるはずだが、その状態は我々自身の存在を充たすものではまったくないこともまた明らかである。赤ん坊は幸福な状態かもしれないが、ほとんどあらゆる外的な脅威に対してまったく無力な状態でもある。幸福は追求されなければならないが、その一方であらゆる脅威は克服されなければならない。このふたつの要請に絶え間なく直面しているのが人間の存在様式であるし、絶え間ない要請に絶え間なく応え続けることが人間の生の過程になるわけである。

そして、わたしの考えでは、人間だけがもつ心とは、幸福の追求(生の欲望)と脅威の克服(死の欲望)という、ある意味ではまったく相反する、互いに排他的な要請への応答を両方とも実際に行えるように、また時間の進行に対して遅れることもなく先行することもなく、同期して行えるようにするための仕掛けとしてあるものである。

つまり心はふたつの欲望を互いに同相となるように配置しないで、これを直交させる、あるいは少なくとも有限な(ゼロでない)位相偏差を持つように「捩った(ねじった/よじった)」配置とすることによって両者が衝突し、デッドロックに陥ることを防いでいる。衝突は防がれるが、ふたつの要請に対する応答はどちらも目標への直進方向に対して有限な(ゼロでない)偏角をもつことになる。つまり、目標に向かっていわば「正直に」直進するのではなく、何か勿体でもつけるかのような迂回的な軌道を辿ることになる。この「捩れ」を作り出し、また維持するのが心であって、そしてその「捩れ」は自然的世界にはもともとないものであるという意味で幻想である。

物語はこのような心のしくみに対して異なる作動形態を与える。つまり物語は、本来は現実世界の上で作動する心を、読者と主人公という異なる位相の立場に分裂させ、生の欲望に対応する反復を前者に、死の欲望に対応する成長を後者に割り当て、全体を虚構世界の上で作動するように変えてしまう。死の脅威に晒されながらそれを克服し、成長すべきことの要請は哀れな主人公に押しつけられる一方、読者はその分だけ退行した場所で飽きもせずページめくりを反復し続けることになる。読むことの快楽とはこれにほかなるまい。

(つづく)

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書かない読まない人の物語論(23) ── 物語論の動力学的転回

2014年04月27日 | チラシの裏
前回の最後に余談のように(余談なのだが)書いたのは、「主人公の成長と読者の反復は別々のことではなく連動しているのではないか」という仮説である。

どうしてそんなことを考えるのかと言えば、そもそもこのシリーズの最初からある問題意識で「自分がひどい目に会う話、それも作り話を、いったいどういう顔して書けばいいのか」、これは読むことについても同じなので、「自分がひどい目に会っている話の先をどんな顔して読み進めたらいいのか」これに納得できる説明をつけてみたいからである。

で、上の仮説だとそれが説明できるのか。説明はできる。現状で「これ以外ではありえない」とまでは言えないが、可能な模型であることは確かである。

どう考えるかというと、

上述のディレンマは、読者と主人公の関係を「感情移入」とか「同一化」というようなまったく静的な図式として、いいかえれば読者と主人公を同相の関係にあるものとして考える、ために生じるディレンマであると考える。読者と主人公が同相なら、主人公の不遇は当然読者の同相な不遇であるということになる、したがって拒否感しか生じないことになってしまう。

そうではなくて、上の仮説が示唆することは、読者と主人公(あるいは物語世界)の関係は同相ではなくむしろ直交していると考えるべきなのではないか、ということである。いいかえれば、物語を読むという行為はこの2軸で張られる相空間(phase space)上の運動として、つまり動的な図式のもとで考えるべきなのではないか、ということである。

実際、たとえば「メロスは激怒した」という一文を了解するとき、確かに我々は本来なら当人以外には知りようがないはずの主人公の内的な意識の経験を知ったかのような状態に置かれることにはなる、けれども別に主人公と一緒になって激怒するわけではないし、できるものでもないわけである。それはまったくどうでもいい他人事でもないかわり、まったく読者自身と同相にあるものでもない、直交と言わないまでも大なり小なり位相の偏差(ズレ)を含むような関係に置かれるのである。

なぜそんなややこしいことをしなければならないのか、というか、なぜそんなややこしい関係を作り出すように物語が作られていなければならないのか。それは単純な話で、物語世界のほかのことはすべて作者によって作りつけられているとしても、その「時間」だけは作ることができないからである。

物語のそれ自体はまったくただの文字列にすぎない。それが「読む」という行為になるためには読者が「時間」をかけなくてはならず、その「時間」だけは読者がじぶんの時間を提供するほかには、どこからも与えられないのである。

物語の本は、その意味ではカップ麺のようなものである。そう言えそうな気がする。ほかのすべては予めメーカーによって調理加工されてカップの中に封入されているにしても、それを食べる(味わう)ためには「お湯」をかけることが必要であって、その「お湯」だけは(普通は)それを食べる人が、それを食べるまさにその時に、そういう言葉を使うなら「ライブで」提供しなければならないのである。

物語もまた読者がそれを読むまさにその時に「ライブで」時間をかけることによってはじめて、干からびた虚構世界の記述が読者の内的な意識の「生々しい」経験として立ち上がるのである。そこで読者と主人公の位相偏差は、とりあえずごく素朴な比喩を使って言ってみれば、読者の生(ライフ)の反復運動に相当する「時間」を、上述の相空間上の回転運動に変換するための、クランクシャフトのそれに似た機械的な仕掛けの必然性としてあるということになろう。

・・・最後の一文は我ながら不十分であるというか、わけの判らない書き方になってしまった(笑)。次回はこれをもう少し丁寧に書き直してみる。

(つづく)

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書かない読まない人の物語論(22) ── 束縛論(6)

2014年04月25日 | チラシの裏
前回のハナシを含めて考えると、束縛というのはそれ自体がかなり複雑な作用である。多種多様な要素を何でもかんでも「束縛」に放り込んでしまっている感じで、束縛が本当に本質的な概念かどうか、少し疑わしく思えてくる。

しかし今はそれを深く考えないことにする。前回の考察を短くまとめて言えばこんなことである。

  ・束縛は人間の死の欲望だけではなく生の欲望にも作用する。
  ・束縛の生の欲望に対する作用の形式は「禁止」もしくは「罪悪視」ということである。
  ・禁止は容赦(forgiveness)によってむしろそれを解放する面がある。
  ・禁止しつつそれを容赦することによって、束縛は生の欲望を制御する。

生の欲望はそれ自体は動物的(生物機械的)な、つまり生物(機械)の生命活動そのものなので、それ自身の意味は持たないと言うべきであるが、死の欲望と関連づけられることで「成長することの拒否」という意味を帯びる。一方でそれは欲望である限りやむことはない動きを与えるものである。フロイトが言ったようにそれは欲動(drive, Trieb)である。

大雑把に言えばこれは、それ自体で閉じた行為の反復ないし循環に対応づけられる。死の欲望が求める成長は未知へ開かれるということそのものだから、それを拒否するということは閉じる(コンパクト化される)ということであるし、一方でそれはやむことのない運動である、ということは、解は反復ないし循環以外ではありえないということである。

そう、ぶっちゃけて言ってしまえば、読者が物語のページをめくり続けるというのは、この反復ないし循環なのではないだろうか(笑)。

M・エンデ『はてしない物語』の原題は『Die unendliche Geschichte』、英訳は原題の直訳で『The Neverending Story』である。これは今たまたま気づいただけだが、ここには興味深い対応関係が見出される。読者は閉じられた本の物語のページを飽くことなくめくり続ける(おしまいまで読んだら、また最初から)のであるが、物語の主人公は「未知の異世界」を冒険しながら永久に成長し続けるわけである。つまり邦題の「はてしない」という語は読者のページめくりの「はてしない」無限反復と主人公の「はてしない」冒険と成長を二重に意味するものになっているということである。

念のため言うと、この有名な物語の、特に後半の主題は主人公の「自分探しの旅(笑)」である。皮肉なものだというか、しかしこの皮肉は古今東西すべての物語に共通する皮肉ではないかと思う。主人公が成長しない(死の淵へ降りて行かない)物語というのはあまりないものであるし、一方で物語の読者がページめくりの反復によって成長するということも、まずめったにない(笑)ことである。主人公は成長しても、書物それ自体はいつでも文字のコンパクト線形順序集合にすぎないからである。

たまたま思いついた余談を書いていたら、もともと書くつもりだった話を書きそびれた。いったん切って次回送りとする。

(つづく)

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書かない読まない人の物語論(21) ── 束縛論(5)

2014年04月25日 | チラシの裏
以下は、書いてみると前回までの話とどうつながるのか見えにくくなってしまった(笑)が、これも「もう少し粘ってみる」過程から生じたものであるとは言っておく。



よくよく考えてみると、束縛は他方で人を動機づけるだけでなく、その人を(ある限定された事柄ないし事柄の範囲に関して)許すものでもある。

共同体の掟にはたいていそうした両義性がある。共同体の内側において、ある行為は理不尽なほど厳しく禁じられている。理不尽というのは根拠を欠いている(根拠を問われて咄嗟に答えられる人はいない)という意味でもあるが、それが過失や不可抗力(強制)の結果であることが明らかであってさえまったく許されないという意味でもある。たとえば、たいていの生活共同体は国家の法律以前にこの掟の次元で殺人を禁じている。過失であれば罪一等を減じるのは自由を理念としている国家の法律で、共同体の掟はそのような理念にかかわりないものである。

そうした理不尽な禁制が存在する一方で、それとは別に(しばしば前者とは無関係に)普通以上に許される行為が存在する。その外ではなかなか許されない(「お前それサバンナでも同じ事言えんの?」というやつである)ことが、共同体の内側では(サバンナの野獣から見れば呆れてしまう程度には)許されまくっている(笑)そういう行為が何かしらあるものである。

べつに、それは善行であるとか、善でも悪でもない中性的な行為であるとは、少しも思われていないのが普通である。どっちかと言えば、いな、それははっきり悪行である、まったく悪行以外の何でもない、困ったことである、正直手を焼いている等々と、共同体の成員自身がたいてい認める。

口先では認めない場合、つまり問われた当人がやっている場合だが(笑)、その場合でも当人は大なり小なり恐縮しながらやっている。それは露見すれば殺される違法行為を隠れて行うというよりは、恐縮しつつも公然と(笑)やっているという方が、たいていより正確である。実際、(許されているからといって)大きな顔をするな、また大きな声で言うな(吹聴するな)と咎められもする。

けれども、もしそれが本当に悪行であるなら、恐縮しながらやっていれば大目に見られるとか、反省の色──M・サンデル風に言えば「道徳法則の尊厳に対する敬意」(笑)──があれば許されるということもあってはならないのではないか、などと(わざと)生真面目な顔をしてそう問うてみれば、話はたちまち一転して「そうではない」(笑)ということになるものである。そういうものではない(笑)。たとえば「それは必要悪である(笑)」などと主張されることになる。

つまり悪所通いとか、未成年者の飲酒とか、わが国の死刑制度であるとか、肉食とか、あるいは最近のことで言えば、どっかの大学院研究科で横行していたらしい学位論文のコピペとか(笑)等々のことである。つまり悪行(と見なされること)ではあるが許され(てい)る行為だということである。

それはいったい誰が(人でなくても)どんな権限に基づいて許しているのか、その権限も権限の主体も存在しないように見えるし、事実存在しないかもしれない。それを許しているのは、強いて言えば束縛すなわち共同体の掟の集成(体系というほど明瞭な原理原則が存在しないことは珍しくないはずである)それ自体のように思える。

こうしてみると、動機づけは死の欲望に関連している一方、述べてきたような「許し」は生の欲望に関連しているように思えてくる。

(つづく)

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