以下は半年ほど前にtwitter上で、いま「臨在」と訳してみようとしていることを「liveness」として考えようとした(考えた、とまでは言えない)時の、一連の呟きを抽出して並べたものである。いま考えようとしていることに関連している部分もあれば、全然関係ない部分もある。なお、他人の呟きが引用されているのは、もともとこのblogでもtwitterでも、こんな風に他人の呟きをとっかかりにして勝手に自分の考えを進めるというのが、わたしのやり方になっているというだけで、とっかかりが何だったか示しておかないとそこから先も不明になってしまうから引用するまでである。もとより一面識もない他人の呟きにケチをつけたい意図は(そう読もうと思えば読める場合があるとしても)まったくない。そもそもこの記事自体が、以後「臨在論」を書くのに自分で参照するために作ったもので、他人が参照することは(してもさしつかえないから公開するのであるが)想定されていない。
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2013年10月11日
べつにおかしなことが言われているのではなく、わたし自身がどうにもこのような形での「身体」という2文字の使い方に馴染まない。どうも身体というとわたしは生理学的な身体、つまり普通に肉体と呼ぶものしかイメージしないことになっているようだ(01:29:16)
そうではなくてこのRTの場合の身体とは、カッコ書きの中にあるように「いまここ」ということ、わたし自身のために(笑)わかりやすく言えば「ライブ」ということだ。liveは動詞なので名詞形にすればlivenessということになる(これは実際、分散型計算で用いられる術語でもある)(01:34:22)
とりあえずややこしく考えなければ、このlivenessはある/なしの2状態をもち、伝達言語に付随させられる属性のひとつである。liveness属性はただ付随するだけではなく、その状態によって伝達言語に意味の差異を与えることができるという意味でそれ自身が意味をもつものでありうる(01:44:29)
・・・かどうかは、そう簡単には言えない。メールのやりとりやtwitter上での対話のような場合には空の伝達言語すなわち沈黙が意味を持つから、それがlivenessの固有の意味なのだと考えることもできるが、それはややナイーブな見方である(01:54:24)
つまり沈黙とは伝達言語がないというよりは空の伝達言語∅としてあるのであって、いまliveness属性を演算子Lとかけば、沈黙の意味とはLそれ自体ではなくL∅に対応して与えられるものと考える、この方が形式的には自然である(自然だから真だと言いたいわけではない)(02:00:16)
べつに形式的に厳密な議論をしたくてこんな珍妙なことをやっているのではなくて、liveness属性が固有の意味をもつと言えるかどうかは不定だといいたいだけだ。確かなことはliveness属性の状態が伝達言語に意味の差異を作り出すということである(02:05:43)
話を変える(引き続き「ただのメモ」である)。livenessがある、つまりライブであるということは実際何が違うのか。我々はライブで会話するときはそうでない場合にはない、ある独特の緊張を強いられる。それが快であるか不快であるかは別として、緊張させられることは確からしく思える(02:25:47)
なぜ緊張するのか、というより、そもそも緊張するとはどんな場合なのか。間違うことが許されない、間違えたら「取り返しのつかない」ことをやっている、つまりコミットしている、あるいはコミットメントをもつ場合である(02:29:27)
コミットすることは死ぬことではないが、死の暗闇に向かって一歩踏み出すことではある(02:40:52)
(最初の話とは全然関係なくなってきたので、セルフリプライをいったんここで切る)(02:53:13)
コミットすることは死の暗闇に向かって一歩踏み出すことである、にもかかわらず我々はしばしば恐れもなしに踏み出したり、恐れはあっても、それとは別に望んで踏み出していることがある(02:59:52)
それはなぜか、ということを考えようとしているわけだが、答えの枠組みだけは最初からはっきりしている。人間が根源的に欲しうることはたったふたつ「生きたい」と「死にたい」であって、個人に帰着されるいかなる行為もこのふたつとその内的な葛藤の帰結である(03:07:09)
・・・と、書いてみたがこれは全然おかしい(笑)。行為はすべて個人の行為であって、ふたつの欲求も個人の欲求だが、葛藤だけはそうではないからだ。内的に解決できない競合のことを葛藤と言うのであって、だから個人は葛藤とその解決(とは限らないが)においてどうしても閉じることができない(03:14:11)
昨晩から述べている通りこの葛藤の上に作用するのが権力である。権力がしばしばネガティブなものと考えられるのは、葛藤を通じて個人の内的過程に踏み込み、外側から勝手に行為をせき止めたり、逆に促したりする、要するに「振り回す」からだ(03:20:57)
一方でそれが全面的にネガティブであるとは言えないのは、実際、そのような力が外側から作用しなければ、行為の流れはひどく些細なことでそれ以上進むことも戻ることもできない暗礁に乗り上げてしまうからである(03:24:43)
自力でその状態から脱出する方法は、理論的には3つ、実質的にはふたつしかない。つまり「生きたい」と「死にたい」のどちらか一方を廃棄することである(理論的なもうひとつの可能性は両方を廃棄することだが、そんなことが可能だろうか)前者の廃棄は自殺、後者の廃棄は人間をやめることである(03:33:39)
おそらく、だから、人間に固有な死の欲動と、その葛藤を外側から解決(とは限らないが)する権力の発達は同時的に進行してきたのであろうと考えられる。死の欲動がなければ葛藤もないから権力に意味はないし、権力がなければ人間は内的な葛藤に圧し潰されて死ぬか、畜生に戻ってしまうからである(03:47:36)
死の欲動はそれ自体は個体にとって文字通り不吉なものでしかないが、人間存在を宇宙の暗闇に向かって押し広げて行くものでもあって、それによって人類は自らの生存する範囲を拡大し、天然自然の暴威を少しずつ克服してきたわけである。つまりそれが文明である(03:58:06)
・・・と、いう、このシナリオは、生物種としての人類がこのように生き延びてきたし、そうしようと思えば他の(人類に仇なすような)生物種を意図的に絶滅に追い込むこともできるほど現に優勢であることの事実と整合するように、とりあえず描いてみているだけのフィクションである(笑)(04:05:36)
フィクションではあるが、事実に関して過不足がなくなれば、これをひとつの理論と見なすことも可能になるのではないかと思っているわけである。過不足がないというのは詰め将棋とおんなじことで、手持ちの駒を残らず使って、過剰も不足もなくぴったり詰め切ることができれば、というようなことである(04:12:06)
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2013年10月16日
非公開リストの登録件数がやっと400。もう何でもかんでも放り込んでるわけだが、少しずつバラけた印象になってきた(23:45:54)
ちなみに有名人のアカウントはあまり入れていない。全部がそうだとは言えないが、有名人のtwはどっかでmoderate(穏健化)されてるなと感じる。炎上防止ということなのだろうが、そのぶんだけlivenessは希薄化するように思える(23:50:49)
livenessについてはまだよい訳語を思いつかない。ジャイアンの人は身体と呼んでいるが、それだと肉体のことのようで違和感が残るというのは前に書いた(23:54:54)
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2013年10月20日
自由平等の原点と言いたいのなら、なぜそれを「身体」と呼ぶのかが理解しがたい。身体というのはむしろ(も何も明らかに)不自由とサベツの原点であろう(17:16:50)
・・・これだと初見の人が勘違いするな。実際には「いまここ」のlivenessということが自由平等の原理だと言われているわけだが、ジャイアンの人はなにゆえかそれを「身体」などと呼ぶわけである(17:23:48)
強いて意味のありそうな方向に解釈してみれば、「いまここ」ということに束縛されることはかえって歴史性からの解放をもたらすので、後者は自由平等の原理のように思われるということなのかもしれない(17:29:50)
前者の束縛が何によって生じているか、もとをただせば身体だろう、ということなのだろうが、しかしこれはあまりよくない唯物論の語法だと思える。動物は身体を持ち生きていると言えるが、束縛ということはない。livenessが束縛であるのは(そして歴史性からの解放であるのは)人間だけである(17:35:32)
訂正:×livenessが束縛であるのは(そして歴史性からの解放であるのは)→束縛としてのlivenessをもつのは(そしてそれが歴史性からの解放であるのは)(17:38:02)
それでも「身体」の2文字を用いることに固執する理由があるとすれば、livenessという語はそれ自体には束縛を示唆するものが何もないように思われるから、ということなのかもしれない。一方、「身体」の2文字は束縛ということのほとんど直接的な比喩である(17:42:50)
でもそうだとすれば「livenessへの束縛」と言えばいいだけだ(笑)(17:46:48)
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2013年10月28日
何言ってんのかよくわからないのだが、解釈してみるとつまり、「お前が言うな」とは「自分のことを棚に上げてものを言う」ということだから、ソーシャルとは「自分のことを棚に上げてものを言う(ことができる)場所」ということになる(16:58:15)
さらに「ソーシャル」というクソ嫌ったらしいカタカナ語の意味を斟酌すれば、「自分のことを棚に上げた発言を晒せる(晒しものにして平然としていられる)場所」だということになる。つまりジャイアンの人の考えでは、twitterは「話しあい」の場所ではなく「晒しあい」の場所だということである(17:02:54)
なんだ、「だいたいあってる」じゃないか(笑)ツッコミどころがなくてつまらんな(笑)(17:04:59)
嘆いたってないものはないので、解釈を続けてみる。twitterは「晒しあい」の場所だということは、twitterの内外でtwitterが「バカ発見装置」だと言われているのとほとんど同じことを指している(17:21:18)
ただ、後者の言い草はたいてい否定的な文脈で用いられるが、ジャイアンの人はこうしたことを必ずしも否定的には考えていない。ご本人は「両義的」だと言っている(17:23:12)
何が、なぜ「両義的」なのかと言えば、twitter上の呟きは(botでなければ)すべて「(バカを平然と)晒したもの」には違いないわけだが、一方でそれはliveness(「いまここ」ということ)に束縛されている(17:27:30)
普通の言葉でわかりやすく言えばtwitter上の呟きというのは誰がいつ呟いた場合でも「究極の本音」であるか、究極の本音に触れたところをもっていて、なおかつ、それに触れたところを持たずに呟くことができないということである(17:32:32)
この性質は言語の媒体(medium)とされるものがかつてもつことのなかった性質だとジャイアンの人は主張している。実際、通常の媒体における言語(発言)は、誰が何をどんな風に言った場合でも「心にもない嘘っ八」である可能性を排除できないものとしてしかあることができない(17:36:40)
ところがtwitter上の呟きはlivenessに束縛されている、つまり究極の本音に触れて呟かれているので、つまりその接触点において「嘘っ八ではありえない」何かなのである(17:45:42)
「嘘っ八ではありえない」を「真実」の2文字で置き直すならば、したがってこういうことになる ── 「ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだらうといふ妄想によつて ぼくは廃人であるさうだ」(吉本隆明『廃人の歌』) ── そう、この詩は実は「ツイ廃の歌」だったのだと(笑)(17:50:20)
(ちなみに上の引用はジャイアンの人のblogから孫コピペした。旧カナで検索したら、たまたまこれが出てきたのだ)
増補版(Version 17.0)追悼・吉本隆明(芦田の毎日)
http://www.ashida.info/blog/2012/03/pst_414.html (17:54:57)
しかしここはもうひとつ別の詩を引用してみたいところだ。twitterは上述の意味で究極の反権力とか不服従とかの装置でありうることになるわけだが ──
不服従こそは少年の日の記憶を解放する
と語りかけるとき
ぼくは掟てにしたがって追放されるのである
(吉本隆明『少年期』最終3行)(18:07:31)
今年の夏はtwitter上でその「少年の日の記憶」をうっかり解放してしまい、「掟にしたがって追放」されてしまったワカモノがずいぶんたくさんいたことである(18:10:30)
twitterにどんな肯定的な面があり、それを認めるとしても、それは「世界は異常な掟てがあり 私刑があり」(同上)というこの世の条件を何も少しも変えるものではないということである(もちろん、他にそれを変えるものがあるのかと言えば、これまでのところは絶無である)(18:25:20)