ところでWikipediaのこのページを読んでいるうちに「そう言えばこれって欽弗紙白のブラウザで読めるんじゃないか」と思って試してみた。果たして読めたが・・・使い物にならなかった。欽弗紙白のブラウザは文字の大きさを変えられない!
日付が変わってしまったなあ、と思ってトレンドを見たらもう「おやすー」とか言ってやがる。寝るの早えよおまいらw
仕方ねえな。ニコでてーきゅうでも見るか、てーきゅう
機能主義はアリストテレスが論難したメガラ派のように「在るものは在る、無いものは無い」と言っているだけです ― ハイデッガー全集第33巻『アリストテレス講義』におけるハイデガーのメガラ派批判は、機能主義との全面的な対決を意識しているわけです。(新刊387頁)
前からこの主張が若干気になっていた。「あるものはある、ないものはない」というのは普通はパルメニデスによるものとされているわけである。パルメニデスはメガラ派に影響を与えたとされるが、メガラ派の始祖だとかいうわけではない
そのメリッソスとメガラ派の関係は、しかし普通に検索して出てくる範囲ではあまりはっきりしない
『形而上学』のテキストに遡ってみると、アリストテレスがメガラ派を批判したというのは、メガラ派の「現実的なことだけが可能である」という主張に対してである。まあ、似たようなハナシだと言えば似たようなもんだ(笑)が、しかしこれは素人哲学ではなくて本式の哲学なわけである
それはそれとしてRTではアリストテレスのメガラ派批判というよりは、ハイデガーがアリストテレス講義の中でそんなようなことを言っているというわけである。これはこれで確認を要する
ところで「あるものはある、ないものはない」というパルメニデスの主張は哲学史の上で何度となく批判や論争の種になってきたものである・・・などと知ったようなことを書く(笑)が、実のところわたしがそれを知ったのはレヴィナスの「実存から実存者へ」を読んだときだった
この本のテーマのひとつはハイデガー批判なわけである。実際、結構クソミソにやっつけている(やっつけているからやっつけている方が正しいとは、もちろん限らないのだが)
・・・何でこんな、素人哲学にとっては基本的にどうでもいい(笑)些細なことを気にしているのかというと、わたしにとって機能主義批判というのは、特定の誰かの影響でそうなったものではなく、大筋では自分で見出してきたものだからである
ジャイアンの人も著書の中で触れている吉本の「最後の講演」にしても、ほんとのところわたしは内心微妙にハラハラしながらテレビ番組を見ていたわけである。最後の最後になって吉本が全然違うこと言い出すんじゃないかと思って不安だったのだが、それは杞憂だと判って胸をなで下ろしたものだった
そこへもってきてジャイアンの人のあの本である。ハイデガーが機能主義批判をやってることくらいは知っていたが、具体的にどんなものだったのかは知らないし、それを言う人も少ないことで、どうせたいしたことない(笑)んだろうくらいに思っていたわけである
いや、本当は今もそう思っていないことはない(笑)べつにハイデガーまで持ち出さなくても言えることなんじゃなかろうかと疑っているわけである。実はそうではない、ハイデガーのテキストの中にある何かを参照しない限りこうは言えない(他には誰も言っていない)何かがあるのか、そこがはっきりしない
しかしそれがあるのだとして、それが何かがわかれば、その1点から、本当は(何の専門的訓練も受けていない)素人哲学なんかに読めるわけはない(読んだって恣意的な誤読にしかならないに決まっている)ハイデガーのテキストに食いつくことも可能になるかもしれないと思っているわけである
「素人に読めるわけはない」というのは、経験上、ある程度以上の水準の数学というのがそうだということを知っているからである。いくら厳密に、自己充足的に書かれた数学書でも、本当のところ字を追って読んでいけば誰でも判るのかというと、ある程度以上高度な本は実は判らないのである
判らないだけならともかく誤解して読んでしまうということもある。わが出戻り学部生時代の恩師はふたこと目には「あいつ(ら)は数学が判ってない」というのが口癖だった。「あいつ(ら)」というのはそこらの頓馬ではない、わが母校の錚々たる(主に工学部の)教授連のことなのである
では「数学が判る」ためにはどうすればいいのかというと、結局のところ「数学が判ってる」先生に教わるしかないのである。こうしたことは数学だけではない、たいていの専門分野についてたぶんあるはずのことである。だったら、そのヒマもなければ払うカネもない素人はどうすればいいのか
「数学」を判ろうとしなければいいのである(笑)この水準での「数学」は真理の体系というよりは制度なのだ。何を判ろうと判るまいと真実はひとつしかないということは先験的である。素人はだから、自分の場所から判ることをまとめて、特に何と呼ぶこともできない無名の分野を確立すればいいわけである
ちなみにこの「無名の」というのに倫理的なニュアンスは含めていない。関数型プログラミング言語で無名関数というときの「無名」と同じ意味である
そういうやり方をとることに何か優位性があるというわけでは全然ない。制度に乗っかってやれるならやればいいのである。問題は、制度は個々人の都合のいいようにできているものでは、もともとないので、個人は制度から見放されるということはありうる、そしたらどうするかということである
変なことを言うようだが、学校のイジメっ子というのも実は制度の動作主(agent)だということはありうるわけである。逃げればいいのに逃げ出せなくなって泥沼に陥るイジメられっ子の困難はそこにあるわけである
制度の囲いの外に出たらどうすればいいか判らないことの不安が、誰がどう見てもかれにとって毒でしかなくなったはずの制度にかれを引き戻してしまう