惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

国際テロ組織WHOへの抵抗の弁、のようなもの

2010年05月31日 | miscellaneous
しばらくぶりに「加害者臨床」でググってみたが、新たに読んでみようという本は見当たらなかった、というか以前わたしが読んだ本のいくつかは「絶版重版未定」になったりしていた。大雑把に言って、ただでさえ薄い(世間の)関心がいよいよ消えかかっているのではないだろうか。

仕方がないのでいろいろ眺めていたら、以前に加害者臨床について調べていたとき一番頻繁に名前が出てきた信田さよ子氏のblogがあるのを見つけた。それを漫然と読んでいたら以下のような文章があった。

新幹線といい、各省庁といい、どんどん喫煙者の肩身は狭くなるいっぽうだ。そんな風潮を「禁煙ファシズム」と名付けるひともいるが、かつての喫煙者である私も同調する。
理由は、別に喫煙を再開したいわけではなく、アルコールへの異様な寛容さと比較してのことである。(中略)
喫煙が副流煙で健康被害を与えるという理由でここまで忌避されるのであれば、どうして新幹線の中でのアルコール販売禁止をしないのだろう。テレビのCMに対する制限がなぜ実施されないのだろう。(中略)
私見であるが、ビールの税率を据え置き(もしくは下げる)、アルコール度数10%以上の酒類の税率を上げることで全体として酒税による収入を上げることは可能だろう。
これによって飲酒量が下がり、自殺率が低下し、健康被害も減り、飲酒運転による事故も減るとなれば、健康保険の支出も抑制できて一石三鳥ではないだろうか。
(2010年3月28日「『禁煙ファシズム』とアルコール」より抜粋・全文はリンク先)

これは暴言の類だと思うから一言書かせてもらう。とはいえ「日記」の文章だし、わたしの方は匿名なのだから批判的な感想を書く気はない。上記引用箇所に触発されて、一介のタバコのみとしてのわたしの考えを書きたくなったというだけだ。

信田は「依存症」(文春新書)の著者として、つまりアル中(と呼んで依存症と呼ばないのは、わたしが非専門家であることの表示である)につきものだとされているDVの被害者や加害者に療法家としてかかわってきた者として、その身からすれば、どうしてもこういう言い方になってしまうところがあるのだろうとは思う。けれども、わたしはこういう言い方は好まない。それは別にわたしがタバコもアルコールも嗜む人間だからではなくて(タバコもアルコールも嗜むのだが)、個人の習慣に対するいかなる規制も正当化されるものではないと思っているからである。

現にタバコのみとして禁煙ナチスの暴虐に日々苛まれている身としては、たとえ誇張された冗談でも「なぜ同じ暴虐がアルコールに対しては加えられないのか」と言わんばかりのことなどは言いたくないし、言うことは不当であるとかんがえる。そういうことを言っていい者がいるとすればアル中患者のDVに現に苦しめられている被害者の当人だけだとわたしは思う。また「言っていい」(正当な権利がある)ということは言っている内容が正当であるということを必ずしも意味するわけではない。

テロ攻撃で傷つけられたり殺されたりした人間やその家族はテロ攻撃の主を憎悪したり、思いつく限り任意の表現で憎悪を表明する正当な権利を持っている。だがそのことは表明された憎悪の内容が正当であるということを、つまり報復に関する正当な権利が憎悪に沿って附与されることを、必ずしも意味するわけではない。仮にそうなら(報復の権利が正当化されるなら)、わたしなど今頃はあらゆる禁煙ナチスに対する報復攻撃を実行してその正当性を主張しているはずである。正直言って、それを正当化できない自分が恨めしいくらいのことである。だが、わたしがわたし自身に対してきっぱり否定しているのだから仕方がない。

なぜそれが正当化されえないかの理由は単純である。個人としての存在のうちに正当化という概念は存在しないからである。個人としての存在はその残余(世界)から攻撃されることがありうるし、その攻撃に対して抵抗したり反撃したりすることもありうる。すべての個人的な抵抗や反撃は法も倫理も超越したところで生じるのであって、ゆえにいかなる法も倫理もそれが生じること自体をおしとどめることはできない、そのかわり、法や倫理がそれを正当化するということもまたありえないのである。

我々はたとえば日本国民なら日本国民としての権利を持っている。人類共通の権利というものがあればそれもまた持っている。けれどもそうした限定の一切を外したところの、ただの個人としての権利というものはおそらく存在しない。我々はそれを権利によって行いうるのではなく、無限定の存在として単に行うのである。そこにはいかなる禁止も成立しないかわり、何かを権利として保証されるということもまたないのである。



・・・以上を書いて数時間、読み返してみたらいったい何が言いたいのか自分でも判らないw 書いておきたいことがあるからその通りに書いているのだ。ただ、わたしは自分を正当化するつもりがないし、そんなこととは無関係な場所から書きたいのだが、そのような言葉の場所がうまく見当たらないし、作り出せてもいないということだ。あとは、うっかり読んでしまった閲覧者に、これだけは読み違えてもらいたくないと思っていることを以下に書く。

我々はWHOのような国際テロ組織(と、その翼賛的な下部組織)によって始終脅かされ、暴虐に晒されている。目下の暴虐に目を瞑ったまま良心的なことや希望らしきものを語ろうとすること、少なくともそのことに羞恥することのないどのような思想も哲学も、わたしは真とは見なさないし、そのように語られた良心や希望はすべて偽りであると断言する。

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追悼 ロニー・ジェイムス・ディオ

2010年05月18日 | 年を経た洋楽オタの話
ロニーが歌った曲で好きなのはたくさんあるが、個人的に一番思い出深い曲を掲げて追悼としたい。

わたしにとって1980年代はこの曲から始まった。1980年代のロックが、ではなく1980年代が、である。委細は書かないが、わたしにとって現実の1980年代は不愉快なことばかりで始まった。こんな時代の中で生きて行くのは嫌だというような感じの、どうしようもなく憂鬱な日々が続いていた。まかり間違うと本当にそれで死んでいたかもしれなかった。この曲とこのアルバムはそんな中で聴いたもので、言葉ではうまく書けそうにないほど励まされた。強いて言葉にしてみれば、まるでロニーが「まあそう落ち込むな。一緒にこの時代の巷に繰り出して行こうじゃないか」と言っているかのように感じたものだった。

それで不愉快な日々が不愉快でなくなったわけではない。本当のことを言ってロニーにしても、レインボウをクビになって、たまたま同時期にオジー・オズボーンが脱退してヴォーカルの席が空いていたブラック・サバスに「転がり込んだ」という印象の方が強かった。そのくらい唐突かつ無造作に事が運んでいたということだ。けれどもこうして出てくればちゃんと「ロニー・ジェイムス・ディオ以外の何者でもない」歌を歌ってみせる。その姿は、十代のわたしの心に何かを刻みつけるに十分だった。時代が、あるいは周囲のあれこれが不愉快だとか何だとか、そんなことは全然問題ではないのだ、ということを、わたしはこの曲から文字通り「教わった」のだった。

かねてからガンで入院しているという話は聞いていて、もう長くなさそうだなという感じがあったので、突然の訃報でショックというわけではないのだけれど・・・ロニーが死んだと聞いて悲しくならない元へヴィメタ少年なんて、少なくともわが国にはいないはずである。

Phantom figures free forever
Out of shadows, shining ever-bright

Neon Knights!

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ちょっと久々だけどMatsuiland!

2010年05月15日 | miscellaneous
試合を決めた5号3ラン。

テレビがないから動画サイトだけが頼り、ではあるのだが、だいたい毎日チェックはしてるんだよ?

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昨日の検索語(May 14)

2010年05月15日 | miscellaneous
検索する人の「中井久夫特集」が続いている。今日はリストも出してみよう。

  中井久夫
  Realforce87U
  失業 自殺
  哲学・航海日誌 文庫
  中井久夫 お勧め
  中井久夫 隣の病
  知識人の裏切り
  桜井章一 ベストセラー
  ハイネケン 画像
  このむぎだれがまきますか
  nuage 意味 生物学
  ATOM-8
  2010 自殺 統計 傾向

検索語のリストだけ出して検索数は出さないことにしているのだが、全部合計すると中井久夫関連だけで他の十倍くらいの検索数がある。尋常ではない、何事ならむと思ったら、実は以前に書いた「自殺統計のはなし」が今頃になってtwitterのどこかから参照され、そこからのアクセスが急増しているようだ。で、その「自殺統計のはなし」の冒頭で中井の「隣の病い」についてちょっとだけ触れていたわけである(書いた本人も忘れていた)。

一方でその「自殺統計のはなし」を(中井久夫経由でなく)検索して眺めに来る人も増えている、ということを、上のリストは示している。大本営発表によれば(笑)昨年の自殺者数はわずかながら減少した、というニュースをどこかで見たが、その関係だろうか。仮に発表が大本営発表の類ではなく、実際に減っているのだと仮定した場合、ふたつの可能性が考えられる。ひとつは(1)政権交代の影響がわずかながらあったという可能性である。これはさらに(1a)鳩山政権が実行した政策の影響と、(1b)鳩山政権が実行しなかった(自公政権が実行していた)政策の影響というふたつの場合が考えられる。もうひとつは政権交代とも鳩山政権とも関係なく、(2)日本社会の「うつ」的な状況が一層深まった結果だという可能性である。

鬱病ないし抑鬱的な症状を持つ人が自殺するという場合、自殺は「うつ」のピークではなくその前後で起きるということが知られている。明らかに回復しつつある人が突然自殺してしまったりするから周囲にとっては悲劇と不可解が一層募るわけだが、なぜそんなことになるかというと、ホントにうつがひどくなると、自殺するという行為でさえ実行できなくなるからであるらしい。それが少しだけ快方に向かうと、心情は回復しなくても行為が回復することがある、ためにそのような悲劇は起こるらしい。

日本の社会に起きている(可能性)のはその逆で、今までは自殺が増えていたが、本当の憂鬱はむしろこれからで、もはや人々は死ぬことにも倦んでしまったのであるかもしれない。はっきりしているのは政権交代しようと何しようと景気はどん底のままであり、消費はまったく回復していないし、回復する見込みはまったくないことである。実際、景気回復を阻害するであろう政策は与野党の双方から、あるいは行政の不見識から、次々と打ち出されてやむことがない。

上のリストでひとつだけ珍しいのは「nuage 意味 生物学」である。nuageはおフランス語の「雲」だが、それと生物学が何の関係があるのかはよくわからない。この語はキング・クリムゾンの曲の題名として使われている。

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今日の検索語(May 13)

2010年05月14日 | miscellaneous
検索語リストは、普段はそれほど日によって大きな変化はないものだが、たまに特異的なことが起きる。リストそのものは掲げないが、昨日は検索する人の中井久夫特集であったらしく(笑)、検索語リストの半分くらいが「中井久夫」絡みで占められていた。

中井久夫で検索してこのblogに来る人がそうそうたくさんいるわけもないから、実際にはひとりかふたりなのだろうと思う(だからリストは掲げない)。新刊でも出たのかな?

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ふっきれないので

2010年05月13日 | 他人様の絵貼らぬでもなし
ふっきれた動画を。

この眉この口、この眠そうな目で踊っているのがいいわけである。何が「吹っ切れた」なのか、まったく判らないのだが、

ともあれこれが出たのが数日前・・・で、いまここ。

表情がいまひとつ吹っ切れ切れていないけど、今んとこ一番練られた傑作

(May 15,2010追記)
すでにランキングまで作られてしまったようだ。口蹄疫も真っ青の感染力である。

あと、これ(パチュリーが吹っ切れた)も傑作。でもちょっとえろいよ。blogの事務局に叱られると困るのでリンクだけにする。周囲に家族がいるところでは見ないように。

(Jul.11,2010追記)
あれから2ヶ月近く経って、とうとうこんなものまで作られてしまった。すごい。

この動画は元ネタを知らないと凄さがよくわからないかもしれないので、元ネタも貼っておこう。

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牙をむく

2010年05月12日 | 他人様の絵貼らぬでもなし
1羽でチュン♪
2羽でチュンチュン♪
3羽揃えば


上の墨痕淋漓とした描き文字はpixivのここから拝借したものをアレンジした。

中高年のわたしがなんで「チュンチュンワールド」なんて知ってるのかというと、ちょうどそのころ仕事がなくてテレビばかり眺めている日々が続いていたのである。「みんなのうた」にしては異様な企画だったから印象に残ったのである。

言うまでもないことだが実物に「牙をむく」なんていうのは出て来ない。このネタは某掲示板のガイドラインから出たとされている。下の動画を見てたらいろいろ懐かしくなった。

NHKも今はちっともいいところがないわけだが、いまこういう愉しい動画のネタになるような素材が過去にたくさんあるわけで、だからこそ例のリストに加えるのを躊躇しているわけである。

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もしも倫理学

2010年05月11日 | げんなりしない倫理学へ
今が15世紀で、あなたが「月世界へ旅してみたい」という強い願望を持った人であるとする。あなたは何をすべきだろうか、というのが問題である。

なぜ15世紀で、なぜ月世界旅行なのかは問わないでもらいたい。わたし自身も理由は知らない。最初にこの問いを思いついたとき、なんとなくそういう風に思いついたというだけなのだ。要は、ある社会のある時代には逆立ちしても叶うはずのない(とはいえ別の社会、別の時代には叶う可能性のあることであって、ただ当人がその社会や時代には存在することができない)望みを、どうしても諦められない強さで持ってしまった人は何をどうすれば倫理的に正当なのか、ということである。あるいは、あなたが同時代の、願望の主の親友であったとして、彼に対していかなる意味でも倫理的に正当なことが言えるか、言えたとしたらそれはどんな言葉か、ということであってもよい。

問題そのものは過去の誰かという形に設定してあるが、もちろん本当は現在の我々の問題として考えたいことなのである。過去に設定してあるのは「(当人はそこに存在することができない)別の社会、別の時代には叶う可能性がある」ことをはっきりさせるためである。月世界への旅は確かに20世紀において実現したのだから。もし仮に閲覧者が未来について確からしいことを知っているのなら、時間設定をシフトして、27世紀にならなければ叶わない(しかし27世紀には簡単に叶う)種類の望みを、21世紀の現在において抱いてしまっている自分、という風に考えてもらってもいい。まあそんな人はいないはずだから過去に設定してあるわけだ。

15世紀にそんな望みを実際に抱いた人がいたかどうかはわからない。しかし絶対にいたはずがなかったということは言えない。哲学者のよく使う言い方で言えば「論理的に可能な」設定である。

以前にどこかでこれを書いたら「どうしてそんなことを問うのか」と問い返された。どうも切実感がないらしい。この問いは実際には任意の個人の任意の行為に対する倫理的な「なぜ」の問いなのである。つまり、倫理というのが何らかの行為のクラスを正当化するような命題のクラスだとして、そもそも空でない倫理が存在することが可能なのかということである。わたしの考えでは、この問いに対する答が「そんなことは不可能だ」なら、空でない倫理は不可能だということになる。存在できるのはもっとずっと弱い倫理、つまり相対的な倫理だけだということになる。

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「行為と合理性」なう

2010年05月11日 | 心身問題・自由意志
twitterの方は相変わらずまったく使いこなせていないのだが、「なう」の方は一生懸命使おうとしている(笑)。

体調が悪くて仕事も私生活もほとんどまともに動かせていない。仕方がないから「行為と合理性」をぽつぽつ読み直したりしているのだが、これを言うことに意味があるかどうかはともかく「おや」と感じる記述を見つけた。・・・

[唐突に挿入]この記事は今朝書いたものだが、出勤途中で読み返したらどうも誤解だった。サール自身は以下のようなことを直接は言っていない。言っているのはネーゲルで、サールは引用しているだけである。ただ固有名詞はともかく、下記のような考えに対してわたしが以下のような反論を持つこと自体に変わりはないので、文字を小さくして(笑)残しておく。

・・・いまこの場に本がないので参照はつけないが、同書の中でサール先生は自分が存在することと他人が存在することを論理的に同格のこととして書いている。そういう箇所があった。自分が「存在する」ように他人も「存在する」、というようにである。

それは変だろう。「他人が存在する」ことは「自分が存在する」ということとは、似てはいても違うはずである。他人は自分ではない(他人は自分とは異なる存在だ)ということではなくて、「存在する(こと)」の意味する内容が違う、存在の様態として、つまり存在論的に異なるということだ。

こんな指摘はただの重箱の隅のことかもしれないのだが、かなり重要なことである可能性もある、というのも、サールがどうしてそう書くのかの理由はかなりはっきりしていて、つまりサール先生に言わせれば意識や自我といったものは、結局は脳に内在する何かだということになっているからだ。そうすると、生理学的な脳の状態は各人において異なるが、その構造は(そこにおいて意識や自我が作り出される構造的な本質は)人間ならすべて同じだと見なしてさしつかえない。だから意識的な存在としての人間は、自分であろうと他人であろうと存在論的には同格のものと見なしてさしつかえない、ということになるわけである。

もちろんわたしはそうは思っていない。しかしそれを改めて言うためにこれを書いているのではない。そうではなくて、サールの理路が上の通りであるならば、それはまったく意識の機能主義的な理解の範囲を出ていない(というか、ほとんどそれそのもの)のではないかということである。違うのは、サールにおいてはスキマ(gap)の存在が強調されるということだけだが、それはしかし機能主義を置いてみれば結局はただ謎だというだけのことにしかならないという意味で空虚な概念だということにならないだろうか。

もっともサールが「行為と合理性」を著したのは7年ほど前である。MSWではこうした記述はほとんどあらわれないので、現在のサールは──暗黙のうちに──いくらか違ってきている可能性もある。

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乳首入手法

2010年05月10日 | miscellaneous
風俗系の話でもなければ育児系の話でもない。ThinkPadのTrackPointキャップ、通称「乳首」の入手法である。以前にも書いた通り、現在乳首は、lenovoからは3種類のキャップをひと揃いにした形でしか売られていない(しかも、高い)。しかし3種類を使い分けている人などまずいないだろう。普通はどれか1種類だけ、特に消耗の激しいクラシックドーム・キャップだけが必要だという人が多いはずである。

クラシックドーム・キャップをできるだけ安価に入手する方法としては、以下の3通りがある。

  (1) Yahoo!オークション
  (2) PCショップの通販
  (3) 身近にThinkPadを新規購入した人がいたら譲ってもらう

(3)については、ThinkPadを新規購入すると、デフォのひとつに加えて他の2種類のキャップがついてくる。あまりこだわりのないユーザは、わざわざキャップをつけかえたりしないから、余っているクラシックドーム・キャップを譲ってもらえるかもしれないということである。

むろん、そんなうまい話がそうそうあるはずがない。実のところ、これを書いているのは逆の立場の人のためである。つまり、いまこれを読んでいる閲覧者がThinkPadを最近購入したユーザであるなら、気色ばんで「乳首よこせ乳首!」と迫ってくる友人知人が必ずいるに違いない。その場合、閲覧者は余った乳首と引き換えに缶コーヒー1本くらいはおごってもらう正当な資格がある、という耳寄り情報である。

さて一方、世の中には(3)の行為をYahoo!オークション、通称ヤフオクでやる人もいるわけである。それが(1)である。大雑把に言ってひと月に1人くらいは売りに出してくる人がいる。オークションの手続きは結構面倒くさいものであるし、実際には送料を含めると割高になることも多い、しかしそれでもlenovoから正規品を買うよりは安い。一刻も早くキャップを交換したいというような慌て者の人には、ヤフオクもひとつの入手先である。落札価格は1個あたり150円程度まで。それより高値を設定するのは、送料を考えると得策ではない。

現在のところ一番いいのは(2)の方法であるように思う。PC用品を扱う店は日本中にあるわけで、最近は小さな店でも通販を受けつけていることが珍しくない。で、ググってみると結構出ている(特定の店に入荷するのを待っていてもその甲斐はない。最初からググって調べた方がよい)。1回に入手できる数量は多くない。だからこれも(1)と同様、送料などをきちんと計算に入れて値踏みすべきである。送料込みで1個あたり150円程度というのが、現時点(2010年5月)での相場のようである。

入手した後のことについてはこの記事を参照。Happy TrackPointing!

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Midnight Flyer

2010年05月10日 | 年を経た洋楽オタの話
真夜中だからというわけでもないのだが、なぜか時々聴く

Midnight Flyer, Angel Air / Amazon

マギー・ベルの歌がマジカコイイんですよ。1曲目だけここで聴ける。せっかくだからニコにもうpしてみた。

バックのサウンドのショボイことといったらもう、まるで打ち込みカラオケのようだが、実は錚々たるメンバーが演奏していて、ゆえに演奏そのものはしっかりしていたりする。

Amazonにあるのは中古盤だけだが、たったひとりカスタマーレビューで満点つけてる人がいるな──いや、俺じゃないよ?わたしはこのアルバムは偶然知っているだけである。相当詳しい人のようである。

これを聴いていたのは高校生のころで、だいたいわたしの高校時代にはろくな思い出がないのだが、これを聴き返している間はなぜかよかったことが思い出されて来たりする。1980年代のよかった部分、つまり以前の時代の憑き物がごっそり落ちたような、気楽で暢気な軽さの時代の雰囲気が、この一見クドそうなジャケットのアルバムの中にもしっかり流れているところがあるからかもしれない。

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そろそろNHKも例のリストに入れようか?

2010年05月09日 | miscellaneous
「NHKニュース」May 9,2010

“現在働いている会社でより上の役職で仕事をしたいと考えている人は、アメリカでは60%に上るのに対し、日本では30%余りにとどまっていることがNPOの調査で分かりました。 (中略・リンク先で嫁)今回の調査結果について(中略)さんは「世界中で優秀な人材を集めることにいろんな会社が一生懸命になっている。日本人だけのある種同一集団でやってきた殻を打ち破って、さまざまな能力を持っている人を活用しないと日本企業はますます厳しいことになると思います」と話しています。”

以前、NHKが「無縁社会」というキーワードを使って社会不安を煽っていることに注意を促す一文を書いた。今回はただのニュースだが、それが正体不明のNPOの調査結果だということは、基本的にNHKの息のかかった下部組織の作文であろうとみなした上で以下を書く。

何年か前にNHKでアメリカの高額所得者向けの住宅街、街全体を壁で囲って、貧乏人は学校教師に至るまで一匹たりとも中へ入れさせない、という、いわゆる「要塞街」のルポルタージュ番組をやっていたのを観たことがあった。そしてそれを観ているうちに、わたしはいわゆる出世とか高収入とか、そういうのが全部心の底からバカらしくなったということがあった。

どうしてかと言ってほかでもない、テレビにうつったその街の生活風景なり、彼ら金持ちの食べ物なり持ち物なり、どれひとつをとっても、わたしには一切、何の魅力も感じられなかったからである。何だこりゃと思ってむしろ呆れた。

金持ちの持ち物とか生活風景であるとかは、つべこべ言っても普通は貧乏人の憧れなわけである。だからこそ彼らを羨んで、自分もああなろうとか、ああいうモノを手に入れようとかいう意欲を、わたしを含めた貧乏人は持つわけである。そらまあ、卑しいと言えば卑しい動機だが、それは嘘ではなく人を駆りたてる。そしてその全部ではないまでも、時には本当にその意欲を満たす結果を得る者も出てくるし、たいていは望んだことのひとつやふたつは得る──他方でその倍以上を失うことも珍しくはないが──わけである。

ところがその日テレビに映っていたのは、ホントの本心から羨ましくも何ともない、いっそ惨めなと形容したいくらいの、生きてる限りあんな風にだけはなりたくないと言いたくなるような、とにかく何を見ても否定的な字句しか浮かんで来ない、そういう金持ち連中の絶望的な姿ばかりであった。それが世界全体でも上位何%に入ってくるような金持ち揃いだったわけだ。

大真面目にショックだった。かの「911事件」と比較しても、それにまさるとも劣らない亀裂を、わたしの心の中に残したことは間違いない。世界でも指折りの金持ち連中があのようにブザマな日々を送っているのがわかっていたら、わたしのような貧乏人はいったい自分の意欲なり欲望なりを何に向かって集中したり再組織したらいいのか、まったくその指針すら立たないではないか。もし仮に(反事実的条件)あの番組がNHKのヤラセだったとしたら、NHKはあの番組で日本経済を根底から破壊した、少なくともそれを目論んだものではないか、というようなことを、わたしは思ったりする。

ところで、冒頭のニュースにあったというアンケート項目に、いまわたしが答えたとすればこんな風になる。

QA
より上の役職で仕事がしたいか?真っ平御免だ!
自分の仕事の能力に自信があるか?能力のなさにこそ自信がある
(能力はクズの証だと思う)
国際的に活躍したいか?国際的が来い!

意図してネガティブな回答を作ったものではない。本音丸出しで書けばこうなるのである。言いたいのはつまり、このアンケートは質問自体が偏向しているということだ。たとえば「給料が上がってほしいか?」とあれば「あるだけ寄越せ!」と書く(笑)のだが、そういう項目がない、つまりもともとネガティブな回答しかできない質問ばかりが並んだアンケートなのだということである。

で、これがNHKでなくハケン先の会社のアンケートであったとしても、字面がいくぶん白々しくなる──そりゃそうだろう、でないとハケン元の担当者が迷惑しちゃうからな──だけで、ほぼ同じ意味のことを書くと思う。「さまざまな能力を持っている人を活用する」なんてよくもまあぬけぬけと、だ。いまどき人のクビを切って稼いでいるような日本企業の、いったいどの口が言うのか聞いてみたいくらいのことだ。そうでなくても、いまどきこんな字句の上には「世界人類が平和でありますように」という、むかし街角によくあったあのおフダの文句と同じ白々しさしか感じない。それが正常な言語感覚というものである。

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不確定性原理の先へ

2010年05月09日 | 心身問題・自由意志
「超えて」ではなくて「先へ」である。物理世界の記述(物理学)と現象世界の記述(哲学)の間には本質的な不確定性関係が存在するというのが、現在の(つまりこのblogでの)わたしの基本的な考え方だ。両者の記述の間に厳密な等価性を求める、またそれについて議論することは、もともと無意味だということである。アホみたいに簡単な仮説だが、もともと物理と哲学は互いに異なる台集合の上に整合的な論理体系(構造)を作っている(作ろうとしている)わけだから、そういう不確定性関係が成り立っていてもおかしくはない。で、仮にそうだとすれば心身問題の変な議論は全部退けられる。

この考えが妥当なものだということ自体は、我ながら自信があるわけだが、言うまでもなくそんな自信には何の意味もない。また意味があると思ったらそれ以上しかつめらしく考え込むこともいらないわけだ。大事なのはどこまで、あるいはどんな風に妥当であるのかということなのである。

不確定性原理は量子力学と信号処理の世界では空気のように当たり前のことと見なされているわけだが、逆に言うと、このふたつの分野でしかまともには登場しない概念だと言っていい。不確定性原理は、数学的には可分な無限次元ヒルベルト空間上の線形作用素(演算子)が可換でない場合として定義されるわけだが、この定義それ自体からはそれほど多くのものを引き出せないというところに問題があるのである。選択公理に対するツォルンの補題のような「役に立つ」同値命題を作り出すことが必要なのだろうと思っている。

で、そんな高尚な数学にいまさらわたしが首を突っ込み直したところでたぶんその甲斐はない(笑)。世界のどこかにやってる奴がいないのかと思って十年前から探しているのだが見つからない。正直、冒頭のパラグラフに書いたようなことは、割合に誰でも考えつきそうなことだと思うのだが、その例ですら見当たらない。

あるところで訊ねたら「デイヴィドソンの非法則的一元論に似てはいるが・・・」という答が返ってきたことがある。また、自分ではいわゆる二重相貌説(double/dual-aspect theory)というのに似ているかもしれないと思ったことがある。後者は、わたしが大学院生として所属していた研究室ではそれに近い考え方をする人が多くいたので、わたしも意識無意識にその影響を受けているかもしれないということだ。けれども、結局のところこれらは、まさしくサール先生が「MiND」の中で喝破してみせた通り、性質(属性)二元論に帰着する何かである。いっそのことチャルマーズのように「二元論でもいいじゃないか」と開き直るくらいの方がいいかもしれないくらいである。「なぜ一元論でなくちゃいけないんですか。二元論じゃ駄目なんですか」というわけだ。

でも、それはもちろん駄目に決まっている。国産スパコンの処理能力が世界一であるべきかどうかという程度の議論とは訳が違う。どんな屁理屈をこねようと二元論は物理に反する。

そうすると議論の赴く先は、サール先生も概ねその線に沿って主張を構成している(とわたしには思える)ように、わたしに言わせれば「複雑性の観点」、つまり記述の階層性ないし多水準性(multiple-level-ness)ということに着目する方向へ、まずは行くことになる。重要なことは、そうした考え方に意味があるとすれば、それはさまざまな水準の記述の体系の間にスキマ(gap)が存在するということを認める限りにおいてのことだということである。そうでなければ、意味論的に同一の計算機プログラムを、0/1の2進符号で記述しようが、何らかの計算万能な「より高い水準の」形式言語で記述しようが、それこそ意味が同じなのだから、物理学者が言うところの「解釈の違い」にしかならないわけである。Kolmogolov-Chaitin情報量の理論においても、記述体系を所与として同一のクラスの平均的な記述長は定数オーダの差しかないことが証明されている。つまり記述水準の高い低いということは、おそらくは本質的な意味を持っていないのである。

じゃあ何が違うのか。同一の命題クラスという、その同一性ということ自体を問うべきなのである。別々に取り出してきたAとBがA=Bであることを証明も反証もできないという場合で、それが一般的であるような状況とはどんなものかと考えれば、我々がよく知っているその代表例が不確定性原理の成り立っている場合である。

我々はたぶんもっとスキマ(gap)に目を凝らしてみなければならない。もっともプランク定数をいくら眺めたところで、量子力学から量子力学以上の何かが見えてくるはずはない。目を凝らしてみるというのは、だから実際には逆のことで、スキマ(gap)から注目を外さずにカメラを勢いよく引いてみることでなければならない。スキマ(gap)が存在することは不確定性にとって本質的なことであるとすれば、局所的には孤立しているスキマ(gap)が非局所には何らかの秩序にしたがうはずである。

基本的にはこれと同じ考えでできているのが、素粒子論や統計物理で使われる「くりこみ群の方法」である。単純なように思えるのは「カメラを引く」つまり文字通り一様なスケール変換を行うことが単純だからで、実際には変換作用素が半群の構造を持てば何でもいいのである。もっとも、これはこれで基本的には物理でしか使われない(テクニカルな)方法であるために、こうした方法が総体として何を意味するのかということは、物理学者にも本当はよく掴まれてはいないらしい。・・・こういうのも本当はもう少し真面目にフォローしてみたいと思うけれど、自分にはもはやその余力がないと感じる。

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風邪ひいた、たぶん

2010年05月08日 | miscellaneous
昨日か一昨日からか。

会社に行って会議とかで喋っていても声がおかしい。家にいる間は喋らないから気づかなかった。おまけに猛烈な暑さだったわけで、暑いのは文字通り暑いからだと思っていたが、自分自身が熱を出していたのだった。

「小さい白いにわとり」のパロディを書いてうpするとき、イタズラのつもりでジャンルを「ポエム」に設定しておいた。こんなジャンルでうpする奴がそうそういるとは思わないから、紹介ページにいつまでも残ってアクセス数が増えるのではなかろうかと思ったわけだ。・・・冗談じゃない。いま見たらもう紹介ページには残っていない。そのくらい「ポエム」はたくさんうpされているのだった。

もちろん、あんなものが本気で詩だとはまったく思っていない。わたしに詩才はない(ほかの才能もないけどさ)。自分では「準詩」と称している。要はモドキということだ。甘くてくどい、あれがチョコならカカオはいらない、表示上の分類で「準チョコレート」という、おそらくはピーナツに砂糖・香料・着色料等々を惜しみなくぶちこんで模造したチョコモドキの袋菓子があるけれど、あれのイメージ。もともと甘いものが苦手だし今ではまず食べないが、コドモのころは結構食べたし、嫌いじゃなかった。

そういえば発ガン性を疑われて製造販売が禁止された(むろん今でも禁止されている)人工甘味料の「チクロ」は、その後の追試で発ガン性はないとされた、という話を割と最近になって聞いた。そういう結果が出た後でも禁止を解かないのはどういう料簡なのか、なんて今頃憤ってもしょうがないのだが。

「にわとり」の最終行のネタ元が原律子「考へる人生」にあるあれだと判った人はいるだろうか。そういえば、どの単行本に収録されたか、あるいは未収録かは忘れたけれど、原律子の挿絵つきパロディでこんなのがあった。

キグチコヘコハ、イサマシク フアツシヨン ヘルス ノ ツトメニ デマシタ。 ワルヒ ビヤウキニ クヮカリマシタガ、シンデ モ チ●コ ヲ クチカラ ハナシマセンデシタ。

字句には微妙な記憶違いがあるかもしれない。ただし言うまでもないことだが、もとの原律子のテキストに伏字などはない。

木口小平のエピソードは、それが載っていた戦前の修身教科書でも、最初のうちは「イサマシク イクサ ニ デマシタ。」という字句はなかったらしい。

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大きい黒い蟠(わだかま)り

2010年05月08日 | miscellaneous
「小さい白いにわとり」は確か小学校1年の国語の教科書に載っていた話だ。もとの話は残り3匹が揃って「たべる。」と言うところで終わっていたと思う。

あの、いかにも道徳然としてネチネチと脅迫してくる感じが、小学生ながらにわたしは大嫌いだった。時々思い出すたんびにニワトリが酷い目に会うパロディの二次創作を書き飛ばしては、そのまましまい込んだりファイル消去したりしてきた。我ながらネクラ(死語)でやりきれないことだ。今回も「ブタ口蹄疫で殺処分」のニュースを聞いてて閃いたネタを、ほぼそのまま書いてみた。こういうものを人目に晒すのは最初で最後かもしれない。

言うまでもないことだが、現実の口蹄疫の流行については一日も早く終息することをわたしは願うばかりである。ただしもちろん、それがどんなことであれ、わたしには願いをかける相手などはいないのだけれども・・・。

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