惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

6-6 (ver. 0.1)

2010年04月27日 | MSW私訳・Ⅲ
第6章 自由意志、合理性、制度的事実

6-6 権利義務力、合理性、自由の間のつながり

わたしは人間社会の特徴をもつ種類の制度的現実は必然的に権利義務論を含むと主張してきた。しかしその主張は次のような疑問を提起する。「なぜこの権利義務論が制度的現実にとってそれほど重要なのか?」と。特に、その前制度的な状態における人間の本質的な特徴と権利義務論はどのように関係しているのだろうか。答はふたつの部分からなる。ひとつはもし我々が我々が創出しつつある社会において権利義務論が存在すると仮定するならば、我々がその社会を設計しつつあるところの動物は、彼らがスキマ(gap)を経験するものならばただ制度的構造に閉じ込められるであろうということである。自由意志がなければ私有財産・選挙への投票・カクテルパーティへ行くこと・大学で講義することなどは全部無意味である。それは決定論的計算モデルを想像することの要点であった。答のもうひとつの部分はこうである。件の動物は自由意志と合理性を持つがゆえに、件の構造はその構造が彼らの意識的合理的行動に何らかの影響を与える場合にのみ、彼らにとって意味を持つであろう。制度的構造に参加するということは、その制度的構造は参加する動作主を動機づけることができるということでなければならない。しかしこの体系が件の動機をもたらしうるただひとつの方法は動作主に行為理由を与えることだけである。動作主の直接的な傾向性は十分ではないだろう。だから体系は欲望によらない行為理由を創出することができなくてはならない。レストランにおいて、わたしは代金を支払うことの欲望によらない行為理由をもつ。言明をなすにあたってわたしは真を述べる欲望によらない行為理由をもつ。これは権利義務論の特徴である。権利義務論を認識するには欲望ないし傾向性によらない行為理由を認識することである。そして件の制度──言明をなすこと、財産、その他──が自由な動作主の社会においてそうした理由をもたらしえないなら、それは生存できないし機能もしない。だから権利義務論と意識の自由な動作主の社会の間には二重の関係が存在する。ひとつはスキマ(gap)が権利義務論の実質を与えるということである。もし意識の自由な動作主が存在しなければ実質ある権利義務論は存在しない。あるのは形ばかりの抜け殻にすぎない。だがもうひとつの関係は、権利義務論は合理的で意識的な動作主に対して制度を、それを破壊せずに利用することを可能にする。たとえば意識的な動作主がレストランで代金を支払う理由を認識しなければ、美術館から収蔵品を盗み出すべからざる理由を認識しなければ、真なることを語る理由を認識しなければ、レストランも美術館も言明も何もかも商売あがったりである。

もしもわたしがアメリカ人で、ここが映画館なら、立ちあがって「いいぞジョン、それ行け!」と叫んでいるところである。

こんなわけで、制度的現実が考慮されるところでは、制度の受容は──それはマックス・ウェーバーが「合法化(legitimation)」の問題と呼んだものだが──重大なことなのである。わたしはこの本を通じて制度はそれらが認識され受容される限りで機能するということを強調してきた。しかし認識や受容は、特に政治的制度の場合においてはしばしばある種の正当化を必要とする。そのような場合において人々は制度の受容に対する根拠が存在するかどうかを考えなければならない。典型的に、制度はそれが単に当たり前のものと見なされる場合に最もよく機能する。たとえば我々は言語やお金を当たり前のものと見なしてどんな正当化も求めないし、またそのような正当化が与えられたこともない。とはいえどんな制度でも挑戦されうる。社会の変化はしばしば制度がもはや受け入れ難くなり、地位機能の体系が単に崩壊するときに起こる。この点でひとつの自明な場合は1989年におけるソヴィエト体制の崩壊であった。

わたしはさらに「なぜ我々は誰も、まったく計算モデルのように決定したり行動したりすることができないのか?」と問う。答はふたたびこうである。もし我々が自由意志を持つならば、その決定は我々が計算論的存在論の一部ではない権利義務論をすでに持っているのでない限り、決して我々に結びつかないということである。権利義務論がなければ我々はモデルなんぞはそっちのけでやりたいことをやるだけになるであろう。

我々のような存在、自由と合理性の制約の前提のもとで行為するものにとって、我々がもつような種類の制度的構造は、制度的構造なしには存在しえないような行動を促すことができ、また自由と合理性に体系的に関連づけられたやり方でそれをすることができる。制度的構造に参加する人間は実際に自由の前提のもとで行為する。そうした制度は行動を強制しない。それは単に可能性を創出するだけであり、ただその可能性は構成的規則の体系が動作主をして、さもなくば動作主が持ち得なかったような傾向性によらない行為理由を創出することを可能にするやり方で拘束されている。わたしがあるものをあなたの財産だと認識する、わたしがあるものをわが政府であると認識する、わたしがあることをわたしが交わした約束であると認識するとき、わたしは各々の場合において単にこれらの制度がなくては存在しえなかった行動の可能性を認識するばかりではなく、これらの制度の中で活動する動作主としてのわたしの行動に対する制限をも認識するのである。我々の制度的現実の形態において特別なのはこの組み合わせである。我々のような意識的存在にとって、新しいことの創出を可能にする体系による我々の力の増大は十分ではない。可能にする体系は我々の合理性を調整しなければならない。つまり、それらは我々の理由にもとづく行為の能力を調整しなければならない。制度的現実における理由の特別な特徴は、これらの理由の多くが欲望によらないものだということである。あなたが結婚・お金・私有財産・政府の中で活動することになるのは、あなたがこれらの制度の中で活動する際「さもなくばそれらを行う方に傾くかどうかどうかにかかわりのないことをする理由をもつ」ということを認識する限りにおいてのことなのである。制度的構造は我々に、その構造がなければなしえなかったあらゆる種類の物事を可能にする。しかしこの可能にする機能は、少なくとも部分的には、権利義務的体系、欲望によらない行為理由の体系によって構成される場合にのみ働きうるのである。

さらに、人間の制度に参加することは権利義務論を強化する。クルマやシャツは使い減りするが、大学・スキーのチーム、政府は使い減りしない。それらは使いこまれるほどに強力になるのである。

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