「他人」という対象は、なぜあらゆる対象の中でも特別な位置を占めていると考えられるのか。無生物的な対象、あるいは動植物の対象を扱うことと、他人という対象を扱うことの間にある歴然とした違いは、本当はどこに根拠があるというべきなのか。
全宇宙つまり〈死〉の観念の手前に〈みんな〉という観念が置かれている。他人という対象はこの〈みんな〉という集合的観念に属する要素的観念(心的な対象)であって、その意味で特別なのだということができる。
何を言っているのか判らないかもしれないが、つまりマルクスの「フォイエルバッハ・テーゼ」にある次の一節を、おおよそ上のような方向から解釈したいということである。
よくこの一節を取り上げて「人はひとりでは生きられない」ことの根拠みたいに言う人が多いし、ひょっとしたらマルクス自身もそう思っていたかもしれない(笑)が、そうじゃなくて、わたしの心身問題の解を「個々の存在的本質は、その現実性においては自然的諸関係の総体である」と言い直したとして、「存在的本質」を「人間としての(つまり類としての)存在的本質」というように限定すれば、「自然的諸関係の総体」の稠密な部分として「社会的諸関係の総体」が括り出されることになる、と、だいたいそんなイメージである。
「人間」とか「社会」というような概念はもちろん最初からあったものではない。それどころかずっと後になって、人類史のたかだかこの百年二百年のうちに初めて作り出された概念である。それ以前に、というか人間が心的領域をもつようになった最初の頃には(あるいは現代人においてもその未発達な、あるいは退行した心的世界においては)何があった(ある)と言うべきなのか、それが〈みんな〉という未分化で漠然とした観念だということである。
〈みんな〉という観念がどのようにして発生した(する)のかについて、ここでそれほどはっきりしたことは言えない。ただ言語の発生(獲得)と強く関係づけられることは確かである。明らかに、道具としての他人は言語によってのみ有効に扱うことができるからである。
全宇宙つまり〈死〉の観念の手前に〈みんな〉という観念が置かれている。他人という対象はこの〈みんな〉という集合的観念に属する要素的観念(心的な対象)であって、その意味で特別なのだということができる。
何を言っているのか判らないかもしれないが、つまりマルクスの「フォイエルバッハ・テーゼ」にある次の一節を、おおよそ上のような方向から解釈したいということである。
人間的本質は、個々人に内在するいかなる抽象物でもない。人間的本質は、その現実性においては社会的諸関係の総体である。 |
よくこの一節を取り上げて「人はひとりでは生きられない」ことの根拠みたいに言う人が多いし、ひょっとしたらマルクス自身もそう思っていたかもしれない(笑)が、そうじゃなくて、わたしの心身問題の解を「個々の存在的本質は、その現実性においては自然的諸関係の総体である」と言い直したとして、「存在的本質」を「人間としての(つまり類としての)存在的本質」というように限定すれば、「自然的諸関係の総体」の稠密な部分として「社会的諸関係の総体」が括り出されることになる、と、だいたいそんなイメージである。
「人間」とか「社会」というような概念はもちろん最初からあったものではない。それどころかずっと後になって、人類史のたかだかこの百年二百年のうちに初めて作り出された概念である。それ以前に、というか人間が心的領域をもつようになった最初の頃には(あるいは現代人においてもその未発達な、あるいは退行した心的世界においては)何があった(ある)と言うべきなのか、それが〈みんな〉という未分化で漠然とした観念だということである。
〈みんな〉という観念がどのようにして発生した(する)のかについて、ここでそれほどはっきりしたことは言えない。ただ言語の発生(獲得)と強く関係づけられることは確かである。明らかに、道具としての他人は言語によってのみ有効に扱うことができるからである。