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惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

〈みんな〉という観念

2016年05月10日 | 素人哲学メモ
「他人」という対象は、なぜあらゆる対象の中でも特別な位置を占めていると考えられるのか。無生物的な対象、あるいは動植物の対象を扱うことと、他人という対象を扱うことの間にある歴然とした違いは、本当はどこに根拠があるというべきなのか。

全宇宙つまり〈死〉の観念の手前に〈みんな〉という観念が置かれている。他人という対象はこの〈みんな〉という集合的観念に属する要素的観念(心的な対象)であって、その意味で特別なのだということができる。

何を言っているのか判らないかもしれないが、つまりマルクスの「フォイエルバッハ・テーゼ」にある次の一節を、おおよそ上のような方向から解釈したいということである。

人間的本質は、個々人に内在するいかなる抽象物でもない。人間的本質は、その現実性においては社会的諸関係の総体である。

よくこの一節を取り上げて「人はひとりでは生きられない」ことの根拠みたいに言う人が多いし、ひょっとしたらマルクス自身もそう思っていたかもしれない(笑)が、そうじゃなくて、わたしの心身問題の解を「個々の存在的本質は、その現実性においては自然的諸関係の総体である」と言い直したとして、「存在的本質」を「人間としての(つまり類としての)存在的本質」というように限定すれば、「自然的諸関係の総体」の稠密な部分として「社会的諸関係の総体」が括り出されることになる、と、だいたいそんなイメージである。

「人間」とか「社会」というような概念はもちろん最初からあったものではない。それどころかずっと後になって、人類史のたかだかこの百年二百年のうちに初めて作り出された概念である。それ以前に、というか人間が心的領域をもつようになった最初の頃には(あるいは現代人においてもその未発達な、あるいは退行した心的世界においては)何があった(ある)と言うべきなのか、それが〈みんな〉という未分化で漠然とした観念だということである。

〈みんな〉という観念がどのようにして発生した(する)のかについて、ここでそれほどはっきりしたことは言えない。ただ言語の発生(獲得)と強く関係づけられることは確かである。明らかに、道具としての他人は言語によってのみ有効に扱うことができるからである。

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国家と組織体の違い(滝村隆一『国家論大綱 第一巻』ノート)

2016年04月26日 | 素人哲学メモ
国家(『国家論大綱』の用語では国家権力)は組織体(一元的な規範によって統制され、秩序づけられた集団)の一種である。重要なのは、国家(権力)を組織体一般のうちでも特別なものにしている、つまり組織体としての本質的な特徴とは何だと言うべきなのか、ということである。

『国家論大綱』の説明をわたしなりに噛み砕いてものすごく手短に言ってみると、国家(権力)とは、たとえば営利企業が顧客の支配ということを経営理念として掲げ、実際に顧客を支配しているような、そういう特殊な組織体だということになる。

もちろん実際の営利企業がそんなものを経営理念として掲げているということはないし、ありえないことである。営利企業においては文字通り企業組織体自身の営利ということがその目的であるし、営利企業を典型とする組織体一般においてその規範とか秩序とかは、組織体の台(base)である集団を統制・支配するための、つまり内的な規範であり秩序であって、それ以上でも以下でもないのが普通である。

ところが国家(権力)の場合は、組織体の外部(社会)を支配するという目的が先行し、自身の統制・支配はこれに従属するという意味で副次的な目的になっている。国家(権力)もそれ自身の内的な規範や秩序をもつから組織体の一種には違いないが、それが組織されてあることの主目的がむしろ組織体外部の統制・支配ということに置かれている、その点で国家(権力)は際立って特殊な組織体であるということができる。

さて、そういう「主目的がむしろ組織体外部の統制・支配ということに置かれている」組織体は国家(権力)に限られるかというと、実はそうではない。人間の、個々人の自己意識もまたそうであるということができる。そして国家(権力)と個々人の自己意識に共通の特徴であって、他のいかなる組織体も持たない特徴は「(外部に対する)意志」であるということができる※。かくして組織体としての国家(権力)の本質的な特徴とは、それ自身の意志を持つということに帰着することになる。

※営利企業においてもその経営は「意志決定」をするが、その場合の意志は当の企業組織体の内部を志向するものであって、外部すなわち顧客の支配を志向するものではない。そもそもこの「意志決定」は英語の「decision making」の訳である。decisionは内部を縛るものであっても、外部を縛るものではありえないわけである。

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「表現」の位置づけにかんするメモ

2016年04月25日 | 素人哲学メモ
人間の外界に対する行為はどんな場合でも道具を用いた行為である。道具はそれを(文字通りに、あるいは比喩的に)手にした人間によって支配されるものであり、外界の対象を支配するとは、すなわちそれを道具とすることである。したがって、道具を用いた行為は外界の支配域をさらに拡大すること、つまりさらなる道具を獲得するための行為である。

このことは言語においても同様で、言語は本来、他人を支配するための道具である。

もともと心的領域において対象であるものはすべて自分(存在)の外界への反映像である。だから言語は他人を支配するための道具であるというより、もともと対象一般を支配する(支配された)対象のひとつであって、他人という述語的概念は、専ら言語によって支配されるものとして対象一般から区別されたときに成立したのであり、言語という述語的概念はその他人が発する言語によって支配されることの経験から成立したというべきである。もちろん以上の順序は論理的な順序であって、論理的な順序はただちに時間的な順序を意味するわけではない。

おおよそこんな見方のもとで、「表現」が全体図式のどこに位置づけられることになるのか、それをある程度でも見定めておきたいというのがここでの目標である。この原稿はそれを探るために、つまり、いろいろの考えが錯綜してとりとめがつかなくなっているのをつけるために書いているので、読んで理解してもらうことは(いつにも増して)二の次になっているが、了承してもらうことにする。

どのへんで難渋しているのかというと、いわゆる芸術とか文化みたいなものは本質的に生産の役には立たないという意味で「遊び」の範疇に属していて、遊び(消費)は生産とともに生活循環(living orbit)を構成する2相だ、という見方をしようとしているのだが、しかし「表現」は言うほど「遊び」だろうかという点が、何か非常に気がかりである。

もともと人間にとっての生産とか消費とかは、生活循環と言っても動物のそれとは違っている。人間にとっての生産は大なり小なり疎外された労働の帰結であるし、人間にとっての消費は疎外の補償である。つまり本質的に疎外ということがない動物的な生活循環を1個の円軌道(リミット・サイクル)で表すなら、人間の生活循環はその上に疎外と補償を2相とする別の循環が巻きつくように組み合わされて、全体としてリミット・トーラス(ドーナツ型)の形に膨らんだ構造になっているということができる。

そして「表現」は、このリミット・トーラスの「リミット」をさらに突き破ろうとする動きが存在して、その動きのそれ自体、もしくはやはり循環的な動き、高次循環の1相に対応するものであると言える。アトラクタの次元が増えるごとに生活循環は少しずつ無限遠(全宇宙すなわち〈死〉)に向かって広がって行くが、人間にとって死の欲望は閉じた循環をどこまでも突き破って開いて行こうとする動きにあたっている。

そうすると「表現」に対立する相、すなわち上述の高次循環を構成するもうひとつの相は何だということになるだろうか。もちろん表現の最も純粋なありかたはまっすぐに〈死〉を志向するものだとも言えようが、それを完遂することは文字通り死んでしまうことで(笑)、どんな「表現」者も実際そうそう死にはしない(笑)ことを考えれば、「表現」に向かう意識を生活循環のリミット・トーラスに引き戻そうとする対立相はやはりあるものと考えた方がよさそうである。で、それは何か。

もうひとつ考慮すべきことは、上述のような高次循環はあるとしても、それはただ循環するだけではなく、実際にリミット・トーラスそれ自体の拡大(ないしは縮小)や分岐を生み出すことにもつながっているだろうということである。つまり生活循環の富裕化(ないしは貧困化)と多様化ということである。この富裕化(貧困化)や多様化が個体レベルで(あるいは集団内の「分業」として)生じれば、それが言うところの経済格差だということになる。

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なぜ分業によって生産性が上がるのか(1)

2016年04月24日 | 素人哲学メモ
分業によってどんな場合でも生産性が上がるというわけではない、とはいえ、たいていの場合は上がるように思われる。上がる場合の効果はしばしば劇的である。これはアダム・スミスの時代から広く言われていることで、時代と社会によらず実際にもたいていそうであることから、今では改めて反省されることもめったにないし、ほとんどの人がことさら理由を問うこともなく信じている。

けれども、あえて反省してみる価値はある。生物の個体レベルで分業するのは基本的に人間だけだからである。社会性昆虫などでは集団内で分業がみられる場合もあるし、個体レベル以下では、たとえば個体の細胞レベルでは細胞分化という形できわめて高度な分業が生じている、けれども個体レベルで身体構成にまさるとも劣らない高度な分業が生じているのは、人間、特にアダム・スミスが『国富論』を書いた産業革命の時代より後の人間社会においてだけである。

さて、なぜ分業によって生産性が上がるのかについて、アダム・スミスは3つの理由を挙げている(※いま手元に『国富論』の本がないので、以下はWebでテキトーに調べた結果から自分なりに書き直したものであると断っておく)。

(1) 単純な作業は容易に熟練することができる
(2) 作業と態勢の変更に伴うコストが減らせる
(3) 単純な作業を効率化する道具が発明される

これらをたとえば個体の身体構成における分業、つまり細胞分化の場合にあてはめてみると、どうなるだろうか。そうすることで分業ということの自然的な効用を見定めやすくなる。

(1) 細胞が自ら何かに熟練するということはまずない(笑)けれども、熟練と同じことが細胞分化によって起きていることは確かである。すなわち、細胞が分化するということは機能的に分化するということであり、単細胞生物なら生存の必要から備えている機能の多くは、多細胞生物の分化した細胞においては退化するか消失する一方、残された単一あるいは少数の機能が(しばしば著しく)強化されている。

(2) 細胞の場合、その活動が細胞全体の態勢(モード)として明確に区分されるということはそれほどない、けれども、より微細に眺めれば活動内容が変化することに伴うコストは確かに存在している。細胞の活動内容が変化することは大なり小なり遺伝情報の参照が変化するということであり、それに伴う発現機構の構成が変化することである。細胞はこれらの分子的動作のいちいちに化学エネルギーというコストを支払っている。

(3) 細胞が自ら何かを発明するということはまずない(笑)けれども、分化した細胞においては単細胞生物が通常産生しない物質や細胞内装置が産生されるということは広く見られるし、分化した細胞の機能的な強化はたいていそのような物質ないし装置によって支持されている。

いずれの場合も細胞分化は、細胞が単独で生存する能力を失うか減退させることを代償として特定の機能を強化し、細胞あたりの生存コストを下げることにつながっている。そして単独で生存する能力の喪失は集団(組織体※)として生存する能力の増大によって埋め合わされる格好になっている。その集団(組織体)として生存する能力の増大は、ごく大雑把に言えば、集団をひとつの組織体として束ね上げる秩序の強化ということに対応している。

※この「組織体」は英語で書けばorganismで、生物体、あるいは単に生物とも、あるいは古くは(今でも専らそう訳す分野もあるが)有機体とも訳されてきた言葉である。

こう考えると、もともと均質で無秩序な集団の内側で分化ないし分業が(またそれを裏打ちするように組織体としての秩序化が)進むのは、あたかも必然の成り行きのように思う人がいるかもしれない。けれども地球上の生命の歴史においても、人類文明の歴史においても、こうした分業体制の進化は決して直線的に進行してきたわけではない。まずこれが疑問のひとつである。

また、分業と秩序化の進行が必然的なら、個体レベルでの分業ということが同種の集団内でそれほど広くは見られないのはなぜか、あるいは、多数の種を含む生態系をひとつの組織体としてみることが可能であったとしても、その生態系の時間に沿って分業(種の分岐)がとめどもなく進行するということがない(ひとつ生態系をひとつの秩序によって束ねられた組織体としてみた場合、その秩序はどんな場合でも非常に緩いままにとどまっているように見える)のはなぜかという疑問が生じる。分業と秩序化にかかわる過程のすべては機械的(自然的)な過程であるとしても、少なくとももうひとつのパラメタがなければこれらを説明することはできない。

さらにまた、細胞レベルのことで言って、多細胞生物は単細胞生物を圧倒するほど「成功」してきたと言えるわけではない。今日の地球上においても生物の大部分は(個体数や種の多様性においてはもちろん、重量比においても圧倒的に)単細胞生物であり、多細胞生物の生存は単細胞生物に強く依存している。少なくとも多細胞生物の世界が単細胞生物の世界を(生物的に)「支配」しているわけでは全然ないことは確かであるし、見方によってはむしろ逆に、前者は後者の道具として作り出された(支配されている)という見方すら成り立つのである。

題名に掲げた問いの答はアダム・スミスの答に尽きているとしても、その先にはまだ不明なことが多く残されていると言わなければならない。掲げてきた疑問をひとつの問いにまとめて言えば、すなわち「分業による生産性の向上は(本当は)何を意味しているのか」ということである。

(つづく)

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ヘーゲル哲学と弁証法にかんするメモ

2016年04月22日 | 素人哲学メモ
わたし以外は誰も言わない(誰かが言ってるのを読んだことがない)ことだが、わたしが前から言っていることは、ヘーゲル哲学はニュートン力学の双対(dual)として考えるのが一番判りがいいはずだ、ということである。ニュートン力学が物質の運動を扱うように、ヘーゲル哲学においては概念の運動が扱われている。だからヘーゲル哲学における、いわゆる弁証法的な論理学というのは、ニュートン力学における運動方程式のようなものである。ただしそのヘーゲルの論理学は、ニュートン力学においては本質的な「時間」の概念が消去された形で定式化されている。それは、哲学(ヘーゲルのいう論理学)において時間は本質的ではないとヘーゲルが考えていたからにほかならない。実際、ニュートン力学における物質(質点)の運動は位置の時間発展(時間に沿った状態の変化)にほかならないが、概念の運動は別に時間的なものであるとは限らない。言ってみればニュートン力学が19世紀のラグランジュやハミルトンによって解析力学として、つまり対象の状態を一般化された「位置と運動量」のふたつからなるものとした上で再定式化されたように、おなじ19世紀の哲学者ヘーゲルにおいても概念(命題)は真偽のいずれかであるものではなく、それ自身のうちに否定の契機を含む自励運動体として考えられていたのである。いいかえれば、現代にいたる形式的な論理学においては通常そう見なされる述語(predicate)としての概念ではなく、言葉の本来の意味における概念、つまり思念(cogito)としての概念が、そこでは考えられていたということである。

ところで、上のことを思い出しながら改めて書いてみているうちに、ひとつのことに思い当たった。

わたしが素人哲学と称してやっている考察に独自の方法的な原理のようなものがあるとして、それを一言で言えば「通常(従来)は二分割ないし正面衝突の図式で考えられている(いた)さまざまな『対立』を、正面衝突ではなく直交する交差点上の『競合(ないし葛藤)』の図式で捉え直してみること」だということになる。

心身問題の解からしてそうで、デカルト的な二元論がそうであるように、世界を物質的と観念的の二領域に文字通り二分割するのではなしに、物理領域を列方向、心的領域を行方向とする無限次元行列を世界とみるならば、物理表示と心的表示は互いに不確定性関係をもつことになる、という考えがあの解を発想した根底にある。そしてこの考えは、もとをただせば(冒頭に書いたように)ヘーゲル哲学をニュートン力学の双対とみることができる、ということから着想されたものである。

ちなみに、こうした発想は必ずしも珍しいものではなく、スピノザ由来の二重相貌説なんかも基本的には同じ発想だと言えないことはない。ただ、幸か不幸かスピノザは無限次元の算数を知らなかったので(笑)、その二重相貌説は結局属性二元論のいち変種に帰着してしまう。すなわち、この世界には物質面からは見えない「ウラの顔(相貌)」が存在して、それが裏側の精神面からは見えるのだ、という話にオチてしまう。これは紛れもない属性二元論であって、近代から現代にいたる自然科学の研究史において余すところなく否定されてきた考えである。実際、この論理を用いればほとんどどんな種類の神秘主義でも容易に導けるし、正当化できてしまう。自然科学の研究史をまるごと虚仮にするつもりなら、である。

最初はだから、この考え方は心身問題の解を導くために、ある意味アドホックな思いつきを導入したものではあったのだが、色々考えてくると(なんだかんだでもう十数年になる)自分の考察のいたるところで同様の発想を使っているわけである。そして何に思い当たったかというと、つまりこれが弁証法的論理の本義なのではないかということである。

そもそもヘーゲルはなぜ形式論理の明解さをかなぐり捨ててまで「それ自身のうちに否定の契機を含む自励運動体」としての概念ということに固執したのか。つまりそれこそが、人間なら誰でももち(デカルトに言わせれば「公平に分け与えられており」)、かつ人間しかもつことのない理性的思考の本質的な特徴であること、いいかえれば、人間が他のあらゆる存在カテゴリから区別される、つまり人間が人間であることの本質をそこに見出していたということではないだろうか。

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なぜ何もないのではなく、何かがあるのか(2)

2016年04月21日 | 素人哲学メモ
何にせよ我々にとって、というかわが素人哲学にとって関心があるのは、人間の心的領域の全体構造というか成り立ちの解明、ジョン・サールの表現を借りるなら「陽子(proton)から大統領(president)まで、電子(electron)から選挙(election)まで」隈なく議論の対象にできるような、体系として一貫性のある理論モデルの構築ということである。ただ、心的領域の基底系はどう考えてもフーリエ基底系のような、たかだか1パラメタの基底関数で全体を包括できるような単純な成り立ちはしていない(だろう)というばかりである。

その素人哲学のプロジェクトにおいて、この問題、つまり「なぜ(外界には)何もないのではなく、何かがある(我々はそのように外界を見る)のか」の認識論的な問いは、人間がその外界にあるものを道具とするため、あるいは支配するために(文字通りに、あるいは比喩的に)「手を伸ばしてそれを掴み取る」こと、実際にそれが可能であることの根拠にかかわってくる。

もしも外界が認識論的な暗闇だったら、そうしたことは当然まったくできない。幸い、現に我々にとっての外界は実際に認識論的な暗闇などではないが、なぜそうではないのかの根拠は、普通に(たいていは誤って)そう思われているほど自明ではない。

非常にきつい制約を加えた状況下でロボットに目の前(?)の物体を認識させ、アームを伸ばして掴み上げる動作をプログラムする、これはすでに実現されているし、工業生産の現場などで広く利用されてもいる技術であるが、本当は前世紀の工学技術知識の集大成と言ってもいいくらい大変な達成である。どのくらい大変かというと、これがどうしてできるかをすっかり理解するためには、今でも工学系大学院の博士課程水準の知識と、それら全部を体系づけて理解するだけの学習時間が必要な程度に大変である(笑)。

ところがその一方において、人間ならよほどのボンクラでも軽々とやってのけるように、これといった制約のない、人間にとっては日常のごくありふれた状況下で同様の動作を達成する、またそれをプログラムすることは、ロボットにはまったく不可能である。これは前述の水準の知識と理解をもつものの間に限っては非常によく知られた事実である(フレーム問題)。

早い話が、いわゆる「汎用家事ロボット」のようなものは作れないか、もし作れたとしたら、それは人間が居住する家屋や居住する人間の生活様式の方が、ロボットが導入された工場やその製造組立工程と同様に、逸脱の許されない厳格な規格と規則と制約だらけの何かに作り替えられた時だけだということである。

巧妙に狭く限定づけられた状況のもとで、よくプログラムされたそれが動作しているところの外見からはそうは見えないかもしれないが、つまり「認識論的な暗闇」とはまさしくロボットが(そしてそのロボットを介して課題に向き合うプログラマが)置かれている状況のことなのである。ロボットに意志はないがプログラマにはある。だから暗闇に手を伸ばす(ようにプログラムする)ことはできるし、その手に取り付けられたセンサが感知した内容に応じて動作する(ようにプログラムする)こともできる、けれども、何をどうしようとも「暗闇を晴らす」ことだけはできないのである。



我々が目の前の物体を、その周辺(背景)から区別されたコンパクト(有界閉)領域、すなわち対象物として認めることができるためには、視覚(一般に感覚器)から得られる平面的な像だけでは十分ではなく、その平面から飛び出た外に──哲学っぽい言い方をすれば「感覚を超越したところに」──いまかりに〈秩序〉とでも呼ぶべき1点、ないしはコンパクトな閉領域をもつことが必要である。この図式が何に似ているかと言えば、実は我々自身が自然から自分を区別することに一番似ている。つまり、我々は自分自身を自然から区別するように、対象物をその背景から区別して認識している。この意味で、心的領域の上に認められる対象は、どんな場合でも自分自身の外界への投影像として「そこにある」のである。

ロボットには手に負えない「フレーム問題」が手に負えない根本の理由は、置かれた状況における可能性の選択肢が無限で、これを縮約する手段も算法上存在しないからである。選択肢がたかだか有限個であるなら(それにしてもあまり多数になると困難が増しはするが)フレーム問題は原理的に解決可能だということになる。そして無限個の選択肢をたかだか有限個に縮約することは位相空間論におけるコンパクト化(compactification)の操作そのものである。認識論的な暗闇を晴らしているのもそのコンパクト化だと言いたいわけだが、それが人間にはしごくあっさりと可能で、機械にはどうやっても可能でない、その根拠は、コンパクト化のための超越的な1点(もしくはコンパクト閉領域)を人間は自らの事実存在としてもつが、機械はそれを持たないということに求められる。

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なぜ何もないのではなく、何かがあるのか(1)

2016年04月20日 | 素人哲学メモ
以下はひとまずさっき投稿した「無題」の続きである。他我問題のさらに根底にこれがあると気づいてしまったからには、考えてみないわけにはいかない。

もっとも、我々にとってこの問いはいわゆる「究極の問い」、つまり存在論としての問いではなく、あくまでも認識論的な問いである。つまり「なぜ(外界には)何もないのではなく、何かがある(我々はそのように外界を見る)のか」ということである。

存在論としての問い、つまり究極の問いの方は、正直、まともに考えてみたこともないのだが、根拠もなしに問いを回避していると思われても癪だから、その根拠だけは最初に書いておこう。理由がどうあれ(あるいは理由がなくても)わたしは事実存在している。つまり「究極の問い」の答はわたしが事実存在することにいかなる影響も与えない。したがって、存在するわたしがすることについてのいかなる問いの答も、わたしがなぜ存在するかという問いの答の如何には影響されない。ある問いの答が別の問いの答に影響を及ぼしうるなら、後者とともに前者を考えることには当然意味がある、けれども影響がないなら、前者について考えることは、それとは無関係な後者に関する限り無益である。

以上の論証に釈然としない人がいるなら、上述の「わたし」をたとえば「物質宇宙」に置き換えれば、なぜ自然科学が宇宙の存在理由を問わないのかについての普通の答え方になることを確認してもらいたい。すなわち、この宇宙がなにゆえ存在するかということの理由は、仮にその理由があるとしても、それはまさにこの宇宙(very universe)で起きていることの探究、すなわち自然科学の研究プロジェクトにはいかなる影響も及ぼさないのである。

ついまともに考えてしまって(笑)長くなった。マクラだけ投稿するのは気が引けるが、以後は認識論的な問いに限って議論するので、どうでもいい前置きで煩わせないためにもこれだけ別にしておきたい、ということで勘弁してもらいたい。

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無題

2016年04月20日 | 素人哲学メモ
以下の内容は「呪縛の言語行為論」を書こうとしてつらつら考えながら書いているうちに話が逸れてしまった、というものである。今のところどこにも帰属させられない雑考だということで無題とする。



哲学の伝統において難題のひとつとされている問題に他我問題(他我論)がある。人間はどういうわけか同種の個体を自分と同じ種類の、つまり固有の心的領域をもつ存在だと認めることができるが、それはなぜか、という問題である。

あるいはもっと根本的なことで言えば、人間はその心的領域において自分とそれ以外(外界)を区別しているというのはいいとして、その外界が認識論的な暗闇ではなく、つまり「何もないのではなく」、そのうちに多様な、区分できる対象を含んでおり、区分できる対象が配列された空間の拡がりや奥行きとして見る、要するに「何かがある」のはなぜか、という問題である。

つまり、他人を同種の個体だと認めるにしても、それ以前にまずその他人が対象として認識できなければいけないわけだが、デカルト的な「我あり」から哲学を展開しようとすると、実はどこまで行ってもいわゆる独我論しか出て来ない、「我」ばかりは確かにあるが、その外に「何もないのではなく、何かがある」ということを言うことが、実は全然できない、という問題があるわけである。あるいはたとえばマルブランシュのように、それを言うために神の存在を導入するようなことを、たいてい始めてしまう(しかしこのマルブランシュの「神を通して見ている」という議論が、実は我々にとってのヒントになる)。

「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」「何かがあって、そのうちのあるものは自分と同じような存在である(とわかる)のはなぜか」これをきちんと解くか、せめて考えを明確にした上でないと、哲学は独我論以上のことは何も議論できないのだが、解けないものは解けないし、さりとて独我論に拘泥しているわけにもいかない、ということで、独我論以上のことを論じようとする哲学(つまり他我の哲学的心理学とか、たいていの社会(言語)哲学とか)は、たいてい、論じようとする対象は理屈抜きでとにかくあるのだ(笑)という、割と無体な命題を公理として置いた上で(しかも、たいていはそのことを明示せず、暗黙の前提として)それを論じる格好になっているわけである。(詳しく書く気がしないので書かないが、心身問題が長らく解かれて来なかった理由のひとつも、おそらくはここにある。)

それがたとえば目の前の灰皿のような物体についての議論であれば、物理的な物体としての灰皿は心的領域上の(つまり表象としての)灰皿と大きく違うものでもないというか、要するに科学的知見と対照させた議論ができるから、あまりひどいことにはならないのだが、「他者の心」とか「社会」とか、あるいは「国家」とかいうような根本的に心的領域上の対象でしかないもの(つまり「幻想」)を論じようとすると、たいていしっちゃかめっちゃかのことになるわけである。

いや、専門の哲学者は本当はそんなにしっちゃかめっちゃかではないとしても、それはしっちゃかめっちゃかになりそうになると、もの凄い勢いで独我論ないし懐疑論の方へ退却してしまうからである(笑)。実際、個別の専門分野の議論がその分野の根本(基礎)的な概念規定に触れてくるようになると、たいていしっちゃかめっちゃかのことになるわけだが、これはつまり個別の分野を支える根本(基礎)概念について、ある水準から先では哲学のサポートが受けられないという事実を反映していると思われるわけである。

わたしの知る限りそういう体たらくに陥らないことを志して、それなりにどこまでもサポートを与えられるだけの首尾一貫した体系を構築したのは、今においてなおヘーゲルからマルクスの系統だけだということになる。そしてこの系統も長らく改訂を必要とされているのだが、それはまだ果たされていないのである。だいたい翻訳された文献で読んでいてさえ、これらの系統の議論はただ読みさえすれば誰にでも判るというほど(少なくとも今日の基準で言って)明確な議論はしていない。ヘーゲルやマルクスの訓詁註釈をやってるだけで生涯メシを食ってしまう人がたくさんいる(・・・今はもうたくさんはいないか)ゆえんである。

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心身問題の解(図版のみ)

2016年04月18日 | 素人哲学メモ

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素人哲学の構想のようなもの

2016年04月16日 | 素人哲学メモ
気まぐれにまかせて日々考えたことを文字にして書き散らしているばかりで、お前の素人哲学とやらの全体像がちっとも見えて来ないと感じている人がいるかもしれない。

自分でも初心はたいてい忘れていて(笑)たまに思い出す程度になってしまっているが、たまに思い出す日がないわけではない、つまり漠然とした構想とか方針のようなものは、今でもないことはないので、あまりひどい大風呂敷にならない程度にそれを書いてみる。

(1)心身問題の解決、(2)生と死の複素欲望論、(3)呪縛の言語行為論、この(個々人の存在と近傍にかかわる)3つを基礎において心的領域の全体的な成り立ちを解き明かすこと、いいかえれば(a)経済的生産、(b)政治的調整、(c)娯楽(文化)的補償の3つを軸にした社会的構築論の方へ考察を拡げること。あるいは、拡げるように考察すること。

早い話が(a)は資本論、(b)は国家論だが、(c)の欠けていること、あるいは欠けてはいないにしても統合的な社会の(哲学)理論としてうまく組み込まれていないことが、既存のあらゆる(哲学)理論が全円的なものにならないで、ひいては資本論が資本を超え損ね、国家論が国家を超えることができない、その一番の理由かもしれないと思っている。

・・・やっぱり大風呂敷じゃないか、というか、さっき投稿したものよりこっちの方がよっぽど「ポエム」じゃなかろうかと思うわけだが、

物理学とちがって哲学には本当の意味で定まった目標とかはありえないし、したがって理論的な完成ということも原理的にありえない。それは人が生きることに定まった目標とかはありえないし、したがってその完成ということもありえない、生きるということの内側にはその始まりも終わりもない(とはいえ、それらは生きることのすぐ外にはある)、その両端で閉じた「人生」などというものは(信仰によってわざわざ閉ざさない限り)ない、ということとパラレルである。

生きることと哲学は、だから、将来を語ろうとすれば大なり小なり大風呂敷を広げることになってしまうことでも同じで、だからそれは仕方がないのである。

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当為について(2) (付・規範的な命令/意志と自由意志)

2016年04月15日 | 素人哲学メモ
当為の観念を信念系として分解すると、たとえば、次のようになるはずである。

(a) 外界は単一の体系的な秩序に沿って展開されるという信念
(b) 外界の展開いかんで自分が害されることがありうるという信念
(c) 自分の意志的な働きかけによって外界を変化させられるという信念

この信念系は何やら奇妙だ。いま仮にこの「外界」が「自然」のことであるとすれば、(a)(b)はともかく(c)はありえないことについての信念になってしまう。自然は物理法則によって展開される、決定論的な(不変の)全体であって、物理法則を超えた「意志的な働きかけ」によって変化することはありえない。この「外界」は(見た目にどんなに似ていても)自然そのもののことではない。

そもそも人間は自然の一部である。だから実際は、人間は上の信念系を保存しつつ、自然から「自分」を不断に区別し(区別し直し)、残余を「外界」としている存在だと考えられる。そしてその(再)区別に関与しているのは「害されることがありうる」という懸念と「意志的な働きかけ」に帰結する欲望のふたつである。

当為の観念は、心的領域そのものの変容の、意識における自覚(反映)である。「自分」は作用の起点であり、また心的領域の原点(ないしコンパクトな閉領域)だから、自分の(外延における)変化は自覚されないが、外延の変化は心的領域そのものの変容に対応するので、それが「外界」の対象(これも心的領域上の観念である)への違和感のようなものとして察知されることになる。



ところで「外界」は自然そのものではない、ということは、(a)でいう「単一の体系的な秩序」もまた物理法則そのもののことではなく、とりわけ自分自身の近傍で大きく変容した何かになっている。なんと言っても「外界」は意志によって変化させうる(そう信じられもするし、たいてい本当に変化する)何かになってしまっている。いま右手を上げようと思えば、右手が上がるだろうと信じられるし、たいてい本当に右手は上がるわけである。

自然から自分を区別した残余である外界の秩序を「規範」と呼ぶことができる。

通常、規範は社会的なものとみなされるが、そもそも社会というのが共同の幻想として個々の心的領域上の対象なのであるから、常識的な意味での規範はその共同幻想に関連づけられる限りにおいての規範である(紛らわしいので、後々は上の、常識的でない方を原規範とか汎規範とか呼ぶことになるかもしれない)。

●付・規範的な命令/意志と自由意志

以下は上とすぐつながる内容ではないが、上を考えているあいだに何となく思いついてしまったので、付録として置いておく。

すべての規範的な命令は「背こうと思えば背くことができる」ことを本質としている。クルマに轢かれる危険を覚悟するなら、交通信号を無視することは自在である、というようなことだが、注意すべきことは「背こうと思えば背くことができる」のは単に規範的な命令の性質ではなく、定義にかかわる本質だということである。原理的に背けない、あるいはそのような場合がありうる命令は規範的な命令とは呼べない。

命じられたものがその命令を遂行するというとき、物理法則のように普遍的かつ決定的な作用によるのではなく、場合によって抗えない外力によるのでもなく、いつでも抗える、つまり、命じられたものが固有にもつ内力によってのみ遂行される命令が規範的命令である。

命じられたものが人間である場合、この内力は意志と呼ばれる。意志のうちでいかなる規範的命令の拘束も受けない(空の規範的命令に拘束される)意志を自由意志と呼ぶ。逆に言えば、意志は通常何らかの規範的命令に対応して、その拘束のもとで発揮される。自由意志が存在するかどうか(空の規範的命令が存在するかどうか)は不定だが、意志一般は規範的命令が遂行されるどの場面においても必ず存在する。なかったら遂行できないからだ。

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当為について(1)

2016年04月13日 | 素人哲学メモ
当為の観念、つまり「~しなければならない/~でなければならない」という観念は、何についてその観念をもつかは人と置かれた状況によって様々であるとしても、そういう観念を持たない人はいないであろう。たとえば横断歩道を渡っていて、歩行者用信号が点滅しはじめたことに気づくと「さっさと向こう側まで渡りきらなければならない」と、普通は誰でも思うわけである。

当為の観念には、その根拠を与えるように「さもなくば」という脅し、あるいは懸念が、たいてい暗黙に伴うものである(明に伴う場合もある一方、あえて反省してみるまで明らかにならない場合もある)。横断歩道の場合だったら「さもなくばクルマに轢かれて死んでしまうぞ」という脅し、あるいは懸念である。脅しの内容は正当なこともあれば不当なこともあるが、いずれにせよ、決定的あるいは傾向的な因果としてそうなることを、当人は必ず了解している。していなかったら脅しは脅しにならない。

「さもなくば」の脅しや懸念の内容が必ずしも明確でない場合がある。典型的なのは「人を殺してはいけない」という道徳的禁止の当為である。さもなくば何だと反省してみても、内容のはっきりした脅しも懸念もそこには認められない、黒雲のように漠然としてつかみどころのない「いやな感じ」が広がっているだけだ。ただ漠然としていても脅しや懸念としては、つまり茫漠としてたちのぼる黒雲の全体が圧迫してくる感じは(たいてい)抗い難く強烈なものである。

道徳的な当為はしばしばそれを抱く当人の利害には無関係な他人や集団について生じうる。それは当事者からすれば概して「大きなお世話だ」としか思われない種類の(その意味ではまったくもって反道徳的な)心情だが、そのような心情が生じてしまうこと自体は、たいてい避けようがないものである。

ところで「当人の利害には無関係」といって、それが実在の人物や集団であれば、大なり小なり社会的な関係の網の目のどこかでつながっていると言えないことはない。けれども、この「大きなお世話」な道徳的当為は、社会的な関係性は絶対にありえないフィクションの中の、実在しない人物や集団の像に対してさえ生じうる。こちらの渋面が察知されるわけではないから「大きなお世話だ」と言われてしまう懸念もない、とはいえ生じるものは生じる。

当人の利害に関係なく、これといって道徳的とも思われない当為が生じうる。雪は白くなければならないし、カラスは黒くなければならないというような。これらも「さもなくば」の内容ははっきりしないことが多いが、自分がそのように理解しているこの世界の秩序に反するということで、だから脅しや懸念の全体は「さもなくばこの世の終わりだ」という、字で書くと意外に重たいものであったりする。

(つづく)

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『言語にとって美とはなにか』メモ ── 「読者の理論」は可能か?

2016年04月12日 | 素人哲学メモ
文学の価値は、それぞれの鑑賞者にとっては、いつも個別的なものだ。(略)この個別性は読み込んでゆくかぎり文学表現の価値に収斂するほかに収斂の方向はかんがえられない。
(Ⅱ巻・第Ⅶ章 立場・第Ⅰ部 言語的展開(Ⅰ)・3 文学の価値(Ⅰ))

『言語にとって美とはなにか』(以下『言語美』と略す)のなかで読者(鑑賞者)について述べられているのは、実質的にはほぼこの箇所だけだといっていい。しかも引用部分のすこし前に、文学の価値ということについて「創造者(作者)だけではなく読者の立場をかんがえにいれるべきだというようなわかっていない論議」という言い方で、そのような論議は根本から退けられている。

『言語美』はもともと表現の理論を志したものだから、そこに読者の出る幕がないのは当然といえば当然のことだ。さらにまた『言語美』は作者と読者が言語を介して向かい合う、作者が作品をテープに録音し、読者はそのテープを再生するものであるかのような伝達言語の機能主義的(あるいはまたスターリン主義的)モデルについての徹底的な批判と否定の書でもある。

では『言語美』の表現の理論に対応するような、上の副題にあるような「読者の理論」のようなものはまったく不可能だろうか。わたしの考えではそういうことにはならない。それが文学(言語でつくった芸術)であるとは限らないだけで、現代社会において言語は誰でも使うわけだし、任意の個人が読者としてたまさか文学作品の言語と交点をもつこと、つまり、かくべつ教わらなくてもその意味や価値についてなにがしか理解するところをもつということは、頻度はひどく小さいにしてもネグリジブルだとは思わない。

引用にあるような「収斂」のシナリオに整合し、なおかつ機能主義的モデルに妙な色目を使うこともなしに「読者の理論」のようなものが成り立つのは、表現(作者)を縦に、読者を横に並べたような双対図式を考えた場合だけだと思える。実際、引用の「個別性は読み込んでゆくかぎり文学表現の価値に収斂する」という(伝達言語のスターリン機能主義モデルからは不可解ということにしかならないであろう)断定は上述のような双対性の図式を置いて言われていることとみて間違いない。つまり、個別の読者の評価のたたみ込み積分は表現の価値の領域上で点スペクトルに収斂すると、だいたいそんなイメージのことが引用では言われているのである。

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呪縛と支配 ── ひそかな言語行為論(2)

2016年04月06日 | 素人哲学メモ
ほぼ人間とその社会にしかない「支配」という現象、あるいは関係性と呼ぶべきものがあると思う。ただし、ここでいう「支配」とは、個人または集団が他から「呪縛され、道具扱いされる」ことを指す※。それが「人間とその社会にしかない」のは、この定義なら当然そうなるというだけの話である。

※受動態で書くのは、「支配する」他方は通常これも個人や集団であるが、特別な場合として、呪縛する言語行為だけが存在し、支配する実体が存在しない場合がある。後述する。

「呪縛」は「言語行為の作用」ということをより明解な一語に置き換えたもので、オカルト的な何かを示唆するものでは一切ない。人間の個体もしくは集団は、言語行為の作用によって目的達成の手段すなわち道具として扱うことが可能になるし、逆に他から作用を受けることで自律性を(多くの場合、部分的かつ一時的にではあるが)失い、道具として扱われもする、そういう存在だということである。

そして、このことが重要だが、支配は少なくとも3つの意味で、人間の社会性の真の根源である(以下では3つのうち2つについてだけ述べる)。

●社会性の根源(1) 支配は伝達に先行する

社会性の根源ということについて、しばしば言語こそがそれであると言われてきた(いる)が、それでは十分ではない。言語行為とその作用から切り離された(伝達)言語という抽象概念は何ら現実的な内容をもっていない。概念が現実的な内容を脱落させることは、他方において、形式的に扱うことのできる便利さを獲得することでもあるが、つまり抽象的な伝達言語はそのために作り出された、いわば「茶番」(擬制的)の概念である。

また、これは十分に検証されたこととは言えないが、それらしく作った相互作用系(人工生態系)の上で伝達言語らしきものが発生・進化するということが、少なくとも計算機実験(シミュレーション)によって立証されたことはない。つまり、機能主義的な言語理論は、それが存在しないところから伝達言語が進化してくることを説明できない。このことは、伝達言語がそもそも「茶番」であって、つまり生態系内の個体の適応度に関与しないという意味で空虚な概念だからだと考えれば容易に理解できる。あってもなくても適応度に差がないのなら、それが進化するということもあるはずがないのである。

人間は他の個体を道具とすることで、自身の(生理的)身体だけでは決して達成できないことを達成する。もちろん道具はすべてそうしたものであるのだが、呪縛され道具化された人間(個体または集団)は、特別である。人間は、単なる物体としては石ころや棒きれほどの役にも立たないが、呪縛された人間は他のどんな物体──あらゆる機械と家畜を含む──も持つことのない高度な機能をもつからである。

たとえば、「他人から頼まれて(その人のいる場所からは手の届かない)棚の上にある箱を取ってあげた」こんな無害でありふれた日常の経験も、呪縛と支配の経験である。実際、頼んだ他人の側からすれば、棚の上にある箱を取る(目的)ために、たまたま居合わせた人を道具(目的達成の手段)として使ったということであるし、しかも、目的の全部をしばしばたった一言「箱取って」の発語で達成してしまう。

おんなじことをロボットにさせようと思ったらどれだけ大変なことになるか、そして結局はほぼ不可能であることを知っている人(これを書いてるわたしもそのひとりだ)にとっては、個人の間に起こるこんな些細な出来事も、まったく驚くべきことのように感じられる。

なにしろ命ずる側は、具体的にどう判断し行動するかをこと細かにプログラミングする必要すらない。だから(プログラミングを要する)ロボットにとっては致命的なフレーム問題も、呪縛された人間は難なくクリアしてしまう(この点で、呪縛は計算機システムのハッキングによる乗っ取りとは明確に異なる)。そういうことをやってのけるのは呪縛された人間だけである。そして呪縛は人間の意識をもつものにしか生じないのである。

人間の言語は、だから、他人を支配する(呪縛し、道具扱いする)ために発明され、洗練されてきたもののはずである。このことが社会性の根源だというのは、「呪縛された人間」という道具を得ることが、人間の集団が単なる同種個体の集団ではなく、支配関係の網状組織としての社会を生み出すことにつながったということである。

●社会性の根源(2)

支配は排他的に単方向性である。つまり相互的ではありえない。特定の瞬間において交差点が南北方向か東西方向かのどちらかしか通行可能でしかないのと同じことである。

けれども、この点で「約束※」は例外的な現象である。「約束」はそれを交わす両者が同時に支配され、支配する実体が存在しない(あたかも「約束」という抽象観念が支配するように見える)からである。

※この「約束」は第三者による証明を要しない、純粋に二者だけで成り立つ約束のことである。そんな約束があるのかと思う人が、いるかもしれないと思うから註しておくと、コドモの間の約束はむしろたいていそうしたものである。約束の効力を保ったまま、約束の存在それ自体を二者の外に対して秘匿することさえできる、そういう約束を交わしたことがない人がいるとすれば、それは、些細なことでも一筆書かせずには済ませられない人のことであろう。

しかしながらこの場合でも、言語がないところで「約束」は成立しそうにないとか、言語がないところに社会はない(逆も同様である)といったことを考えてみれば、両者を支配するのは抽象ではあるにせよ空虚ではない、つきつめて言えば「約束」において両者を支配するのはそれぞれの〈死〉であることがわかる。「嘘ついたら(約束を破ったら)針千本呑ます」とは、よく言ったものである。

心的領域は個々人が内的にかつ固有にもつもので、外側からはその内容はもちろん、厳密に言えば存在すら参照できないものであるが、唯一、すべての個人の心的領域(その存在は仮定されるものとして)において一致する、その意味で万人が事実上共有する心的な対象が存在して、それが〈死〉である。

〈死〉は克服されるべき究極の自然、つまり物質的な宇宙全体の、個々人の心的領域における像である。双方を支配する第三者が実体(個人ないし集団)として存在しなくても、二者が共有する〈死〉にその役割を預けて支配させることで「約束」は成立する。それにしても支配する実体は存在しないので「針千本呑ます」の唱和と呪縛は、そこになければならないのである。

●呪縛と疎外

呪縛は本質的に、される側の意識を超えたところで成立する。そうでなければ意識的に呪縛を拒絶、解除、ないし無効化できてしまうので、呪縛が呪縛にならない。

呪縛されることは直ちに疎外されることではないが、呪縛は疎外が成立する基本的な条件のひとつである。他に用事のないとき、人から頼みごと(棚の上の箱を取ってくれ、というような)をされても何ら気に障ることはない(疎外感は生じない)が、用事があって気持ちがそちらに強く向いているときに頼みごとをされるのは、誰にとってもひどく気に障ることである。それが逆らえないことであるために、呪縛される側の意識は行為から引き剥がされる一方、引き剥がされた意識の側に強い苦の感じを引き起こす。これが疎外感である。

●付記

ところで、呪縛とか支配とか、嫌っ気な語をわざわざ選んで使っているのは、これらが時として現実に恐るべき結果を生み出す、ひどく危険なものでもある、ということに自他の注意を向けたい、という意図を含んでいないことはない。

たとえば他人に「死ぬまで戦え」と命じて、実際にその他人を「死ぬまで戦わせ」ることが、場合によってはできてしまう、そうした途方もない関係性を支配と呼ばないで何と呼ぶのか。また、そうした命令の途方もない効力を呪縛と呼ばないで何と呼ぶのか、ということである。

一片の発語がそうした途方もない結果を引き起こしうるということを、いつでも念頭に置いて考察できなければ、言語についてのいかなるプラグマティックな考察も、遅かれ早かれ、もとの空虚な論理の遊びに戻ってしまうと思われる。

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なぜ国家はひとつではなく、複数の国家があるのか ── 国家について(1)

2016年04月05日 | 素人哲学メモ
この問いについては少し説明がいる。つまり、現実の国家はどれほど強力でも単独で全世界を覆い尽くせるほど強大なものであったことはない、ゆえに、基本的にはどの時代でも地球上にはたくさんの国家が存在する、けれども、それは本当のところなぜなのか、という問いである。

実際、現代世界の典型的な国家はみな、その法体系の根本つまり憲法において自身を特定地域・特定集団の国だというように規定してはいないのである。掲げられる大元の原理原則は常に人類普遍の(少なくともそのように自認された)原理原則である。わが国で言えば日本国民とは日本国籍をもつ人のことで、国家以前に〈日本人〉という特定集団(の規定)が存在して、その特定集団の利害のために日本国があるという順序にはなっていない。もちろん、他のどの国でもそうなのである。

日本国の領土が日本列島と周辺の島々に限られるということも、現状ではそうだというだけで、もし誰も文句を言わないのだったら(実際は言われるに決まっているが)全世界あるいは全宇宙(笑)が領土であっても何ら不都合はないように、国の法体系がそういう風にできているというか、法体系のどこにも「領土の限界」という概念は存在していないのである。もちろんこれも、他のどの国の法体系でもそうなのである。

一方において法体系がそのようなものである(支配する領土や集団について閉じた規定をもたない)割に、その法体系に基づいてなされる現実の国家の行為(行政とその執行)はそれが支配する領土や集団に関して必ず閉じているものである。

法体系の根本に人類普遍の原理原則を置いている限り、個別の法もその執行も当然普遍的な根拠に基づいてあるはずだが、たとえば他国の法が自国のそれ(ひいては人類普遍の原理原則)と矛盾するからといってイチャモンをつけるということは、普通はしないし、そうしたことが予期されてもいない。なぜなら、任意の国家は、その外側からは「有限の閉じた」領土や集団を支配しており、かつ、その「有限の閉じた」領土ないし集団を支配することについて優先する権限をもつものと見なされるからである。

他国の支配する領土や集団が「有限の閉じた」領土や集団で、自国のそれとは排他的であり、しかも「有限の閉じた」領土や集団を支配するという点では自国と同じ(対等)だと考えられるからこそ、そんな態度が取れるわけである。そうでなかったら国どうしでイチャモンのつけ放題であるし、どんな些細な食い違いでもイチャモンつけないわけにはいかなくなるが、現にそうはなっていないのである。しかし国家の法体系それ自体は決してそのように構築されることはない。あくまでも人類普遍の原理原則にもとづいて、支配する領土や集団に関して「有限の閉じた」規定をもたない形で構築される。

なぜこのような奇妙なことになっているのだろうか。わたしの考えでは、国家のこのような様態は、哲学におけるいわゆる心身問題の解決とパラレルなものである。

ひとりの人間存在は、その外側からは「有限の閉じた」身体を支配するものと見なされる一方、内側においては(それを物理領域上の記述に対応させれば)全宇宙を台とする非コンパクトな拡がりとして存在する。これが心身問題の答であるが、これとそっくり同じことが、国家の場合には法体系が支配する領土や集団に関して「有限の閉じた」規定をもたないことに反映されている。

さらに、人間存在が上のようなあり方をしていることは、人間が人間の意識を、また固有の意志(欲望と言ってもよい)をもつことと同値である。つまり、国家がその法体系において支配する領土や集団に関する「有限の閉じた」規定をもたないことは、それが単なる機械や道具ではなく、固有の意志をもつものであることを暗黙に宣言するものだということである。

以上のことを最初の問いに差し戻して言えば、「なぜ国家はひとつではなく、複数の国家があるのか」、その答は「なぜ人間存在は(その心的領域においても)ひとつではなく、複数の人間(他人)があるのか」という問いの答にパラレルなところをもつはずである。

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