惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

・・・いたよ。

2010年02月28日 | miscellaneous
「読みもしないし返信もしない」の機械原則を枉げてしまうフォースの持ち主が、この世の中にはいる、わたしはそれを知っている、と一昨日書いたばかりだが、早速現われたのである。もちろん捨てアドの「狂人」メールボックスはチェックすらしていないのである。

... his force is strong!

存在するのは知っていても、打てば響くように出現することまで知っているわけではない。河合隼雄が存命ならユング派の分析でも受けてみたくなるくらいびっくりした、とblogには書いておこう。

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吉本隆明と英米哲学

2010年02月28日 | miscellaneous
昨日はちょっと張り切ってしまったせいか、ゆうべ飲んだもらい物のハイボール缶が不味かったせいなのか(笑)、今日はあんまり翻訳をやる気がしない(あとで少しは進めよう)。

イタズラ書きとは言え、サールの翻訳の註釈に吉本の名前が出てくることに驚いた閲覧者がいるかもしれない。実際、吉本の背景にあるのは周知のごとくヘーゲルやマルクスであり、いっぽう英米哲学、特にサールは、これらを真面目に読んだことすらないのではないかと思えるくらい「ガン無視」している。だから繋がる線があったとしても目に見えないほど細いものでしかないことは、いずれにせよ明らかなのだが、MSWを訳しているとわたしは吉本のこんな記述を思い浮かべるのである。

巨大な頭脳を小さな主題に流し入れるしか術がなくなっている現在のフランスの文芸批評や哲学の無意識の物悲しさ(中略)主題の火はやせ細り、冷え切って消えてしまいそうなのに、頭脳は巨大化し、精緻化してゆく一方だという矛盾に、現在のフランスの哲学や文学は耐えている。/これに比べれば英米の経験主義哲学や文学感性の流れは、いまでも現実社会から養分を吸いあげる器官も退化させていないし、現実社会のテクニカル・システムに、感性を解体させる術も知っている。緻密さはフランス哲学や文学に劣っても、経験的な感情の火柱は消えていない。

(吉本隆明「情況への発言(1984年5月)」洋泉社,2008; Amazon/7net)

これを最初に読んだとき(25年以上も前だよ!)は、さすがに吉本が具体的に誰のどんな著作のことを言っているのか、ハタチを過ぎたばかりのわたしには見当もつかなかった(引用した文それ自体は、日本のとある「女流詩人」がつけてきた難癖に、例によって三倍返しの批判を加えた、その一部だが)のだが、サールはここに書かれている「英米の経験主義哲学の流れ」に沿っている(もっともサール自身は「プラグマティズムとか、ああいうのは俺には関係ないよ」と言っている)し、「緻密さはフランス哲学や文学に劣っても、経験的な感情の火柱は消えていない」なんて、まさにそのものではないかという気がする。なにしろツッコミどころの多い、「こまけえことはいいんだよ」とは言わないが(笑)文章と論理がそれを体現しているとしか思えないのがサールの著作の特徴で、実はそこ(ヨコの仔細に構わずタテに展開していくところ)が一番の魅力でもあるということは、世界中のサールの読者の誰もが認めることだろう。

吉本は、サールはもちろん、英米哲学やそれに連なる思想家の著作について論じたことは、少なくともまとまった形では一度もなかったと記憶する(ちなみに科学哲学の類は、英米系にせよ大陸系にせよ、ほとんど一蹴して歯牙にもかけていない)が、読者の知らないところではその時その時の議論の流れはそれなりに参照していたのかもしれない。確か橋爪大三郎先生(大学で講義を受けたことがあるから、わたしにとっては「先生」なのだ)も「吉本はチョムスキとかの言語学についてはどう思っているのだろう」というようなことを書いていた。吉本自身が語ることは、おそらくあるまいから、戦後思想史の研究者(そんな人がまだいるのならの話だが)は、チャンスだ(笑)。

先生と言えば、思えばわたしは同じ大学で吉田夏彦教授の講義も受けていたのだった。だから本当なら、先生からクワインの話とかも聞くことができたのであったのかもしれないのだが、当時のわたしはいかんせん「パソコン革命」闘士のようなものであったわけで、分析哲学のチマチマした話などは耳に入る道理もなかったことである。

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7-3a覚書

2010年02月27日 | 私訳メモ
以下は7-3aの訳文中に書き込んでいたイタズラ書きのような註記であるが、ちょっと長くなってしまったのでこっちの方にまとめておく。

(1) これはまたビックリだ、というか、最初に詳細目次訳を作ってみた時からなんとなくそんな印象を持っていたのだが、サール先生は「共同幻想論」の領域にまで手をかけようとしているわけである。なるほどこんなネタを吹き込むものがあったとすればフーコーしかありえまい。それにしてもこれは、みだりに怪力乱神を語らない英米哲学の伝統においては、相当な冒険に違いないはずのことだ。「探求」に「explore」の語をあてていることからもそれが伺える。
(2) あるいは、ひょっとすると、わが国ではサールの著作がしばしば専門家よりもわたしのような素人の間で読まれているというのは、もともとどこかしらこういう傾向がサールの文章にはあって、やはり専門家より素人の間で人気のある吉本隆明のそれに、ほんのわずかだが通じるところがあるのかもしれない。一見して風貌は好々爺のようでありながら、口は悪く、いくつになっても闘争的なところはそっくりだと言えなくもない。もっとも、サールは「高校生のころジョイスの『ユリシーズ』を読破した」などという、文学好きではあるにしても空恐ろしい超優等生でエリートである。

・・・あるいは日米戦争で日本が勝っていたら、我々は吉本の「言語行為」を、サールの「言語にとって美とはなにか」を読まされる羽目になっていたのかもしれない(笑)。吉本とフーコーを対比させた議論の試みは過去に時々あったが、これにサールを交えて改めてやったとしたら、米欧日の三極に跨る途方もない比較哲学の論考が成立しそうな気がしなくもない。しかし、そんな空恐ろしい仕事は専門家に任せておこう(笑)。
(3) アーサ・アンデルセン(Åsa Andersen)は名前から北欧系の女性であることは察せられる。サールを触発(inspire)するくらいだから抜群に優秀な哲学者には違いないはずである。しかしググってもこれといった情報が何も得られない。どういう学者なのだろう?おまけにサールがキーワードとして挙げている「telic power」のtelicは辞書にも載ってない。家に帰ってググってみたら

1. directed or moving towards some goal; purposeful
2. (Linguistics / Grammar) (of a clause or phrase) expressing purpose
[from Greek telikos final, from telos end]

Collins English Dictionary – Complete and Unabridged 6th Edition 2003. © William Collins Sons & Co. Ltd 1979, 1986 © HarperCollins Publishers 1991, 1994, 1998, 2000, 2003

どうやら「目的的」というほどの意味であるようだ。なるほどギリシャ語のtelosからは他にteleology(目的論)という語も派生している。こんな語が辞書に載ってないのはいささか拍子抜けだ(上の引用が英語辞書からなのも、日本語の辞書サイトでは該当項目が見当たらなかったからだ)。しっかりしる、三省堂「エクシード英和辞典」(Amazon / 7net)icon!(たまにこういう抜けがあったり、計算機用語が無駄にたくさん収録されている割にはほとんどが時代遅れであったり、マヌケなところも多々あるのだが、小判ながら収録語数の多い有用な辞書である。少なくともわたしは重宝している。ポメラのお供にどうぞ)
(4) ・・・それはそうと、計算機屋ならnetworkはネットワークとカタカナ書きにすりゃいいじゃないかって?いいではないか。networkという単語には「網状組織」という訳語が昔からちゃんとあるのだ、ということも知らない人が多いだろう。コンピュータをわざわざ計算機と書き、ネットワークをわざわざ網状組織と書く。これもわたしのコトバ遊びである。「美しい日本語」などはクソでも食らえだ。



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代休ですよ2 ── いくつかの変更

2010年02月26日 | miscellaneous
下の方で書いた残業時間のうんたらかんたらの関係で、今日は実質強制的に代休ということになってしまった──実質というのはつまり、法律的には雇い主が代休を「強制」することはできないということだ。つまり、かつての神風特攻隊で「強制」された人間はひとりもいなかったというのと同じことだ。笑う気にもならん。

面白くはないが、いい塩梅に3連休ということになったのも事実だ。で、今日はゆっくりニートな一日を過ごしている。ついでにblogの構成を少しいじってみた。

(1) まず「口上」を未来日付のカキコからオリジナルモジュールに変更した。未来日付というのはどうも格好がよくないと思っていた。で、見栄えはまあよくなったが、そのかわり、どのページを表示させても必ずこの「口上」がトップに表示される。閲覧者にとってはウゼエ限りの変更であ──いま試してみたら、個別のカキコを表示する画面では表示されないようだ。よかったですね(笑)。
(2) microadの表示を消した。表示させてほぼ1年経つのだが、とうとうただの一度もクリックされなかった。これは無意味というほかはない。
(3) 右側のカラムに「message」欄を追加した。ここから任意のメッセージを送ることができる。宛先は非公開の捨てアドで、自動的に「狂人からの手紙」箱に放り込むように設定してある。送るのは勝手だが、よほどのことがない限り返信はしないし、そもそも読むことすらしないと思ってもらいたい。ただ、この世の中にはこんな機械的な原則をすら枉げさせるような、やたらと強いフォースの持ち主が、「ムー」の読者投稿欄でなくてもたまにいる、ということをわたしは知っている。要は初代デス・スターの排熱孔みたいなもの、これも「blog温暖化対策」なのである。

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「standing」の訳について

2010年02月26日 | 私訳メモ
まだ訳文には反映させていないが、standingは「定常」と訳すべきものであるらしい、というのはクワインの用語でstanding sentenceというのがあり、これが「定常文」と訳されているようだからである。

その定常文とは何のことかについて説明しているサイトとしてこことかここを挙げておく。後者はpdfファイルなのでAdobe Readerなどが必要である。何にせよそれ自体について詳述している日本語のサイトは見当たらない。

まだ確認していない(買ってはあるけど読んでないw)が、飯田隆「言語哲学大全」とかに説明があるかもしれない(リンクはクワインを扱っている2巻に張ってある)。

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人間にとって「機械」とはなにか(1)

2010年02月26日 | miscellaneous 2
ここでいう「機械」は、普通は「システム」と呼ばれることが多い何かのことだ。常識的には「機械」というと今でも自動車のような、その機能の本質が物理的作用の直接的な組み合わせであるものを想像する人が多い。必ずしもそうではない、計算機のように機能の本質においては記号的作用が主役で、物理的作用が直接の構成要素になっていないもの、あるいは「社会システム」という場合のように、物理的作用とはひとまず区別される人間作用(?)あるいは精神作用が直接の構成要素になっているようなものを含めた拡大概念のことを、常識的にはシステムと呼んでいるような気がする。ひらたく言えば「ブツ」としてできている機能体を機械と呼び、ブツではないが同じく機械と見なせるものを含めてシステムと呼んでいるわけだ。

ややこしく書いているが、わたしのような計算機屋にとってナリがブツであるかそうでないかというのは本質的な違いではない。閉じた、あるいはコンパクトな機能体と見なせるものは全部まとめて「機械」でいいのだ。特にここでは題名の通り、人間の反対概念ではないが対立する概念には違いないところの機械を考えるわけなので、必ずしも対立的ではない「システム」の語は避ける理由があるのである。その表現が何を意味するのかはさておいて「開いた(開かれた)システム」という言い方は存在するが、「開いた機械」というのは言葉としても現実としても存在しない、ということだ。

忘れないうちに題名の意味するところを書いておく。ストレートに、単純に言えば「人間は機械に勝てないのか」ということである。長い目で見ればそんなことはない、という話は別の問題である。ここで考えるのは、否応もなく機械に殺される人間がたくさんいるではないか、ということの方なのである。

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件の参照箇所

2010年02月25日 | 私訳メモ
訳すのしんどいから英文のままで。

With the History of Sexuality this portrayal of domination gives way to a less reductive and 'physicalist', but no less ideal-typical and unindirectional, account of the rise of 'bio-power' in which the deployment of sexuality became part of the 'great technology of power in the nineteenth century' ─ a 'life-administrating power' concerned with using social science and statistics to 'normalize', control and regulate the life and health of populations. Here, as with discipline, the 'productive' role of power in 'making up people' is simply the obverse of its repressive role, but we are given a phenomenologically richer account of what is involved. Thus we may think we gain more freedom by casting off sexual inhibitions, but we are in fact dominated by images of what constitutes a healthy, fulfilled human being. Sexual permissiveness is an illusory freedom because we are controlled by an

economic (and also perhaps ideological) exploitation of eroticization, from sun-tan products to pornographic films. Responding precisely to the revolt of the body, we find a new mode of investment which presents itself no longer in the form of control by repression but that of control by stimulation. 'Get undressed ─ but be slim, be good-looking, tanned!'
(Foucault, M., "Power/Knowledge: Selected Interviews and Other Writings, 1972-1977",
Brighton: Harvester, p.57, 1980)

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労働管理局許すまじ

2010年02月24日 | miscellaneous
休出だ徹夜だと言って仕事に精出していたら、今日は会社で叱られた。月の残業時間が規定を超えると会社がまるごと労働管理局から叱られるので控えてくれだと。

以前から腹に据えかねてきたことを少しだけ書く。

だいたい労働管理局というのはサービス残業が横行し過労死が続発していたような頃はろくすっぽ取り締まりもしなかったくせして、不況になって一転、企業が残業代をケチるようになると、今度はその肩を持つようなことをする。いま企業は「労働管理局がうるさい」を盾にとって労働者には残業時間を減らせと要求し、それで期末には「おかげで収支が改善した」などとぬけぬけ報告したりしている。

かつて世紀末の大不況と呼ばれた頃には「人のクビを切って過去最高に儲けた」連中のこと、無造作なクビ切りが非難されるようになると、今度は個々の労働者から残業代の小銭を毟り取って儲ける方に業種業態を転換したというわけである。これを怪しからぬ料簡と言わないで何をか言わんや、各種の労働法規と管理局はいったい誰の味方をしているつもりなのだ!・・・と言うべきところなのかもしれないがどうせ労働者の味方でないことは、考えてみれば労働管理局といえども「お役所」には違いないのだから当たり前のことではあった。

安月給のハケン労働者のひとりとしては、したがって言うべきことはひとつしかない。それがこの題名である。企業は悪だが、だからといってわたしは対する労働が善だとも、少しも思っていない。だからこれらを難じようとは思わない。尋常な言葉で言えば「お互い様」である。企業の悪と労働の悪が「お互い悪ですな」と言って互いの私腹を別々に肥やしてきたのが、わが高度成長の時代だったわけである。「悪」を「意欲」に置き換えて読めば何事かは理解されよう。憎むべきものは別にあるということである。

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ああ、そうそう

2010年02月24日 | miscellaneous
数日前に「『セブンネットショッピング』はもうちょっと届くのが早くなってくれればいいのに」と書いた。まさか7netの中の人がそれを読んだわけでもないのだろうが、その日に注文した本は過去に類例がないほど迅速に届いた。

で、せっかく迅速に届けてくれたのに、わたしの方が今週は休出だ徹夜だといってろくに家に帰れなかった、ために受け取るのが2日も遅れてしまった。

もともと10日ほど猶予があるので焦ることはないわけだが、あんなこと書いておいて自分は受け取るのが遅れたというのでは、これはもう我ながら情けないったらありゃしない。どうもすいません。今後とも和書は7netで注文すると思うので、今後とも迅速にお願いします(笑)。

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ちなみに

2010年02月24日 | 私訳メモ
サールは7-2節でフーコーの権力論を批判しているわけだが、彼自身は生前のフーコーと「夫婦で」食事を共にするほどの親交があったらしい(夫婦で、と書いておかないと哲学的腐女子の人達が勘違いしそうだ)。ここにうpされている抄訳(わたしのいい加減な訳とは違う、未訳出の部分も含めて全訳を刊行してほしいくらいの素晴らしい訳文である)の95ページから、フーコーやブルデュー、その他のフランスの学者・思想家の何人かについて語っている。原書は↓こちらで、該当箇所は161ページからである。
Conversations With John Searle
Gustavo Faigenbaum
Libros En Red
Amazon


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寝る前に

2010年02月23日 | 素人哲学の方法
まさかこんなの(サールに加えてルークスまで)全部訳しがら読んで行く気なのか、と心配する人がgooglebotさんの他にいるとは思えないのだが、万一いたとしても心配には及ばない。そんな馬鹿らしいことやってられるわけがない。サールの方で参照されている箇所で必要があると思ったら、その部分だけは訳すかもしれないが、ルークスの本についてはとりあえず詳細目次だけで打ち止めである。

どんな分野のどんな本でもいいから専門書をひとつ取り出して巻末を眺めてみればいい。仮に今からその分野に専門的にかかわって行こうなどと考えたとしたら、まったく一生かかっても到底読みきれないほどの文献がリストされているはずである(ルークスの本にもうんざりするほどの文献リストが載っている)。

わたしの読書量は平均よりは多い方だろうが、そうは云ってもわたしは「読子・リードマン」のたぐいではない。もしも閲覧者がこのblogをgooglebotさん並に熱心に眺めていたとしたら、このblogには小説の類がほとんど紹介されていないのに気づくはずである。わたしの読書は娯楽でもなければ趣味でもない。もちろん仕事でも人生(笑)でもない。ほとんどは必要だからやむなくやっているだけの何かである。ただその「必要」が、金銭利害にまるっきり結びついていないのである。

ともあれそれほどの分量を、しかし専門家は結構読んでしまうし、読まなくてはならないわけである。だからこそ、今時は日本でもひとかどの専門研究者はみんな英語ができる(学術論文を英語でスラスラ読み書きできる)人なのである。それができる程度には語学の才能があって、その上に心身ともどもぶっ壊れかねないほどの訓練に次ぐ訓練を経てなっているのである。野球選手だって将来を嘱望されながら、訓練の間に故障して呆気なくリタイアせざるを得なくなることがある。研究者も同じである。どこの分野も(だいたい目には見えないが)死屍累々である。

こう淡々と書いていられるのは、しかし、わたしはもともとその種のことが(少なくともわたし自身にとっては)どうでもいいと思っているからである。つべこべ言うけど専門研究を駆動しているのはどこでも、どんな場合でも競争なのである。切磋琢磨という言葉の古風がどうしようもなく牧歌的にしか響かないほど激しく、ミもフタもない競争の世界なのである。

そしてわたしは他人と競争するのが心底キライである。物心ついた時から大キライなのである。「競争原理」という文字が書いてあるのを見かけるたんび、心の中で「クソくらえ!」と読んでいるほどである。もっとも、どうしてそんなに競争がキライなのか、自分でもよくわからないのである。キライでも何でも強いられるままやっていたことがなかったら、まあ大卒院卒の免状だって頂戴できないわけで(笑)、競争に勝ったことがないから嫌っているというわけではないのである。

・・・どうも全然とりとめのないことを書いているが、もう眠くて死にそうなので、それで締めるはずだった結論だけ書いて寝る。わたしは素人哲学ということに固有の意義を見つけるか、見つからないなら作り出そうとしているのである。

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スティーブン・ルークス「現代権力論批判(第2版)」詳細目次 (ver. 0.1)

2010年02月22日 | 読書メモ
スティーブン・ルークス「現代権力論批判(第2版)」詳細目次
Steven Lukes, "Power: A Radical View Second Edition," detailed contents

謝辞
目次
イントロダクション(p.1)
第1章 権力:ラディカルな権力観(p.14)
1-1 イントロダクション
1-2 一次元的権力観
1-3 二次元的権力観
1-4 三次元的権力観
1-5 権力の基礎概念
1-6 権力と利害
1-7 3つの権力観の比較
1-8 難問
1-9 結論

第2章 権力・自由・理性(p.60)
2-0 (導入)
2-1 「権力」観の不一致
2-2 権力の概念
2-3 概念の見取り図(map)
2-4 支配としての権力
2-5 フーコーの権力論:超(ultra)ラディカルな権力観
2-6 フーコーの適用:自発的な従順さを保全すること

第3章 三次元的権力(p.108)
3-0 (導入)
3-1 権力の定義
3-2 本質的な問題提起(contestedness)
3-3 第三の次元を擁護する
3-4 適応的選好
3-5 「真の利害」と「虚偽意識(false consciousness)」

註(各章各節)(p.152)

参考文献(p.163)
1. 概念分析
2. 一般的な著作
3. 本質的な問題提起
4. 古典的な議論(statement)
5. 現代の議論
6. 主な論争(debates)
7. グラムシとヘゲモニー
8. フェミニズムと権力
9. フーコー
10. ブルデュー

参照(p.169)
索引(p.188)

※(1) とにかく本文中で見出しのついてるものは全部拾ってみた。それでもこれだけである。あまり詳細になってないのは遺憾だが仕方がない。ちなみに節番号はわたしが勝手につけたものである。
(2) radicalには周知のごとく「過激な」と「根源的な」というふたつの意味がある。この本の場合は題材から必然的に両方の意味を含む、と著者自ら述べている。フーコーが生きていたらどちらを好むだろうか。ちなみに理科系の、というか電気通信屋の習慣に沿うならばultraは「極超」と訳すべきであるが(UHF=ultra high frequencyは「極超短波」である)、権力論のテキストで「極超」などとは物々しいにも程があると感じたので「超」だけにした。
(3) 原書の初版に相当するのは上記の第1章である(各節の題名も1-1を除いて訳書を踏襲した)。その第1章にも相応の修正・追補が行われているだろうが、原書初版を持っていないので確認はできない。第2章と第3章が第2版で新たに追加された章である。章見出しの脇のページ数を拾って計算してみればわかる通り、初版のほぼ3倍の分量になったわけである。訳書の増補改訂が待たれるところであるが、初版ですら20年もかかっているわけで、そのほぼ2倍の分量を増補した改訂版が出るのは2045年頃と推測される(爆笑)。高速増殖炉や核融合炉の実用化研究開発並みに気の長い話であるが、使い方を間違えれば優に一国が吹き飛ぶという意味では権力も危険物には違いない。
(4) 分量が初版の3倍になってしまったのではもはや別の本ではないか(それはその通りだが、しかし)、初版の訳書を買う意味がないじゃないかと考える人がいたとしたら粗忽者である。そういう考え方をしても構わないのは、原書でスラスラ読むことのできる専門家だけである。もっとも、この種の本をスラスラ読める人は、ネイティブの専門家でもめったにいないのではないだろうか。フーコーの著作がそうであるような、いたるところレトリックで捻りまくった難解さ不明瞭さこそないものの、概念分析から始まるくらいだし、これはこれで相当に哲学的なテキストなのである。

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さて・・・

2010年02月21日 | miscellaneous
そろそろ行ってくるか・・・休日出勤に。

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IBM Model M4-1(unicomp MightyMouse)

2010年02月20日 | pride and joy
温暖化対策ついでにもうひとつ。テンキーレス・キーボードの歴史的名品を。

これを今まで紹介していなかったのは、わたしが持っているのはこれの黒モデルなのだけれど、Web上ではこれ↓よりましな画像が見当たらなかったからである。

※上の画像とリンク先はともに「憂鍵盤」様

自分でデジカメで撮りゃいいじゃないかと言われるかもしれないが、わたしはデジカメとか持ってないし、持つ気もないのである。

この製品もとっくの昔にディスコン(discontinued; 生産終了)の品切れ、世界中どこを探しても見つからない。今わたしが使っているlenovoのThinkPad USB トラックポイントキーボードの、まあ祖先にあたるキーボードと言っていいだろう。中古で買って、使い心地は悪くなかったのだけれど、古い時代の品物で接続がPS/2のカールコード、これをUSB変換ケーブルを介して使っていたのだが、寝転んで使うにはそのカールコードが少々ジャマくさいのが難点と言えば難点だった。

(July 15, 2012追記)
ひょんなことで黒モデルの画像を拾ったので、加工してうpしておく。

リンク先は元画像を拾ったサイトだが、いつから、またいつまで存在するページなのかの保証はしかねる。

ちなみにこの画像はUNICOMP社が自社ブランドで発売したモデルで、左上のIBMロゴがなく、右にUNICOMPのロゴがついている。わたしが持っているのはIBMロゴがあるやつ。

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レイアも出先ではポメラを使え(episode III)

2010年02月20日 | 他人様の絵貼らぬでもなし
ポメラの廉価版DM5が出たようだ。

http://japan.internet.com/webtech/20100218/3.html

要はDM10をさらに小型軽量化したもののようである。上記リンク先の記事を読むと、機能的にはほぼDM10と同じである。ポメラはわたしのような中高年男性には結構売れているが女性やワカモノのユーザが少ないらしい。で、そっち方面を狙った新型である。あ、キングジムのDM5紹介ページはこちらにございます、姫様。

何にせよDM20を使っているわたしがこれまで買うことはない。わたしにコレクターの趣味はないし、ポメラは実用品である。この書き込みはあくまで「字ばっかりで画像の少ない」この言語的閉鎖系のようなblogの温暖化対策である。ちなみにこの題名の由来はこれ(episode I)これ(episode II)である。

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