昨日はちょっと張り切ってしまったせいか、ゆうべ飲んだもらい物のハイボール缶が不味かったせいなのか(笑)、今日はあんまり翻訳をやる気がしない(あとで少しは進めよう)。
イタズラ書きとは言え、サールの翻訳の註釈に吉本の名前が出てくることに驚いた閲覧者がいるかもしれない。実際、吉本の背景にあるのは周知のごとくヘーゲルやマルクスであり、いっぽう英米哲学、特にサールは、これらを真面目に読んだことすらないのではないかと思えるくらい「ガン無視」している。だから繋がる線があったとしても目に見えないほど細いものでしかないことは、いずれにせよ明らかなのだが、MSWを訳しているとわたしは吉本のこんな記述を思い浮かべるのである。
巨大な頭脳を小さな主題に流し入れるしか術がなくなっている現在のフランスの文芸批評や哲学の無意識の物悲しさ(中略)主題の火はやせ細り、冷え切って消えてしまいそうなのに、頭脳は巨大化し、精緻化してゆく一方だという矛盾に、現在のフランスの哲学や文学は耐えている。/これに比べれば英米の経験主義哲学や文学感性の流れは、いまでも現実社会から養分を吸いあげる器官も退化させていないし、現実社会のテクニカル・システムに、感性を解体させる術も知っている。緻密さはフランス哲学や文学に劣っても、経験的な感情の火柱は消えていない。
(吉本隆明「情況への発言(1984年5月)」洋泉社,2008; Amazon/7net) |
これを最初に読んだとき(25年以上も前だよ!)は、さすがに吉本が具体的に誰のどんな著作のことを言っているのか、ハタチを過ぎたばかりのわたしには見当もつかなかった(引用した文それ自体は、日本のとある「女流詩人」がつけてきた難癖に、例によって三倍返しの批判を加えた、その一部だが)のだが、サールはここに書かれている「英米の経験主義哲学の流れ」に沿っている(もっともサール自身は「プラグマティズムとか、ああいうのは俺には関係ないよ」と言っている)し、「緻密さはフランス哲学や文学に劣っても、経験的な感情の火柱は消えていない」なんて、まさにそのものではないかという気がする。なにしろツッコミどころの多い、「こまけえことはいいんだよ」とは言わないが(笑)文章と論理がそれを体現しているとしか思えないのがサールの著作の特徴で、実はそこ(ヨコの仔細に構わずタテに展開していくところ)が一番の魅力でもあるということは、世界中のサールの読者の誰もが認めることだろう。
吉本は、サールはもちろん、英米哲学やそれに連なる思想家の著作について論じたことは、少なくともまとまった形では一度もなかったと記憶する(ちなみに科学哲学の類は、英米系にせよ大陸系にせよ、ほとんど一蹴して歯牙にもかけていない)が、読者の知らないところではその時その時の議論の流れはそれなりに参照していたのかもしれない。確か橋爪大三郎先生(大学で講義を受けたことがあるから、わたしにとっては「先生」なのだ)も「吉本はチョムスキとかの言語学についてはどう思っているのだろう」というようなことを書いていた。吉本自身が語ることは、おそらくあるまいから、戦後思想史の研究者(そんな人がまだいるのならの話だが)は、チャンスだ(笑)。
先生と言えば、思えばわたしは同じ大学で吉田夏彦教授の講義も受けていたのだった。だから本当なら、先生からクワインの話とかも聞くことができたのであったのかもしれないのだが、当時のわたしはいかんせん「パソコン革命」闘士のようなものであったわけで、分析哲学のチマチマした話などは耳に入る道理もなかったことである。