惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

6-7 (ver. 0.1)

2010年04月27日 | MSW私訳・Ⅲ
第6章 自由意志、合理性、制度的事実

6-7 制度とナマの(brute)力

しかし、もし制度的構造が行為の理由をもたらすものなら、なぜしばしばそれらは実力行使の脅しを背後に持っているのであろうか。なぜケーサツとか、その他の威圧的な機構を制度の体系の中に持つ必要があるのだろうか。権利義務力と威圧的な力の間の関係は何であるのか。スキマ(gap)を所与として、制度を利用するときは常に規則に違反することが可能である。そしてもちろん、多くの人々はウソをつき、盗み、さまざまな手口でだまくらかすのである。我々の制度的構造について特別であるのは、それに参加することは合理的な動作主に、ごまかしをしない、やりたくないことをやらない理由とともに、やる気のしないことをやる理由も与えるのである。人々は規則を破ることの強力な動機づけをもち、規則それ自体には強制力はないのである[せいぜいただの言葉だからである]。時としてあなたはケーサツを呼んだり、あるいはその他の強制的な手段を用いなければならない。しかしケーサツの必要は権利義務論の力と矛盾しない。警察力は権利義務論と矛盾するどころか権利義務論を前提とするものである。なぜなら警察力の内容は権利義務論に反映されていなければならないからである。たとえば刑法と警察が法を強制することは個人や財産の権利を保護すべく機能する。組織された強制力は実際ある特定の地位機能の体系を維持するために必要である。ただ警察、軍隊、その他の組織された強制力は、それ自体が地位機能の体系である。

制度的構造の中にある行為理由が打算的な理由だけだとしてみよう。つまり、言明をなす前にわたしが自身に問うべき合理的な唯一の問いは「ホンマかいな?」ではなく「言うたらナンボになる?」だとしてみる。

※ いきなり(偽)関西弁になってしまったが、どうもこういう言い草には関西弁が似合う。似合い過ぎる。

わたしは財産「権」などというものは知らず、ただ次のような問いだけを気にかけているとする。「物体と本当の財産を、そうではなくこう扱うことによってどれだけ余計に儲かるのか」と。約束する際にもそれを責務の保証と見なすという理由を全然持たず、そんなのはわたしの未来の行動についてのただの雑音にすぎないと考えるものだとしたらどうであろうか。「約束を守れ」という時になってもわたしの唯一の合理的な志向は打算的である。「わたしがそうすると『約束した』ことをする上でわたしに何の得があるのか?」と。さて実際、何人かの哲学者は、それが我々のすでに置かれている状況なのだと[つまり、実際にそうなのだと]示唆している。ひとつの標準的な解釈として、ヒュームは約束を守る唯一の理由は打算的な理由だと考えた。リチャード・ローティは(しかし率直に言って、彼にせよ他の誰にせよ、実際にそう信じていたということをわたしは想像もできないのだが)事実に対応する約束事としての真理は言明をなすことについての内的な拘束ではないと主張した。わたしが記述してきたような状況において、もし権利義務的な理由がまったく存在せず、欲望によらない行為理由などというものもないのだとしたら、相当する制度は単純に崩壊するだろうと思われる。言明をなすこと、財産の所有権、約束をすることの体系は、他のことが同一であれば、ただただ、人は以下のようなことを道理をわきまえて仮定することができるという前提の上でのみ機能する。

人が発話する、あるいは他の人々が発話することは真実を語ろうとすることである。
財産の所有権は権利と義務を所有者に授課する。
約束を交わすことは、他のことが同一であれば、動作主に対してその約束を守るべき理由を創出する。

そのように、自由と構成的規則の間の関係には二面性(double aspect)が存在する。そのような体系が何であれ意味を持つのは自由な動作主に対してのみである、が、正確に言えば自由な動作主にとってそうした体系は必要なものである。欲望によらない行為理由を創出する能力を持たない体系は崩壊するであろう。

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